日本語の本を閉じたあとで

ホブソンの丘に登るとラミュエラの向こう側に遙か彼方まで続く海が見える。
わしの好きなランギトト島の優美な稜線も見えます。
ベンチに腰掛けていろいろな事を考える。
人間の頭のなかは散らかった部屋に似ている。
いろいろなものが、たいした脈絡もなくあちこちに分散しておかれている。

空に昼間の月が出ているのを見れば古典物理学の軽い復習をしようとするし、波も同じ。
地球が太陽のまわりをまわるイメージや、モニと自分の事、
昨日、カウチ席でモニとふたりでシャンパンを飲みながら見た「ブラックスワン」は面白かったなあ、ナタリーポートマンが、あんなにちっこいひとだとは知らなかった、
まるで上手なパティシェがつくったお菓子の上の、薄く削られたチョコレートのようだ。
初夏から夏にかけてパリから地中海にくだって、スペインへいって、そこから北欧の友達の家までクルマででかけようと思うが、どういうルートがよいだろうか、
途中で寄りたい田舎の骨董屋がいくつかあるが、まるで一筆書き問題のようである。

…そうやって際限なく考えている。
すべりひゆ(註1)やヒロシ(註2)のマネをして他の言語にギアを変えて考えてみると、同じ事を考えていても全然違うひとになったみたいなのが面白い。
「みたい」でなくて、実際、全然ちがう人です。
日本語は結論にいきつきにくいところが楽しい。堂々めぐりの言葉で、なんだかあてもなく散歩しているような言葉である。
言い切られるのを嫌がる言葉。
なんだか言葉の体系ぜんたいで、「そんなふうに決めちゃわないでよ。このまま曖昧でいたいんだから」と言っているようなところがあります。
壊れてしまいそうに繊細で、滑らかで、柔らかくて、暖かい日の海のようで、女のひとの肉体のような言語である。

この頃は頭のなかで日本語を使わなくなってしまった。
ブログも書かず、メールの返信もほうったらかしで、ツイッタも勉めて書かないと日本語のアカウントに触りさえしなくなってしまった。
わしは習得した技量に関してケチなので、そういう意味で日本語を忘れているの発見すると嫌な気がするが、しかし、人間というのは生きていれば、次から次にいろいろな事を習得してしまうので、さまざまな技量を維持するだけで随分時間をとられてしまう。
その上に、わしは運動キチガイで、最低でもジムで4時間くらいおこもりさんをするか、ランニング20キロ+水泳5キロくらいはやらないと自分の身体が自分のものでないマヌケなものに変わったような気がする。
頭がマヌケなのは許容しても良いが肉体がマヌケになるのは耐え難いので、肉体のほうは常に研鑽されていなければ困るのです。
これはやってみると判るが、ものすごく時間がかかる。

一方では怠け者なので、もうとっくのむかしに使わなくなった「日本語」は、優先順位が下のほうなのでなかなかたどりつかない。
しばらく使わない−>従兄弟と義理叔父に日本語を試される−>おもいきりバカにされる−>頭のなかのアフターバーナーに点火して日本語の古い表現の用法を思い切り研究する−>電話の開口一番、「おれがガメだあああー。文句あるか。ガチョオオオーン」と叫んで、義理叔父が恐れ入って平伏する。
というような肉親との骨肉の死闘を何度繰り返したことだろう。

最近は「日本」というものを考える機会はほぼ経済の事に限られている。
日本語のブログでもツイッタでも何年も前から何度も述べた、日本の経済的な破滅が(信じられないなりゆきだが)避けられない所まできてしまって、時間の問題になってしまったことをよく考える。
日本人自身が、「日本の国債は国内債務だから他の国のように破綻することはない」という驚くべき無責任かつ恥知らずなウソを編み出してまで危機に目をつぶってしまったことで、他の国は、「どうやら日本は本格的に危ないようだ」と考えるに至ったのだが、しかし「他の国」も十分マヌケであって、なぜなら日本の経済の破滅は、先に十分に引き延ばされずに、いま予測されている時期に起きてしまえば、リーマン危機が危機のオモチャに見えるくらい深刻な破滅を世界経済にもたらすはずである。
具体的になぜこういう事態に至ったかというと、たとえば、東京にはもう優秀な特派員は残っていない。
みな北京と上海に行ってしまった。
「日本はもう鎖国した沈みゆく国だから」というので、みなが中国へ名声と昇進を求めて移動してしまた結果、英語世界からみて日本は月の裏側のような場所になってしまっている。
マンガやアニメを中心とした文化、そのなかでも西洋の人間からみると異様で性的な性犯罪すれすれの挑発に満ちた異形の文化側面を報道すれば掲載の機会が増えるので、そういうニュースばかりをおいかける二流三流の記者しか東京の街をめぐることはなくなった。
経済に明るい記者たちが上海で、中国経済の加熱が暴走にかわってゆく様子を活写して本国に送り続けているあいだに、当初は2025年と予想されていた日本経済の破滅は、国民まるごとの殆ど意味をなさないような「危機の否定」(いままでに、これほどヘンな危機への反応を示した国民があっただろうか?)によって立ちすくんでいるあいだに、あっというまに目の前にやってきて、もう、仮に赤字国債法が通らなければ、夏には破滅が始まる、というところまで来てしまった。
世界の人間が見えていないところで、中国経済の暴走どころではない、もっと巨大な危機が現実のものになりつつあるのを英語世界は見過ごしてしまった。
日本への関心そのものがないために、日本への対処が遅れた事情は、要するに1930年代と同じ事です。

それはまた気が向いたときに別のブログで書くだろうが赤字国債法は日本にとっては歴史的な汚点になるはずの法律です。
この、日本を経済的な再起からうんと遠ざけてしまう法律は「世紀の悪法」どころではない、日本にとどめをさすための死刑宣告のような悪法であると思う。
しかし、この悪法が通らなければ、かなり高い確率で、法律の否決を起点として日本の経済的な大崩壊が連続的に、よくて「石が坂を転がり落ちるように」悪ければ地滑りのように一瞬で「デフォルト」に向かうだろう。

将来においては日本の経済破滅がどうやら避けられないようだ、というのは日本の事情に通じる投資家たちには2年前から確信されるに至ったと思うが、これほど急速に事態が悪化するとは誰も思っていなかったに違いない。
2025年、はやくても2020年に崩壊するなら、なんとかリーマン危機程度で衝撃を吸収できるというシナリオであったのが、こういうタイミングになると、周りの世界がまきこまれて他のマーケットも一緒にぶちとぶのは避けられないので、ふつーのひとがアクセス出来る情報でも注意してみていれば、世界全体がインフレ圧力に備えて緊張しているのに気づくに違いない。
日本が破綻すると「円」が紙屑になるのは当たり前として、他の通貨も一挙に価値が低下するのは見えているからです。
同時に諸国家は「食料の確保」にも動き始めている。
金銭で購うもののなかで最も重要なものは食料だからです。
自前の資金で動いている投資家たち(というのはごくわずかな数だが)は資金をコンサーバティブ、しかも貴金属や土地などの「現物」に移行している。

日本語を習得したばかりのときは、わしは能楽の「井筒」やジブリのアニメ、いしいひさいちのマンガや小津安二郎の映画にコーフンして暮らしていた。
おもしれー、と考えながら、夜中のカウチにひとり寝転がって「お茶漬けの味」の佐分利信にしびれたりしていた。
どの言語を習得するときもそうだが、わしは詩のまる暗記から始める習慣なので、岩田宏や西脇順三郎、田村隆一、鮎川信夫、といったひとたちのすぐれた詩を通して、もう「日本語の美しさ」というものを知っていた。
音韻の定型ではなくて、日本語もまた、他の普遍語たる能力をもつ言語と同じに「感情の定型」や日本語でなら「言い当てる」という言葉があらわすような「発見の定型」もちゃん持っていることを知っていた。
ものを書く人ならみな知っている、神様が書く人の手を握られたペンごと鷲摑みにして、まるで自動筆記のように言葉が勝手に思いもかけない行き先にたどり着く、あの成熟した言語だけがもつ能力が日本語にも内在しているのを、わしはもう知っていた、と思います。

そうやって日本語とともに過ごした興奮の日々が、たかが経済破滅くらいのくだらない事件と一緒に衰微して、細くなって、やがて消えてしまう、というのは寂しい気持ちがするが、一面、言語というものは「その国の国民が生きてゆくための頸烈な必死さ」とでもいうべきものの反映なので、国を挙げてスノビッシュになり、衒学的になって、たいして考え抜いてもいない語彙を使って頭のなかでパズルのように組み上げた言葉で人間たちが話すようになってしまえば、言語の生命はそこで終わる、という単純な決まりに順っているだけのことかもしれません。
いわば自分の選択で破滅のドアを開いてしまった日本という国の、ここまでの諸々と一緒に言語を初めとした文化もすべて奈落の闇へと沈んでゆくのは、歴史に照らせば、あたりまえ、というのも馬鹿馬鹿しいほどの成り行きともゆえる。
ここまで日本語という言葉で長々と書かれた本も、わしの頭のなかの書棚に眠っている本のあとに続くのは、同じ日本語と名前がついていても、以前の「日本文学」や「日本文化」をつくりあげた普遍語としての日本語ではなくて、やがては英語に圧倒される地方の方言、しかも、訛り方がひどすぎて他の誰にもわからない方言になってゆくだろう。

ま、仕方がないか、と呟きながら、わしはそっと日本語で書かれた本をひとつずつ棚にもどしてゆく。

寂しいけど。

註1 すべりひゆ portulaca(twitter @portulaca01)

註2 ヒロシ Mark W. Waterman (twitter @Marukusu_hakase)


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2 Responses to 日本語の本を閉じたあとで

  1. つる says:

    はじめまして、おはようございます、ガメさん。
    私はつると申します。

    ツイッター(@papikko2525)からガメさんのblogにたどり着き、読み進む内にガメさんの日本語に対する認識が「!!!」と声にならない声をあげたくなるほど「場所はわかっているのに自分では手が届かない痒いところへ、誰かが孫の手でもってtouchを届けてくれる」ようなリアルさで私に届いたので吃驚しました。

    「中身のある日本語が、内在するモノ」(中身≠内在)に焦点を置ける人は、私の知っている限り私の恩師とガメさんです。

    私はそれをとても大事にしたい。

    なのでもっとガメさんの書くものが読みたいです。
    ガメさんの気づきが、私の中にある「見えていなかったけどあるのを知っていた何か」を、ひとつ、またひとつ、とスポットライトのようにていねいに照らすからです。

    ガメさんは物書きさんなのですか?
    もし、紙媒体でガメさんのモノが読めるとしたら、どんなものがあるか、お手隙の時間があれば、教えて頂けますと幸いです。

    (この日付の記事にコメントして、ガメさんが気づいて下さればよいとおもいつつ…)

  2. つるさん、

    >ツイッター(@papikko2525)からガメさんのblogにたどり着き

    ここに並んでいるやる気のない文章よりも「十全外人文庫」という検索語でクソはてなのサイトに行くと、もう少しやる気があった頃の文章がならんでいます。

    >ガメさんは物書きさんなのですか?

    うんにゃ。
    わしはプーで、冷菜凍死家で、ぜんぜんガッコにゆかない某科学人です。
    プログラム言語や数学語もふくめて言語に興味がありますが、興味の順番としても十番目くらい。
    起きては一日世の中の役には絶対にたたないことをやって、満足して寝る、というのが通常の一日ですのい。
    これをつづめていうと「無用の人」です。
    いろいろな目的で一生を送る人がいますが、わしは、この世には遊びに来ただけです。

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