Monthly Archives: January 2011

芸術と学問の所得税廃止

アイルランドのアーティストは所得税を払わなくてもよいことになっている。 1960年代の後半から、ずっとそうです。 http://www.revenue.ie/en/tax/it/reliefs/artists-exemption.html U2があまりに派手に稼ぐので、いくらなんでもあんまりだ、ということになって2006年からは年収25万ユーロを超える部分については課税することになったが、それまではU2が何億円稼いでも税金を払う必要はなかった。 かけ声、というものは人間を動かさない。 いくら政治家や役人が「マンガ立国日本」と叫んでも、票になりはしても、それで良質なマンガが生まれてくるわけではない。 軽く年収一千万円を越える、たいしてマンガに対する理解力もない編集者が、たかだか6択のソーダイやケーダイの入学試験に合格したという「権威」を基に、マンガ家に代わって「ネーム」をいれ、筋書きにまで口出しする一方、当のマンガ家のほうは食うや食わずで暮らしているのでは「マンガ立国」などはすでにしてそこで架空の話です。 なんだ、たかがカネの話か、 カネは創造性とは関係がない、という人が必ず出てくるのが日本という国のようだが、説明するのもメンドクサイ、たかがカネ、と思うなら明日から創作家という創作家への支払いを試しにいまの十倍にしてみればよい。 魂の世界にも金銭の健全な法則がはたらいて、ふるめかしくも字義通り、陸続と名作が生まれる、と思います。 ものをつくる人の手、というものは、止めようとして止まるものではない。 真に創造力に恵まれた人間というのは一円も与えられなくても、やはり作るのをやめない。 巨大な言語表現能力をもった人間にものを書くことを禁じれば、彼女もしくは彼は発狂する以外に途はないと思われる。 学問の神様に魅入られた科学者はP5厳守といわれてもP3でやってみたくなる。 原水爆は禁止だといわれても、「それでも科学者の手は動く」といって原水爆禁止の実効性に悲観的だったアインシュタインは「人間の手」の秘密を知っていた、というべきである。 「手」は人間の理性よりも強い意志をもっている。 だから収入がなくても芸術家は毎日ひたすら絵を描き、作家はスクリーンの仮想的な紙に書き込んで彫塑するだろうが、それを職業に値するまでの高みに引き上げるには莫大な時間が必要で、その「時間」は結局、単価の大きい収入によって生まれてくる。 ゲージツ、といえど、オカネの支えがいるのです。 そこで「カネを出さなくてもつくるんだから、出さなくてもいいや」というのは田舎商人の発想だが、万国共通、アホ商人というのは足下からひとを見て弱みにつけこむのが発想の根源なので、日本の出版社のような文化商人は世界中に掃いて捨てるほどいます。 しかし。 芸術家あるいは芸術家の卵の手は貧困と生きるために選んだ職場の仕事を終えて帰宅したあとの絶望的なほどの疲労を越えて午前零時をまわった机の上で動き続けるとしても、その手から生まれてくる作品の質にはやはり大きく報酬が影響する。 現代社会では最も健全な批評精神は金銭であって、創作家が自分で意図しなくても自分の作品に支払われる報酬は社会の側からの自分の精神への批評と意識される。 むかし日本には現代詩の興隆期があったのは明らかだが、80年代くらいを境にいまでは跡形もなくなってしまった。 だいたい日本で信頼できそうなひとたちに訊いてみると、散文では島田雅彦、詩ではねじめ正一というような人達が出てきたところで文学そのものが崩壊した、というが、わしが見たところではそうでもない、というか、本当の原因は、そもそも作品に対してまともな支払いがされていなかったように見えます。 原稿料一枚あたりの支払いがクソ小説と詩で同じでは、詩人などやってゆけるわけがない。 成功がない職業世界、というものはありえないが、日本の学問と芸術の世界では「学問や芸術に志すものには金銭的成功はいらない」という社会的な「ウソ」がまかりとおってきた。 日本人には工芸的あるいは芸術的な特殊な才能があるのは文化集団的に明らかだ、と世界中の人間が気がついてきたところで、皮肉にも日本の「芸術」は急速に衰えつつある。 細かく見ていくと文学において批評家が育たなかったこと、マンガやアニメにおける分野としての自信の無さ、いろいろな理由があるように見えるが、背景にある、もっと大きな問題は経済世界、あるいは芸術を受容する側の世界が芸術に対してリスペクトをまったくもっていないことにあるようです。 せめてもアイルランドを見習って芸術家や学者の所得税を免除することにすれば、少なくとも「国としての姿勢」「社会集団としての決心」を明瞭にすることにはなると思う。 日本を家電や自動車に依存した中国や韓国とのトンテンカントンテンカンな平板で退屈な競争の地獄から救い出す第一歩になると思います。 画像は日陰が大好きなタイの犬さん。本文との関係は何かって? 特に意味はない。(ほんとよ) Advertisements

Posted in 日本と日本人, 日本の社会 | 2 Comments

「時間を取り戻す」_経済篇

英語ではconfidenceという。 confidence、という言葉を見て「自信」という日本語が頭に明滅してしまったひとは、もうそこで大誤解が始まってしまっている。 一回深呼吸をして、そーか、 confidence、という言葉があるのだな、と思ってくれるのでなければ困ります。 「経済」というものは一面、政治のように信条によって一致することのない、さまざまな思惑をもつ人間の心理の複合体だが、この confidenceはいわば経済という欲望と恐怖心がないまぜになった巨大な乗り物の燃料で、これによって経済は動く。 confidenceが高まってくれば投資家は投資し、ビジネスマンは「いよいよ貿易風がふいてきたぞ」とつぶやいて、帆をあげて出帆して事業拡張の冒険に乗り出す。消費者は猛烈な勢いで物欲のトローリー(カート)にものを積み上げてレジに並ぶ。 一方で市場が冷え切って困憊しているときに、なんらかの理由によって合理的なconfidenceを獲得しているひとは比較的簡単に市場における勝者になってゆく。 ひらたく言えば「金持ち」になります。 日本の経済が凋落したのは、そして、その低落の谷間から抜け出せないでいるのは心理的には無論このconfidenceが失われてしまったからで、あたりまえだと思うが、経済を再建したいと思えばどうすればそれが再び獲得できるか考えないと仕方がない。 日本にいるあいだ、「どうしてこの国のひとびとにはconfidenceがないのだろう」と考える、わしの眼についたのは、日本という国に参加している人間全体の「途方もない忙しさ」と「空間のなさ」でした。 へっ? そんなことが経済と関係あるの? というひともいるのかも知れぬ。 おおありなんです。 急に訳のわからない不公正ないちゃもんをつけにくるのでおおありくいは嫌いだが、おおありはおおありなんだから仕方がない。 お話をつくるのが上手だとゆわれているしな。 時間というものは一時間あったら50分しか使ってはいけないものだ、とわしは子供の時おそわった。 どんなに根を詰めても10分は休まないとな。 朝の8時から起きて一日を過ごせば、午後8時にはほぼ完全な休息に入らなければ人間は人間でなくなってしまう。 10歳以下の子供なら午後8時はもうベッドに入っている時間である。 眠るためでもあるが、日常とは切り離された時間のなかで、いろいろなことを考えるためです。 日本のひとは時間を隙間なく埋めてしまうのが大好きなようにみえる。 「ぎっちりした時間」が出来上がると、ちょっと嬉しそうだ。 逆に午後4時から午後7時まで「なにもない空白」な時間があると、とても不安になったりしそうである。 この3時間を、どうやってすごせばよいだろう。 ほんとうは、3時間も空いてしまったら、大チャンスなのだから、もしきみが海辺の町で仕事をしているのだったら、ベーカリーによってクリーム・バンを買って、コーヒーのボトルをもって、海辺のベンチに歩いておりていって、ぼんやり海を見ているのが良いのです。 ずっと昔のことを考えて、ああ、あんなことあったなあ、と頭の奥のすみっこで曖昧な輪郭をなしている記憶を呼び起こす。 持っているクルマのサードギアがスムースに入らないのはなぜだろうと思う。 自分にはどんな伴侶が向いているのだろう。 SFって読んだことないけどおもしろいのかな。 文明人の特徴というべきか定義というべきかは、まさにこれであって、文明人で精神が健全なら「3時間」などは、そうやってぼんやりものごとを思い浮かべているだけであっというまに経ってしまう。 そうやって3時間を過ごせないで退屈してしまうひと、というのは、それだけ自分の中の文明が破壊されてしまっているのだと思います。 confidenceというものは、いったんなくなってしまったところからは、世界との距離が少しあって、自分を取り巻く世界のさまざまな要因を「世界が動いているのとは異なった時間のなかで」観察し考えてみないと恢復できない性質のものなので、3時間ぼんやりと海が見られないひとには再獲得できない性質のものである。 世界と同じ時間で自分が動いてしまうことを、多分、日本語では「流される」というような言葉で表現するのだと思うが、言い得て妙であって、自己の意識としての時間の流れと世間の時間とが一致してしまえば、「個」というようなものはなくなって、流れのなかで溺れてしまうだけである。 しかし、そんなことを言っても、おれはビンボーヒマナシで時間がないんだよ、というひともいるに違いなくて、実はそれは正しい、というか、経済上は重要なことを示唆している。 「賃金が安い国は賃金が安い国との競争になる」 というのは別に経済の知識がなくても直感的に明らかだと思うが、デジタル製品がその良い例で現代の経済では「ものをつくる」社会は際限のない低価格競争に必ず巻き込まれる。すると必然的にその市場で労働するひとの賃金は安く抑えられ、安い賃金で労働するひとの社会では時間が失われ、confidenceも失われてゆく。 おもいきって高い賃金を支払うことに決めた社会では、通常、知財産業か知識集約型の社会にならざるをえなくなってゆきます。 むかし、工業に職人的要素が残っている頃は、そうでもなかった。 前にも書いたことがあるが、レクサスの熟練工員はボディの表面を手でなぞってみて、ミクロンの単位の凹凸がわかる。 日本と並んで(といっても日本よりはややうまくもちこたえているが)製造業にしがみついて将来を失いつつあるもうひとつの「先進国」であるドイツ人は、さまざまな職人的な工夫によって機械に「文化」をしみこませるのに巧みなので有名である。 … Continue reading

Posted in 十全外人文庫, 日本と日本人, 日本の社会 | 1 Comment