アップタウンへ行った

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アップタウンの友達に会いに行った。
ビレッジやチェルシーあたりとアップタウンでは文化が別の国であるほど違う。
この「文化の違い」は言葉で説明するのはぜんぜん無理です。
アップタウン文化に近いものがまったく存在しない日本の言葉ではなおさら絶対に不可能である。
アパートでもわしのチェルシーのボロアパートは集中冷暖房とゆってもスチームパイプの超大時代な暖房で冷房に至っては、わしが購入したときにはGEの、運転させていると「きみ、ダイジョブ?」と機械に訊きたくなるくらい凄まじい大音響を立てて蒸気機関車のように頑張る冷房機であった。
冬は暑くて夏は寒い、典型的なニューヨークのビンボアパートですねん。

受付も昼間はユダヤ人のおばちゃん、夜はアフリカンアメリカンのおっちゃんが、ふつーのセーターを着て座っておる。
むかしは、わしが違うねーちゃんとアパートに戻ってくると、このユダヤ人のおばちゃんはしばらく口を利いてくれなかったりした。
まことにプロ意識に欠けているとゆわねばならぬ。

あまつさえモニが泣きながらリフトから走り出てロビーを走って横切りドアを押し開けて出て行った日には、わしの部屋まであがってきて、説教しやがったこともあった。
冷静沈着がモットーの民族性であるのが謳い文句であるはずなのに、とんでもないひとです。
あれでは受付だか舎監だかわからんとゆわれている。

それがアップタウンのモニのアパートになると、セキュリティ室が別にあって、玄関には制服を着たおっちゃんが恭しく立ってるからな。
ドアを開けてはいると、部屋は宮殿のようであって、派手好きなUFOみたいなシャンデリアが頭上には輝いておる。
豪奢なインテリアに圧倒されて、きみは「す、すげえー、玉姫殿みてえ」と思うかもしれんが、ちゃいまんねん。玉姫殿の調度とはゼロの数がいくつか違う値段なのよ、あれ。
全部、パリから運んだのだとモニのかーちゃんがゆっておったからな。
なんちゅう、力持ちのおかあーさまでしょう。

まだしつこく言い募ると、わしのアパートから見えるのは「庭」ではなくて空き地みたいなものであって、よく目をこらすとゴミがおっこっていたりするが、モニのアパートメント・ブロックには外から見えないが広大なコートヤードがあります。
住んでいる人しか使えないのね。
いまの季節だと頭上にはカロリペアが咲き誇っておって、十字型に交差している道沿いにはチューリップがつぼみのまま並んでおる。
く、くっそおおおー。かっこええのお。
こんな暮らししてるなんて、おまえら、なんか悪いことしたんちゃうか、、と思わせる典雅な眺めであります。

さらにさらにしつこく言い募ると、モニのアパートはアパートであるのに「階上」の部屋があって、おまけに空中庭園みたいにシブイ庭がふたつもついてまんねん。
どうなっとるんじゃ。

アップタウンのひとびとは裕福です。
スペイン語しか通じない定食屋で「げっ、今日はチキンカツが一枚多いやん。ラッキー」とかサンドイッチを分解して喜んでいるのを発見されて、カウンタのなかのおっちゃんに大笑いされたりしている、わしの日常とはえらい違いである。

アップタウンの友達と会って昼食をすませてから、わしはついでにアッパーウエストサイドの友達カップルと落ちあって、セレンディピティ3 
http://www.serendipity3.com/main.htm 
という有名なデザートレストランへ行った。
こんなに天気が悪い寒い日の午後なら空いているであろう、というわしの白頭鷲(ブブリキ(注)がわしになったわけではなくてアメリカの国鳥です)の眼のように鋭い読みはあたってときどきブロックをぐるっとまわるほどできる行列が全然形成されておらなくて、わしら一行4人は5分もまたないで一階のいちばんよいテーブルにおさまった。

この世の終わりみたいなすさまじい量で有名なサンデーを食べながら、誰彼の友達たちの噂話をしてきゃあきゃあしました。

友達夫婦はそのまま近くのブルーミングデールに消えていったが、モニとわしは、モニのアパートに歩いて帰った。

ふかふかぽよんぽよんの地上高の高いキングサイズベッドの上で、いちゃいちゃしたりもんもんしたり昼寝したりして、うー、楽ちんはええのう。
わしもそろそろチェルシーの生活を改善するべかしら、と真剣に考えました。

帰りに寄ったスーパーの「鮨コーナー」(最近はファーマシーのランチコーナーですら握り鮨を売ってるからな)を通りかかったら手書きの「ここで使われている魚はスコットランド沖とカナダ大西洋岸に限られています」というサインが貼り出してあった。
太平洋産、だと売れないの?と訊くと、質問が多くて困ってるんだぜ、という顔で頷いてます。
一日何度も質問に答えるのうんざりだから、紙に書いて出した。
最近は、会話のなかでも「日本の地震と津波・原発事故」の話題が出ることは少なくなったが、こうやってまだいろいろな生活の細部で顔をだす。

こーゆーことでもダウンタウンとアップタウンでは顔の出し方が違っていて、ダウンタウンでは「放射生物質」や「魚は、とうぶん食べられないなあ」という話が多いが、アップタウンでは日本の経済の先行きに終始した。

試しに、まずわしが日本にも希望がある、という立場で友達が日本には希望がない、という立場、アイアリッシュコーヒーを飲んだあとで、今度は反対に友達が日本には希望がある、という立場、わしが日本にはもう希望が残っていない、という立場で議論してみると、どうやってみても日本には未来が残っていないことになって暗然となってしまう。
簡単にいうと「現実を直視できないように仕組まれてしまっている社会の体質」が最大の障碍になっている。

ヘンな例を持ち出すと、もちろん英語国にも「イジメ」はあって、あって、どころか、高校でのイジメやあるいは程度の悪い大学なら大学初年くらいのイジメなどはすさまじいが、日本のイジメと決定的に違っているのは英語国の「イジメ」はイジメをやっているほうは、自分たちが邪悪なことをしている、という自覚は十分すぎるほどもっている。
百人のうち99人がイジメに参加していても、不思議なことに自分たちがいじめている相手のほうが正しいのであって、イジメを集団で行っている自分たちは、もうそれだけで人間として最低の人種だという自覚が常にある。
自分たちの方が悪い、と知ってまんねん。

だが日本ではイジメが発生して、標的をみつけるとふくれあがってゆく人数の集団のひとりひとりが数が増えてくるにつれて、自分たちが正しい側に立っているのだと妄信しはじめる。
多数派が正義に酔ってゆく巧妙な仕掛けがあって、日本の社会がいったん妙な方向に進み出すと徹底的に破滅するまで止まらないのは、そういうところに理由があるようだ。
インターネットでも有名な2chやはてなのブックマークを媒介にしたコミュニティなどは、ほとんど、その力学だけで出来ている。
ちょっと考えてみればわかるが、そういう仕組みを内蔵している社会では一億人が正しいと感じていることが実はまるごと間違っている、ということすら簡単に起きうる。

クライストチャーチの地震のときに、ツイッタでクライストチャーチの現場で話題になっていた「日本人記者の信じがたい無礼さ」について書いたら、「出典を示せ。中国人や韓国人でないとなぜ保証できる」という、(本人の名前は忘れたが)わしの火葬場職員兼画家の友達と思われる日本語ネット世界では人気があるらしい人がやってきて、あまりのアホぶりにぶっくらこいちまったが、日本ではこういう態度は無礼でも非人間的でも何でもなくてふつーのことなのでした。この出典を訊きたがる、というのは英語世界では余程親しい友達同士かたとえば研究者同士が自分の検討を効率化するため以外にはやらない。
理屈は本来は誰にもわかることだからとばすが、出典を聞きに来るというのは「教科書のどこに書いてありますか」と訊きにくるのと同じことだからである。
集団の数が「正しさ」を補強すると感じる感受性にくわえて、世界の森羅万象に「ぼくにも教えてもらえる誰でも知っている原典がある」という、この奇妙な考えもいまの死後硬直した肉体のような社会の魂の形成に関係しているのだろう。

アップタウンの友達は実は日本の事情に詳しいひとであって、フランス人らしいしゃっちょこばった威儀のただしかたで帽子を右手にもって椅子に腰掛ける彼の曾祖父の巨大な肖像画と故郷の田園のタペストリーが最も目立つ場所に掲げてある接客用のラウンジには、いくつも日本の美しい浮世絵が飾られている。

今度は、ロンドンにいつ戻るのかね、と訊くので、近々にいちど戻るつもりだったが、もしかすると取りやめにするかもしれない、友達の件には父親と母親は出席すようだから、わしは遠慮するかも知れません。
めんどくさいし、日本のこととはもちろん関係がないが、なんだかそういう気分になれない、というと
ややびっくりしたような顔をしてわしを眺めていたが、手を叩いて「ガメらしい。素晴らしい! ガメらしい!」とゆって大喜びをされてしまった。
このひとを有名にしている暖かな大きな手で抱きかかえたわしの肩をにぎりしめると、
「きみは、まったくどうしようもない男だな!まったく、どうしようもない、どうにもならない!」と愛情のこもった声で言うとモニには両頬にはキスをして、
「いつみても、世界一綺麗な娘さんだな、あなたは。
こんな、どうしようもない男と一緒でかわいそうに!」とゆってます。
なに、勝手なことゆうてるねん。

議論のラウンドが終わった後、この人のもうひとつの特徴である理知的な輝きをもった眼をくもらせながら、
「ガメ、どうやら、われわれはこれから日本のもっとも悲惨な日々を見ることになりそうだ。
多分、1945年などとは比べものにならないだろう。
しかも今度は長い。
あの国のひとは、これからが『悲惨』の本番だと心の準備が出来ているだろうか。
襲ってくる現実を、子供じみた観念ではない、実際的な想像力をもって理解しているだろうか。
この世界にも、われわれがよく知っている、あの終わらない冬、明けない夜というものがあると、もう知っているだろうか」
というのを聞いたときには胸がつぶれそうであった。
わしのようなえーかげんな知性と彼の知性から生まれた言葉では重みが違いすぎるであろう。

日本がこれから予想されるすべての出来事を通過したあとでも、日本人の顔には微笑が残っているだろうか?

わしは、怖い。

(注)ブブリキは、わしの友達の名前でがす。目も鼻も口もなくてあまりに怪しいので渋谷駅前で職務質問された挙げ句、頭にいっぱい小さな穴を開けられて、それ以来、考えることがみな頭からもれてしまうので、まともな事が何も考えられなくなった、という悲しい過去をもっておる。
カリフォルニアに行くと、ファーストフード店の広告に出演しているのが確認できるのだとゆわれておる。(アメリカ版は眼と鼻と口だテキトーに描いてあるが)

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