Daily Archives: April 23, 2011

ベンキョーしよう

ロックバンドでねーちんたちにきゃあきゃあゆわれながら人生を過ごす、という手堅い人生の計画をあきらめたのは妹の陰謀だった。 わしをバンド仲間から引き離してあんないけないことやこんないけないことから遠ざけてしまった妹の悪辣な知恵についてはいつかは述べることがあるであろう。 いざ、あんないけないことやこんないけないことが一挙に生活から消滅してしまうと、わしはひどく退屈せねばならなかった。 大学と名の付くものに入るには、まだ間があるはずだったが、わしが生まれて育った国は日本のような工業規格品みたいな国とは違って途方もなくええかげんな国なので、 大学の片隅でしょぼしょぼベンキョーしてもよいことになった。 そこはえらそーで自分は頭が良いと思い込んでいるバカたれがたくさんいる気取り屋の収容所のようなところであって、そもそも収容所そのものに気が遠くなるくらいオバカな細かい規則が網の目のように張り巡らされていてくだらなかったが、それなりに良い所もあったと認めねばならない。 よくないところは、集まっている基地外の諸君が、それまでバンドの形で集合していた基地外とタイプが異なって「遊ぶ」ということにかけては、不細工というか粗野というか、オモロイことが何も出来ないひとびとだったことで、仕方がないから、わしはベンキョーをしようと考えた。 ベンキョーするに際して考慮したことは「向こう500年間に役に立つようなことはベンキョーしない」ということであって、わしは役に立つということが頭から嫌いなので、たとえば頭に「応用」がつくような学問や工学のようなものはとんでもない、と考えた。 いま考えてみると新しい画材・色彩を発明するとか世にも妙なる響きをもつ楽器を考案するとか音響学の奥義を究めるとか工学でも、役立たずの道を囂々と邁進する王道を歩くことも出来たわけだが十代後半のバカガキの頭では、そんな賢い考えは浮かばなかった。 西欧文学をやるのにラテン語が出来ないのでは、階級が下から3番目くらいの序列も知能も低い悪魔でも腹を抱えて笑うだろう。 それも、えーと、えーと、コーギートー、エルゴー、うーんと、スムなんちゅう調子ではダメであって、トマス・モアの一節くらいはカッチョヨク暗唱できるのでなければならない。近代ラテン語は、わしのボロ高校でも英語の時間にやらされるくらいで、差別がはかれないので、文学的教養とか文学的素養とか現代における死語を口走るには、せめて古典ラテン語が出来なくてはダメである。 実際近代ラテン語とそれから派生する諸方言が判らなければ、気取り屋のボストン人が書いた詩ひとつちゃんと読めやしない。  どうようにして科学では数学が出来なければダメである。 世の中には生物系という数学がまるで出来なくてもやれるとされる科学もなくはないが、あれは実は生物というものが(ぴー)…(この部分は良心による検閲の結果削除されました) わしは、どのくらい、ということはないが数学はだからよくやった。 数学者になろうと思ったわけではない。 どちらかというと言語を学習するようにやったのだと思います。 ひとりで机に向かって、というようなことはあまりやらなくて、気の合う友だちとビールをちびちび飲みながら、議論しながらやることが多かった。 そんなバカな、ひとりでやるのでなければ集中できないではないか、と日本のひとならば言いそうだが、慣れればこっちのやりかたのほうが遙かに数学がうまくなる。 輝く偽善のワタミ学術用語を用いれば、おすすめであります。 あるとき妹が妙に深刻な顔をして、わしの部屋にあらわれたことがあって、「おにーちゃん、わたし、このあいだ行ったKのパーティで…あのときよ、きっと…子供ができちゃったの! わたしの人生なんか、もう終わりだわ!」 ちゅうことかな、けけけ、無学者め、マジメな人間が羽目を外すと地獄の門がひらきやすい、という聖書の文句を知らんのか、この世にマジメな人間が破滅するということほどドラマ性があって楽しいことはなかりけりと喜んだが、そうではないのであった。 ベンキョーは、なんのためにすると思うか、という。 (く、くだらん) (全然、悲劇性というものがないやん) (だから優等生て嫌いなのよ) わしが「単位時間あたりの収入を上げるためであろうの」というと マジメに答えないと兄妹の縁を切るという。 ほんとうに縁を切ってくれたら欣喜雀躍だが、これまでの行動に鑑みて妹がそんな好条件で縁を切ってくれるわけがないので、ちょっと考えてみたことがある。 T先生と、わしは散歩するのが好きであった。 秋の丘陵をT先生と散歩していると、わしのパーな頭ではただの「森」なのが、先生の眼には高解像度の自然が鮮明に映っているのであってCGAとUXGAくらい違う。 夜になって「天上の無数の星」というようなことをわしが口走ると、先生はにやにや笑いながら、空に見えている星は空気が完全に澄んでいても5000もないよ、という。 一枚の葉をとりあげて、それから判ることを延々と述べてきかせる。 人間実践検索図鑑みたいなひとである。 先生とわしは同じ世界を見ているのに、そこから得ている情報は虫と神様ほども違うのであって、わしは教育というものなしでは人間というものはただの性能の悪い粗雑な認識装置にしか過ぎないことをよく思った。 勉強しても人間は向上したりはしない。 わしの行った大学は世界でも指折りのカッチョイイ大学ということになっているが、 そこに滞留している阿片崫の住人たちの頭のわるさを観察すれば、そのくらいのことは考えなくてもわかる。 しかし、その頭の悪い住人たちは話をしてみると判ることは、底抜けに愉快で、なによりも認識している世界が精細で豊穣である。 思い込みが少なくて、依拠している現実の有効数字の桁が多い。 … Continue reading

Posted in ゲージツ, gamayauber, 十全外人文庫 | 9 Comments

友だち

誰が友だちでそうでないかというようなことを考える習慣がわしにはない。 他のこととおなじでテキトーなんです。 嫌いなひとがまわりをうろうろするのは嫌なので、「きみは嫌いです」ということははっきり言う。 きみの存在にも興味がないから、わしに近寄らないでね、とちゃんとお願いする。 本人が楽しいひとでも、くだらないお友達がまわりにくっついているひとも、わしの半径100メートルによっちゃいやよ、と丁寧に依頼します。 まともな人間なら、そうゆっているのにわしに近づいたら殴られるくらいのことはわかるであろう。 わし、元ヘビー級拳闘人(アマチュアだけどね)ですけん。 なぐられると痛いねん。 友だちは数が少なければ少ないほどよい、というのは考えてみれば当然のことである。 それを当然だと思わない人は、ようするにまだ友だちというものがいないのだと思われる。 わしは最小友人主義(ヘンな「主義」だのい)だが、世の中には良い人間であってしかも付き合って愉快なひとというのはうようよいるので、どうしても数が増えてしまう。 友人からそうでないかというような選定をする習慣はなくても、あるとき、ふと気がつくと、このひとって、わしのお友達なのね、と考える瞬間がやってくる。 そうやって出来たお友達と、鳥居坂をあがり芋洗い坂の途中のバーのテーブルに腰掛けて、のんびりグラッパを飲みながら雲量定数の決まりかたや、マクベスを待っていた運命や、ラシーヌの台詞や、あるいは能楽の卒塔婆小町の歩き方のまねをして遊んだりするのは楽しいものである。 あるいはセブンダイアルズのバーで同世代同国語の友だちとあえば、英語のクラスであるのにラテン語ばかりやらされた怨恨の精算や、ボートを漕ぐアホ歌、天井の低いクラブや、蛎殻がつまれた路地、結局ホテルの建物を半分ぶちこわしてしまった旅行のことを話し合って暗然とする。 つまりは他の誰が聴いてもなんのこっちゃわけのわからない話をひそひそとして、くっくっくっと、もうすぐ窒息死しそうな忍び笑いをもらして苦しがっているわけで、苦しがるためにわざわざでかけてきてオカネを使うなんて、ほんまにアホなひとびとである。 英語と欧州語の世界ではドアをノックしてはいってくる友だちが多いが、日本語でも手足のついたたいていはおっちゃんたちの友だちも多くても、重要度はネットの友だちのほうにあるようだ。 名前を挙げるのはいくらなんでも下品だからやらないが、わしがいまでもこうして日本語を書いているのは、むかしむかしから付き合いのあるほんの数人のネットの友だちがいるからであって他には理由がない。 「見聞を広げる」とか「知識を拡大する」とかな自己の向上みたいなことにはわしはまったく興味がないので、そういうこととはもちろん関係がない。 どちらかと言えば、これだけ悪意に満ちて冷酷な「世界」というものに取り巻かれながら、淡々とごく自然に善意だけで生活してゆける人々が、ネットの向こうという、そもそもほんとうにいるんだかいないんだかもはっきりしなかったはずの相手に向かって、辛抱強くあきらめもしないで、手をさしだして触れあおうと考えられる「人間」というものの不思議さに驚いたまま、ここに来てしまったのであるに違いない。 ブブリキやNasuやjosicoはんが友だちでいようとしてくれた頃のわしは、画面の「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているゲーム廃人のどーしよーもないひとであった。 実はそれはブログを書いていた少し前のわしの姿の一部であって、そのうちめんどくさくなってだんだん正体をあらわしてしまったが、友だちというものはそういうものであって、わしがほんとうはいまだに本質的には「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているだけのバカタレなのを、ちゃんと知っているのです。 モニというひとがひたすらわしを救済しているだけであって、わしのバカタレぶりは、なんも変わってひん。 友だちというものは、別に決めなくても、もう見た瞬間から「あっ、このひとは友だちなのだな」と判る。 むかしブブリキが「あなたはわたしを嫌いなようですが」と書いてきた手紙をわしはいまでも大事にとってある。 わしのほうはブブリキはわしじゃけん、と思っていたので、びっくりするような、ははは、やっぱりわしだし、と思うような、ヘンな気持ちでその手紙を、ほとんど懐かしいような気持ちで読んだ。 もちろんjosicoはんの神棚にあげて毎日柏手をうちたいくらいの、人間の勇気に満ちた、カッチョイイ手紙も大事にとって繰り返して読みます。 こんなひとびとが、わしにとってはもともとは読めてるんだか読めてないんだかもよく判らない言葉のネットの向こうの、そのまたなんだかよくわからない曖昧な経緯のところにまで何人もいるのでは、友だちの数が計画経済通り、ちゃんと減少してくれるわけもない。 世の中というのはまことに無茶苦茶な場所です。 友だちになってしまいそうな上に、おまけにマジなひとびとであって、テキトーですテキトー、袖がすりあっても多少しかない縁とゆってすれ違うだけですまなさそうなので、このひとびとともっと話をしてみたいという自分の気持ちに対する虚しい抵抗を繰り返していたが、ジュラさんと優さんというひとが「友だち」という言葉を思い浮かべると、自動的に頭に浮かぶようになってしまって困っているが、それも仕方がないのだろう、という実はただそれだけのことを書くために、これを記事にしてしまったが、しまりもまとまりもないままモニさんが遊びにいこうとゆいにきた(いつのまに起きたのだろう)ので、 もう出かけます。 でわ

Posted in 異文化異人種, gamayauber | 3 Comments