友だち

誰が友だちでそうでないかというようなことを考える習慣がわしにはない。
他のこととおなじでテキトーなんです。
嫌いなひとがまわりをうろうろするのは嫌なので、「きみは嫌いです」ということははっきり言う。
きみの存在にも興味がないから、わしに近寄らないでね、とちゃんとお願いする。
本人が楽しいひとでも、くだらないお友達がまわりにくっついているひとも、わしの半径100メートルによっちゃいやよ、と丁寧に依頼します。
まともな人間なら、そうゆっているのにわしに近づいたら殴られるくらいのことはわかるであろう。
わし、元ヘビー級拳闘人(アマチュアだけどね)ですけん。
なぐられると痛いねん。

友だちは数が少なければ少ないほどよい、というのは考えてみれば当然のことである。
それを当然だと思わない人は、ようするにまだ友だちというものがいないのだと思われる。
わしは最小友人主義(ヘンな「主義」だのい)だが、世の中には良い人間であってしかも付き合って愉快なひとというのはうようよいるので、どうしても数が増えてしまう。
友人からそうでないかというような選定をする習慣はなくても、あるとき、ふと気がつくと、このひとって、わしのお友達なのね、と考える瞬間がやってくる。

そうやって出来たお友達と、鳥居坂をあがり芋洗い坂の途中のバーのテーブルに腰掛けて、のんびりグラッパを飲みながら雲量定数の決まりかたや、マクベスを待っていた運命や、ラシーヌの台詞や、あるいは能楽の卒塔婆小町の歩き方のまねをして遊んだりするのは楽しいものである。
あるいはセブンダイアルズのバーで同世代同国語の友だちとあえば、英語のクラスであるのにラテン語ばかりやらされた怨恨の精算や、ボートを漕ぐアホ歌、天井の低いクラブや、蛎殻がつまれた路地、結局ホテルの建物を半分ぶちこわしてしまった旅行のことを話し合って暗然とする。

つまりは他の誰が聴いてもなんのこっちゃわけのわからない話をひそひそとして、くっくっくっと、もうすぐ窒息死しそうな忍び笑いをもらして苦しがっているわけで、苦しがるためにわざわざでかけてきてオカネを使うなんて、ほんまにアホなひとびとである。

英語と欧州語の世界ではドアをノックしてはいってくる友だちが多いが、日本語でも手足のついたたいていはおっちゃんたちの友だちも多くても、重要度はネットの友だちのほうにあるようだ。

名前を挙げるのはいくらなんでも下品だからやらないが、わしがいまでもこうして日本語を書いているのは、むかしむかしから付き合いのあるほんの数人のネットの友だちがいるからであって他には理由がない。
「見聞を広げる」とか「知識を拡大する」とかな自己の向上みたいなことにはわしはまったく興味がないので、そういうこととはもちろん関係がない。

どちらかと言えば、これだけ悪意に満ちて冷酷な「世界」というものに取り巻かれながら、淡々とごく自然に善意だけで生活してゆける人々が、ネットの向こうという、そもそもほんとうにいるんだかいないんだかもはっきりしなかったはずの相手に向かって、辛抱強くあきらめもしないで、手をさしだして触れあおうと考えられる「人間」というものの不思議さに驚いたまま、ここに来てしまったのであるに違いない。

ブブリキやNasuやjosicoはんが友だちでいようとしてくれた頃のわしは、画面の「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているゲーム廃人のどーしよーもないひとであった。
実はそれはブログを書いていた少し前のわしの姿の一部であって、そのうちめんどくさくなってだんだん正体をあらわしてしまったが、友だちというものはそういうものであって、わしがほんとうはいまだに本質的には「ゲームオーバー」を見つめてボーゼンとしているだけのバカタレなのを、ちゃんと知っているのです。
モニというひとがひたすらわしを救済しているだけであって、わしのバカタレぶりは、なんも変わってひん。

友だちというものは、別に決めなくても、もう見た瞬間から「あっ、このひとは友だちなのだな」と判る。
むかしブブリキが「あなたはわたしを嫌いなようですが」と書いてきた手紙をわしはいまでも大事にとってある。
わしのほうはブブリキはわしじゃけん、と思っていたので、びっくりするような、ははは、やっぱりわしだし、と思うような、ヘンな気持ちでその手紙を、ほとんど懐かしいような気持ちで読んだ。

もちろんjosicoはんの神棚にあげて毎日柏手をうちたいくらいの、人間の勇気に満ちた、カッチョイイ手紙も大事にとって繰り返して読みます。

こんなひとびとが、わしにとってはもともとは読めてるんだか読めてないんだかもよく判らない言葉のネットの向こうの、そのまたなんだかよくわからない曖昧な経緯のところにまで何人もいるのでは、友だちの数が計画経済通り、ちゃんと減少してくれるわけもない。
世の中というのはまことに無茶苦茶な場所です。

友だちになってしまいそうな上に、おまけにマジなひとびとであって、テキトーですテキトー、袖がすりあっても多少しかない縁とゆってすれ違うだけですまなさそうなので、このひとびとともっと話をしてみたいという自分の気持ちに対する虚しい抵抗を繰り返していたが、ジュラさんと優さんというひとが「友だち」という言葉を思い浮かべると、自動的に頭に浮かぶようになってしまって困っているが、それも仕方がないのだろう、という実はただそれだけのことを書くために、これを記事にしてしまったが、しまりもまとまりもないままモニさんが遊びにいこうとゆいにきた(いつのまに起きたのだろう)ので、
もう出かけます。

でわ

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3 Responses to 友だち

  1. SD says:

     くだらない人とは付き合いをもたない、というのは、最近の私の信条です。
     こういうと日本語世界では冷酷な人に思われるのですが、しかしこれは程度・基準の差はあれどんな人でもやっていることで、私もほかの人々もうすうす勘付いているように、くだらない人と付き合うと自分までくだらなくなるのですから、やはり「友達百人できるかな」というわけにはいかないのだと思います。
     これに派生して、飲み会みたいなものにも、気に入った人だけが集まるときにしか行かないのですが、3000円以上の大金をわずか数時間のために払う価値は、私がよき人と思っている人との交わりの中にしか存在しないという、私自身の人格にかけた判断には一理あるのだと思って、うまくかわしながら生きています。日本で生きることがきわめて困難なあり方だとは、わかっているんですが。

     このところガメさんのテーマになっている「現実とは何ぞや」という疑問については、私もよくわかりません。時々信じがたいほど冷酷で、気まぐれに何人かを堕落に引きずりこむものだと思えば、一方である人の重荷を一気に吹き飛ばし、なんでもやれるという最高の安堵感と楽観をプレゼントしたりし、しかしそれは奴隷を雇うときに最初になされるもてなしのようなものだったりする。
     ただ同時に、現実とは「生きていてもよいよな」と思っている人にだけ耐えられるものなのだろうな、と思っています。これがなくては、いかに物理的・経済的・社会的に高い力を有していようと、長くはもたないでしょう。そして、そう思える根拠は多くの場合、人と人との間に埋まっているようです。

  2. says:

    (・∀・)(・∀・)(・∀・)わ~
     
    ブブリキさんの手紙の文面に泣いてしまいました。
     
    あとね、ブログはほんとはやっている(いた)のだけど、最近全然書いていないのでどーしよー、と思っていたところです。
    ついったが手軽すぎてついついついったばっかやってしまうけど、ついったでRTとかばっかしてるうちに、自分の言葉が、頭のあったはずの場所からなくなっているような感じがしないでもないような。
    (そのかわり仕事用の言葉はいい感じです。)
     
    (あと、わしはちょっと難しい人(らしい)のできっと困らせることもあるじゃろうと先に謝っておきます。うふふ。)

  3. 親愛なる優さま、

    ご返信が遅れました。

    >ブブリキさんの手紙の文面に泣いてしまいました。

    あの人はいいとしこいて繊細なんです。

    >ブログはほんとはやっている(いた)のだけど

    どこで公開してるかおせーてくれ

    >ついったが手軽すぎてついついついったばっかやってしまう

    わし、ツイッタよかブログのほうが手軽ですのい。
    文章が短くなんねーんだよ

    >自分の言葉が、頭のあったはずの場所からなくなっているような感じがしないでもないような。
(そのかわり仕事用の言葉はいい感じです。)
 

    とゆーことは「お言葉さん」のほうが優さんよりも強くなったのだろうか。
    それ、いいな。

    >あと、わしはちょっと難しい人(らしい)のできっと困らせることもあるじゃろうと先に謝っておきます。うふふ。)

    わしは新難解国語辞典なひとびとが好きな温和で成熟した大人だからダイジョーブだ。

    SDどん、

    > くだらない人とは付き合いをもたない、というのは、最近の私の信条です。

    わしは立派なひとも苦手なので、誰ともつきあわなくてよくて楽ちんです。

    >飲み会みたいなものにも、気に入った人だけが集まるときにしか行かない

    わしは「高い店でおごってくれる」のでないと行かねっす。

    >「現実とは何ぞや」という疑問

    わしは「現実」以外考えられしまへんねん。トンカチみたいな頭ですのい。

    >現実とは「生きていてもよいよな」と思っている人にだけ耐えられるものなのだろうな

    身構えて、僻目で暮らさなければ、普通に暮らしていれば、楽しいことはいっぱいあんのよ。
    わしは店員のねーちゃんが心から嬉しそうに「ニッ」と笑うだけで一日しあわせですのい。

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