最後の特例公債法案


今度の国会の常会では外国人たちも注視している法案がひとつある。
来期予算を組むための「特例公債法案」がそれで、日本という国全体がカミカゼ予算に踏み込むかどうか、という瀬戸際である、と認識されている。
貧すれば鈍す、という。
恒産なくして恒心なし、ちゅう言葉もあるな。
眺めていると、日本の経済政策を決定するひとびとは正気を失いつつあるように見えます。

この選択は、傍からみていると、結局、「長期的に最悪の選択」か「短期的に最悪の選択」かどちらかを選ばなければいけない、という選択になっている。
今度はもうあんまりだから特例公債法案を通さない、という決心を日本がすれば、次には相当高い確率で経済の大崩壊が待っている。
ツイッタで書いた吉野屋の牛丼が24000円、という世界も夢ではない。
円は紙屑、現金資産は「チャラ」で、年金生活、などというものは戯れ物語の一種になりはてるだろう。
政府がテレビキャンペーンまでして固く約束した年金が定額通り支払われて、老人たちは、その10万円でマルボロを二箱買って一日に3本づつ喫って暮らす、というふうになる可能性が高い。
あんなにたくさんの「有識者」が笑って否定したデフォルトがなぜ起きたか、について議論することにもなるやもしれません。

デフォルトなんか起きるわけない、とさんざん屁理屈をこねた彼らに怒ってはいけない。「専門家」というものは人間はどんなに悲惨な事件でも現実に起きてしまえば意外に「馴れ」て、平気になってしまう、という事実に拠って生きている。
焼け跡の掘っ立て小屋でもひとは「豊かな生活」を送りえたのです。

ツイッタでも書いたが、国債の投げ売りが始まった場合、日本は要するに「巨大姥捨山」になるだろう。若い人間はもともと殆どのひとが経済的には「自分の身ひとつの生産性」によって生活を作っているのでたいした影響はないはずである。
給料とスーパーマーケットの棚の商品の両方ともにゼロがふたつつくだけのことです。
社会がリセットされて団塊世代中心に偏在していた富の偏りがなくなり、戦後と同じで、激しい変化の勢いでふっとばされてしまう旧社会のさまざまな抑圧が消滅することを考えると、返って良い事態、とさえ言えるかもしれません。

年寄りは、そうはいかない。
わしが最後に日本に滞在していたときには60代以上の人間に富が偏在していて、20代の人間が貧困に喘いでいるのが話題になっていたが、経済破滅が起これば、話はまったく逆になる。
経済的にももちろん破滅だが、それ以上に、日本が生産性を回復する過程で生じる「競争優先」の「勝者と敗者がくっきりと存在する」世界と、それに伴って常に発生する、競争に適応できない十代の人間の暴力化や社会全体の刺々しい雰囲気に「外に出るにも足が竦む」ような気持ちになるに違いない。
わしは、いままでの日本の歴史のところどころに見られたような老人たちに対する
労りや救済の試みは今度は起こらないと思っています。
姥捨山は自ら進んで自分を山に捨てることを命じた老母の話だったが、今度やってくる姥捨山は、若い世代が老人の苦悶を見て見ぬふりをする「姥捨山」になると思われる。
社会全体が老人の貧困の問題など存在しないかのように振る舞って終わりでしょう。

一方では、「特例公債法案」が可決されれば、それは日本の経済破滅を、よりゆっくり、しかしより深刻な再建不能なものにすることになる。
特例、という年次更新の暫定法を毎年更新することは日本では慣例化しているからです。
すでに機能しなくなっている社会構造や産業構造を、屋上に屋を架し弥縫に弥縫を重ねて2年しかもたないものを10年にのばし、歴史に絶対に残るに違いない無意味に膨張した借金を抱えて、最大2020年頃まで必死に破滅の瞬間をのばすことになる。
その場合は、日本という巨大な船がゆっくりゆっくり傾いて、バランスを失って横転した瞬間に世界中の国が少しでも自国の利益になりそうなものを分け取りにするであろう。
多分、日本には国家としての経済的再生の余地は残されないだろうと思います。
これは考えてみるとすごいことで、日本という国を「消滅してもよい」と経済家たちが考えたのは20世紀にはいってからは一度もない。
規模の小さな、先進国を夢見る田舎国家であった明治時代でも、1945年に焦土と化したときでも、「日本という国がなくなってもよい」という前提で世界経済が考えられたことはなかった。
まして、明治日本などとはまるで異なる、世界経済と密接に結びついたいまの巨大な日本経済を世界から切り離す、というのは夢物語のような作業です。
しかし、世界は明らかに、日本のビジネス主体の海外移転と、いまはまだ小規模だが日本が弱体化するにつれて大規模になるであろう生産性のある日本企業の買収によって、日本の経済破滅の影響を軽減しようと努めているように見えます。

去年オーストラリア人のおっちゃんと話したときには、おっちゃんはすでに、「70年代日本の『豪州姥捨て山化計画』再現を阻止しないとわしらが国の社会保障プランが崩壊する」といって警戒していた。
むかし、日本の政府が音頭をとって、日本の老人たちを大量にオーストラリアに移住させようとしたことがある。
そのときのオーストラリア国会の大騒ぎは、いまでもあの年齢のひとたちにとっては記憶に残っている。

日本人にとっては可決否決どちらでも厄災というしかないが、よその国からみると、否決のほうが影響が大きいので、「それだけは勘弁してくれ」とみなが考えている。
日本がたとえばデフォルトに陥ってしまえば、リーマン危機どころではない丁度大隕石が経済市場に衝突したようなパニックになってしまう。
中国の地方やアフリカをはじめとする途上国では餓死者が大量に発生して、世界経済が20年ほども停滞する可能性がある。
日本のひとは自国の経済のことになると奇妙に過小評価したがる不思議な癖があるが、日本の経済はこれを地球上の陸地のおおきさに翻訳すると南北アメリカ大陸をあわせたくらいの大きさがある。
それが突然崩落してマグマのなかに消えてしまえば、ツナミくらいですむわけはない。
それほどの巨大な危機が迫っているのに、どうして海外のエコノミストたちが、比較的のんびり構えているかというと「日本のことは言わぬが花」ということになっているからでしょう。
日本経済について云々すると、自分のキャリアにとって、ろくなことがない、という気持ちがある。
他の市場に較べて、「よくわからない」から、とゆってもいいかもしれません。
なんだかバカっぽい理由だが。

世界の経済は目下ぐらぐらもいいところで、ドミノで高層ビルをつくるとこうなるんちゃうか、というようなていたらくです。
いまだに崩れないのは神秘的である。
長いあいだ「よく判らねえええー」とみなを悩ませていた中国の保守派と軍部の圧倒的な権力の伸長は、どうやら中央政府が地方政府に対するコントロールを失っていることにあることが判ってきた。
「もっと強面でいかんかい」ということのようです。
経済においても中央の経済エリートがいかに、ああしてね、こうしてね、と地方に通達しても、どうやら全然まもっていないよーだ。

中国という国は実際の数字が見えない国なので、どのくらいひどいのかは判らないが、誰が観察しても公表されているインフレーション率は「目安」あるいは「希望値」みたいなものであるらしい。

欧州も件の「ペナルティ規定」以来、ドイツですら手を染めるに至った統計の改竄でごまかしまくっているが、インデックスはそれですらボロボロで、そのうちにはイタリア人の勘定書もスペイン人の勘定書もフランス人の勘定書も全部払わされることになるのではないか、とドイツ人は怖れている。

ここで日本がおおごけにこけたら、「全部、日本が悪いんじゃ、ボケ」ですまそうという考えもあるようだが、日本にあるものもないものも責任を押しつけるだけの経済的余裕が自分達に残っているというのは妄想なのではなかろうか。
日本の現在の、この瞬間の、経済の巨大さがうまく把握できていないような気がします。

日本は、ぼおおおー、として、小沢があああー、とか尖閣があああー、沖縄がああああー、といまの内閣を構成するひとたちの若いときからの趣味に適っている問題にばかりかまけているあいだに、最も肝要に決まっている経済のほうは、「解決策」というものがなくなってしまった。
緩慢で致命的な破滅か、回復可能(わしは急速な経済破滅が起きた場合、日本はほぼ5年で回復すると思っています)だが破壊的な破滅か、結局、ふたつにひとつしか選択がなくなってしまった。

両方とも、どこかの時点では簡単に言って「札(紙幣)をいっぱいすりまくる」という解決しかないだろうが、札をすって解決に向かう経済局面というのは(あたりまえだが)「先に刷ったやつの勝ち」である。
合衆国は、そういうことは定石として知っている人間が経済の中枢に座っているので素早かった。(素早すぎて印刷を間違えて「北朝鮮に印刷を頼め」とUK人に揶揄かわれていたが)

しかも、これもツイッタで書いたが、日本で札をすりまくるときには、自国のひとりひとりの国民に損を全部おっかぶせることになるが、合衆国が札を刷りまくることによって出来る巨大な損失は中国や日本やアラブ諸国がかぶったことになる。
札をするのが5年遅れれば、倍も札を刷らなければならなくなるかもしれないので、案外、そういう点でも予算を組むのに失敗して、おっちゃぶれてしまったほうが、(国民性からしても)話が早いのかもしれません。

またあの「国民のみなさんにも『痛み』を分け合っていただく」とか「骨太」とかの下品な日本語を日本人は聞かされることになるだろうが、もう方策がなくなっているのは事実なので、使う言葉が下品なだけで、ほんとうにそれしかない。

ともかく、法案可決の成否を、チップスでも食べながら眺めることにしましょう。

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2 Responses to 最後の特例公債法案

  1. salubri says:

    ガメさん、こんばんは。
    ガメさんがとても好きだと言うので、以前小津映画をいくつか借りて見てみた事を思い出します。私にとっては胸に迫るような、ひどく切ない感じがしました。映画の中に漂っている空気や人のあり方を見ていると、自分の親やそれ以上の世代の親戚達を思い出すのです。出身も階層も違うし、家の中で着物も着てませんでしたけど、雰囲気が凄く共通していて。人のみならず、かつて盆や正月を過ごした帰省先の風景も、もう完全に失われる瀬戸際にあるんだという気が無性にして、何だか泣きたくなります。一人で歩いた田んぼのあぜ道も小さな橋も、石が沢山積み上がった川べりも舗装されてない道も、人がいなくなったら維持されないでしょう。寂しい。
    私の親やその周りの人々は、飢えや貧困から逃げ切ることができるだろうか。
    自分には何もできることが無いような気がしてきます。

    一度壊れたら壊れたで、そこまで絶望的な事態には案外ならないのかもしれません。
    私は小学校低学年の時に、子どもだけでバスや飛行機に乗って親戚を訪ねたことがあります。今は絶対に出来ませんよね。仮に虐待と見做されなかったとしても、人の心に見守る余裕が無ければ無理でしょう。しかし日本に流れている時間がまともになれば、皆が嘘みたいに人間らしくなるかもしれない。田舎の親や親戚達と会うと、まず一番に言葉と思考のリズムが全く違うのを感じるのです。
    過去ばかり見つめていても仕方無いし、自分に変えられない事を思い悩むのは基本的に時間の無駄です。腹をくくって立ち向かうしかありませんね。

  2. salubri どん、

    >しかし日本に流れている時間がまともになれば、皆が嘘みたいに人間らしくなるかもしれない。

    日本では「塾」が、まあいいや、ということになって蔓延しているが、往々にして子供に対する性犯罪も生むという無資格教師に子供の教育の過半を委ねている上に子供から時間を強奪しているのが、いまの日本の頽廃の真因ではないか、と思う事があります。

    韓国人の友達に訊くと、塾がダメになって、その上に子供の教育をごく早くから英語圏で行うようになって韓国人は目覚めたのだ、という。
    ほんとうにそうなのかどうか皆目わかりませんが、韓国人たちが合衆国やニュージーランドに来てのんびり育つと、ものすごい能力を発揮しだすのは事実であるように見える。
    「時間の余裕」と「空間の余裕」は、わしらが考えるよりも遙かに大きい影響を人間の形成に与えるのかも知れませんのい。

    >以前小津映画をいくつか借りて見てみた事を思い出します。

    わしはいまでも夜中に眠れなかったりすると、小津の映画をみる。
    見ているうちに、あの会話そのものが日本の「手を触れられる実体」であるような気がして、なんだか感動して泣けてしまいますのい。
    インドのミラネアもそうだが、あんまり考えなくても自分の社会の文化の神髄が感得されてしまう、という人達がこの世界には存在するよーだ。

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