Monthly Archives: April 2011

ベンキョーしよう

ロックバンドでねーちんたちにきゃあきゃあゆわれながら人生を過ごす、という手堅い人生の計画をあきらめたのは妹の陰謀だった。 わしをバンド仲間から引き離してあんないけないことやこんないけないことから遠ざけてしまった妹の悪辣な知恵についてはいつかは述べることがあるであろう。 いざ、あんないけないことやこんないけないことが一挙に生活から消滅してしまうと、わしはひどく退屈せねばならなかった。 大学と名の付くものに入るには、まだ間があるはずだったが、わしが生まれて育った国は日本のような工業規格品みたいな国とは違って途方もなくええかげんな国なので、 大学の片隅でしょぼしょぼベンキョーしてもよいことになった。 そこはえらそーで自分は頭が良いと思い込んでいるバカたれがたくさんいる気取り屋の収容所のようなところであって、そもそも収容所そのものに気が遠くなるくらいオバカな細かい規則が網の目のように張り巡らされていてくだらなかったが、それなりに良い所もあったと認めねばならない。 よくないところは、集まっている基地外の諸君が、それまでバンドの形で集合していた基地外とタイプが異なって「遊ぶ」ということにかけては、不細工というか粗野というか、オモロイことが何も出来ないひとびとだったことで、仕方がないから、わしはベンキョーをしようと考えた。 ベンキョーするに際して考慮したことは「向こう500年間に役に立つようなことはベンキョーしない」ということであって、わしは役に立つということが頭から嫌いなので、たとえば頭に「応用」がつくような学問や工学のようなものはとんでもない、と考えた。 いま考えてみると新しい画材・色彩を発明するとか世にも妙なる響きをもつ楽器を考案するとか音響学の奥義を究めるとか工学でも、役立たずの道を囂々と邁進する王道を歩くことも出来たわけだが十代後半のバカガキの頭では、そんな賢い考えは浮かばなかった。 西欧文学をやるのにラテン語が出来ないのでは、階級が下から3番目くらいの序列も知能も低い悪魔でも腹を抱えて笑うだろう。 それも、えーと、えーと、コーギートー、エルゴー、うーんと、スムなんちゅう調子ではダメであって、トマス・モアの一節くらいはカッチョヨク暗唱できるのでなければならない。近代ラテン語は、わしのボロ高校でも英語の時間にやらされるくらいで、差別がはかれないので、文学的教養とか文学的素養とか現代における死語を口走るには、せめて古典ラテン語が出来なくてはダメである。 実際近代ラテン語とそれから派生する諸方言が判らなければ、気取り屋のボストン人が書いた詩ひとつちゃんと読めやしない。  どうようにして科学では数学が出来なければダメである。 世の中には生物系という数学がまるで出来なくてもやれるとされる科学もなくはないが、あれは実は生物というものが(ぴー)…(この部分は良心による検閲の結果削除されました) わしは、どのくらい、ということはないが数学はだからよくやった。 数学者になろうと思ったわけではない。 どちらかというと言語を学習するようにやったのだと思います。 ひとりで机に向かって、というようなことはあまりやらなくて、気の合う友だちとビールをちびちび飲みながら、議論しながらやることが多かった。 そんなバカな、ひとりでやるのでなければ集中できないではないか、と日本のひとならば言いそうだが、慣れればこっちのやりかたのほうが遙かに数学がうまくなる。 輝く偽善のワタミ学術用語を用いれば、おすすめであります。 あるとき妹が妙に深刻な顔をして、わしの部屋にあらわれたことがあって、「おにーちゃん、わたし、このあいだ行ったKのパーティで…あのときよ、きっと…子供ができちゃったの! わたしの人生なんか、もう終わりだわ!」 ちゅうことかな、けけけ、無学者め、マジメな人間が羽目を外すと地獄の門がひらきやすい、という聖書の文句を知らんのか、この世にマジメな人間が破滅するということほどドラマ性があって楽しいことはなかりけりと喜んだが、そうではないのであった。 ベンキョーは、なんのためにすると思うか、という。 (く、くだらん) (全然、悲劇性というものがないやん) (だから優等生て嫌いなのよ) わしが「単位時間あたりの収入を上げるためであろうの」というと マジメに答えないと兄妹の縁を切るという。 ほんとうに縁を切ってくれたら欣喜雀躍だが、これまでの行動に鑑みて妹がそんな好条件で縁を切ってくれるわけがないので、ちょっと考えてみたことがある。 T先生と、わしは散歩するのが好きであった。 秋の丘陵をT先生と散歩していると、わしのパーな頭ではただの「森」なのが、先生の眼には高解像度の自然が鮮明に映っているのであってCGAとUXGAくらい違う。 夜になって「天上の無数の星」というようなことをわしが口走ると、先生はにやにや笑いながら、空に見えている星は空気が完全に澄んでいても5000もないよ、という。 一枚の葉をとりあげて、それから判ることを延々と述べてきかせる。 人間実践検索図鑑みたいなひとである。 先生とわしは同じ世界を見ているのに、そこから得ている情報は虫と神様ほども違うのであって、わしは教育というものなしでは人間というものはただの性能の悪い粗雑な認識装置にしか過ぎないことをよく思った。 勉強しても人間は向上したりはしない。 わしの行った大学は世界でも指折りのカッチョイイ大学ということになっているが、 そこに滞留している阿片崫の住人たちの頭のわるさを観察すれば、そのくらいのことは考えなくてもわかる。 しかし、その頭の悪い住人たちは話をしてみると判ることは、底抜けに愉快で、なによりも認識している世界が精細で豊穣である。 思い込みが少なくて、依拠している現実の有効数字の桁が多い。 … Continue reading

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友だち

誰が友だちでそうでないかというようなことを考える習慣がわしにはない。 他のこととおなじでテキトーなんです。 嫌いなひとがまわりをうろうろするのは嫌なので、「きみは嫌いです」ということははっきり言う。 きみの存在にも興味がないから、わしに近寄らないでね、とちゃんとお願いする。 本人が楽しいひとでも、くだらないお友達がまわりにくっついているひとも、わしの半径100メートルによっちゃいやよ、と丁寧に依頼します。 まともな人間なら、そうゆっているのにわしに近づいたら殴られるくらいのことはわかるであろう。 わし、元ヘビー級拳闘人(アマチュアだけどね)ですけん。 なぐられると痛いねん。 友だちは数が少なければ少ないほどよい、というのは考えてみれば当然のことである。 それを当然だと思わない人は、ようするにまだ友だちというものがいないのだと思われる。 わしは最小友人主義(ヘンな「主義」だのい)だが、世の中には良い人間であってしかも付き合って愉快なひとというのはうようよいるので、どうしても数が増えてしまう。 友人からそうでないかというような選定をする習慣はなくても、あるとき、ふと気がつくと、このひとって、わしのお友達なのね、と考える瞬間がやってくる。 そうやって出来たお友達と、鳥居坂をあがり芋洗い坂の途中のバーのテーブルに腰掛けて、のんびりグラッパを飲みながら雲量定数の決まりかたや、マクベスを待っていた運命や、ラシーヌの台詞や、あるいは能楽の卒塔婆小町の歩き方のまねをして遊んだりするのは楽しいものである。 あるいはセブンダイアルズのバーで同世代同国語の友だちとあえば、英語のクラスであるのにラテン語ばかりやらされた怨恨の精算や、ボートを漕ぐアホ歌、天井の低いクラブや、蛎殻がつまれた路地、結局ホテルの建物を半分ぶちこわしてしまった旅行のことを話し合って暗然とする。 つまりは他の誰が聴いてもなんのこっちゃわけのわからない話をひそひそとして、くっくっくっと、もうすぐ窒息死しそうな忍び笑いをもらして苦しがっているわけで、苦しがるためにわざわざでかけてきてオカネを使うなんて、ほんまにアホなひとびとである。 英語と欧州語の世界ではドアをノックしてはいってくる友だちが多いが、日本語でも手足のついたたいていはおっちゃんたちの友だちも多くても、重要度はネットの友だちのほうにあるようだ。 名前を挙げるのはいくらなんでも下品だからやらないが、わしがいまでもこうして日本語を書いているのは、むかしむかしから付き合いのあるほんの数人のネットの友だちがいるからであって他には理由がない。 「見聞を広げる」とか「知識を拡大する」とかな自己の向上みたいなことにはわしはまったく興味がないので、そういうこととはもちろん関係がない。 どちらかと言えば、これだけ悪意に満ちて冷酷な「世界」というものに取り巻かれながら、淡々とごく自然に善意だけで生活してゆける人々が、ネットの向こうという、そもそもほんとうにいるんだかいないんだかもはっきりしなかったはずの相手に向かって、辛抱強くあきらめもしないで、手をさしだして触れあおうと考えられる「人間」というものの不思議さに驚いたまま、ここに来てしまったのであるに違いない。 ブブリキやNasuやjosicoはんが友だちでいようとしてくれた頃のわしは、画面の「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているゲーム廃人のどーしよーもないひとであった。 実はそれはブログを書いていた少し前のわしの姿の一部であって、そのうちめんどくさくなってだんだん正体をあらわしてしまったが、友だちというものはそういうものであって、わしがほんとうはいまだに本質的には「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているだけのバカタレなのを、ちゃんと知っているのです。 モニというひとがひたすらわしを救済しているだけであって、わしのバカタレぶりは、なんも変わってひん。 友だちというものは、別に決めなくても、もう見た瞬間から「あっ、このひとは友だちなのだな」と判る。 むかしブブリキが「あなたはわたしを嫌いなようですが」と書いてきた手紙をわしはいまでも大事にとってある。 わしのほうはブブリキはわしじゃけん、と思っていたので、びっくりするような、ははは、やっぱりわしだし、と思うような、ヘンな気持ちでその手紙を、ほとんど懐かしいような気持ちで読んだ。 もちろんjosicoはんの神棚にあげて毎日柏手をうちたいくらいの、人間の勇気に満ちた、カッチョイイ手紙も大事にとって繰り返して読みます。 こんなひとびとが、わしにとってはもともとは読めてるんだか読めてないんだかもよく判らない言葉のネットの向こうの、そのまたなんだかよくわからない曖昧な経緯のところにまで何人もいるのでは、友だちの数が計画経済通り、ちゃんと減少してくれるわけもない。 世の中というのはまことに無茶苦茶な場所です。 友だちになってしまいそうな上に、おまけにマジなひとびとであって、テキトーですテキトー、袖がすりあっても多少しかない縁とゆってすれ違うだけですまなさそうなので、このひとびとともっと話をしてみたいという自分の気持ちに対する虚しい抵抗を繰り返していたが、ジュラさんと優さんというひとが「友だち」という言葉を思い浮かべると、自動的に頭に浮かぶようになってしまって困っているが、それも仕方がないのだろう、という実はただそれだけのことを書くために、これを記事にしてしまったが、しまりもまとまりもないままモニさんが遊びにいこうとゆいにきた(いつのまに起きたのだろう)ので、 もう出かけます。 でわ

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遊ぼう

モニが、知的なハンサムでそのうえいまどき珍しい温厚で成熟した人格のその青年(わしのことね)と結婚して最も衝撃をうけたのは、わしが、結婚するまえにさんざん聞かされたナマケモノで何もしない人間だという誇張された悪い噂よりも現実はもっとものすごく何もしない人間で、およそ「労働」とかは、けけけ、と笑って鼻紙にして捨てる程度の興味しかもっていない、という事実を発見したことだったそうである。 ほんとうだとしたら、とんでもないやつだ。 ほんとうだけどね。 ほんにんがいうのだからまちがいはない。 朝、とゆってもたいてい午後一時くらいだが起きてくると、まっすぐラウンジのコーヒーテーブルに行ってMBP(MacBookパワーの事です。略するとカッコイイので略しているのね)を開けて黙って静かにブラウザを眺めている。 途中でたっていって、ものすごい集中力で淹れたコーヒーをモニのいる寝室にもっていってから、自分の机にもおく。 おもむろにコーヒーを飲みながら、 「今日はモニさんとビレッジのシシュアンに行くし」と考えます。 今週はダンダンミー(担々麺)を研究しているからで、めぼしい四川料理屋を発見してはあんまし中華料理が好きではないが四川料理だけはおいしいと思う事があるモニをひきずってゆく。 四川人が集まる店は、辛いだけであまりおいしくないようだ。 マレーヒルの日本人がいっぱいいる店は、胡麻の使い方が上手でうまい。 グランドシシュアンのチェーンも安い割においしいのだとゆわれている。 日本の担々麺は麵がスープに入浴しているが、NYCで中国人たちのつくる担々麺は一見素のままの麵にほうれん草と豚の挽肉がのってその上にトングが載って出てくる。 「丼」の半分くらいの大きさの鉢の下には、それが勝負所であるらしき、胡麻油とチリ油が混ざった油たれのようなものが沈潜していて、トングを使って、ぐあっとへっくりかえすといきなり辣油まみれになってところどころに件の豚挽肉がへばりついた混ざりものが出来上がるので、スパゲティと同じ要領でくるくるぱくりと食べます。 うめーんだよ。 なんど食べても不味いのかうまいのか判らなくて、いったいどっちなんだはっきりしろよな、と思いながら中華料理がそれほど好きとはゆえないわしが何度も食べてしまうのだから、きっとおいしいのだと思う。 高級店で食べても5ドルだし。 オークランドはNYCなど全然問題にならないくらいの割合で四川人が蟠踞しているが、四川料理屋に行くとニューヨークとは違って麵がスープに入浴しているのや、スープがないのや、これでもかこれでもかと豚挽肉が載っているのや担々麺って菜食麵ちゃうの?ちゅう感じのや、いろいろあるので、ああいう担々麺はNYCスタイルであるらしいが、いま思い出したが、わしは担々麺の話をしていたんじゃないやん。 閑話休題 モニは、わしが真剣な顔をして何か考えているときは決まって次の食事に何を食べるかということを考えているときだ、といって笑う。 そんなことはなくて、モニが考えるよりも遙かに計画性に富んだ知性の持ち主であるわしは次の次のご飯を考えているときもよくあるのだが、脳が溶けた鷹は爪がマニキュアで光るという。 マリファナくらいなら良いがトルエンは大脳が器質的に溶けてしまうので気をつけましょう。 次の食事のことを考えていることにしておいても良いと思う。 モニがでかける仕度をしているあいだに、わしは昨日の晩につくったバチャータの旋律にあわせて机の下の足でステップを踏みながら、ソリシタ(UK)やロイヤ(米)が書いた法律上のやりとりのメールを読みます。 表計算のシートも広がっている。 これは日本語のブログであって、まさかわしが日本語でこんなことをしてるなんて思う奴は、わしの手下(てか)にはひとりもおらないだろうからヘーキで書くと、わしが見ているシートにはずいぶんヘンなものもあって、わしはそういう些事シートを眺めて電気代の推移で事業に関する社長たちやマネージャーたちのウソを知っていたりする。 吝嗇な冷菜凍死家というのはこわいのよ。 バチャータはおもろい音楽で、なんでもかんでもバチャータに出来る。 「はるばるきたぜ函館へ」だってバチャータに出来ます。 あのひとも山口組の衆のまえで鼻をふくらませてないで、親分衆を舞台にあげてみなでラインを組んでバチャータを踊ればいいのい。 暴力団もいつまでも「伝統」にばかり頼っていては闇の組織になってしまうのではないか。 …あれは初めから闇の組織がバッジつけてえばっているのか。 若いマジメなお坊さんが、土地の有力者に無理強いされてつきあわされた売春宿の宴会で、ああ惨めなことになった、こんなことにつきあわされてしまって神様になんとゆって申し訳をすればいいだろうと唇をかみしめていると、 目の前で踊っていた白拍子が突然菩薩の姿に変化して、それまでの今様(いまよう)も唱和される経文に変わって、まばゆいばかりの光のなかの菩薩が、「悩まなくてもよいのです。わたしがあなたをゆるしてあげましょう」という。 わしは、あの日本の昔の説話が大好きだが、「遊ぶ」ということには神聖性がある、とわしは思う。 ホイジンガやカイヨワはマジメな秀才にしか過ぎなかったのでどうしても「遊び」に意味をみいださなければならなかったが、それでは「遊び」というものの本来の価値は見失われてしまうのではなかろうか。 意味は病気のようなもので、いちどものごとに意味をみいだしてしまうと、それは壁にも道路の表面にも水や空気にさえべったりとくっついて離れない。 病状がすすむと意味を呼吸するようにさえなります。 動物の進化をみてさえ「適者が生存したのだ」といいだす。 猿はもしかしたら、あるとき突然ただおったってしまったのではないか、と考えるのは適者生存の理屈を思いついたあとでは大変なのです。 … Continue reading

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ノーマッド日記6

ノーマッド日記6 1 アメリカのコーヒーは薄くて不味い。 むかしから不味いが、むかしのアメリカ式「レギュラーコーヒー」が廃れて、欧州式の抽出コーヒーが主流になっても、まだ同じように不味いのが不思議です。 モニとわしはマンハッタンでは用心して知らないところではコーヒーを飲まないようにしている。 マンハッタンでは、実は「紅茶」が大流行(おおはやり)に流行っているが、コーヒーで猜疑の念を深くしているわしはアメリカものの「紅茶店」にはまだいちども行ったことがない。 カプチーノなどダブルショットにしてもらっても薄くて不味くて飲めないので、おいしいコーヒーが飲みたいときにはスペイン語しか通じないレストランやイタリア語なまりになまっていて、なにゆってるのかよくわからないねーちんたちがやっているピザ店とかに行く。 なまなかなコーヒー屋へ行くより、そっちのほうが遙かにおいしい。 わしがよく行くイタリア屋さんはヘンで、カップを抽出機の下に置いて「Say when!」という。 なんのこっちゃと思いながら、あれがまともなコーヒーなら、このくらい飲みたいというところで「When」というと、ニカッと笑ってコーヒーカップを渡してくれる。 どうやって計算するのだろうと訝っていると、なんのことはない、案ずるより産むのは痛い、最小量一杯のコーヒーと値段は同じです。 わしは、とてもとてもケチなので、こういう事に遭遇するとカンドーしてしまう。 これからはビレッジでコーヒーを飲むときにはここに限るべ、と考えました。 コーヒーを飲むには甘いものが一緒でなければならないが、合衆国にはわしの大好きな「アフガン」がないのだね。 次点はブラウニーなので、ブラウニーにヨーグルトを添えてもらって、ついでに(合衆国はカップケーキがおいしい国なので)デビル・カップケーキという恐ろしげな名前のカップケーキをつけてもらう。 カップケーキからチョコレートクリームが滴っているという見るからに凶悪なケーキです。 ケーキというものは、こうでなくてはならぬ。 モニはトリュフ一個だけでコーヒーを飲んでいる。 モニという人は自分のことについては悩んでばかりいるのに、世の中のことには不思議なくらい文句をゆわないひとで、考えてみれば、わしの百倍は合衆国のコーヒーにもチーズにも文句があるはずなのに、なんだか普通に口に運んでいる。 ときどき、わしが不味いブラウニーに頭にきて、手のなかでぐちゃぐちゃにして皿のなかに粉砕して埋葬したりするのを胸の下に手をあてて、大笑いしてみたりしている。 ガメは、子供みたいだな、と失礼なことを言う。 結婚相手をうまくひきあてた人は自分はこのひとに会わなかったら、いったいどうなっていただろう、と訝るというが、あれはまことに本当の話であって、わしなどはモニと結婚していなければ、世界に対して、もっと悪い事には自分に対しても不満であったことだろう。 どうしてモニに会えて、まして一緒に暮らすことになったのか判らないが、 危ないところであった。 なにが危ないかって? それがいわくいいがたいところに「結婚」というしょうもない性的結合という身も蓋もない結びつきを前提にしたダッサイ社会制度がいまに生き延びている理由があるのだと思います。 2 英語世界では人前で泣くことは礼儀に反している。 生の感情をみせることは、英語の世界では、たいへん見苦しいことであって、オランダの人とかはそういうことに慣れていないので英語世界では思わぬ軽蔑を買う。 でもマンハッタンは大きな都会なので、頭上の天井高くシャンデリアが輝いている「一流料理屋」でも、ときどき泣いているひとを見る事がある。 言い切る自信はないが、ロンドンでは考えられない。 知らない人もいるのかも知れないが、連合王国は階級社会なので平気で、そういう言い方をすると中流階級以上の人間がレストランのような場所で泣くなどということは絶対に考えられない。 それはゆってみれば、レストランの椅子の上で性交に及んでいるようなものであって、たいへん異様なことです。 でもマンハッタンはアメリカという不思議な国の都会なので、泣いている人がいる。 モニとわしはアップタウンのレストランで、その泣いている美しい人をみていた。 身なりの良いアフリカンアメリカンの男と向かい合って食事をしていた、そのひとはいかにも暖かな感じのする明るい灰色の目からみるみる涙をあふれさせて泣いていた。 モニは、そういうマジメな人なので、食欲をなくしてしまって泣いている女の人が座っているテーブルをちらちら見ている。 わしはミントソースのかかったラムのあしをつつきながら、もれきこえてくる単語を拾っている。 男のほうが、自分はあなたを心から愛しているが、われわれが属しているコミュニティは違いすぎる、自分にはとてもやってゆく自信がない、とゆっている。 … Continue reading

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1 マンハッタンは、多分、世界一安全な都会であると思う。 いまちょっとインターネットを眺めてみると、治安はジュリアー二市長時代によくなったとどの記事にも書かれているが、ニューヨーク人にはまた違う意見があって、だいたいのひとはみな「コッチのおかげでよくなった」という。 わしが初めてかーちゃんにつれられてマンハッタンにやってきたころは、ガキの目で見ても滅茶苦茶な都会であって、見るからに危なかった。 7th Aveにすら「危ないブロック」というのがまだちゃんとあって、そこのブロックにさしかかるとおとなどもも道を渡って反対側に行く。 建物の近くを歩くとひきこまれて危ないから、といわれて建物から離れて歩かなければならないところも多かった。 その頃は、だから移動するのもほとんどはリムジンであって、子供心にも「なんだかサファリパークみたいだ」と思ったりしたのをおぼえている。 それがみるまに治安がよくなっていって、毎年毎年、くるたびに見て判るほど安全な街になっていった。 ひとつにはジュリアー二市長の時代には、まさかこんなに、と思うくらい大量に警官が街角に立っていて、その頃はもう高校生になっていたわしが見て、誰かが何か悪い事をしようと思っても、街の角角にフットボールチームくらいの数の警官がまとめて立っているのでは悪い事のやりようがない、と考えて可笑しかったりしたものだった。 それからいままでの十年間、マンハッタンはわしにとっては「最も楽しい都会」「最も安全な都会」で、要は、砂場のようなものだった。 大学生になると、ひとりでも合衆国によくやってくるようになったが、アトランタ、シカゴ、と他にも好きな街があっても、マンハッタンだけはいつも「別格」であったような気がする。 2 むかしから、このブログを読んでいる人は知っているが、わしには子供の頃もうひとつ好きな都会があって、それが「東京」という街だった。 お世辞にもカッコイイ街並みではなかったが、わしは東京という街の猥雑で雑然としていて田舎じみているのに洗練された細部がある、その混沌とした感じが好きだった。 多分6歳くらいのときだと思うが、ストップオーバーで寄った東京の夜景があまりに壮大で綺麗だったので妹とふたりで空港シャトルの冷たい窓に顔をくっつけて、くっつけすぎて鼻をふたりで豚鼻にしながら、すげえー、と思ったのをおぼえている。 いま考えてみると箱崎のあたりを通っていたのだと思うが、ちゃんとは憶えていない。 それが東京との出会いであって、ニュージーランドやロンドンで何度もあったことがある、妙に機嫌のよいおじさんであった義理叔父の出身の街が、こんなに自分の人生と大きく関わるようになるとは、その頃はまだよく判っていなかった。 たとえば、ラーメンという食べ物がある。 わしはいまでも、あんまりこの食べ物が好きではないが、マンハッタンでもっとも麵類がおいしいということになっているモットストリートの何軒かの上海・香港料理屋でだす麵より、東京の「ラーメン」のほうがおいしいくらいのことは、わしにも簡単に判別がついた。 いまは「一風堂」に延々長蛇の行列をして一杯2000円のラーメンを食べるくらいだからマンハッタン人もラーメンのおいしさを判っているが、その頃はまだ日本のことをよく知っているひとでも「ラーメンって中華麺の紛いものだろう」というくらいの認識であって、実際、レキシントン通りあたりで「日本式中華料理」というような看板を掲げているその手の店も不味い店ばかりだった。 それが日本では遙かに手がこんだ味で、とんかつも他の「洋食」もそうだったが、わしは東京に着くと、義理叔父や従兄弟と一緒に築地や銀座の日本でしか食べられない食べ物をだす店によくでかけるようになっていった。 その頃はまたコンピュータパーツの街としての秋葉原が最盛期だった頃であって、英語世界では最も先進的なパーツが手に入るシンガポールよりも、さらに少し進んでしかもハイエンドのPCパーツがこれでもかこれでもかと並んでいて、古典的な技術オタクであるわしはよく段ボール二箱ぶんくらいもパーツを買って妹に呆れられたものである。 もっとよかったのは電子パーツの店をのぞいてみると、およそなんでもつくれるだけの部品が小売りでならんでいたことで、アールグレイの香りよりもハンダが焼ける匂いのほうが好きなわしは、自分がつくりたいものの部品の調達リストをつくって、よく出かけたものだった。 その東京が「みるみるうちに」という表現を使いたくなるほど、あっというまに冴えない図体がでかいだけの田舎町になりさがっていったのは、こうやって思い返してみると、2003年くらいからだったように思われる。 それまではたとえば3月のを終わりにニュージーランドを出て、東京に寄ると、どう表現すればいいかわからない「わあ」というような熱気が空港から一歩でただけで感じられたのが、なんだか森閑としているように感じられるようになった。 溜池のANAホテルに泊まった翌朝、サブウエイで朝食をとっていたら背中に妙な視線を感じる。 振り返ってみると、そこには壁際に10人くらいの日本のひとが座っていて、そのどの人もがまったくの無表情で、そういう言い方はひどいが「うつろ」としか表現のしようがない目で、こっちを見ていて、思わず「ぎゃああ」と叫んで逃げ出したくなったりしたのも、その頃だったと思う。 その何年かあと、日本の衰退がなぜ起こって、どういう具合に具体的に推移したか記録しようと考えて5年間11回に渉って日本にやってくることになるが、2003年という年には、もうやがてそうなる、と直感していたのだと思います。 3 シドニーやオークランドのような南半球の「都会」は2002年頃までは、ほんの田舎街にしかすぎなかったが、移民の流入に伴って、実質的にも都会の顔をもってしまった。 それ以前と何がいちばん違うかといえば、それはひとの考え方であって、ふたことめには人種がどーのと暇つぶしのように言っていた老人たちまで、そういうことを考えなくなった。 アラン、というひとはまずアランというちょっと愛想が悪くみえるがにっこり笑うと人間の良さが誰にも見えるような性格の若い聡明な会計士であって、そのひとの両親が香港からやってきた中国系であることはふだんは忘れている。 一方で欧州はこうでアジアはこういう具合で中東人というのはこういうものなのだ、という論説というようなものは、急速に関心を失った、どころか失笑のたねになることが多くなったのは、別に書物に知識を求めなくても、現に職場に行けばインド出身のひともレバニーズも職場の同僚として「おはよう」をしているからで、いざそういう生活になってみると人間が観念でこさえあげた像というものは殆ど何の有効性もない、と判ってしまう。 マンハッタンは移民の受容の歴史が古いぶんだけ、同じ移民社会でも古い世代に属しているので「人種のるつぼ」という人がいるが、まだ「人種のモザイク」とゆったほうが実情に近いところがある。エスニックグループがそれぞれのコミュニティをもっていて、仕事や遊びに行くときにだけ「広場」の役割をはたしているショッピングエリアやクラブで一同に会する、というところがあると思う。 そういうことはイングランドでも同じであって、移民の受容としては古い形に属する。 オークランドのような街は文化も出身地域も異なるひとびとが完全に混交して住んでいてラミュエラのような高級住宅地でもインド系も中国系も中東人もまんべんなくいる。 そういところは同じ移民社会でも「世代の差」のようなものがあるようです。 4 考えてみると、東京が「都会」であったころというのは、世界でも最も異質な文化同士がほんの短いあいだにしろ、小さな火花を散らしていた頃なのでしょう。 … Continue reading

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聞き取りにくい声を、聞きにゆく

1 二日前、タパスバーにモニがセーターを忘れてきたのが判明したので、さっき、ふたりで取りにいった。 二階にあるらしい事務所にカリフォルニア育ちの女のマネージャーがセーターを取りにいってくれているあいだ、わしはグラシア生まれでグラシア育ちのシェフと話して遊んでいた。 そんなことが正常でないことは判りきったことだが、どういう言葉のふきまわしか、わしは親切なカリフォルニアの女の美人マネージャーのことを「あんなインチキな人格があるだろうか」とゆった。 自分でなにをゆっているのかわかってんのかね、というような暴言だが、わしには、そういうことがときどきある。 友達ならみな知っていることなので、びっくりするくらいですむが、知らない人とは、ときどき殴り合いになることもあります。 相手が女の人の場合はまさか殴らないが。 グラシアの、わしがもっているアパートの近くで生まれたシェフはあまりのことに、しばらく、ぶっくらこいて目をまるくしていたが、 「どうゆえばいいか、わからないが、ぼくもそう思うんだよ」という。 「あのひとには、どこかインチキでまったくプラスチックで人間ではないところがあるんだよ。きみがどうして、そう思うのか判らないが」 差し出してくれたクロケタスをかじりながら、カリフォルニア人の親切な女美人マネージャーが戻ってくるまで、ひげもじゃのシェフとわしは、表情を変えずに口を極めて彼女を罵っていた。 彼女のかっこいい足が階段の上に見えたので、そこで黙って、手渡されたセーターを丁寧にお礼を述べて受け取りました。 モニは呆れはてて、わしらを見ていたが、ドアを開けて外に出てから、「ガメたちは、ほんとうに欧州人なんだな」と感に堪えたようにいう。 自分だって、そうやん。 2 流れ落ちる水について考えることにはさまざまな意味がある。 自分の作品を全部ミニチュアにして鞄に詰め込んでニューヨークに逃げてきた、あの男は、自分のことをどんなふうに考えていただろう。 世界が恐怖に包まれているときに、良心には、ほんとうには意味があるだろうか。 少なくともイエスは、そういう嵐のときに勇気をもつ意義を認めなかった。 彼がほんとうに認めたのは怯懦の意義だったろう。 W.H.AudenがどれだけT.S.Eliotを「行動」において評価していたかわしには判らない。 ひとつだけ想像がつくのは、ふたりともに、パウンドの沈黙のほうに苦痛を感じただろう、ということだけである。 詩人達は、小説家のような根っからの俗物たちとは違う空気を呼吸して生きている。 少なくとも、なぜ世界をくだくだしく説明するか判らないという悩みは詩人だけが理解する悩みである。 だから、結局、パウンドの沈黙こそは、彼らの時代においては、最も苦痛に満ちた文学的行動として機能しただろう、と簡単に想像できる。 3 わしがきみにこうやって日本語で話しかけることにどんな意味があるのか、きみは知っていますか? わしは日本では欧州の常識があるひとにも、あのべったり神が張り付いたような苦痛に満ちた言葉を理解できる人にも、まだ会ったことがない。 すべりひゆ、という神の影にはいってゆきそうな人を見たことはあるが、あのひとにしても、まだ10年くらいは、あの絡みつくいやらしさやどうしても離れていってはくれない押しつけがましい「時間の実体のようなもの」を見てはいないだろう。 神が見過ごしている言葉は、この東アジアのすみっこにしかないのだと思う。 中国語のような言葉と違って、このアジア語の部屋のかたすみには確かに神が座っているべき椅子がおいてあるのに、そこには誰も座っていない。 誰もいない部屋で、わしは、そこでなにが起こっているのか訝っている。 4 瀑布の音。 流れ落ちる水の音に耳をすませるべきなのである。 聞き取りにくい声に耳をすますべきなのである。 きれぎれに聞こえる、かすかな悲鳴のような声、 あるいはすすりなく声に耳をすませるべきなのである。 その遠くから聞こえる微かな声は自分が声高に話していては聞こえはしない。 聞こえるわけがない。 … Continue reading

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フクシマ経済

この20年で合衆国と連合王国に住む人間の富はおおざっぱにゆって3倍になった。 20年前に30歳で1億円もっていた年収1000万円の人は3億円もっていて年収3000万円になっている、っちゅうような意味です。資産・収入・可処分所得ちゅうようなものがだいたい3倍になった、と思えばよいと思います。 念のためにゆっておくと統計的数字に縋って議論を進めるのは、やむをえないときにするのであって、統計上3倍になっているからとゆって、そのひとが当然3倍豊かになっているわけではない。 所有している自宅の価値が3倍になっていても、自分が住んでいる家を(その人間が「金持ち」かどうか判断するときに)普通には資産には数えないので判るとおり、住んでいる人間にとっては良い事はなにもない。カウンシルの評価額があがればタリフが3000ドルから9000ドルにあがって支出があがるだけであって、景気の良い社会の最大のビョーキであるインフレがたとえば(通常先進国が上限目標にする)3%であれば、10 の昼食は18ドルになっているわけで、その社会のちょうどまんなかくらいの収入の人間は「生活が苦しくなった」という感想をもつのが通常だからです。 しかし、たとえば連合王国でサラリーマンがこの20年間のことを家計的にふりかえって、しみじみと損ぶっこいちまったなあー、と思い出話にふけるときには「なんでも3倍」を前提にして話しをする、ということです。 カナダや豪州やニュージーランドも、ほぼ同じ。 いまのいま、という時点でカナダと豪州は3倍より少し多いか、というくらいの感じと思えばよいのではないか。 一方、この20年で日本のひとの懐は20年前に社会の中軸であった40代のまんなかで大企業に勤めていて自宅をローンで買って子供がふたりいる、という家庭を例にとると年収は900万円から650万円に、自宅の資産価値は6500万円から4600万円に下がってしまっている。 20年前にふたりで400万円の年収をつくっていた共稼ぎ夫婦は、20年後のいまの日本では収入が300万円である。 だいたいすべての「富」が20%から30%減少している。 20年間、この状態から抜け出せなかったのは先進国のなかでは日本だけであって、いまでも、その理由は謎ということになっている。 アホの巣窟なので有名なブリテン島ですら、屁理屈をねつ造して破滅に破滅の上塗りをする時代は15年しか続かなかった。 日本の場合、どうしてこうなったかというと、日本のひとの「おかみ」を信ずる不可思議な心根のせいである。 5年間11回の日本遠征での最大の不可思議は、日本では殆どの人が(わしからみると)まるで自分が政府の一員であるような口を利くことで、言うことだけを聞いていると国民全員が政府のどこかの部署で働いているかのようであった。 連合王国やニュージーランドにおける大庭亀夫のごとく畏れおおくも政府のえらい人に向かって「おまえらのクソ立場なんか、わしの知ったこっちゃねーよ」というような不敬罪な暴言を口走ったりはしないのです。 わしが日本型中央計画経済のばかばかしさを言うと、「でもガメちゃん、日本は大国だから、そうそう簡単にいままでのやり方をあらためるというわけにはいかないんだよ」という。「貧乏なひとの面倒もみなければならないし、地方のうまくいっていない政体の面倒もみなけりゃならない。それを、突き放して、きみたちの問題というわけにはいかないのさ」 ボルジャー首相という、みるからにいいかげんな顔をしたおっさんが突然声明を発表して、「カネがないから、もう郵政、国でやるのやめたし。あとは諸君で勝手にやってね」とゆって一夜で民営化したニュージーランドみたいな無茶苦茶な国とは偉い違いの懇切丁寧な20代の国民のおむつまでかえてあげそうな面倒見の良さである。 フクシマの原子炉がおだやかで対処しやすいやり方でとはいえ、ぶっとんだとき、明らかにコントロールを失っているのに「安全に推移している」と言い募る日本政府と、そのエダノというオオウソツキに拍手喝采する日本人たちの姿を見て世界中のひとが息をのんだ。 あの光景を見て、ようやく日本経済の現在の不振の理由を理解した経済人も世界にはたくさんいた。 英語ではwe-know-bestのひとびととゆったりする。 わしらがいちばんわかっとるんじゃけん、しろーとのあんたさんらは、余計なことをゆわないで黙ってついてきなさい。 日本では津波が起きた途端に事故が起きるのではないかと心配したひとたちに向かって「日本の原子力技術力をなめんな」という合唱が起こって、一瞬で「無知蒙昧な人間たちの心配する声」がかき消されるのを、わしはリアルタイムで観察して記録していた。 長い間理由がわからなかった日本人たちの現在の自国の経済・財務上の絶体絶命への非現実的なほど極端で漫画的な危機感のなさが、それを観察することによって判るような気がしたからです。 わしは、とうの昔に機能しなくなった岸信介以来の国家社会主義経済的な日本のやり方が、ここまで無残な敗北を繰り返しながら、(たとえばPCはオモチャにすぎない、大型電算機以外に「電算機の未来」があるのなら、おれは役人をやめるよ、と嗤った当時の官僚達の発言をあげつらうまでもなく)いまでも国民に支持されているのは、それが日本の文化の深いところに根ざしているからだと思っています。 真に壊滅に向かう経済は、いつも文化そのものに理由があるのだ、と歴史は教えているが、フクシマを観察したあとでは日本もまた同じなのではないか、と疑ってしまうのです。 画像はセントラルパークでチェスに興じるおっちゃんたち。ダブルクリックすると大きくなりもす

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