言葉のない世界  その1 都市について


「文明」という言葉の定義はいろいろあるだろうが、最も基本的な「文明」のイメージは「都市がある世界」だと思う。
こういうところで語源を持ち出すのは衒学好きのバカのすることと決まっているが、わしのように十全外人とも称されるカシコイ人間になるとときどき堂々とバカと同じことをしてもよいことになっているので、語源を述べるとわしがここで「文明」 とゆって考えているのは英語のcivilizationなので語源はcivitas です。
civitas とゆえばラテン語が目も当てられぬ劣等生だったわしでも知っておるくらい「都市」 という意味ですのい。

人間は生産性の高い土地に集まって住み着くようになったが、そのうち交易したりする場所があっというまに高い人口密度をもつようになって「都市」 になった。
学者は本ばかり読んでいて実生活が稀薄な人間が多い。
いきおい餅と絵に描いた餅の区別が付かない人間の集まりと化すし、実人生の機微に疎い。
人間の機微に疎い人は物事の成立を必要に従って出来たのだと解釈するのが常であって、だから都市も交易、防御、うんぬんかんぬんの必要性からできたと教科書には出てくるが、(仔細あって中国文明をのぞくと)世界で最も古い文明を形成したメソポタミア地方のひとびとと話してごらんなさい、ほんとうは違う理由だとすぐに判るから。
彼らの口は沈黙するということがないのです。

人間の世界に「都市」すなわち「文明」が成立したのは人間がおしゃべりだったから、というのが最大の理由だとわしはマジで思ってます。
そ、そんなケーハクな理由で文明が成立してたまるものか、ときみは言うであろう。
しかし、世の中には厳めしい事実のみを真実と思いたがって学問を誤る、ということはいくらでもある。
我が言を疑うことなかれ、とガメ・オベールもゆうておる。

それでも疑り深いひとびとは、疑うのが趣味なので疑うであろうが、疑惑を去れなければシドニーでもよろしい、ロスアンジェルスでも構わない、なんならロンドンでもよい、そういう中近東からの移民が多い街でメソポタミアからやってきたひとびとと話してみるが良い。
それはそれはそれは、すごおおおおおおい、おしゃべりであって、ほっとくとストップボタンがこわけたレコーダのように話してるから。
聴いてると楽しいけどね。
コーフンするといまだにブッシュの悪口になるのはどうかと思う。
あのひとびとは歴史の民であるから、まだ千年くらいはブッシュ息子の悪口を言い続けるだろうか。

人間のいちばん大事に至りやすい病気は「退屈」です。
人間は退屈するとたいてい破滅に向かって着実に歩き出す。
ニュージーランドの南島に行くと、この世の風景とは思われないような美しい牧草地帯が広がっている。
えーごではmeadowというな。
日本のひとは「さよなら」が最も美しい日本語だというが英語ではmeadowが最も美しい英語であると思う。
英語というのはmeadowとい言葉が支えているイメージが価値の源泉であるようなところがあるもの。
で、北島の「ワイカト」もそうだが、南島、ニュージーランド南島英語でゆえば「メインランド」に行けば、このmeadowが延々と延々とどこまでも広がっている。
ゆるやかな丘陵にまばゆい緑の牧草地が透き徹っていて白く濁ったところが少しもない青い空と合わさって消えるところまで続いている。

そーゆーところで育って15歳くらいになると人間はものすごく退屈します。だから牧場地帯のガキは16歳になってクルマの免許をとりくさると、制限時速100キロのオープンロードを200キロくらいで疾走して、下手がスピードをだすものだから当然、やや道路が狭くなっている橋梁とかに激突して死にます。
夜中にやるのね。
夜中に闇の中でぞろぞろ集まって、レースをやる。ニュージーランドをクルマで旅行すると変形Rのコーナーや橋のたもとに小さい十字架がいっぱい立っているのは、彼らが死んだ地点を表しておる。
あるいはゆいいつの大きな街であるクライストチャーチに集結して街のどまんなかで派手にスピンをぶっこいたりしてにーちゃんやねーちゃんからなる群衆の有卦をねらう。
フラメンコとか闘牛の原始的で下品な段階だともゆえるな。
「オーレッ!」とかゆーかな。
南欧人は少ないから言わないか。
あれはもともとは「アラー!」だそうだが。

こうしたガキどもは「ボーイレーサー」と言ってニュージーランドでは社会問題になっておる。
ボーイレーサーはクライストチャーチよりも小さな町であるティマルーやインバーカーギルにもある。夏はネルソンにも出張しているよーだ。
しかし、ニュージーランドでいっちゃん大きな街であるオークランドではみません。
オークランドが何年か前から大都市として機能し始めて「都市化」がすすんでいるからだと思います。
別にクルマで用もないのに走り回ってこれみよがしにぶっ死んだりしなくても、やることがたくさんある。

「退屈」というのは言葉で退屈する。
足の筋肉とか手の甲が退屈する、というわけにはいかなくて、退屈の黒雲が発生するのは頭のなかです。
脳髄のなかに大量に眠っている語彙のうち不活性化されて使わなくなるものが多いと人間の精神は「退屈」、したという。
都市は人間が退屈を退治するためにできあがったのではないかと思う。
ウソのよーだが、ほんとーだ。
いや、やっぱりウソかな。
なにをゆっておるのだ、わしは。


フットボールは、わしには興味がないスポーツの代表だが、それでも今年のワールドカップでスペイン代表が勝ったくらいのことは知っている。
今朝カウチに寝転がって読んだiPadのニュースでスペインの主力およびチームのスタイルがバルセロナのものであることも知ってます。
ふつーのゲームでも勝つとほとんど全市民が暴走族化したかのごとく喜んで箱乗りしてまわるバルセロナのひとびとのことであるから、今頃はワールドカップに優勝した勢いがこうじて念願のカタロニアの独立をはたしてしまっているかもしれぬ。

わしはこの街の端っこの、遠くにガウディが作り始めてまだ建造中の大聖堂が見える丘の上に小さなアパートをもっている。
モニとわしが乗るともういっぱいで、ときどきガタンと止まる剽軽なリフトにごとおーんごとおーんと揺られて6階にあがるとそこがわしのアパートです。
目の前のテラスが広いので気に入って買った。
このテラスに腰掛けて、ハモン・イベリコとオリブとパン・コン・トマテを並べてテンプラニーニョを飲んでのんびりでれでれでれとしているのがわしは好きである。

「ヒマがないのは人生がないのと同じ」というが、わしはヒマをつくることについては空前絶後の天才なのでいっつもヒマです。
仕事と責任はみな他人の肩に乗せてしまうのが人生を幸せに過ごす秘訣なのよ。
だから食事に行くとゆえばひたすら女の子たちの無辺広大なありがたき慈悲にすがっていたビンボ時代が突然終了すると、わしはヒマをこきながら退屈はしない、という空前絶後の技術を身につけるにいたった。
必要は母の発明だ、という。

で、バルセロナくらい、充実してヒマをこける街はないのね。
食べ物は世界いちであって、これについては食べ物の牧野富太郎とゆわれているガメ・オベールが図鑑にもまとめている。
http://d.hatena.ne.jp/gamayauber2/20080514
当時は他人の気持ちを忖度するという悪徳に囚われていたので安い食べ物ばかり写真を載せたが、豪勢なほうもちゃんとおいしいのであって、ミシュランがなんとゆってもバルセロナが世界でいっちゃん食べ物がうまい街であると思います。

そのうえ、「あんまりルールを守らなくてもよいことになっている」 という重大な美点がこの街にはある。
なんちゅうか「ルールとか、テキトーでええやん」という空気が町中に漲っておる。

週末に駐車する場所がないと交差点のどまんなかにメルセデスを駐めて颯爽とレストランに向かう中年夫婦、右折するのかなああああ、と思って見ているとそのまま(方向指示器を点滅させたまま)ピタと止まって、駐車に移行するシトロン、わしがいちばんカッコイイと思った「バルセロナ式駐車」はバルセロナでいちばんおいしい店が集まったレストランストリートで、このカイエンはぶらぶらぶらと通りをゆっくり降りてくると、いきなり地下駐車場の出口に頭を突っ込んでクルマを駐めたのだった。
しばらく駐車場を出られないひとたちが大騒ぎしていました(^^)

こーゆーアングロサクソンの街だったら絶対に機能麻痺になって収拾がつかなくなるようなやりかたで暮らしていてなぜ街がわりとふつーに機能しているのかというと、ほら、冒頭に述べてあるではないか、文明というのはもともとが「都市」のことなので、都市をむかあああしから造ってもっている地中海人たちは都市というものをよく知っているのだ、というほかに説明のしようがない。そして「都市をよく知っている」ということは取りも直さず「文明をよく知っている」ということなのだと思います。

バルセロナの、誰もルールを守っていないように見える「文明」が実はもっと本質的なルールをみなが公理であるかのようにみなしているからこそ成り立っているのは、さっきの駐車場にクルマの頭を突っ込んだ大男のおっさんと出られなくなったおばちゃんの口げんかの様子を見ていればすぐにわかる。
腕っ節だけで世のなかを渉ってきたんだぜおれは、と歴然と主張している顔のおっさんに向かって、ちびっこいおばちゃんは、ありとあらゆる侮辱的大失礼な罵倒語を動員しておる。おっさんもまた、そーゆーことを女のひとに向かってゆっていーのか、というような語彙を総動員して応戦しておる。
しかし、きみはここで気付かないかね。
どこにでもありそうなこの光景はしかしつくりものの世界ではありふれていても現実には滅多にない光景なのね。
ちびこいおばちゃんがでっかいおっちゃんを言いたい放題に罵倒できるのは、こういう場合おっさんが自分に対して暴力をふるうわけがない、という深い信頼をもっておるからできる。
根強い、動かしがたい信頼。
ちびおばちゃんにとってデカおっさんは見も知らぬ他人なので、ちびおばはでかおじを信頼しているわけではない。
では何を信頼しているのかというと、自分たちの「文明」を信頼しているのです。
「文明」に対する信頼が大地に生えた大木の根のようにあるから、悪い言葉の限りをつくして罵倒できるのです。

こういう本質的なルールが存在するのは、いまでも大陸欧州以外にはありえない。同じ欧州でも連合王国は、そこまでの信頼を文明に対してもったことはない、ように見えます。
男友達をひとり暮らしの自分の部屋に請じ入れても、その男の友達が自分に性的襲撃を加えたりしない、という程度の「文明への信頼」はみなもっている。
それまでなくなると、それはただの野蛮な社会なので、さすがの「北海系暴力組合」である連合王国人もそこまでは未開でない。

でも、と、わしは向かいのレストランからデカオッチャンを怒鳴りつけるちびおばちゃんを眺めながらおもったものでした。
大陸欧州の文明には、とーてい、かなわんのお。
物事をちゃんとこなしてゆくのは、わしらのほうが上だと思うが、
どうも、大陸欧州には、より根本的な叡智があるようだ。
それはなにか?
文明とは、いったいなんであろう?

(続くんだぞ、これ)

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2 Responses to 言葉のない世界  その1 都市について

  1. PHA says:

    300円のギョーザで700円のワインを空けたおれには、ガメさんの文章はなんだか眩しいのう。のうのう。

    • PHAでねーか。
      元気ですか。

      >300円のギョーザで700円のワインを空けたおれ

      最期の5ドルでついゲーセンに行ってしまい、三日間を飲まず食わずで過ごしたことのあるわしは、そのくらいのことにはドーヨーしないし。

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