「フクシマ」のあと

ジョイスシアターに行った。
http://www.joyce.org/

ジョイスシアターは、わしのアパートから歩いて5分もしないところにある小さな劇場です。
小さいが座り心地の良い椅子があって、寛いだ雰囲気である。
PAがちょっと古いが、アポロシアター
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/04/10/1976/

よりは、マシである。

マーサ・グラアム ダンス・カンパニー(Martha Graham Dance Company)出身のRamon GuerraがつくったDanza Contemporanea De Cubaは、Sadler’s Wells and the Coliseum TheatreやバルセロナのMercat de las Floresでも公演するが、ニューヨークでは、このジョイスシアターにやってくる。
この頃は3月には、ハバナまでまずインストラクターと一緒に旅行して、Danza Contemporanea De Cubaの日常を観て、それから公演を観る、という面白いこともやっているよーだ。

公演そのものは、いつものDanza Contemporanea De Cubaの、洗練されているとはいえないが、性的暗喩と雄大な肉体の躍動に満ちた三幕ものであって、特に三幕目の、人間が陥る「情熱の地獄」とでもいうべき世界を描いたダンスが素晴らしかった。
激しい諍いに明け暮れるカップル、絶望のなかで暴力をふるいあうゲイのふたり、そういう、人間にとっては見慣れた光景がフリージャズにのって、ほとんど裸体のダンサーたちによって繰り広げられる。

モニは乳房まで見せるヌーディティは不必要だ、というが、それには舞台と客席の距離をゼロにする効果があったと思う。
ツイッタの友達はみな知っているように、ひどい風邪で「ぐるぢい」と思いながら、わしはカンドーしました。

どうも、キューバの人というのは何をやらせてもかっこいいな、とバカなことを考えた。
革命ですら。

先週くらいから「フクシマ」のニュースはなくなった。
英語の日常世界では、フクシマは「過去」になった。
日本は国全体がチェルノブイリみたいに印象されて、事故後の「国民なんてどーでもいいや」な対応も、ピント外れな上に恐ろしくダサイ「ローテク」事故処理も、世界中をびっくりさせてしまった。
日本って、あんな国だっけ、というぼんやりした考えだけが残ることになった。
もっと進んだクールな国だと思ってたのに。
なんだか国民が気の毒な国だな、と考えたひとがたくさんあった。
「日本人に生まれなくてよかった」という言葉をこの2ヶ月でいったい何回聞いたことだろう。

eメールの受信箱を覗くと、ひさしぶりにアメリカ政府が発行している日本への渡航者/滞在者への注意事項がはいっているが、「配らない」と言っていたヨウ素を突然配りだしたころは文章からして緊迫したものだったのが、「まあ、安定してますから」という調子になっている。
どうも、アメリカ合衆国政府は、日本政府がやっていることについて、正確な情報がとれる何らかの経路を確立したらしくみえます。

日本の人は、今回の事故で詭弁の才能を遺憾なく発揮した、とPが怒っている。
これほど長期にわたる大量の放射線物質の流出は前例がないから、データがない。
データがないことを利用して、日本人科学者たちは物理学者から医学者に至るまで
「危険とは言えない」という。
そう言っても科学の世界では非難しようがないからです。

年間被曝線量限度20ミリシーベルトという校庭利用限度はすごいが、これも、なにを見ても「出典はどこにある」「権威のある本のどこに書いてある」としか頭がまわらない日本人の社会では誰かが「20ミリシーベルトでは子供はいずれみな死んでしまうではないか」と言っても、「では根拠を示してみたまえ。専門家の私が大丈夫だと言っているのに素人のきみが何をいう」で終わってしまうだろう。
権威主義的な誤謬を許さない社会というのは、そういうものです。

放射線が人間の健康に与える被害は直感的には線形(一次関数のようにまっすぐ)に増えてゆくが、日本では限界値(階段関数のように10で、これだけ悪くなり、20になると、またこいういう症状になる)説をみなが何故か妄信しているのも、同じ理由によっている。
しかし、被曝線量限度といい、被害が限界値であるというモデルといい、「常識」というものに照らせば、「ほんとうの理由」は明らかであって、たとえば校庭の年間被曝線量限度を8ミリシーベルトにしてしまえば、戦時中の集団疎開と似たことを行わねばならず、そのためには大金が必要で、そんな予算はどこを探してもないから、であるに決まっている。
どうせ出来ないことならば、「出来ない」のではなくて、「やらなくてもよい」ことにしたほうが国民のためだ、という理屈なのでしょう。

そういう取り決めが政府のなかで悪意で行われているわけでないことを知るためのヒントは、たとえば細野豪志というひとの「原子炉は一時はコントロールできないところまでいった」(しかし、言えるわけがなかった)という発言から容易にうかがえる。
彼らが酔っているものは「ヒロイズム」であって、自分達がウソツキになって、この難局を乗り切らなければ、この国は終わってしまう、ということなのだと思います。

わしにはエダノというひとが、どんな顔で、「後で、さんざん世論の袋だたきにあうでしょうが、では、私が嘘をつきます」と言ったか、目に見えるような気がする。

ヒロイズムは、こわい。
とりわけ一身をかけた渾身のヒロイズムは、それがどれほど軽薄な自己陶酔に過ぎなくても、たくさんの人間を破滅においこむだけの力をもつ。
「私ひとりが非難を被ればいいことだから」と考えたに違いないエダノというひとのヒロイズムは、結局、(わしの意見では)日本人全体をこれから40年間の地獄につれてゆくことになった。
わしは、放射線の健康被害が限界値をもつ、と考えた事はないので、少し浴びればそのぶんだけ被害があると愚かにも妄信している。
わしは日本社会の基準では愚かすぎるほど愚かな人間なので、低放射線の被害は子供の感受性レベルによってしか起こらない、という日本で常識とされていることさえ、
「そんなわけはない」
「出典キボンヌ」
と考える。
そういう点ではいま人気があるらしいタケダ教授という人のいうことも、まったく信用ができない、と思う。
わしは科学をベンキョーしたが、科学の神様は「知らないことをおそれよ」と述べている。
判らないことというのは、どういう影響をどんな経路でどんなふうに与えるのか、いっさい予測がつかないのです。

日本の外に住むバカガイジンどものフクシマ事故の印象は、we-know-bestのひとびとが肩で風を切ってあるく「権威主義」の社会、というものがいかに恐ろしいものか、ということだった。
それには起きていることにもっと目を近づけてみれば、簡単に人間に「上下」をつけてランクづけしてしまう日本人の習慣とか、誤謬を認めない国民性、すぐに起きないことは予測がつくことでも「起こらない」ことにしてしまう国民的な癖、いろいろなことがあるだろう。
しかし、普通のバカガイジンどもは、そんなに目を近づける気が起こらなかったのであって、なぜなら、それは「とても嫌な世界」、なんだかひとをやりきれない気持ちにさせるだけの、途方もなく非人間的な世界に思えたからだと思います。

前に日本語ツイッタで小説家のひと(ここに怒鳴り込んできたのと同じ人
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/佐藤亜紀(tamanoirorg)さんへの返信/
です)が書いているのを読んでいたら、
「自分は、こんな世の中にはうんざりだから、いつ死んでもいいのだ。早く死ぬために努力している」という意味の事が書いてあって、へえええええ、と思ったことがあった。
このひとが言っていることのなかでは「私は虐殺される側の人間だ」というのがいっちゃんかっこよかったが、その次、くらいの印象で憶えています。

日本語のフクシマのニュースを読みながら、結局、日本の人はみな、この小説家のひとと同じなのだろーか、と考えた。

わしは、自分の心に訊いてみると、死にたいとも死にたくないとも考えたことがないよーだ。いざ、「もうすぐ死にます」と言われると、
「あっ、もう一杯ワイン飲むまでまってくれ」とかマヌケなことを言いそうだが、わしの基本的な「生きている」ことへのイメージは、あるんだかないんだか本当は判らないタマシイが肉体という道具を使って感覚を楽しみに来ているのであって、聴覚を使って音楽を聴き、視覚を使って絵やモニの美しさを眺め、触覚を使ってモニさんのすべすべのほっぺをすりすりしたり、筋肉を使ってバク転や前転をしてダイナミズムを楽しんだり、そーゆーことをやりにこの世にやってきた。

しかし、日本のひとはどうもわしのように肉体寄りではなくてタマシイ寄りの人生を生きているもののようである。
国民ごとギニアピッグ(いま気づいたが日本語ではモルモットちゅうんだな。いままでツイッタでもブログでも、わしが「ギニアピッグ」と書いたのを、みな「なんのこっちゃ」と思っていたに違いなし。ごめん)にされてしまって、未来の世界の疫学資料になった日本の人が、資料たるに甘んじることに決めたのは、どうもそういうことが関係ありそうな気がする。

戦争中に「敗北」という言葉がタブーであったように、いまの日本では放射線被害についての推測的言及は「風評被害」として非難されるが、静かに従容として死につく、というのはタマシイがタマシイの故郷に帰るイメージである。
そこでは肉体は、楽しむためのものであるより、邪魔なだけのものであって、
わしが最後まで「日本の感じ」に馴染めなかったのは、そういう肉体というものの存在の違いが案外おおきいのかもしれません。

世界中のひとの頭から「フクシマ」が消え、東京では放射性の雨が降っている。
この、前後から言えば「当たり前のこと」が、ひどく非現実的な光景に思われる。
マンハッタンの日本料理屋からも「Pray For Japan」のポスターが色が褪せた日の丸とともに一枚また一枚と剥がされていって、フクシマを思い出させるものは、「このソヤソースは、日本でつくられたものじゃないんだね?」という遠慮のないアメリカ人たちの質問と、それに「いえ、アメリカ産です」と答える仲居さんの、よく見れば強張った表情の顔くらいのものである。

わしは、相変わらず風邪でぼおっとした頭で、
「SFみてえ」とつぶやきながら、MPD(ミートパッキングディストリクト)の道を、チキンサモサめざして歩いている。
非現実が突然、現実と虚構の約束ごとを破って現実の世界に襲ってきたようなフクシマを、英語の世界にだけ住むひとびとは、そちらがわの窓を閉めて、ブラインドを下ろして、忘れてしまえばそれでなかったことにできるが、くだらない趣味がこうじて日本語がわかり、しかも自分がはらった努力に対して努力というものへの吝嗇のあまり日本語能力を捨てることも出来ないケチ男のわしは、相変わらず日本語のフクシマニュースを見て、「どひゃっ」とか「ええええー」とかつぶやいては、周囲のひとに、「ガメも、とうとう…」とゆわれておる。
いままでは、日本では、いま、こーなんです、というわしの話を一日に一度は嫌がらずに聞いてくれていたモニも、フクシマの子供が校庭で遊び、給食にも福島の食材が使われている、という話を聞いてからは、「私は日本の原発事故の話は、もう聞きたくありません」とゆって、聞いてもらえなくなった。
あのとき、みるみるうちに真っ青、(というのは表現というもので、正しく描写すればケント紙のように白くなったのだったが)になったモニの顔をおぼえている。

誰にも話が出来ないので、わしは、モニが母親とスカイプで話していたりするときに、こっそり寝室で日本語ニュースを見るが、そのたびに「どひゃっ」「ぐわっ」と思う。
ときどき、ある日、こっそりと日本語インターネットのニュースを覗いてみると、
「はっはっは。フクシマは日本が国家を挙げて世界のゲンパツ推進派に警告するためにでっちあげた大嘘でした。そんなことはなかったのよ。でも、ほんとうにゲンパツこわいから、やめよーね」
と書いてあったりしないかしら、と思うが、
無理だよねえ。

現実って、こんなに無茶苦茶なものだったのか。

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15 Responses to 「フクシマ」のあと

  1. JOSICO says:

    最近読んだ村上春樹の短いお話に
     言葉では言えないことを肉体が体験できるというのはとても素敵なことだ。
     でなければ生きている意味なんて殆どない。
    という文章が出てきて、ガメさんを思い出した。

    私は、タマシイと肉体はどっちが主体かはよくわからん。
    自分が自分という精神を持って在るというのはとても不思議ではあるが、
    …突き詰めて考えるとテツガクするしかないから、そんなことより目先の幸せに走りたいw
    いつ死んでも、まあいいかーと思うけど、いざ死ぬとなるといろいろ勿体ないと思うしな。

    でも、子どもたちのことは別だよな。
    子どもたちは大人全員で守り育てるものだ…という常識がなくなってるから、
    少子化も進んでいったのだし。(おかーさんの負担が極大だし)
    まーそもそも「自分らが逃げ切れば将来の世代がどうなってもいい」という思想が
    全てを形作ってるのだろうな…。

  2. >そんなことより目先の幸せに走りたいw

    それでえーんちゃうの?

    >まーそもそも「自分らが逃げ切れば将来の世代がどうなってもいい」という思想が
全てを形作ってるのだろうな…。

    そこまで、ひどいのかな。わしにはわかんね。
    わしはいまの日本政府をとりしきっているひとは「国体」のユーレイみたいなものにいまだにとりつかれていると思います。
    国民が全部死に絶えても「国体」は残るんやて。

    ばかばかしい。

    >子どもたちのことは別だよな。

    子供を犠牲にせざるをえない、と決めたところで、歴史のなかでのいまの「日本社会」や「日本という小さな文明」の価値は決まってしまったと思う。
    そういう意味ではまさに「子供に将来を託してそれまでに信じていた価値をすべて捨てた」1945年の日本人よりも遙かにひどいと思う。

    どんなに言い訳をしても、未来の人間はいまの日本社会を絶対に許してくれないと思います。
    残念よね。

  3. ぽんぴい says:

    こまいことを端折って言えば、
    18メートル上空で計測した政府発表の放射線量の計測を信じる人はおらん。
    五倍から十七倍が妥当だと思う。

    日本では今も放射性物質が降り注いでいる。
    ここだけじゃなくて、微量だが世界中に降り注ぐだろう。
    まことに迷惑なことで申し訳ない。

    日本政府は昔からバカだった。これはどうにもならん。
    民衆の知恵も酷く限られたものだ。
    この状況でガメ、キミならば何をする?

    嘆きも悲しみもせず
    怒りも殺して行動するだけだ。

    自分の死は恐くない。
    自分の死が恐くないなら、私には他者の死も恐れることが出来ない。

    誤解があると思うので言っておくが、
    子供の命は守る。
    多くの日本人がそう思ってるはずだ。
    残念ながら、みんなではないがね。

    ともかく、日本のことは放っておいて大丈夫。

  4. papikko2525 says:

    「そーゆーことをやりにこの世にやってきた」
    というのに激しく賛同します。
    …私の見えるところで生きてる人でソレを公言する人に遭えるのは奇跡に近いくらいごく僅かです。(狭い世界で生きてるなぁ)だから息苦しいかんじがするのか、とおもいました。

    ガメさん、いっぱい日本語書いてくれてありがとう。
    僥倖だと思います。

    今までの大勢の日本はないけれども、違う日本になってゆきますね。是非、息苦しくない方向で、とおもいます。

    ひとつずつやることやって、大事なこと大事にして、現実を見ずにかぁっこいい共同幻想をみな燃え落ちてゆくのを覚悟をもって眺めつつ、その火の粉をできる限りよけて払いながら(5分の1くらいは焦げると思)、いきたいとおもうますです。

    ありがと、ガメさん。

  5. nenagara says:

    僕は死にたくない。

    死んでもええとかしゃあないとか、思ったり書いたりすること自体、彼らの思う壺のような気がして癪に障るし、
    もし自分の子供が「こんな世の中なら死んでもかまわない」とか言いだすことを想像するといたたまれないから俺も言わない、というのもあるし、
    それと何より「誰がどうなったって僕は死にたくない!」って呪文のように言っとかないと、ヒロイズムが怖いから。

  6. wiredgalileo says:

    nenagaraさんに賛成!ただその感覚は、子供がいない若者には通じにくいようだ…というところが日本の問題だなあ。
    生死にリアリティがなく、基本的に不幸な人が多いということだと思う。「虚無」につかまっているというか…。
    原発を怖いと思うかどうかは、子供がいるか/生むつもりがあるかどうかで大きく違ってくるよね。

  7. wiredgalileo says:

    タマシイの話ですが…日本人は「植物的」という感じはあるかもね。自我や肉体の強力な「アストラル的な」文化と比べてエーテル的というか(Steinerの用語ですが)。で、その植物は群生なんだよね。
    群生全体を自分の体と感じてしまいやすい…ために、いまの状況は日本人的にはつらいものがあるんだよね。福島の人に悪い…とか思いやすく、そこを利用されてしまう。放射能安全神話は、原発安全神話が守れなくなったから次の神話を作っただけのもので、これからも(さまざまな人を犠牲にしつつ)原発帝国を続けるための仕組みなんだけどねえ。

    • ぽんぽんぽんぴい殿、

      >ともかく、日本のことは放っておいて大丈夫。

      相変わらず、ぽんぴいは気楽でいいのお

      (とはいうものの、いつもよりも遙かに真剣でまともなコメントなのを見ればぽんぴいが、どれほどいまの事態を心配しているかは判っています)

      papikko2525 さま、

      >私の見えるところで生きてる人でソレを公言する人に遭えるのは奇跡に近いくらいごく僅かです

      なんで?
      わしのかーちゃんですら同じだけどなあ。
      文化差かな。

      >ガメさん、いっぱい日本語書いてくれてありがとう。

      わははは。約束どおり二週間の練習で復活したでしょう。すごいすごい。ふんふんふん。
      (得意がってる音ね)

      >違う日本になってゆきますね。

      だんだん実際のひどさが暴露されているに従って新しい日本になってゆくと思います。
      ソビエトロシアと同じですのい。

      >ありがと、ガメさん

      (そり返りすぎて、うまく声が出ない)

      nenagaraどん、

      >僕は死にたくない。

      ネナガラは、どうして、そうやっていっつも物事をまっすぐに見られるのだろう。
      かっこいいもんが来ても、賢げな理屈を聞かされても、いろんなことに誤魔化されないのだな。すげーな。

      >もし自分の子供が「こんな世の中なら死んでもかまわない」とか言いだすことを想像するといたたまれない

      素晴らしい。虚をつかれてしまった。
      なるほど親というのは人間として正しい目をもつことでもあるのだな。

      ネナガラはいつもわしに「日本語をおぼえてよかった」と思わせてくれる。

      だいさんきゅ。

      wiredgalileoどん、

      >生死にリアリティがなく、基本的に不幸な人が多いということだと思う

      なんだか教科書のページに顔を突っ込んで、活字の匂いに安心しながら、うたた寝をしているような一生を送っているひとがいっぱいいるのよね。

      >「虚無」につかまっているというか…。

      現実が感じられないのだから「虚無」もないさ。

      >日本人は「植物的」という感じはあるかもね。

      わしは戦争中の「集団強姦行軍」の印象が強いので、日本人=植物的ちゅうのピンと来ないんです。とても攻撃的なイメージがある。
      でもラフカディオ・ハーンが主に貢献している「静かに立っている草木のような」日本人のイメージもあるのよね。

      「Spirited Away」で橋を渡ってやってくる八百万の精霊のイメージが、わしが日本に対してもっているイメージのなかで最も美しいイメージかもしれません。
      あのひとは、トトロもそうだが、「美しい日本」のイメージを描くことの天才だと思う。

      あの「躍動的な草木」こそが真の日本のイメージなのでしょう。

      >放射能安全神話

      どっちだか日本人が死んでみるまでわかんないので安全の極限値を信用することにしたわけですが、もし逆の仮定極限値のほうがほんとだったら正真正銘のジェノサイドですのい。

      信じられない、としかいいようがない。
      他に言葉がねっす。

  8. wiredgalileo says:

    「千と千尋」もそうだけど、宮崎ハヤオの描く世界では、うぞうむぞうのよくわからない物の怪とか生き物とかが出てくるよね。水木しげるもそうだけど。
    日本(というかアジア)の生態系や田んぼというのはそういう世界で、さまざまな妙な生き物が平然と歩いて行ったりするのを見て、人間もこういううぞうむぞうのひとつだよな、としみじみ思うような世界。それは、中東とかの厳しい自然とは全く違う世界でしょうね。

    放射能安全神話については、日本だけの問題というよりは、ICRPなどの国際基準がすでに「内部被曝は認めない」という虚偽的なものだという問題があるんだよね。例えば劣化ウラン弾やチェルノブイリとかで、実際に奇形とか重い病気とかが出ているのに、外部被曝はわずかだとかいう根拠から?「他の被害は無い」という理論?を押し通している。(米国も、自国兵の劣化ウラン被害を認めてないよね)つまり、原発/核兵器帝国を維持するための神話体系だよね。

    しかし、今までは、「どこか遠くのかわいそうな人たちの被害」だったものが、日本人は突然、自分の問題として向き合わざるを得なくなった。たとえば、「劣化ウラン弾では民間人の年間被曝量は1ミリシーベルトを超えない」http://p.tl/BdNN はずなのに、実際には大量の奇形の赤ん坊の写真 http://p.tl/xl1H とかがあるわけで。そうなってくると、現在の日本の政府筋が主張している「20ミリシーベルト/場合によっては100ミリシーベルトまでは大丈夫」というのは何?と思えてくるわけだよね。
    これをきっかけにして、たくさんの人が目覚めると良いのだけどね。

    • wiredgalileoどん、

      > 水木しげるもそうだけど。


      水木しげる、いいよね。後ろの森はいかにも精霊が住んでそうなリアルなのに、その前で会話してる「人間」は一筆書きかよ、っちゅうくらいえーかげんなの(^^)
      わしは、あのひとの絵、大好きです。
      人間というものへの絶望を絵で表現できているひとだ。

      >、さまざまな妙な生き物が平然と歩いて行ったりするのを見て、人間もこういううぞうむぞうのひとつだよな、としみじみ思うような世界

      そー、そのとおり。そーゆー世界を南方熊楠や折口信夫は確固としてもっていた。
      でも中途半端に西洋に目をむけたことによって日本は失敗した。
      その無残な失敗の集大成が技術のかけらも理解でき名人間たちがどんどん悪化させてゆくだけのフクシマと、それを唖然として眺めているばかりのいまの日本の人たちと思います。

      借り着は、結局、身体にあわないのだから、急場がしのげたところで、自前の着物に戻れば良かったのに、それをさぼった。
      でも、ここまでのしっぺ返しがくるとわ…わしも悲しいです。(なぜ「悲しい」のか判らないが)

      >放射能安全神話については、日本だけの問題というよりは、ICRPなどの国際基準がすでに「内部被曝は認めない」という虚偽的なものだという問題があるんだよね。

      その通りです。それはガリレオの顔のひとが、もっと知らしめてゆかないといけない。
      いまの動きは「日本人のバカ失敗ということに問題を閉じ込めて原子力は生き残らせよう。そのためなら日本の政府といくらでも口裏をあわせよう。死ぬのは、どうせ日本人で、因果関係なんか証明できるわけなし」ということだもの。
      国際原子力マフィアというのは謎の怪人ナゾー(知らない場合は「黄金バット」参照のこと)とは違って、現実の存在なんです。
      しかも、彼らは、上品さも何もかなぐり捨てて露骨に日本人を犠牲にして自分達のビジネスを拡大しようとしている。

      >これをきっかけにして、たくさんの人が目覚めると良いのだけどね。

      無理と思う(ごめん)

      • wiredgalileo says:

        「無理と思う」という意見もわかるけど、
        しかしまあ、実際に目覚めたよね。少なくとも、私は目覚めたw
        いままでは「原発帝国」の構造を、リアルには知っていなかった。
        そして日本では、多くの人が、自分の問題として
        この構造に目覚めつつある。
        例えばウラン鉱山付近でもたくさん奇形が出ているし
        原発現場も、事故前からひどい状況だった。
        そういうものは「無いもの」として帝国が成り立っていた。
        で、日本の人は、帝国の「中の下くらい」の層として豊かさを享受していたのが
        突然「下」のほうに転落したわけだよね。
        (もっと下にはもっと大変な人たちがいるけど。)
        で、自分たちが「無きもの」とされていく構造が見えるようになった。
        今までと比べれば、大規模で豊かな中間層において。
        それは大事な始まりだと思う。

        目覚めたからといって、原発帝国をすぐに変えることはできないかもしれないが、
        原発帝国から解放される方向性はある。
        それは、今までのような、誰かを犠牲にした「豊かさ」を拒否すること。
        目先の便利さに負けないこと。嘘をつかないこと。などなど。
        原発帝国を築いている「悪」は、自らのなかにもあるから
        それを変えていくことが解放への道なのだと思う。
        だから自らの手で食べ物を作り労働することが大事なのだよね。
        私は基本、怠け者で地道な労働が嫌いでいかんのですけどね。

        福島原発事故の影響で、ドイツ、スイス、台湾等が脱原発を決めたことは良かった。
        それまでは原発拡大一直線だったからね、まずいと思っていたが止められる感じは全くなかった。
        福島は悲劇だったけど、世界の趨勢を変えることはできた。
        広島長崎に続いて福島でも、日本は核の悲惨さを世界に教えることで
        一定の「抑止力」になった。そういう役回りなのだろうと思う。

        どうせ今後は新型原発を売り込んで原発帝国の存続が図られるのだろうし
        新興国にもどんどん売りつけられるのだろうが、
        しかしこちらとしては地道に、「違う世界」を生きて行くしかないだろうと思っている。

  9. wiredgalileoさま

    >そして日本では、多くの人が、自分の問題として
この構造に目覚めつつある。

    国民的規模では世界で初めてですもんね。

    >例えばウラン鉱山付近でもたくさん奇形が出ているし

    人形峠の近くて、そうなんですか。

    >自分たちが「無きもの」とされていく構造が見えるようになった。

    ガリレオの言うとおりですのい。

    >大規模で豊かな中間層において。
それは大事な始まりだと思う。

    知っているだろーが、現代世界で、日本のように「大規模な中間層」がある国は日本だけなんです。
    あとは保障というものへの思想が異なる北方欧州に「それに近いもの」があるにしか過ぎない。
    「大規模中間層」の国がアメリカやオーストラリアや中国、ニュージーランドのようなタイプの
    「国民の5%が豊かならいいんじゃ」型の国家に競争力の点で完敗している図式と見る事が出来る。

    >嘘をつかないこと。

    これがいちばん大事なんちゃうでしょうか。
    日本の場合、これが解決すれば万事解決、くらいの能力がちゃんとあると思う。
    ウソのせいで、問題がどこにあって、どんな姿をしているのか見えなくなってしまっている。

    >だから自らの手で食べ物を作り労働することが大事なのだよね。

    わしがかーちゃんは、息子に作男をさせることによって、人間は自然に依存して生きているのだ、ということを教えたかったようでした。
    牧場のプーの臭いをかいで、「ああああー、いい匂い」と思うわしのような「田舎のひと」と
    「くさい」と顔をしかめるひとでは、おおげさでなくて世界観がまったく違うもんね。

    >広島長崎に続いて福島でも、日本は核の悲惨さを世界に教えることで
一定の「抑止力」になった。そういう役回りなのだろうと思う。

    悲しいことだが、仰るとおりですのい。

  10. wiredgalileo says:

    ものすごく遅いお返事になってしまって申し訳ない。
    農繁期もあり、なにかと忙しかったのです。

    >>例えばウラン鉱山付近でもたくさん奇形が出ているし

    >人形峠の近くて、そうなんですか。

    インドにあるウラン採掘の村の写真集
    http://www.morizumi-pj.com/jadogoda/jadogoda.html

    原発というのは、原発労働も含めて、こういう犠牲の上に成立しているもので
    素直にいって、どの宗教的社会的価値観からいっても「反倫理的」なものだろうと思う。
    廃棄物問題だって、ひどいものだよね。

    日本では原発労働はヤクザの大事なカネヅルという構造があり
    「裏」の世界と結びついている。
    何重もの派遣労働者で、ひどい扱いを受けていてもなかなか表には出てこないような世界。
    英米での状況はまったく知らないんだけど、もう少しまともな労働環境なのかな?

    >「大規模な中間層」がある国は日本だけ

    そうなんだろうねえ。私は本当に、日本のそういうところが好きなんだ。
    5%の栄華より、村の近所の人たちと仲良く生活するほうがずっと幸せだ。
    たぶん日本人の多くもそうだと思う。
    米国も、ベトナム戦争を始める前はそういった「幸せな社会」だったと読んだことがある。
    残念なことだね。

    >ウソ

    これは本当に、いちばんまずい点だ。
    正直に、「ひどい汚染状態で、対応するにはお金が足りません。しかしこの状態は生命に危険です」とはっきり言えれば良い、のだが、まあ政府は言わないだろう。
    で、政府やマスコミや有名大学や学会等が一団となって嘘やゴマカシを重ね、
    それが矛盾を生み、特に子供を犠牲にしているという悲惨な状況。
    実はそういう体制(嘘とゴマカシで原発を推進する体制)は事故前にもあって、
    今回の事故によってやっと、多くの人が現実に気がつき始めた、わけだけど
    それでもまだ、「体制」側のほうがずっと強力な状況だねえ。
    現実を見られない、というのは、まあ、民度が低いとしか言いようがないんだろうね。
    (たとえばドイツは徹底した議論、公開された議論によって脱原発を決めたみたいだねえ。)

    しかしまあ、日本も、狭い地震国にこんなに原発を作ってたしかに狂気だけど、
    世界全体でも、原発は大量に作られて続けているわけで、
    その姿を見れば、世界全体が破滅に向かっているとしか思えない。
    小さな破滅や「下層」での犠牲や積み上がる廃棄物を「なかったこと」にして推進している
    という構造は、日本だけの問題ではなく、
    まあ、「地球人」の民度が低い、ということなんだろうと思う。

    原発は社会的に間違ったものであり、人はより「正しい」方向へ行かなければならない、
    という思いを、今回の事故で日本の人たちが、より切迫した形で持つことができるとしたら
    それは良い方向への一歩になりうると思う。
    そして日本のなかで、そういった切迫感を持って生きる人は
    実は進化の先端だったりするのかもしれないと思ったりもする。
    政府や大きな社会が頼れないことを知り、自立・共同せざるを得なくなった人々が
    良い世界を生み出していくという逆転劇は起こりうるだろうか。

    • wiredgalileo顔がガリレオのひと様、

      >ものすごく遅いお返事になってしまって申し訳ない。

      このブログでは、どんだけ返信が遅くなってもよいことになっているのです。

      >日本では原発労働はヤクザの大事なカネヅルという構造があり
      「裏」の世界と結びついている。

      ああいう裏世界のひとびとというのは「建前」と「本音」の乖離が大きいところをめざとく見つけてオカネをつくりにくるようですのい。
      そう思ってガリレオ殿がいうことを考えると、原子力などは彼らが稼ぐにはサイコーのネタですもんね。

      >5%の栄華より、村の近所の人たちと仲良く生活するほうがずっと幸せだ。
      たぶん日本人の多くもそうだと思う。

      台湾、韓国、シンガポールっちゅうような何れも日本の強い影響化で社会を形成した国がいずれも中間層の形成が早かったのは面白いですの。
      韓国は急速にアメリカ型になりつつあるが、それでもそれに対しての反発のありかたが少し(心情的だという点で)日本に似ていると思う。

      >米国も、ベトナム戦争を始める前はそういった「幸せな社会」だったと読んだことがある。

      いまでも田舎に行くと、どんな具合だったかわかりますよ。
      開拓者・移住者であったひとが大半だから、いまでも「助け合い社会」です。
      しかしベトナム戦争の頃に「皮」の部分が腐ってしまった。
      いまの腐り方は当時と正反対だが新しい真皮がつくれないでいる点では同じと思います。

      >「ひどい汚染状態で、対応するにはお金が足りません。しかしこの状態は生命に危険です」とはっきり言えれば良い、のだが、

      それで日本人は十分に事態に対処できたのに、国民をバカだと思って自分達が安物のヒロイズムに酔っ払ったところで、話全体が数年後の悲劇に収斂するのが約束されてしまった。
      日本のひとにとっては、これほど残念なことはないでしょう。
      ひどいよね。

      >現実を見られない、というのは、まあ、民度が低いとしか言いようがないんだろうね。

      いつか「なんとか信夫」とかいう人が原発について書いたものを見てみたら、爆笑してしまった(すまん)
      日本のいわゆる「文系」知識人は立花隆のような偉大なジャーナリストも含めて科学のことになると、頓珍漢を通り越して、いきなり痴呆的に勘がはたらくなるよーです。
      受験のときに要らなかったからなああー、とバカなことを考えました。
      「理系」の知識世界と「文系」のそれが分断されているというのは、こんなに恐ろしいことなのか、とベンキョーにもなった。

      >子供を犠牲にしているという悲惨な状況。

      わっしは、もういまの日本で暮らしている子供の事については何もいいたくねっす。
      悲惨すぎて、どうゆえばいいかわからん。

      >世界全体でも、原発は大量に作られて続けているわけで、
      その姿を見れば、世界全体が破滅に向かっているとしか思えない。

      遠い所にあるから見えにくいが、結局、食料や水の問題とあわせて、あと25年もすれば資源がどうやっても足りなくなる、ということが現在にこういう形で影響している。
      だから資源問題はそういう意味ですでに終わりが始まった問題なんですのい。
      ここから後に起こることは国家間のいっそう苛酷な競争だと思います。
      嫌ですのい。

      >まあ、「地球人」の民度が低い、ということなんだろうと思う。

      うん。でも、「他も悪い」と考えることは自分をより悪い状態に追い込んでしまう。
      そういうことは多分全力を挙げて問題が解決してから考えた方がよいのですよ。
      日本人は太平洋戦争とといわれれば、相手国人も悪かったといい、南京虐殺のような出来事においてすら、相手の中国人の間違いをあげつらってきた。
      わしのブログやツイッタでも、フクシマのことを書けばBPの油田事故も同じではないか、といい、フクシマの原発の建物が安全でなかったことよりもクライストチャーチの建物が壊れて日本人が死んだことを反省しろ、と言ってくる。それも手の施しようがないバカな連中というわけではなくて、この例でいうと宗教学者とつるんであるいている会社員です。
      たまにはまともな口を利ける人間が、その程度しか認識がない。
      そういう「悪い賢さ」によって日本のひとは問題を解決する能力を失ってきた。
      だから、他人の非を考えることは日本語ではたいへん危険なことなのではないか、と考えるようになってきました。

      そういうことを別にすれば、

      >地球人」の民度が低い

      というのは仰るとおりで、だからこそ欧州でも学者も学生も会社員もこぞって、政府への原子力発電停止の圧力を強めつつある。
      ほっとけば暴走してしまうのは自明なので、みな必死なのです。
      どこまでやれるか判らないが。

      >原発は社会的に間違ったものであり、人はより「正しい」方向へ行かなければならない、

      社会的に間違っている、のはフクシマで証明済み(日本人がバカだったから事故が起きた、という現在のIAEAの態度は論外であるのは説明の必要がない、と思います)ですが、技術思想的に致命的に退行しているので、わしはいつもそっちのほうが問題だと思ってきました。
      義理叔父によると野依という学者が「人間は自分に消せない火を使ってはいけなかったのだ」とゆったそうですが、IAEAのとりすました狂人たちに聞かせてやりたい、と感じました。

      >良い世界を生み出していくという逆転劇は起こりうるだろうか

      あんまり考えたくない事柄ですのい(^^)

  11. Nayo says:

    言いたい事は山ほどあれど、、書き出したら止まらないでしょう!!とあれいつも思う事は『人間が人間を作る』というマチガイヲ犯した(授るのではなく)故に、その価値下落、もう後には戻れない〜〜
    *p,s; Joyce Theater ? Oh I miss there !!!

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