マンハッタンは、多分、世界一安全な都会であると思う。
いまちょっとインターネットを眺めてみると、治安はジュリアー二市長時代によくなったとどの記事にも書かれているが、ニューヨーク人にはまた違う意見があって、だいたいのひとはみな「コッチのおかげでよくなった」という。

わしが初めてかーちゃんにつれられてマンハッタンにやってきたころは、ガキの目で見ても滅茶苦茶な都会であって、見るからに危なかった。
7th Aveにすら「危ないブロック」というのがまだちゃんとあって、そこのブロックにさしかかるとおとなどもも道を渡って反対側に行く。
建物の近くを歩くとひきこまれて危ないから、といわれて建物から離れて歩かなければならないところも多かった。

その頃は、だから移動するのもほとんどはリムジンであって、子供心にも「なんだかサファリパークみたいだ」と思ったりしたのをおぼえている。

それがみるまに治安がよくなっていって、毎年毎年、くるたびに見て判るほど安全な街になっていった。
ひとつにはジュリアー二市長の時代には、まさかこんなに、と思うくらい大量に警官が街角に立っていて、その頃はもう高校生になっていたわしが見て、誰かが何か悪い事をしようと思っても、街の角角にフットボールチームくらいの数の警官がまとめて立っているのでは悪い事のやりようがない、と考えて可笑しかったりしたものだった。

それからいままでの十年間、マンハッタンはわしにとっては「最も楽しい都会」「最も安全な都会」で、要は、砂場のようなものだった。

大学生になると、ひとりでも合衆国によくやってくるようになったが、アトランタ、シカゴ、と他にも好きな街があっても、マンハッタンだけはいつも「別格」であったような気がする。

むかしから、このブログを読んでいる人は知っているが、わしには子供の頃もうひとつ好きな都会があって、それが「東京」という街だった。
お世辞にもカッコイイ街並みではなかったが、わしは東京という街の猥雑で雑然としていて田舎じみているのに洗練された細部がある、その混沌とした感じが好きだった。
多分6歳くらいのときだと思うが、ストップオーバーで寄った東京の夜景があまりに壮大で綺麗だったので妹とふたりで空港シャトルの冷たい窓に顔をくっつけて、くっつけすぎて鼻をふたりで豚鼻にしながら、すげえー、と思ったのをおぼえている。
いま考えてみると箱崎のあたりを通っていたのだと思うが、ちゃんとは憶えていない。

それが東京との出会いであって、ニュージーランドやロンドンで何度もあったことがある、妙に機嫌のよいおじさんであった義理叔父の出身の街が、こんなに自分の人生と大きく関わるようになるとは、その頃はまだよく判っていなかった。

たとえば、ラーメンという食べ物がある。
わしはいまでも、あんまりこの食べ物が好きではないが、マンハッタンでもっとも麵類がおいしいということになっているモットストリートの何軒かの上海・香港料理屋でだす麵より、東京の「ラーメン」のほうがおいしいくらいのことは、わしにも簡単に判別がついた。
いまは「一風堂」に延々長蛇の行列をして一杯2000円のラーメンを食べるくらいだからマンハッタン人もラーメンのおいしさを判っているが、その頃はまだ日本のことをよく知っているひとでも「ラーメンって中華麺の紛いものだろう」というくらいの認識であって、実際、レキシントン通りあたりで「日本式中華料理」というような看板を掲げているその手の店も不味い店ばかりだった。

それが日本では遙かに手がこんだ味で、とんかつも他の「洋食」もそうだったが、わしは東京に着くと、義理叔父や従兄弟と一緒に築地や銀座の日本でしか食べられない食べ物をだす店によくでかけるようになっていった。

その頃はまたコンピュータパーツの街としての秋葉原が最盛期だった頃であって、英語世界では最も先進的なパーツが手に入るシンガポールよりも、さらに少し進んでしかもハイエンドのPCパーツがこれでもかこれでもかと並んでいて、古典的な技術オタクであるわしはよく段ボール二箱ぶんくらいもパーツを買って妹に呆れられたものである。

もっとよかったのは電子パーツの店をのぞいてみると、およそなんでもつくれるだけの部品が小売りでならんでいたことで、アールグレイの香りよりもハンダが焼ける匂いのほうが好きなわしは、自分がつくりたいものの部品の調達リストをつくって、よく出かけたものだった。

その東京が「みるみるうちに」という表現を使いたくなるほど、あっというまに冴えない図体がでかいだけの田舎町になりさがっていったのは、こうやって思い返してみると、2003年くらいからだったように思われる。

それまではたとえば3月のを終わりにニュージーランドを出て、東京に寄ると、どう表現すればいいかわからない「わあ」というような熱気が空港から一歩でただけで感じられたのが、なんだか森閑としているように感じられるようになった。

溜池のANAホテルに泊まった翌朝、サブウエイで朝食をとっていたら背中に妙な視線を感じる。
振り返ってみると、そこには壁際に10人くらいの日本のひとが座っていて、そのどの人もがまったくの無表情で、そういう言い方はひどいが「うつろ」としか表現のしようがない目で、こっちを見ていて、思わず「ぎゃああ」と叫んで逃げ出したくなったりしたのも、その頃だったと思う。

その何年かあと、日本の衰退がなぜ起こって、どういう具合に具体的に推移したか記録しようと考えて5年間11回に渉って日本にやってくることになるが、2003年という年には、もうやがてそうなる、と直感していたのだと思います。

シドニーやオークランドのような南半球の「都会」は2002年頃までは、ほんの田舎街にしかすぎなかったが、移民の流入に伴って、実質的にも都会の顔をもってしまった。
それ以前と何がいちばん違うかといえば、それはひとの考え方であって、ふたことめには人種がどーのと暇つぶしのように言っていた老人たちまで、そういうことを考えなくなった。
アラン、というひとはまずアランというちょっと愛想が悪くみえるがにっこり笑うと人間の良さが誰にも見えるような性格の若い聡明な会計士であって、そのひとの両親が香港からやってきた中国系であることはふだんは忘れている。

一方で欧州はこうでアジアはこういう具合で中東人というのはこういうものなのだ、という論説というようなものは、急速に関心を失った、どころか失笑のたねになることが多くなったのは、別に書物に知識を求めなくても、現に職場に行けばインド出身のひともレバニーズも職場の同僚として「おはよう」をしているからで、いざそういう生活になってみると人間が観念でこさえあげた像というものは殆ど何の有効性もない、と判ってしまう。

マンハッタンは移民の受容の歴史が古いぶんだけ、同じ移民社会でも古い世代に属しているので「人種のるつぼ」という人がいるが、まだ「人種のモザイク」とゆったほうが実情に近いところがある。エスニックグループがそれぞれのコミュニティをもっていて、仕事や遊びに行くときにだけ「広場」の役割をはたしているショッピングエリアやクラブで一同に会する、というところがあると思う。

そういうことはイングランドでも同じであって、移民の受容としては古い形に属する。
オークランドのような街は文化も出身地域も異なるひとびとが完全に混交して住んでいてラミュエラのような高級住宅地でもインド系も中国系も中東人もまんべんなくいる。

そういところは同じ移民社会でも「世代の差」のようなものがあるようです。

考えてみると、東京が「都会」であったころというのは、世界でも最も異質な文化同士がほんの短いあいだにしろ、小さな火花を散らしていた頃なのでしょう。
わしには知るべくもないが、叔父が子供時代を過ごした頃の青山や原宿には「何か違うもの」を求めて、たとえばデイヴィッド・ボウイが内緒でやってきていたり、クラプトンたちが遊びにきていたり、いろいろなひとが世界中から「遊びに」やってきていた。
その70年代から80年代にかけての東京は世界でもっとも「奇妙なもの」があったところで、それを求めてさまざまなひとがきた。

現にマンハッタンで、たとえば画廊が主催するパーティにでかけると、いま50代後半くらいの元モデル・女優・カメラマン・デザイナーというようなひとびとは、よく東京の話をして懐かしんでいる。
シドニーの実家と仕事ででかけるロンドンの途中で寄っては原宿にビルを構える「ちょっと、かわいい尻の日本人男」を「fxxk」するためにアパートを買ってもっていた元モデルのおばちゃんや、服をつくるためにときどき青山にでかけたというばーちゃんたちが、「混沌としていてクレージー」だったむかしの東京の話をよくしています。

そういう時代から、いまの「超均質」で気難しく、理屈ばかり述べている老人のようないまの東京へ、どうやって変化していったかは、わしの観察では他の国にはみられない議論どころか「世論の同質化」に向かって働いた日本語インターネットや、やはりインターネットによって爆発的に広まって、いまでは世界中に名をとどろかすことになった日本型のゼノフォビア、極端なほど無責任なオピニオンリーダーたちと、それにぞろぞろついて歩く「ネット市民」というようなことに理由が求められそうだが、
長くなってしまったので、今度、ということにします。

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4 Responses to

  1. SD says:

     最近ちょっと落ち込んでいますが、まあ生きています。
     このところのアイデンティティのよりどころであった、外国友達を新たに見つけられていないからかもしれません。

     そういえば、ある日本のインターネット黎明期の個人・機関の動向をまとめた本に、秋葉原が電気街としての雰囲気を失い始めたのは2001年ごろだ、とありました(確か)。それを押しのけて代わりに入ってきていたのが、せまい意味での「オタク」文化でした。今回の記事とどこか符合しているような気がします。

  2. SDどん、

    >最近ちょっと落ち込んでいますが、まあ生きています。

    元気なんかあったってなくたって同じようなものだからテキトーにいくのがよいとおもう。メールに返事を書いてたところ。またね。

    ネコどの

    >ラーメン2000円・・・。死んでも食わねー。

    ネコがラーメンをたべてはいけません

  3. salubri says:

    「世論の同質化」を極端に押し進め、「日本型のゼノフォビア」を見る見るうちに広めた物として、2ちゃんねるの役割は本当に決定的だったと思います。ウィキペディアも日本語はそういう物になってしまっている様ですね。思えば、女性への憎悪や子どもに性的興味を持つ事も、特に2chで尖鋭化が加速し、ネットに膾炙したような気もします。
    例えばフリーソフトを探している時や、フライパンを買い換えようと考えている時等、参考に覗いてみる事はあっても、社会問題?やニュースについて話し合っている場所は、どうしても馴染めませんでした。あそこは憎悪が燃料になる時(たまに「正義」と言う名前になっていますが)、一番凄まじい勢いと効率で駆動する様に思います。そして、多くの人が揃って同じ意見を言っていると、物凄く興奮してしまう習性があるみたい。それらの語気が横柄だったり暴力的だったりすると、それだけで幻惑されてしまう人も居るみたい。……何だか絶望的です。恫喝される事に慣れ過ぎているのか、暴力を振るえる立場に憧れがあるのか。

    機械の事は良く分からないけれど、90年代の終り頃に秋葉原へ行ったのは今でも覚えています。まだ「電気街」であって、マニアックな場所で探せば何でもある所だと漠然と思っていました。店の軒先に、何だか全く分からない細かい部品が、沢山かごに入れて並べてあったなあ。今は「オタクの聖地」なんだそうで、人の下半身に訴えかける方向性もあるらしく、あまり行きたいとは思いません。

  4. salubriどん、

    >「世論の同質化」を極端に押し進め、「日本型のゼノフォビア」を見る見るうちに広めた物として、2ちゃんねるの役割は本当に決定的だったと思います。

    2chは日本人が苦労してここまで築いてきたものを無責任な人間たち特有の無造作なみぶりで、あっといまに破壊してしまった。
    しかも家庭内暴力にも似ていて2chでなぶりものにされたひとたちは有名なひとも無名なひとも2ch的な攻撃を他人にして無意識な憂さ晴らしをする、という悪い循環もつくったとも思います。
    2chはだいたい30代後半くらいから50代になりたてくらいのひとたちのものだが、ちょうどこの世代が自分たちの作り出した「無責任言論の王国」の責任を全部とらされそうなのは見ていて興味深いものがある。

    彼らが嘲笑ったものは「社会的責任」や「ぐずな善良さ」というものでしたが、そういうダッサイものだけが人間の社会を人間的に保っているのだということを知らなかったのね。
    因果応報というが、ちょうど彼らの世代を犠牲にした税金・社会保障制度が計画されているらしいのは(ほんとうとすれば)できすぎた皮肉と思いました。

    >ウィキペディアも日本語はそういう物になってしまっている様ですね
    ひどいよね、あれ。

    >子どもに性的興味を持つ事も、特に2chで尖鋭化が加速し、ネットに膾炙したような気もします。
    なぜあれだけ反社会的な勢力が社会的に処罰されないのか、日本にいるときはよく議論になっていた。
    「結局バカはバカだ。ほっとけ」ということになってしまうのがダメでしたのい。
    将校さんたちは兵舎のバカ騒ぎまでは手がまわらない、ということのようでした。

    >あそこは憎悪が燃料になる時(たまに「正義」と言う名前になっていますが)

    たまに正義という名前になっている、っていいのい。笑ってしもうた。
    あなたは賢い人なのだな。

    >恫喝される事に慣れ過ぎているのか、暴力を振るえる立場に憧れがあるのか。

    結局かれら自体が直面しなければならなかった。「軍隊社会での不遇」を誰かにたたきつけたい、というだけのことなのよね。

    だから2chにいちばん寛容なのは、わしの知っている範囲では「トーダイおじさんたち」で、まとめてバカだから、とゆってただの一度も覘いたこともないよーでした。
    どーでもいい、と思っている。そういう支配層の無関心に対して狂いまわりたいような悔しさがあるのでしょう。

    >まだ「電気街」であって、マニアックな場所で探せば何でもある所だと漠然と思っていました。
    ひとつかみの核物質があれば個人が核爆弾をつくれる街だった。
    「インターフェース」という雑誌と一緒に、日本の「技術力の高さ」というものの内容が他国とはまったく性質が異なるのを体現している街だった。
    MITの友達と一緒にいったらね。
    「おれは、ここにすみたい」とゆってました(^^)
    天国だぜ、って。

    >今は「オタクの聖地」なんだそうで、人の下半身に訴えかける方向性もあるらしく、あまり行きたいとは思いません。
    いまの秋葉原くらい退屈な街はない。くだらないよね。
    バカみたい。

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