日本誌


今朝、起きてみると窓の外の木が紅葉しておる。
「そういう季節だから当たり前でしょう?」ときみはいうかもしれないが、そうじゃないねん。
この木は常緑樹なんです。
しかし、紅葉でモニとわしの眼を楽しませておる。

種明かしをすると、この木の上に紅葉が枝を延ばしているのであって、そこから落葉した目が覚めるような色の葉が、下の常緑樹全体を覆っているのです。
まるで仮装して大人を脅かせるのが好きなイタズラガキのような木である。

もうひとつ用事がある、というか、もうひとりパリから戻ってくるひとを待たなければならなくなったので、あと3週間を日本で過ごさなければならないが、しかし、もうモニとわしが日本の話をすることはなくなった。
ラミュエラの家の改築の話、ニューヨークのアパートをひとつにまとめるかどうかの話、ヨーロッパに里帰りするのなんて詰まらないから、どっか、かっちょいいリゾート!なんちゃって、カリブの島で3ヶ月ごろごろしているのはどーだろー、とかエジプトの紅海リゾートに行ったことがないから行ってみたい、とか、もう日本を発ったあとの話だけです。
きみたち、ゼータクなんちゃう?と眉をひそめるひとがいそーだが、東京にいるより安いんどす。
紅海リゾートなんか5つ星で向こうの言い値が一泊5000円、ええええー、2ヶ月いるんだから安くしてけろおおお、とゆって交渉すると3000円です。
カプセルホテルより安いわい。
それで大ゴージャスな部屋から直截巨大プールに泳ぎにはいれる毎日が手に入る。
夏いくと日中の最高気温が50℃だそーだが。

振り返ってみると、日本は楽しくもヘンな国であった。
もう遠征は終わりだから、ここでアホなブログを書いたり、なんだかヘンなひとびとがいっぱいせめてきたのでメンドクサイというので閉めてしまったツイッタ(他の言語では笑いさざめく音しか聞こえないツイッタでまで、「レーシスト!」「なんとかかんとかは、タイヘンなことだ!」と集団で喚きながら他者を攻撃する道具にする文化とは、たいへんなものだ。中国では深刻な「自由を手にするための武器なので、140文字で伝えられる情報の量に依るのだろうか)で遊んだりしているのでないときは、主に何をしていたかというと、この国の20代や30代のすげー優秀なひとびとと会って話していた。
そんな偶然があるとは思われぬが、万が一該当しているひとびとが、この記事を読んだときには「ハァーイ!」とかゆって話しかけないよーに。
このブログ、ヘンなひともいっぱい読んでるからね。
わしに親愛の情を示しただけで「あれは人種差別主義者の日本側協力者だ」とか小説読みの同僚にゆわれかねないのです。
なんで「小説読み」なのかは、ここでは説明を憚る。
不可思議はメールで訊いてね。もう少し言うと、
声をかけるなら、せめて過去記事を読んでからにしてくれたまえ。
とゆっても自分でも半分くらいしか読み返したことないので一週間も遡ればよいであろう。
ブログ全体のトーンは、「十全外人文庫」
http://d.hatena.ne.jp/gamayauber2/ 
で、わかるとゆわれている。

20代のひとびとと話しての、わしの印象は、結局はこの国はダイジョーブだろーということでした。彼等が社会を取り仕切り出す20年後くらいには、日本は底なしに見える転落の底をついて、そこから長く苦しい回復の行程にはいるに違いない。
彼等のよいところは、優秀な頭脳をもつ人間にありがちな本質的な愚かさがないことで、
知性が暖かい光のように働くひとびとである。
会ったどのひとも、すぐに仲の良い友達になったが、このひとたちはみな例外なく海外に赴くところなので、モニとわしが出かける先のあちこちでも会えるようだ。
素晴らしい、と考えました。

インターネットであったひとは、ヘンなひとが多かったが、あれは叔父の説では実生活では別人格なんちゃうか、ということであった。
なんだか、よく判らないが、実生活がつまらんので誰彼の尻馬に乗って憂さ晴らしをしている、ということなのかもしれません。
わしには、よーわからん。

それでも5年間11回に渉る遠征で少なくとも8人は絶対に信頼できるインターネット上の友達が出来た。
このひとたちは、わしの側の特殊を極める事情で、まだ顔を合わしたことがないが、わしの大好きな友達です。

ひとつだけ日本が立ち上がれなくなるシナリオは、日本のひとびとが長い低迷に我慢しきれなくなって、集団行動で破壊に向かう筋書きであって、これもいくらでも考えられる。
たとえば、中国の内陸部で中国政府が抑えきれない暴動が起きたとして、在留日本人を100人くらいでも暴徒が惨殺したとする。
現代版通州事件ですのい。
その場合、日本人が冷静を保てるかというと、五分五分とまではいかないだろう。
国民の支持のもとでの軍隊の増強、正義をふりかざしての中国への侵攻、それに対する世界世論の猛烈な反発、孤立、狂気の戦い、っちゅうふうになるのかもしれません。

ふつーの国では、「議論」というものがあって、これは通常はよいアイデアを求めて信頼のおける相手とするものだが、応用として、政治にも使える。
だいたい、いろいろな人間が、ひとつの見地からは思いもつかないような見地から発言しあって、見ている方は思考実験の結果を検証して、そーか、やっぱりコーフンすると拙いな、というふうになってゆく。

ところが日本では決めつけといつのまにか決まった「正しい結論」(日本では他の国とはまた違った種類の、奇妙な現実認識が「常識」や「自明の理屈」になってしまいやすいよーだ)に全員が結集して、標的を攻撃する、というふうに社会そのものの構造が出来ている。
昨日、友達と電話で「日本では小説家のひととかでも、そーみたいよ」というと、向こうも驚いていたが、それを伝えたわしの方でもゆっていてあらためて驚いてしまった。

いまの時点で日本語でこんなこと書いても誰も本気にしないのは判っているので、書いてるほうは返って気楽なものだが、日本が再び暴力をもって世界を暗黒の混沌に叩き落とす可能性はかなり大きい、とわしは考える。
最近、シンガポール人の考えを一人称にしてブログ記事を書いたら、「人種差別主義者」だとなだれこんできた一群のひとびとがいたので、ぶっくらこいてしまったが、まあ、それはどうでもよい。
日本のような国では、そういう「人種差別妄想病」みたいなひとはいくらもいるので、何か奇妙なことだが、この国の近代の伝統の一部になっていてその結果激しい敵愾心を外の人に対して持っているのは、わしらも学校でも習ったりもする。

びっくりしたのは、ある理由によって、ふつーのひとよりは遙かに外国の事情に明るいひとが、わしを慰めようとして書いて寄越してくれた長い暖かい手紙の最後に、

>恐らく(一般的な(?))白人からみたらどうでもいいはずの、黄色人種同士の恋愛に
もまなざしを向ける、そこに世界の未来を託す、そういう、うまく言えないがある種の
清廉さは、確かにこの世界では救いのひとつのように感じます。

と書いてあったことで、わしは、真から、ぶったまげてしまった。

わしの、そのひとの手紙へのその部分の返事は、

「>どひゃ。○さん、それ、「日本化」されてるよ。
しばらくテキトーな外国に住んだほうがええんちゃうか。
いまどき、そんなものすごい人種人種した考えするやつおらんち。

わしのオークランドの友達はもし人種で言えば、半分以上「黄色人種」。
アラブ人と中国人のカップルも、ドミニカンと中国人も、ありとあらゆる人種の組み合わせで、みなふつーに暮らしてますがな。
そんな「黄色人種同士の恋愛にもまなざしを向ける」なんて、戦前の合衆国みたいなことをゆってるとバーちゃんなのか?と思われるぞい。」

….と書いたが、そのとおり、いまどき(なかにはヘンな奴も当然混じってはいるが、
いまどき「人種」とか頭にのぼってくるひとというのは、相当ヘンなひとである。

人種差別主義を標榜するひとびともいるにはいるが、日本でゆえば「ボーソーゾク」みたいなひとびとであって、アフリカ人、アジア人、とか普段の生活で口にするひとなんかおらん。

どうゆえばいいか、「人種」とかに囚われるのは、すごおおおく「ダサイ」ことなんです。
だからだいぶん頭がパーな奴でも、もういまの世界では「人種」とかは考えない。
ダサイひと、と思われるのは嫌ですからのい。

そーすっと、嫌がらせの機を見るに敏なひとびとは必ず、だって必ずおまえは「アジア人」てゆーやん、と言うだろうと予測されるが、だって、わしはアジア文明にヒントを求めに来て、というべきか、西洋文明の価値が相対化されうる文明と言語に身をおいて、いまのボロイ欧州文明を弥縫するべく来ているのだから、当たり前なんです。

ここでも中国のひとやマレーシアのひと、就中、インドのひとびとは「アジア的価値の未来」について身を乗り出して話してくれるが、日本のひとは「アジア」という言葉がもう嫌なようであった。
脱亜入欧の国是のゆえか、どうなってんのか判らないが
まったく議論にならなかった。
「アジア」と一言ゆえば、もう狂ったように喚きだすので、こりゃ、あかん、で終わってしまいました。

でもまあ折角言葉おぼえたんだからさ、というので文学を読んでみて、わしはとりわけ漱石が気に入ったが、その前の北村透谷というひとは、わしを虜にした。
わしは人間がふつーの人間の想像を絶して単純なので、透谷がただひとり、「もしかしたら、このひとは自分をわかっているのではないか」と考えた相手が、わしの裏祖国のひとであったことを大変に誇りに思います。
透谷は真に偉大な作家だが、これは多分、別のときにまとめて書くと思う。
日本語で書いて、自分の引き出しに、そっとしまっておくでしょう。
透谷の魂は、きっと、間違いなく、わしが心をこめて書いたその原稿を、読んでくれるに違いない。

日本が近い将来の世界において最も危険な因子であるかもしれないのは、(また、こういうことを言うと誰かが怒鳴り込んで来るであろうが)、その過剰な「人種」への思い詰め方による、と言ってもよい。
この国にいるうちに、こっちの頭までおかしくなりそうであった。

どうして、そういう考え方が形成されたのかは判らないが、日本語でものを書き出して以来、「捕鯨」と書くと「レーシスト、死ね。戦争中の人種的迫害を日本人は忘れないぞ」
「現代詩」と書いてさえ「人種差別主義者のおまえたちが過去にやったことは永遠に消えないぞ。そんな奴の文学など無価値だ」というような反応であって、とうとう5年間、あらゆるアジアの国に話しかけていたなかで日本だけは「なんのこっちゃ」で終わってしまった。

さて、わしは東京に腰掛けて、若い途方もなく優秀な日本人や韓国人、中国人、インド人、タイ人、マレーシア人、…とほぼすべてのこの地域の国の若い人間達に会って話してきた。
良いニュースは、彼等が聞いていたよりはやってきた東京で実見した現実の日本人は応接が親切であったらしいことで、「話に聞くよりもずっと良い国ですね」とみなが言っていた。

それは、わしの感想と同じである。
もうひとりどうしても会いたい日本人のUさんがパリから日本に帰ってくるまで、(他に用事もあるし)、東京にいようと思うが、待っている間、もうちょっと5年間に考えたことをここに書き付けておこうと思います。

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6 Responses to 日本誌

  1. b_caramel says:

    ブログが更新されててとても嬉しいです。
    遡って全部拝見できていないのですけれど、少しずつ楽しみに読んでるので、どうぞ残しておいてくださいね。

    ガメさんが書かれたものを読んで、いつもすぐには何も言うことができないのですが、ずっと考えているし、ずっと忘れないでいますので。

  2. b_caramel says:

    アメリカ、というカテゴリーの記事を読んでいたら、

    >日本語では「I miss you」と言えない。
    >日本人の感情世界に「I miss you」という感情が存在しないからです

    と書いておられました。
    私は、ガメさんのブログとかをもう見られなくなったら、
    「I miss you」
    と言いたいと思うと思うのですが、そうひといきに言うのと、
    日本語で「あなたがいなくてさびしい」というのとは確かにちょっと違いますね。

  3. Kuichi says:

    twitterを覗いてみたらガメさんがいなくなっていておや、と思ったのですが、ブログが残っていて良かったです。

    考えてみると、ガメさんに何か起こっている時に限ってネットの世界から離れてるような気がします。いつも、終わった後に気付くのでどうもタイミングがずれてますね。

    人種差別だ、と叫んでいる人は、結局“過去”を見ているだけです。“今目の前に居る外国の人”が何を話そうが、聞いてないのだと思います。何を言っても「けどあなたは外国人ですよね」で終わってしまって、そもそも話し合いとか議論をする気がないのでしょう。

    歴史を振り返ることに意味がないとは言わないけれど、目の前に居る人に少しも目を向けられないのは哀しいことです。

    それはさておき、ガメさんが居なくなる度に毎度捜すのはそれなりに面倒なので、気が向いたらメールとかで連絡くれると嬉しいです^^;

  4. nenagara says:

    >彼等のよいところは、優秀な頭脳をもつ人間にありがちな本質的な愚かさがないことで、
    知性が暖かい光のように働くひとびとである。

    「NZで半端なくピンハネされて困ってる娼婦さん達を救うために、彼女らの罪を問う事をとりあえずやめてみた。」ってありましたよね、あの話好きなんですよね。
    勝手解釈かもしれませんが、「本質的な愚かさがなく、知性が暖かい光のように働く」って読んで真っ先に浮かんだのがこのことでした。

    ところで、今日本を取り仕切っている優秀な人達も20代の頃はおそらく「本質的な愚かさ」ってのは持ってなかったはず、と思う僕は、「きっかけ一つで、明日からでも日本は変わっていける。20年も待ってたらまた同じことの繰り返しや。誰か何とかせんかい。」という思いを持っているのですが、「その前に優秀でない上に愚かなお前から変わっていかなあかんやろ。ちょっとは何とかせんかい。」と言われそうなので、どっとはらい。

  5. じゅん爺 says:

    書き置き、または別れの手紙、を読んだ気持がした。淋しい。

    • じゅん爺さま、

      >書き置き、または別れの手紙、を読んだ気持がした。淋しい。

      じゅん爺の前にガメが突然「立山」の一升瓶をもって現れることがあっても、じゅん爺と黙ってお別れすることがありますかいな。
      ブログが閉じても、じゅん爺とは友達である。

      あたりまえじゃん。

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