Monthly Archives: August 2010

貧しさの跫音

わしは人混みは大嫌いだが高速道路のサービスエリアの人混みだけは嫌いではない。 気持ちが少し華やいで浮き浮きしているひとが多いからでしょう。 サービスエリアの人混みには日本人には珍しい「表情」があると思う。 みながなんとなく楽しそうであって、まるで普通の国にいるようです。 鉄道の駅では無表情だがクルマで移動するときには表情が活き活きとしているのは、なにがなし、「集団」というものが個人に与える影響について考えさせる所がないとは言えないのかも知れぬ。 わしは殆どの場合長野と東京のあいだを高速道路で往復しているだけなので、サービスエリアもこの路線沿線くらいしか知らん。上りは横川が釜飯のおぎのやのおばちゃんが改装してかっちょよくなったのでときどき寄る。下りは高坂か上里が多いようだ。ときどき三芳の「まい泉」でカツサンドイッチを買っていくが、どうも本家よりもおいしくないような気がする。 こうやって書くと高速道路に乗ればサービスエリアに寄るようなふうだが、ほんとうは、そうでもないす。広尾と軽井沢のあいだは180キロくらいしかないので、ぶっ、と走るとすぐ着いてしまう。寄るのはモニが「喉が渇いた」とか「お腹がすいた」とむずかるときだけであって、それもだいたいわしがクルマを降りて買い物に行く。で車内で食べます。モニはどーゆーわけかサービスエリアは衛生的でないと決めておるよーだ。 わしはクルマのなかで食べるより他人にまぎれてひとの様子を観察しながら食べる方が好きなのでいやがるモニを横抱えにして、はまさかウソだが、巧言に令色を重ねてときどきレストランにひっぱってゆく。 そのときもそうであった。 軽食でいいや軽食でちゅうんで「わたし何も食べない」というモニを目の前において、わしはカツ丼だかなんだかロクでもないものを食べていたのだと思います。 ふとふたつ離れたテーブルを見ると、先刻バスで着いたとおもわれるガキ大集団のひとりがテーブルを占有しておる。 おまけに友達がもってくるとおぼしきおかずを待ちきれないのか、白いご飯だけをもう食べておる。  最近の日本クソガキは躾が悪いのお、と思いながら、ちらちらとガキを眺めやるわし。 第一あのクソ勢いで白飯を食ってしまったら、友達がもってくるおかずが到着する頃にはもうご飯ないやん。 それでは日本人のご飯と「おかず」を交互に食べる、という偉大にして珍妙な習慣に反してしまうではないか。 そもそも主食とおかずは秋津島の固有な習慣にして行き交う人もまた食べる人なり、とかあんまり意味をなさない日本語を頭のなかでつぶやいていると、ガキがやおら白飯の丼を机の下に隠すようにしておる。 なにやっとんじゃ、あいつ、と思いながら、ガキの視線が漂う先を見ると、ひとりのおばちゃんがなにやら不審げにガキを見ておる。ガキはどうやらその視線をそらすべく丼を隠したもののようである。 「あの子は、白いご飯を買うだけのお金しかないようだ」とモニがいいます。 えっ?と思っていまやこそこそと机で隠し気味にした丼から遠距離を箸で米を口元に運んで途中で落っことしそうになったりしておるガキを注視するわし。 ガキは流石に白飯だけの丼を平らげるのは難儀らしくいまや情けなさそうな顔で丼に目を落としておる。 途中でふたり連れの友達がやってきて漬け物の小皿を置いていった。 ガキは「いらねえよお」というような事を言って笑いながら返してます。 しかしわしはふたり連れ漬け物ガキが去った後、ちょっとだけ涙ぐんで唇をひきしめたガキの横顔を見てしまった。 ガメ、泣いてるぞ、わかってるか、というモニのからかうような声。 うるせー、と思いながらモニを見ると、モニさんの目も潤んでおる。 わしは涙ぐんでいるガキンチョに寄っていて、こら、そこなガキ、あのおばちゃんがいるところまでいけば福神漬けがタダであるから、せめてそれをもらうくらいの知恵を使わんかいボケ、と言おうかと何回も逡巡したが、結局やめました。 クルマに戻って、モニとわしはずっとこのガキの話をしてました。 あれは学校の旅行のようだったが、ニュージーランドでは貧乏親と学校がこっそり話し合って親に十分な金が無ければ学校がすべて負担する。 ガキどもが間違いなく同程度の現金をポケットのなかで握りしめられるようにします。 わしは人間の富が平等に近くなるべきだ、というような寝言は嫌いだが、ガキは別である。ガキの時代にビンボーであった記憶は、そのガキ肩に一生のっかって、ガキの人生を苦しめるからでガキはすなわちカネのことなんかちょっとも考えないで暮らすからガキなのです。 おもえば、あの子供は身なりがビンボ臭くなかったので、わしはすっかり欺されてしまった。 白飯ガキは結局白飯を一粒残らず食べる周到さで丼を平らげると達者な演技力で陽気な顔をつくると、十何人かで、あるものはラーメンをあるものはカツ定食を食べていた友達の集団めがけて駈けていって、何事か叫んでふざけあっていたが、きみは、なにをおおげさな、というだろうか、わしは日本の社会に確実に迫っている何事かの幽かな音を聞いたかのように、この小さな出来事のことを考えました。 義理叔父が子供の頃、白いご飯に食パンのおかず、という弁当をもってくる同級生がいたという。普段は「給食」だが、弁当の日があると、そういう子供がまだクラスにひとりふたりはいたそうである。 それが、なくなっただけでも日本人はよしとせねばならんかしらん、とゆったので、わしに何をいいくさる、と怒られた事があります。 でももしかすると社会の幾分かはまた子供に弁当すらもたせられないほど困窮し始めているのかも知れません。 給食費を「払わない」親に憤激する社会の影で、もしかすると、給食費を「払えない」親たちがじっとしゃがみ込んで社会の怒号に震えていたのではなかろうか。 問題が「親のモラル」に収斂していく過程でほんとうのことを言えないまま、肩をいからせてみせていた親もいたのではないだろうか。 わしは雑誌や新聞を平気でゴミ箱から拾うひとびとの、その品性のまったくない功利主義が嫌いだが、あるとき、背広の男がゴミ箱から食べ物を拾ってもっていったのを見た事がある。食べかけの菓子パンだったが、そのときもわしは、あっ、と思ったものでした。 雑誌を拾うのと食べかけのパンを拾うのでは根本から意味が異なる。 収入から言えば日本人はまだまだだいぶん高いところにある。22位かどこかその辺で、シンガポールのちょっと下、とかそのくらいだと思います。 … Continue reading

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リアルキーウィー

1億三千万人の日本は人口が減少しだしてたいへんだそうだが、人口が420万人のニュージーランド人は人口が増えすぎたといってぶーたれておる。 300万人ぐらいがちょうどええやんか。 こんなに人口が増えると水道代が有料になるのではないか。 学校建設の金は誰が払うねん。 病院におれの税金つかうんじゃねーぞ。 まことに喧しい。 日本語で書いているのだから日本を基準にしていうとニュージーランドの国土の面積は日本の7割くらい。多分、日本列島から九州を沈没させたくらいの大きさと思う。 たしかめてないから九州もっと大きいかもしれないけど。 これも確認はしてないから曖昧計算だが平野は多分日本よりずっと多いでしょう。 広いからな、たとえば、カンタベリー平野。 サミットヒルに立ってクライストチャーチを眺めると、広大な平野にチョポンとクライストチャーチの巨大人口当国第二位30万人を誇る市街があります。 オークランドのほうは市街化が可能な土地が世界1大きな都市として有名である。 人口は130万人だが、関東平野にあたる土地の半分も使ってなくてすかすか。 ときどき頑張って40階建ての高層アパートメントをぶち建てるといきなり管理会社が倒産したりするので、CBDとゆえどなかなか埋まりません。 街のどまんなかに広大な空き地があったりする。 スイスのビジネススクールが毎年発表している「生活の質が高い街ベスト50」では、今年(2010)は3位だった。といっても3位の街はもうひとつあって3位の片割れはバンクーバー。 このバンクーバーという街はむかしはオークランドと物理的にそっくりなので有名な街で、わしはバンクーバーにいるのに酔っ払った頭でオークランドにいると思い込んで自分の泊まっている坂の上のホテルが忽然と消えたのでパニクった人を知っている。 そーゆーSF的な体験が出来るくらいそっくりだったと言います。 1位はストックホルムだかなんだか北欧の街で2位はチューリヒ。 ニュージーランドには「あの国旗のユニオンジャックが気に入らん」という根強い勢力があって隙さえあれば国旗のデザインを変えようという運動を起こす。 去年もやったのね。 いろいろなデザインのものが候補になったが、そのなかでなかなか人気があって決選投票に残ったものに「ゴム草履」が旗のまんなかにでっかく描いてある、というのがありました。 わしもこれに投票した。 だって、これいいやん。 たとえ将来どっかの国と大険悪になって戦争になりかけてもビーチサンダルの国旗とかでは気合いがはいらなくてまじめに突撃できないであろう。 だから平和になって、よい、という常と変わらぬわしの深遠な叡知の賜物です。 国民の慎重なる検討の結果、まだいまの国旗でいいや、っちゅうことになってしまって残念だったが。 わしはオークランドの大宏壮な自分の家にいるときは、街にでかけるのも素足です。 どこでもぺたぺた素足で行く。 背中に陶潜のかっちょいい詩句「冨貴非吾願 帝郷不可期」と書いたTシャツを着て下はやわらかそーな生地のショーツ、なあーんとなく面白そうな顔をして素足でぺたぺたぺたぺたすたぺたすたと歩いている肉体的に巨大な若い衆をきみはラミュエラロードに目撃するであろう。 それ、わしです。 たいていの場合、横には気が遠くなるように綺麗な人が歩いておるであろう。 モニという人です。 すげー美人なんだぞ。 これをいうとモニさんはたいへん怒るが、小さな町で人があつまってきて拝まれたことまであるからな。 なかには「素足お断り」という辛気くさいレストランもあるのでそういうところにでかけるときにはやむをえずクルマに装備してあるフリップフロップ(ゴム草履のことね)をはいてゆく。 わしの夏の盛装ですの。 舗道に出ているテーブルで、そーゆー格好で前菜から始まって最後のデザートまで4時間ほどをかけて静々と食べるのがオークランド式の正餐である。 念のためにゆっておくと舗道にテーブルも出さんような因業な高級レストランでこれはやれぬ。 まず注文をなかなか取りに来ないと思うね。 … Continue reading

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オカネモチ

金持ち喧嘩せず、というが、あれは言葉を見た人が写し間違えたので、元の文章には「金持ち『と』は喧嘩せず」と書いてあったに違いない。 わしの知っている金持ちは年柄年中喧嘩してます。 最終的にはお金でだいたいどうにかなるという安心感があるからなのかも知れません。 連合王国では商人のひとびとは昔から金持ち、それも上流階級の金持ちには泣かされてきた。 たとえば奥方がやってきてハンドバッグを買ってゆく。80万円、とかちゅう価格のを買う。小切手でいいわね、とゆわれてそーゆー顧客に「嫌です」という人はおまへん。 よろしゅうございます、と答えます。 奥方はハンドバッグをクルマのブートにしまわせ、ご苦労様でした、と呟いて後ろの座席に乗り込むと携帯電話を取りだして銀行に電話する。 いま書いたばかりの小切手の番号を告げて支払いを停止させます。 このひとに理由を訊いてみると店員の癖に私に色目をつかいやがって失礼な野郎だ、ということであった。 そのあと、どうなったか知りません。 知らないが、店は確率としては3割くらいの確率でハンドバッグを進呈したであろう。 通りに店を開いている程度の店にとっては、こういう顧客は大事どころではないからです。 こういうタイプの金持ちはヒマなので、そういうことばかりしている。 ほっといてもお金がお金を生む、ほうっておくと天井から金がバラバラとふってきてとりちらかるので財産を管理する人間が金の掃除に来て銀行へ捨てにゆく、という段階に至ったひとを指して「お金持ち」という。 そういう段階に至らない人は高収入を積み上げた結果が500億円あっても「お金持ち」とはゆわんだろう。 500億円稼ぐ人というのは経験的に言って500億円スルひとでもあるからです。 Nouveau riche、なんちゅうな。 波瀾万丈でオモロイ人が多いが、傍で見ている方も特に「金持ち」だ、という意識はないでしょう。 あのひとイッパツあてはったんやて。 へええー。 で終わる。 歩き方まで努力家だわねえ、偉いのねえ、というようなものすごい事を言う。 金持ちにはコワイものがない。 他にして遊ぶことがないのでだいたいにおいて意地悪なのでもあります。 この金持ちに至らないがいっぱいお金があるひとびとは近年はロシアのひとびとが有名であって、わしが初めてこーゆーひとびとにあったのは5年くらい前であったと思う。 ロシア人たちは革命前のロシアを懐かしむ宴会をいまだにやっておるが、ニューヨークの、いまはアパートになりくさったプラザホテルにも、そのうちのひとつがあります。 入り口に「ロシアの王女」という人が立っていてにこやかに挨拶している。 「ええええー、そんなもんいねよよおおー」とか眼を剝いて品の悪い事をゆってはいかむ。 育ちがばれるぞ、きみ。 欧州にはいろいろと訳の判らないことがたくさんあるのであって、「ロシアの王女」くらいでコーフンしていては心臓がいくつあっても足らん。 新興国アメリカ合衆国と言えどニューヨークは大西洋を挟んで欧州のすぐ隣なので欧州がいくぶんか引っ越してきておる。 だからロシアの王女くらいはパーティの入り口に立っておって一向に構わないのです。 そのうちにはドイツ人のパーティに招かれて行ってみるとヒトラーのお孫さんがチョビ髭を生やして立っているかもしれぬ。 その場合、彼はポルトガル語に堪能なはずであるが、あんまり悪い冗談はやめないとためにならぬのでこれはちょっとやめる。 パーティの会場に案内されてテーブルについてみると、そこには見知らぬねーちゃんがひとりぽつねんと座っているのであって、気の毒に考えたわっしは一緒に踊ってしんぜた。 ねーちゃんはステップがよく判らんようであったが、それでも楽しそうでした。 テーブルに戻ると、周囲にもはっきり聞こえるような声で「踊りに誘って下さってありがとう」という。 耳聡く聞きつけた女達がわざとらしく失笑します。 しかしわしはカンドーしてしもうた。 … Continue reading

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夏の軽井沢

来週ちゅうか明日またわしも行こうと思っているが、義理叔父は今日も軽井沢にいるので電話しました。 今日は軽井沢町のパーティがある日であって食い意地のはった義理叔父は毎年アップルソースがかかったローストポークをめあてにこのパーティに行っていた。 だからもう軽井沢にいるのかと思ったら、今年は行かないのだそーだ。 もともとはもちっとディーセントなパーティであったというが去年などは別荘を売りたい不動産業者が招待券をばらまいたりしてなんだかその辺の土建屋の社員大会みたいだったので今年から服装規定をつくった。 しょーがないからジャケットを着ていくことにしたのさ、という。 ジャケットって、いま気温は何度ですか?と訊くと27℃という。 27℃の町でジャケット。 すげー。 ところがかーちゃんシスターが、こんなに暑いのに出かけるのは嫌だ、という。 かーちゃんシスターは常識がゆたかなひとだからな。 こんな日にジャケットなんて着てでかけたらぶちたおれるに決まってる。 もうやめましょう。 かーちゃんシスターが嫌だと言えば、義理叔父のアップルソースかけローストポークなどは儚いものである。 そーゆわけで、つまんないんだよー。遊ぶ相手いないし、ガメ、明日ぜったい来いよな。 このあいだ買った高圧水鉄砲触らせたげるからさ、ねっ? ねっ? と恥も外聞もない情けなさそうな声でいう。 ガキと変わるところなし。 おっさん、あんた、いくつやねん。 軽井沢は夏は30℃になるので全然避暑地ではねっす。 では何故こんなにたくさん、ひと夏で500万人も人がやってくるのかというと、わしには皆目理由がわかりません。 だって町に大仏座ってないし。 別に京都タワーみたいに超超下品なタワーがもっこりおったってしまっているわけでもないので、来て見たからとゆって日本の人が納得して「これこそが軽井沢だぜ」と考える、好きそうなものはなにもない。 「雰囲気を味わう」という人もいたが、あの本通りの雰囲気を味わうには新宿のほうがよさそうである。 わし自身はなぜ軽井沢に「山の家」を買ったかというと、義理叔父が近所に掘り出し物の家が出たから買わないかとゆってきたのを真に受けて買った。 おためごかしに純真な義理甥を思っての事のようなふりをしながら実は自分が酒を飲みたいときに相手をしてくれる人がいないのでわしを欺して近所に連れてこようとしただけである。 いいとしこいて、まったく、とんでもないやつだ。 ひとつだけいいことは近所の不思議にも通常の日本人に較べるとどうも平均身長がだいぶん高い一様に日焼けしたおっさんたちが折り目正しくて挨拶もなにもきちんとしていることで、これはなかなか気持ちのよいことです。 朝はやく起きて散歩すると、角度の加減で、木洩れ陽が丁度ちいさな「天国への階段」のようになって甚だしく綺麗である。 庭のテーブルにわしは「もっちり山」のトーストブレッド、モニは佐久からもってきてもらったクロワッサンで朝ご飯を食べる。 ベーコンに、食事をつくってくれる人がいるときにはエッグベネディクト、そうでないときにはわしがつくったポーチドエッグがつくであろう。 モニさんが自分でローストした豆で淹れる珈琲もつきます。 カフェインが欲しくないときにはCavaがつく。 合衆国の人はベーコンをカリカリに焼くがわしが祖国ではヘロヘロしたベーコンを食べる。 ちゃんとしたベーコンは牧草の匂いが食べた途端に口のなかで広がって、まるで朝陽がのぼってくるようである。 うめっす。 午後は涼しければモニもわしも庭のデッキチェアに寝転がって本を読んでいることが多い。このために軽井沢の家には英語や仏語の本がいっぱい送りつけてあるので読みたい本に不自由するということはない。 今年はなにしろ十全計画の5年間前後11回に及ぶ日本遠征の最終年なので日本語の本ももちろんあります。 昨週は大好きな内田百閒を読んだ。 この百閒という人はどうにもこうにも日本語がたいへん上手な人であって、「雲山萬里を隔てた異郷に転戦している留守を幸い、こんな当て字の名前をつけたと云う事を、向こうで新聞を見て知ったら、銃後のつれなさをかこちながら、そっと鉄兜を被りなおすに違いない」というようなことをヘーキで書いてしまう。 この「そっと鉄兜を被りなおす」というのは、いったいどうやったら出てくるのか、日本人の癖にわしよりも日本語が上手であってなんとはなしに不愉快な人です。 … Continue reading

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狂気の終わりに

当時の日本人の気持ちを想像してみれば当たり前すぎるほど当たり前の事だが、1905年、ロシアに勝利した日本人は殆ど全国民が狂気したかのような喜びに舞い踊った。 ロシアの国情から考えて日本との戦争を最後までうまく運営できるわけがない、と冷静に計算して日本の勝利に大金を預けていたロンドンの金融家たち以外にとっては欧州人にとっても驚天動地という言葉そのものの日本の勝利だった。 いまで言えば、ちょうどパキスタンが合衆国と会戦して大勝利をするようなものでしょう。 発狂したひとのように歓喜しなければウソである。 ロシアが極東アジアにもっていた利権は当然すべてじぶんたちのものになる、と信じ込んだ日本人たちが講和条約の結果を見て激昂し日比谷公園に集まって暴動を起こし、警察の派出所、内務大臣官邸、新聞社などを焼き打ちにして暴れ狂い、ついに戒厳令が出されるに至ったのは有名な事なので、ここではふれません。 いまに至る日本政府の国民を仲間とみなさず、調教が必要な、丁度サーカスの動物とでも見なしているかのような態度が、直截にはこの事件の結果であることを知ればここでは十分と思います。 歴史を振り返ると、この「1905年の奇跡」から日本はずっとヘンだった。 鎌倉ばーちゃん(義理叔父のかーちゃん)は、義理叔父が自分をも含めた大方の予想を裏切ってトーダイに合格したあと、およそ3ヶ月くらい、なんだか大学者のような事をゆったり、妙に秀才ふうな口の利き方をしたりして、マンガのようであったといまだに笑いますが、日本という国も、そんな感じだったのかもしれません。 「一流」ということが好きになった。 「列強」『強国」、強い、という言葉がやたら現れるようになって、しまいには興奮の余り日本という国名の上に「大」を付けた「大日本帝国」というすさまじい名前で自分達の国を呼ぶようになります。 大英帝国に倣った、というひとがいるが、連合王国人は日本人の想像など遙かにこえてひとが悪いのでグレートブリテンだが「英帝国」です。 ほんとうは「リトルエンパイア」と呼びたかったが、それではいくらなんでもあまりに嫌味なのでリトルを付けるのだけは思いとどまった、ともゆえる。 なぜそうまで一流であることにこだわったのか、わしには正直言って、よく判りません。 他国民の国家に対する尊敬というのは、当時もいまも、その国の国民がどんな物腰であるか、とか、どれほど弱い者、うまくいっていない者に対して同情心と助けようと思う心をもっているか、とか、どちらかというとそういう事で決まる。 ひとことで言えば、「うらやましい、あんなふうな人間になりたい」という人間がどのくらいたくさんいるかで決まる。 強い者は疎まれるに決まってもいれば、まして強さを誇ろうとするものは失笑を買い、軽蔑されるだけであるのは考えるまでもなく当然のことです。 ひとつだけ考えられる理由があるとすれば、アジア人の不正直さや、狡猾、卑しい心根に手を焼いた欧州人たちは、「恫喝すれば意外なくらいおとなしく言うことを聞く」ことを発見して、特に極東にあってはアジア人と見れば鞭をふるうのがもっとも簡単であることを発見した。 その欧州人の対アジア人対処法を鞭をふるわれる側から見て、日本人は、一流になるということは鞭を手にすることだと誤解したのかもしれません。 関係のないことを書いておくと、東京を初めて訪れた「ガイジン」たちが見ているのは、「良いもの」では目の見えないひとのために延々と付けられた黄色のブロックであり、舗道という舗道が車椅子のためにそうしたと思われるなだらかな傾斜の切り端をもっていることであり、どう見てもそんなヒマがありそうもないのに汗まみれになってクルマ椅子の老人をホームに案内している駅員です。 モニもそうだった。 「日本」に対して少し考えを変えたのは、日本人の歴史的イメージとはまるで異なった、「弱い者に差し出された文明的な手」をあちこちに発見したからです。 運転している人間をマヌケな成金に見せやすいので有名なメルセデスの新車の数や鞄というより剥き出しの値札を持ち歩いているようにしか見えないルイヴィトンをもった女のひとの数のせいではない。 日本は1905年以来、ずっと気が違っていた。 漱石の「三四郎」という小説には「広田先生」が主人公に日本の将来を尋ねられて「滅びるね」と漱石風に言えば単簡明瞭に答えて主人公をびっくりさせるところがありますが、ロシアに勝った日本は、その通り、おごりたかぶって、それから40年しないうちに実際に滅びてしまった。 それもカルタゴ以来、と言いたくなるような盛大な滅び方で、1945年の東京の写真を見ると1985年の不動産屋が大喜びしそうな見事な更地です。 見渡す限りのまったいらな地面であって、その表面に黒こげになった無数の日本人の身体がごろごろ転がっていた。 そこから心機一転、方角を変えて、一心に頑張って「戦後民主主義日本」をつくったことになっているが、しかし、それは本当だったろうか。 基調底音、というべきか、それとも共通の物理法則というべきなのか、戦前から戦後まで、小学校から大学まで、全共闘運動からパナソニックの工場まで、日立の本社から霞ヶ関の庁舎まで、日本のあらゆる組織体には「軍隊」というキーワードが隠れている。 学校では「前にいいいー、ならえ!」といい、背を伸ばして「注目」することが求められ、塾という名のおよそ非知性的な訓練所があり、要するに、精確に効率的に与えられた命令を遂行できるというだけの徹底的なバカになる訓練をする。 わしは日本の学校や会社は合衆国の海兵隊のブートキャンプ、特に1960年代のブートキャンプによく似ていると思う。 あれはひとりの人間の人間性を徹底的に否定し個人の価値と尊厳を破壊しどんな非人間的な目的にも逡巡なく最大の効率で任務を遂行する人間、あるいは「非・人間」をつくることに特化されている。 たとえばスタンリーキューブリックの「フルメタルジャケット」でも見れば容易に納得できると思いますが、あの非人間性を身に付けることによってのみ現れる生産性の追究は日本社会と不気味なくらいよく似ている。 ドイツが日本とは異なって戦争の徹底的な反省によって生まれた、というのは日本人がでっちあげた神話で、ドイツ人自身は、そんなことは全然ないのはよく知っている。 戦争中に活躍したナチスのメンバーが戦後も復興の中心だったからです。 だが中世騎士物語の悲劇性に酔いやすいドイツ人というナチスの病根はドイツ人たちによってよく理解されている。 良い悪い、というよりも眼前に投げ出されたもののように、それそのままとして理解されている、という意味です。 しかし日本人は自分達がこの100年という時間を1905年のあの日から一貫して脇目もふらずに突っ走ってきたのを理解しているだろうか。 その狂気がついに世界の市場の成熟によってあるいはもっと重要なことには自分達自身の成熟によって崩壊するほかなくなったのがいまの日本の経済や政治や社会の姿だと気がついているだろうか。 八月になると、わしは、いつもこの事を考えるが、まだよく結論が出せないでいるのです。

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シンガプーラ

義理叔父が初めて出かけた外国はシンガポールであったはずである。 30年くらい前、というからまだ大学生でしょう。 このブログでだんだん義理叔父の過去をばらして無料で生まれる明るい明日の糧にしようとわしは考えているがイジメというのは一寸刻みでなければいけないとゆわれている。 ゆっくりやります。 ほんとうのことをいっぱい書いてかーちゃんシスターに翻訳してさしあげようと思っているが、わしに貸与している法人カードの限度額を上げる、とか、そーゆー申し出があればいろいろと考慮しなくもないが、でもともかくシンガポールに義理叔父はでかけた。 なんだか医進予備校でひと夏教えたら80万円だかになったとかいう超えーかげんな理由だったと思います。お医者さんのはしにもぼーにもかからないドアホなクソガキどもとホテルに泊まりこんで食事は近所のトンカツ屋が山ほどつみあげてゆくとんかつ弁当をただで食べる。冷房が利いた部屋に泊まって、たし算くらいなら出来るかなあーという秀才な諸君を教えて80万円まるもうけした。 つくづく世の中の矛盾につけこんで稼ぐのがうまいひとです。 80万円手にした叔父は、シンガポールに行こうと思った。 ラッフルズホテルが見たかったから、とかゆっておったが、ぬわに、ほんとうはトロピカルなねーちゃんが見たい、誤解と不純がないまぜになった動機に決まっておる。 義理叔父というひとは本来は「家の10キロ四方から出ないで暮らしていた」(義理叔父おかーさま談)な人間であったようなので、この半径10キロ引きこもり青年にしてはかなり異様な行動と受け取られた模様である。 実際、仲の良いお友達には、「とうとう…」とゆわれたそーだ。 叔父が初めて出かけた頃のシンガポールは国をあげてぐわんぐわんに働いて無茶苦茶な勢いで生活が向上している頃であった。 ひとりあたりGDPで軽く日本を抜き去ったいまとは街の様子もだいぶん違ったようです。 「冷房が、ないのよね」という。 「ラッフルズホテルとかでも冷房がないのだよ。それなのにティールーム行くにはジャケットが必ずいるのだ。ハイティーの時間になると、ガメの国の奴がいっぱい来ておってだな。クソ暑いテーブルに座って、ひきつった顔で微笑しながら、熱い紅茶を飲んでるのだ。アホな光景だったな、あれは」 そーですか。 「オーチャードロードとかに立ってるとね。タクシーが来るんだけどさ。フロントガラスに『20% OFF』とか『30% OFF』とか書いてあってだね。乗車料金のディスカウントなんだよね」 「で、ぼくは40%OFFのタクシーを止めてみたら」 「向こう側のドアがなかった」 「えっ? ガメ、なんで知ってるんだ、おまえ」 「だって、3回目だもん。その話、聞くの」 ぼけたんちゃうか、あんた。 という具合だったようだ。 わしの知識と照らし合わせると義理叔父は日本から来た観光客らしくまったくのお上りさんでホーカーズも事もあろうにニュートンサークルに行っておる。 あとはオーチャードロードを行ったり来たりして終わったようです。 残りはプールサイドで英語版の「シンガポール攻略戦」を読んでおった。 日本軍が華僑を大量虐殺したせいでシンガポールでは反日感情が強かったのを知らなかったのだな。 さぞかしプールボーイのサービスが悪かっただろうと思います。 義理叔父はシンガポール人のひたむきさが好きだったようだ。 いまのように冷房が利き狂った地下道もないクソ暑いシンガポールで、みなものすごい勢いで働いている。 眼が違う、という。 きらきら輝いているのだよ。 当時のバブル日本人とはエライ違いだったのさ。 まだマーライオンが元の場所にあって高島屋がいまとは違って小さなビルだった頃のシンガポールで義理叔父は「10キロ四方主義」を捨てたもののようでした。 後年、まさか、文化の違う国からやってきたかーちゃんシスターと結婚するとは思っていなかっただろうが、外見は頭が悪そうだが中身は外見よりは賢くなくもない叔父は、一瞬で「内なる鎖国」を捨てたもののようであった。 (閑話休題) いまのシンガポール人は日本人とメンタリティがたいへん似ている。 わしにはシンガポール人ビジネスマン友達H(25歳)がいるが、顔が日本人に似ているせいもあるが話しているとなんだか日本人と話しているような気になることがあります。 シドニーのレストランで会うと、ふとした弾みに無口になって集中力がなくなる。 どうしたの、と聞くと、あっ、いや、ごめんなさい、と言いながら窓の外を見ていた眼をこちらに向け直します。 … Continue reading

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「先延ばし」の終わり

予定通りむちゃくちゃ早く起きた。 いまは丁度夜明けの前なので18℃くらいだが、なにしろ暑くてやってられないので東京に戻った方がよさそうです。 移動には新幹線が速いが東京駅のホームがうるさいのと人間が多いのが嫌なのでわしはクルマで移動します。 長野高速−>関越道−>首都高速と通って帰る。 ときどき「サービスエリア」に寄って行きます。 今年は「横川」のサービスエリアがカッチョヨクなったので、ここか、上里にちょっと寄って飲み物を買って行く。 「バス」と呼称している山の家と東京間の移動に使っているクルマのなかでは、だいたいスペイン語系統の音楽かアフリカン・ジャズが流れておる。 「バス」のなかにほうっぽりぱなしのiPodには一曲だけ日本の曲も入っていて水原弘の「黒い花びら」。 たいていは自分で運転します。 モニが「今日は天気が良いからわたしが運転してあげよう」ということもあるが、モニの運転で助手席(助手席っち、オモロイ言葉だな。英語ではスーイサイドシートという(^^;) 違う言い方ではパッセンジャーシートという退屈な呼び方もあるが) に座ると運転するより身体が強張って疲れるとゆわれているので、だいたいにおいてはさり気なく運転席につくことにしている。 だって、モニさんの運転て、のおんびり走るようにつくられている「バス」ですらびゅんびゅん他のクルマぬくからな。 こえっす。 この5年間で日本は大きく変わりました。 合衆国が「グーグル」や「フェースブック」のような新しい産業の顔を育てて、採算がとれるわけがなくなった「ものを作る」産業から必死の脱出を試みているあいだ、日本は「先延ばし」に終始する不思議な経済政策を取り続けた。 いまでは誰でも知っている通り、この「先延ばし」政策は結局は日本の社会に対して「鎖国政策」としてはたらいた。 最もおおきな「鎖国」の現れは金融で、どーゆーことについても「ぬわあにダイジョブだんべ」なわしでも、いまの日本の金融が他の世界のレベル、たとえば連合王国のレベルに追いつくということはちょっと考えられない。 わしの観察では多分、日本で金融に携わる人びとの数学的能力の欠如がこの古色蒼然というのもバカバカしいような骨董金融を生み出したのだと思います。 たとえば日本人が殆ど道徳的な拠り所としているかにすら見える「もの作り」において、新しい技術投資の規模が奇妙なくらい小さいのも、技術投資をしようにもリスクを手続き的に示せる金融技術をもっていないので江戸時代的な資金調達しか出来ない。 2009年をかなり明瞭な境として日本メーカーの家電が合衆国や欧州やオーストラリアの家電店の店頭から姿を消した事には、そういう金融に原因する背景があります。 日本が長いあいだ得意であった液晶テレビで言うと、店頭の正面にあるのは「サムソン」の50インチであってソニーの「ブラビア」ではなくなった。 サムソンのテレビはソニーよりも価格は高いが機能的にすぐれているのと壊れないのとでソニーよりも遙かに人気がある。 細かい事を言うとUSBメモリ内の.flvファイルを再生する機能やLANにフックする機能のようなものでもソニーはサムソンに較べて半年から一年遅れてしまう。 当然、テレビを買おうと思うひとはソニーはサムソンのマネをしている会社である、という印象を受けます。 第一、ソニーの液晶パネルはサムソンが作ってますしね、とわしがテレビを買いに行った店のインド人のやたらテレビに詳しいおっちゃん店員はいう。 「日本は技術的にもうダメと思う。品質も悪いから買わないほうがいい」 「でもさ。日本人って、品質が高いものを作るのは得意だっちゆーじゃん」とわしが言うと、はっはっは、と笑って、それは大昔の話だよ。トヨタのクルマはまだいいけどね。 ぼくもカムリだし、と言うのでした。 日本について「失われた二十年」というが、5年前はまだ「失われた十年」と言っていた。 このブログでも前に「失われた十年」という言葉を使った記憶があります。 この二十年、日本が何をやってきたかというとマクロ経済の理屈にしたがって、ひたすら「ものを作る」会社に金を注ぎ込んできた。 終いにはやることが露骨というかやけくそじみて来て生産された製品を国民に買わせるべくゲンナマをばらまく、という凄まじい方策に出て世界中のひとの息をのませる、という局面までありました。 あれは、わしも、ほんまに驚いた。 20年間、ただもうひたすら建設や家電やその他の「ものを作る」会社に金を注ぎ込んできた、このものすごい政策の裏には「物作り」という言葉が大好きな国民性があった。 「ものを作ることを支援してます」とさえ言えば機嫌よく税金を払ってくれる「ものを作る」=「産業的正義」という国民的な合意があったから、これほどバカげた政策をとってこられたのだとわしは観察しています。 日本の金融システムの俄には信じがたいほどの遅れを外国人は「日本人の能力の欠如」と軽く片付けてきたが、ここにいて観察していると、どちらかというと「金融が嫌い」という(ヘンだが)「好き嫌い」の問題なのではないかと思えてきます。 合衆国人はもともと「物作り」がたいへん上手な国民でした。 しかも産業製品の基幹部分も工芸的部分も両方ともにすぐれていた。 戦争中はたとえば中国戦線でも日本陸軍の高級将校はみなフォードに乗りたがった。 … Continue reading

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