Daily Archives: April 20, 2011

1 マンハッタンは、多分、世界一安全な都会であると思う。 いまちょっとインターネットを眺めてみると、治安はジュリアー二市長時代によくなったとどの記事にも書かれているが、ニューヨーク人にはまた違う意見があって、だいたいのひとはみな「コッチのおかげでよくなった」という。 わしが初めてかーちゃんにつれられてマンハッタンにやってきたころは、ガキの目で見ても滅茶苦茶な都会であって、見るからに危なかった。 7th Aveにすら「危ないブロック」というのがまだちゃんとあって、そこのブロックにさしかかるとおとなどもも道を渡って反対側に行く。 建物の近くを歩くとひきこまれて危ないから、といわれて建物から離れて歩かなければならないところも多かった。 その頃は、だから移動するのもほとんどはリムジンであって、子供心にも「なんだかサファリパークみたいだ」と思ったりしたのをおぼえている。 それがみるまに治安がよくなっていって、毎年毎年、くるたびに見て判るほど安全な街になっていった。 ひとつにはジュリアー二市長の時代には、まさかこんなに、と思うくらい大量に警官が街角に立っていて、その頃はもう高校生になっていたわしが見て、誰かが何か悪い事をしようと思っても、街の角角にフットボールチームくらいの数の警官がまとめて立っているのでは悪い事のやりようがない、と考えて可笑しかったりしたものだった。 それからいままでの十年間、マンハッタンはわしにとっては「最も楽しい都会」「最も安全な都会」で、要は、砂場のようなものだった。 大学生になると、ひとりでも合衆国によくやってくるようになったが、アトランタ、シカゴ、と他にも好きな街があっても、マンハッタンだけはいつも「別格」であったような気がする。 2 むかしから、このブログを読んでいる人は知っているが、わしには子供の頃もうひとつ好きな都会があって、それが「東京」という街だった。 お世辞にもカッコイイ街並みではなかったが、わしは東京という街の猥雑で雑然としていて田舎じみているのに洗練された細部がある、その混沌とした感じが好きだった。 多分6歳くらいのときだと思うが、ストップオーバーで寄った東京の夜景があまりに壮大で綺麗だったので妹とふたりで空港シャトルの冷たい窓に顔をくっつけて、くっつけすぎて鼻をふたりで豚鼻にしながら、すげえー、と思ったのをおぼえている。 いま考えてみると箱崎のあたりを通っていたのだと思うが、ちゃんとは憶えていない。 それが東京との出会いであって、ニュージーランドやロンドンで何度もあったことがある、妙に機嫌のよいおじさんであった義理叔父の出身の街が、こんなに自分の人生と大きく関わるようになるとは、その頃はまだよく判っていなかった。 たとえば、ラーメンという食べ物がある。 わしはいまでも、あんまりこの食べ物が好きではないが、マンハッタンでもっとも麵類がおいしいということになっているモットストリートの何軒かの上海・香港料理屋でだす麵より、東京の「ラーメン」のほうがおいしいくらいのことは、わしにも簡単に判別がついた。 いまは「一風堂」に延々長蛇の行列をして一杯2000円のラーメンを食べるくらいだからマンハッタン人もラーメンのおいしさを判っているが、その頃はまだ日本のことをよく知っているひとでも「ラーメンって中華麺の紛いものだろう」というくらいの認識であって、実際、レキシントン通りあたりで「日本式中華料理」というような看板を掲げているその手の店も不味い店ばかりだった。 それが日本では遙かに手がこんだ味で、とんかつも他の「洋食」もそうだったが、わしは東京に着くと、義理叔父や従兄弟と一緒に築地や銀座の日本でしか食べられない食べ物をだす店によくでかけるようになっていった。 その頃はまたコンピュータパーツの街としての秋葉原が最盛期だった頃であって、英語世界では最も先進的なパーツが手に入るシンガポールよりも、さらに少し進んでしかもハイエンドのPCパーツがこれでもかこれでもかと並んでいて、古典的な技術オタクであるわしはよく段ボール二箱ぶんくらいもパーツを買って妹に呆れられたものである。 もっとよかったのは電子パーツの店をのぞいてみると、およそなんでもつくれるだけの部品が小売りでならんでいたことで、アールグレイの香りよりもハンダが焼ける匂いのほうが好きなわしは、自分がつくりたいものの部品の調達リストをつくって、よく出かけたものだった。 その東京が「みるみるうちに」という表現を使いたくなるほど、あっというまに冴えない図体がでかいだけの田舎町になりさがっていったのは、こうやって思い返してみると、2003年くらいからだったように思われる。 それまではたとえば3月のを終わりにニュージーランドを出て、東京に寄ると、どう表現すればいいかわからない「わあ」というような熱気が空港から一歩でただけで感じられたのが、なんだか森閑としているように感じられるようになった。 溜池のANAホテルに泊まった翌朝、サブウエイで朝食をとっていたら背中に妙な視線を感じる。 振り返ってみると、そこには壁際に10人くらいの日本のひとが座っていて、そのどの人もがまったくの無表情で、そういう言い方はひどいが「うつろ」としか表現のしようがない目で、こっちを見ていて、思わず「ぎゃああ」と叫んで逃げ出したくなったりしたのも、その頃だったと思う。 その何年かあと、日本の衰退がなぜ起こって、どういう具合に具体的に推移したか記録しようと考えて5年間11回に渉って日本にやってくることになるが、2003年という年には、もうやがてそうなる、と直感していたのだと思います。 3 シドニーやオークランドのような南半球の「都会」は2002年頃までは、ほんの田舎街にしかすぎなかったが、移民の流入に伴って、実質的にも都会の顔をもってしまった。 それ以前と何がいちばん違うかといえば、それはひとの考え方であって、ふたことめには人種がどーのと暇つぶしのように言っていた老人たちまで、そういうことを考えなくなった。 アラン、というひとはまずアランというちょっと愛想が悪くみえるがにっこり笑うと人間の良さが誰にも見えるような性格の若い聡明な会計士であって、そのひとの両親が香港からやってきた中国系であることはふだんは忘れている。 一方で欧州はこうでアジアはこういう具合で中東人というのはこういうものなのだ、という論説というようなものは、急速に関心を失った、どころか失笑のたねになることが多くなったのは、別に書物に知識を求めなくても、現に職場に行けばインド出身のひともレバニーズも職場の同僚として「おはよう」をしているからで、いざそういう生活になってみると人間が観念でこさえあげた像というものは殆ど何の有効性もない、と判ってしまう。 マンハッタンは移民の受容の歴史が古いぶんだけ、同じ移民社会でも古い世代に属しているので「人種のるつぼ」という人がいるが、まだ「人種のモザイク」とゆったほうが実情に近いところがある。エスニックグループがそれぞれのコミュニティをもっていて、仕事や遊びに行くときにだけ「広場」の役割をはたしているショッピングエリアやクラブで一同に会する、というところがあると思う。 そういうことはイングランドでも同じであって、移民の受容としては古い形に属する。 オークランドのような街は文化も出身地域も異なるひとびとが完全に混交して住んでいてラミュエラのような高級住宅地でもインド系も中国系も中東人もまんべんなくいる。 そういところは同じ移民社会でも「世代の差」のようなものがあるようです。 4 考えてみると、東京が「都会」であったころというのは、世界でも最も異質な文化同士がほんの短いあいだにしろ、小さな火花を散らしていた頃なのでしょう。 … Continue reading

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聞き取りにくい声を、聞きにゆく

二日前、タパスバーにモニがセーターを忘れてきたのが判明したので、さっき、ふたりで取りにいった。 二階にあるらしい事務所にカリフォルニア育ちの女のマネージャーがセーターを取りにいってくれているあいだ、わしはグラシア生まれでグラシア育ちのシェフと話して遊んでいた。 そんなことが正常でないことは判りきったことだが、どういう言葉のふきまわしか、わしは親切なカリフォルニアの女の美人マネージャーのことを「あんなインチキな人格があるだろうか」とゆった。 自分でなにをゆっているのかわかってんのかね、というような暴言だが、わしには、そういうことがときどきある。 友達ならみな知っていることなので、びっくりするくらいですむが、知らない人とは、ときどき殴り合いになることもあります。 相手が女の人の場合はまさか殴らないが。 グラシアの、わしがもっているアパートの近くで生まれたシェフはあまりのことに、しばらく、ぶっくらこいて目をまるくしていたが、 「どうゆえばいいか、わからないが、ぼくもそう思うんだよ」という。 「あのひとには、どこかインチキでまったくプラスチックで人間ではないところがあるんだよ。きみがどうして、そう思うのか判らないが」 差し出してくれたクロケタスをかじりながら、カリフォルニア人の親切な女美人マネージャーが戻ってくるまで、ひげもじゃのシェフとわしは、表情を変えずに口を極めて彼女を罵っていた。 彼女のかっこいい足が階段の上に見えたので、そこで黙って、手渡されたセーターを丁寧にお礼を述べて受け取りました。 モニは呆れはてて、わしらを見ていたが、ドアを開けて外に出てから、「ガメたちは、ほんとうに欧州人なんだな」と感に堪えたようにいう。 自分だって、そうやん。 2 流れ落ちる水について考えることにはさまざまな意味がある。 自分の作品を全部ミニチュアにして鞄に詰め込んでニューヨークに逃げてきた、あの男は、自分のことをどんなふうに考えていただろう。 世界が恐怖に包まれているときに、良心には、ほんとうには意味があるだろうか。 少なくともイエスは、そういう嵐のときに勇気をもつ意義を認めなかった。 彼がほんとうに認めたのは怯懦の意義だったろう。 W.H.AudenがどれだけT.S.Eliotを「行動」において評価していたかわしには判らない。 ひとつだけ想像がつくのは、ふたりともに、パウンドの沈黙のほうに苦痛を感じただろう、ということだけである。 詩人達は、小説家のような根っからの俗物たちとは違う空気を呼吸して生きている。 少なくとも、なぜ世界をくだくだしく説明するか判らないという悩みは詩人だけが理解する悩みである。 だから、結局、パウンドの沈黙こそは、彼らの時代においては、最も苦痛に満ちた文学的行動として機能しただろう、と簡単に想像できる。 3 わしがきみにこうやって日本語で話しかけることにどんな意味があるのか、きみは知っていますか? わしは日本では欧州の常識があるひとにも、あのべったり神が張り付いたような苦痛に満ちた言葉を理解できる人にも、まだ会ったことがない。 すべりひゆ、という神の影にはいってゆきそうな人を見たことはあるが、あのひとにしても、まだ10年くらいは、あの絡みつくいやらしさやどうしても離れていってはくれない押しつけがましい「時間の実体のようなもの」を見てはいないだろう。 神が見過ごしている言葉は、この東アジアのすみっこにしかないのだと思う。 中国語のような言葉と違って、このアジア語の部屋のかたすみには確かに神が座っているべき椅子がおいてあるのに、そこには誰も座っていない。 誰もいない部屋で、わしは、そこでなにが起こっているのか訝っている。 4 瀑布の音。 流れ落ちる水の音に耳をすませるべきなのである。 聞き取りにくい声に耳をすますべきなのである。 きれぎれに聞こえる、かすかな悲鳴のような声、 あるいはすすりなく声に耳をすませるべきなのである。 その遠くから聞こえる微かな声は自分が声高に話していては聞こえはしない。 聞こえるわけがない。 顔を覆って泣く「あのひと」の声は、きみの心がたとえばフランシス・ベーコンが描く鈎につるされた魂にかわりはてるまでは、ちゃんと聞こえやしない。 … Continue reading

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フクシマ経済

この20年で合衆国と連合王国に住む人間の富はおおざっぱにゆって3倍になった。 20年前に30歳で1億円もっていた年収1000万円の人は3億円もっていて年収3000万円になっている、っちゅうような意味です。資産・収入・可処分所得ちゅうようなものがだいたい3倍になった、と思えばよいと思います。 念のためにゆっておくと統計的数字に縋って議論を進めるのは、やむをえないときにするのであって、統計上3倍になっているからとゆって、そのひとが当然3倍豊かになっているわけではない。 所有している自宅の価値が3倍になっていても、自分が住んでいる家を(その人間が「金持ち」かどうか判断するときに)普通には資産には数えないので判るとおり、住んでいる人間にとっては良い事はなにもない。カウンシルの評価額があがればタリフが3000ドルから9000ドルにあがって支出があがるだけであって、景気の良い社会の最大のビョーキであるインフレがたとえば(通常先進国が上限目標にする)3%であれば、10 の昼食は18ドルになっているわけで、その社会のちょうどまんなかくらいの収入の人間は「生活が苦しくなった」という感想をもつのが通常だからです。 しかし、たとえば連合王国でサラリーマンがこの20年間のことを家計的にふりかえって、しみじみと損ぶっこいちまったなあー、と思い出話にふけるときには「なんでも3倍」を前提にして話しをする、ということです。 カナダや豪州やニュージーランドも、ほぼ同じ。 いまのいま、という時点でカナダと豪州は3倍より少し多いか、というくらいの感じと思えばよいのではないか。 一方、この20年で日本のひとの懐は20年前に社会の中軸であった40代のまんなかで大企業に勤めていて自宅をローンで買って子供がふたりいる、という家庭を例にとると年収は900万円から650万円に、自宅の資産価値は6500万円から4600万円に下がってしまっている。 20年前にふたりで400万円の年収をつくっていた共稼ぎ夫婦は、20年後のいまの日本では収入が300万円である。 だいたいすべての「富」が20%から30%減少している。 20年間、この状態から抜け出せなかったのは先進国のなかでは日本だけであって、いまでも、その理由は謎ということになっている。 アホの巣窟なので有名なブリテン島ですら、屁理屈をねつ造して破滅に破滅の上塗りをする時代は15年しか続かなかった。 日本の場合、どうしてこうなったかというと、日本のひとの「おかみ」を信ずる不可思議な心根のせいである。 5年間11回の日本遠征での最大の不可思議は、日本では殆どの人が(わしからみると)まるで自分が政府の一員であるような口を利くことで、言うことだけを聞いていると国民全員が政府のどこかの部署で働いているかのようであった。 連合王国やニュージーランドにおける大庭亀夫のごとく畏れおおくも政府のえらい人に向かって「おまえらのクソ立場なんか、わしの知ったこっちゃねーよ」というような不敬罪な暴言を口走ったりはしないのです。 わしが日本型中央計画経済のばかばかしさを言うと、「でもガメちゃん、日本は大国だから、そうそう簡単にいままでのやり方をあらためるというわけにはいかないんだよ」という。「貧乏なひとの面倒もみなければならないし、地方のうまくいっていない政体の面倒もみなけりゃならない。それを、突き放して、きみたちの問題というわけにはいかないのさ」 ボルジャー首相という、みるからにいいかげんな顔をしたおっさんが突然声明を発表して、「カネがないから、もう郵政、国でやるのやめたし。あとは諸君で勝手にやってね」とゆって一夜で民営化したニュージーランドみたいな無茶苦茶な国とは偉い違いの懇切丁寧な20代の国民のおむつまでかえてあげそうな面倒見の良さである。 フクシマの原子炉がおだやかで対処しやすいやり方でとはいえ、ぶっとんだとき、明らかにコントロールを失っているのに「安全に推移している」と言い募る日本政府と、そのエダノというオオウソツキに拍手喝采する日本人たちの姿を見て世界中のひとが息をのんだ。 あの光景を見て、ようやく日本経済の現在の不振の理由を理解した経済人も世界にはたくさんいた。 英語ではwe-know-bestのひとびととゆったりする。 わしらがいちばんわかっとるんじゃけん、しろーとのあんたさんらは、余計なことをゆわないで黙ってついてきなさい。 日本では津波が起きた途端に事故が起きるのではないかと心配したひとたちに向かって「日本の原子力技術力をなめんな」という合唱が起こって、一瞬で「無知蒙昧な人間たちの心配する声」がかき消されるのを、わしはリアルタイムで観察して記録していた。 長い間理由がわからなかった日本人たちの現在の自国の経済・財務上の絶体絶命への非現実的なほど極端で漫画的な危機感のなさが、それを観察することによって判るような気がしたからです。 わしは、とうの昔に機能しなくなった岸信介以来の国家社会主義経済的な日本のやり方が、ここまで無残な敗北を繰り返しながら、(たとえばPCはオモチャにすぎない、大型電算機以外に「電算機の未来」があるのなら、おれは役人をやめるよ、と嗤った当時の官僚達の発言をあげつらうまでもなく)いまでも国民に支持されているのは、それが日本の文化の深いところに根ざしているからだと思っています。 真に壊滅に向かう経済は、いつも文化そのものに理由があるのだ、と歴史は教えているが、フクシマを観察したあとでは日本もまた同じなのではないか、と疑ってしまうのです。 画像はセントラルパークでチェスに興じるおっちゃんたち。ダブルクリックすると大きくなりもす

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