MOMA

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ひさしぶりにMOMA
http://www.moma.org/
へ行った。
MOMAは、人が多い美術館なので、わしは、あんまり行きません。
あんまり行かない、どころではなくて、考えてみると4年くらい行っていない。
建物が小さいせいかも知れないが、いくたびになんとなく疲れる美術館だという印象が出来てしまっている。
同じ巨大美術館でも、メトロポリタンミュージアム
http://www.metmuseum.org/
のほうは、モニのアパートから近いせいもあって、よく出かけて中二階でカクテルを飲んで遊んだりするが、MOMAには億劫がってなかなかでかけない。
16時半からただになる日などは、観光客や学生が延々長蛇の列をなして入り口に並んでいるので、おぞましい、という気持ちもあります。

そんなに忌避している美術館になぜでかけたかというと、わしの人生で自分があんまりやりたくないことをやってみる理由などひとつしかない。
モニはゴッホの「De sterrennacht」(星月夜)
http://www.vangoghgallery.com/painting/starryindex.html
が好きであって、この絵はMOMAにある。
絵が好きな人というのは、そーゆーもので、時々どうしても観に行きたくなるもののようで、今日もそれで出かけたのでした。

MOMAは暖かい季節には木曜日の午後がもっとも空いている、というのは有名な事実なので、ここでモニに催促されるとかっこわるい、自分のほうから「天気がいいから歩いてMOMAにいくべ」とゆってアパートでチェダーチーズやサンドライトマトのペーストやプロシュートを動員した昼食を摂ってから、春の日差しのなかを歩いてでかけました。

(6th Ave をMitzvah tankが北に向かって行進している。
うるさいので道を5th Aveに変えたら、今度は同じMitzvah tankが南に向かって戻ってきたので笑ってしまった。
観ていると、誰かが石かなにかを投げつけたようで、若いユダヤ人が窓から頭をだしたまま頭を抱えている。
警察の覆面パトカーがいっせいにサイレンを鳴らして集まってくる。
そのなかに日産のキューブがあって、わしは始めてNYPDの覆面パトカーには、ああいう小型車も混じっているのを知りました)


受付もクロークも並ばずに、人が少ないフロアをまっすぐ5階にあがって、「 星月夜」に着いた。
モニとふたりで並んでみていても、特にほかの人と一緒にみるということもなくて、誰もいない。
タイミングというものは偉大なものだと考えました。
「 星月夜」という絵は、意外と荒っぽい絵で、そこここに何も塗られていないカンバス地が剥きだしになっている。
ガキンチョのときに、この絵を初めてみたときには、「なんて、ええかげんなおっさんだろう」と考えて可笑しかったのを思い出す。
モニは、フロアの絵をもうちょっと見ていくというので、ほんじゃ、終わったら電話で呼んでね、ということにして、わしはさっさと中庭に降りて本を読むことにしたが、途中、わしが大尊敬するフランシスベーコンの巨大な絵(たしか、最後の絵だと思う)がカフェの入り口に展示されているのを観て足がすくんでしまった。
絵がガラスで覆われていてよかった、と思いました。
そうでなければ、あの絵を自分が直接つながっているようでやりきれなかっただろう。

4階まで階段を下りたところで、そーいえば、ここにはFranz Klineのカッコイイ絵があるのだった、と思い出して、すたすたすたと奥に行って、あのアイボリーやクリームや他の「白」がうまく使われた絵を観てよろこんだ。

中庭で30分くらいのんびりしていると、電話をかけるでもなくモニが直截おりてきて、「もう、観たい絵は観たからいきましょう」という。
ほんとうは、もっと観たい絵があると思うが、わしのMOMAめんどくさい病を知っているので、どうしても観たかった絵だけ観て、降りてきたのだと思われる。

絵の趣味、というのは、どんどん変わる。
わしは、高校生の頃くらいまでは他のガキなみにデュシャンやエルンストが好きだったが、大学生くらいになるとモローのようなしょぼい絵も好きだと思うようになった。
いまはホセ・マルキのような一見するとそう思えないが、よく見ると無茶苦茶な試みをする画家が好きです。
ああいう「微細な狂気」のようなものに惹かれる。

絵とは別に、人がたくさんいるのは嫌いでも、有名な絵の前に立って記念写真を撮っているタイプのひとびとを見るのは、わしは、あんまり嫌ではない。
人前で頭のわるい蘊蓄を傾けている美術好きは願いさげだが、さすがにそういう田舎じみたひとびとはもうあんまり見なくなった。
ピカソの大きな絵の前で、抱き合ってふざけている高校生のグループや、車椅子に乗ってじっとGottliebに見入っている人、他人と一緒に絵をみる、ということが耐えられないのでしょう、いかにもこの世を嫌悪するかのような険しい眼で他のひとびとをにらみつけているひとりぼっちの大学生、そういうものは全体が「美術館」というものであって、もともと「公共のもの」ではありはしない絵画を「みなで共有する」というのが無理な以上、まあ、そんなものだんべ、と思う。
自分が蒐集した絵や彫刻に囲まれているのとは、また違うもので、(うまく言えないが)それはそれで、結構たのしいものだと思います。


春の陽気のせいだと思うが、MOMAの帰り道、もうすぐ季節が終わる東海岸のマティニソース生牡蠣を食べながらスプマンテを二杯飲んだら、そこでもうだいぶんアルコールがまわってしまった。
いつもはシャンパンを一本のむくらいでは全然異同が生じない体質なので、モニにびっくりされました。
ロブスターを食べ終えて、バルバレスコで豚を食べる頃になると、もうだいぶん酔っ払ってやたらとスペインワインに詳しいポルトガル人のソムリエにーちゃんと、3人で話し込んでしまったので、他の客はほうぽらかしにされて迷惑であったに違いない。

レストランの自家製のリモンチェロとなんだかやたらとバラエティにとんだビスコティが山盛りなのにヴィンサントがついた、名前が酔っ払ってわからなくなった甘くてやたらおいしい飲み物をのんでから、モニとふたりでふらふら帰ってきました。

わしは都会は冬がもっとも好きだが、春もわるくないのお、と考えた。
インターネットで知り合った清右衛門という花や木が友達であるひとに「なんじゃ、それは?」とゆわれた「カロリペア」(Callery Pear)が満開の通りを通って家に帰った。

清右衛門は日本のひとなので、あんなに木のことをよく知っているひとなのにカロリペアを知らないのだな、と考えて、考えは妙な具合にそこから急にとんで、ふたつの文明の距離、ということを考えた。
まるでふたつの銀河のように異なる文明で育ったのに、知らない木の名前を聞いて
「なんじゃ、それは?」と訊ける、ということの尊さを考えました。
言葉というものが、たとえば他人を攻撃するためにあるのではなくて、お互いを理解するための道具としてもともとあるのだ、ということを思ったのは、案外、春という季節の力なのかも知れません。

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