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個人のための後退戦マニュアル・その3

ニュージーランドではどこの電力会社から電気を買うか、ふつーに選べる。 3年前、日本にいたときに広尾山の家のクソ高い電気代に頭にきたので、「なんで東京では東京電力からしか電気が買えないんですかあ」と件のトーダイおやじたちに訊いたら、 「そりゃ、ニュージーランドみたいな小国は簡単にそういうことが出来るだろうけど、日本のような国は体系が複雑で難しいんだよ」ということであった。 笑いがこみあげてきて苦しかったのを、なんとか我慢して「そーですか」と答えたのだったが、大国なら大国らしく、ひとつくらい他の国がやってないことを自分の頭で考えてやらんかい、と考えました。 後退戦の殿(しんがり)にいるのは、多分人口の99%を占める「どこにも行かないひとびと」であると思う。 戦争について知識があるひとはよく知っているが、しんがり、って難しいのよ。 このひとたちが敵に背中を見せると全軍が潰乱してオシャカになってしまう。 戦艦大和はフィリピンの沖合でアメリカ軍の軽巡洋艦と駆逐艦の突撃にぶっくらこいて、くるりと反転してとんずらこいちったが、その後、日本の海軍が立ち直ることはなかった。 富士川の西岸で、いっせいに飛び立った水鳥の羽音にとびあがって逃げた平家の軍隊は、結局、潰乱に潰乱を重ねて壇ノ浦で全滅するまで浮き足が止まらなかった。 槍の穂先を敵に向かって揃え、敵に向かっておこたりなく用心しながら、ときどき自分達の実力を見せながら、本国の力が充実するのを待つのは、海外組ではなくて国内組の役割である。 日本が立ち直るためには国内に残る人々の役割が最も大切なんです。 カルタゴという国は敗戦のたびに当事者である軍人を極刑に処して政治の中枢にあるものや富によって社会の支配権を握っていたものたちは決して責任をとらなかった。 ギリシャでは「任命した優れた実務家たちを監視するために民主主義はある」という原則を忘れて、皆で意見を一致させて合意した政策を採用する、という信じられないくらいアンポンタンな政治理念を信じ込んでしまった結果滅びてしまった。 コリントもカルタゴも、自分達の愚かさを反省すらせずに愚かさを賢明さといいなして自分達の空疎な妄想にしかすぎなかった「正義」にしがみついた結果、国土が文字通り更地になってしまった。 カルタゴに至っては更地にした上に、ローマの兵士達が塩をまきくるって、二度と穀物をつくれないようにされた。 丁度、いま東電の神様がセシウムとストロンチウムの同位体をまきくるっているのと似ています。 危機は変化のチャンスでもある。 いままでは自分自身が小役人のようなことを言って、由縁もなくえばっていたりしたのが、「これじゃ全然ダメじゃん」と判るからです。 いまはもうこれまでの「権威や、お上のある社会」のやり方や考え方ではダメダメなのが判ったのだから、「変えなきゃ」という気持ちを忘れなければいいだけのことである。 このブログでもさんざん何回も書いてきたように、日本には変えなければどうしようもないことがうんざりするほどある。 「わしらのニッポン、日本人が世界一」をやって、30年がとこ、ものごとをほうっぽらかしにしたまま来たのだから当たり前なんです。 まず個人ひとりひとりが幸せにならなければならない。 わしは日本の歴史を調べていて、1980年代にあれほどの繁栄をみたのに、それが90年代になるとあっけなく「坂を転げ落ちるように」経済が崩壊してゆくのは、結局、 「お金は儲かったけれどぜんぜん幸せにならなかった」からではないか、と考えました。 社会が空前の繁栄を遂げた、といって、ふつーの、というのは当時の社会の中堅である会社員にとっては、給料の上昇よりも物価の上昇のほうが激しかった。 なかんずく、70年代に田中角栄という極めて人好きのする、誰をも魅きつけずにはおかない人格をもったカネの亡者を首相に据えてしまったせいで、(具体的には農業への補償という仕組みを梃子に使って)土地の値段などは、ロケットのように上昇した。 他の物価でも、たとえば義理叔父の証言によると、子供のときずっとずっとずっと山手線の半周近い「初乗り」が30円であったのに、ある日突然90円になり、それが次の次の週には160円になる、という具合だったそうで、義理叔父のことだから数字はええかげんに違いないが、そういう実感だったのでしょう。 その延長にあって経済が破壊的な速度で容赦なく成長した80年代にあっては、クラブで一万円札を何百枚もばらまいて、それをきゃあきゃあ拾ってあるく若い女優やデルモのねーちんたちを見繕ってはホテルにつれていく不動産会社の社長とか、政治家、あるいは当時はいまよりもさらに社会的地位が高かったらしい暴力団のもんもんなおっちゃんたちとかばかりが大金をつかんで肩で風をきって歩いていたのであって、トーダイといえど他人を踏みつけにする才能に恵まれなかった義理叔父たちは、こんな国は破壊されてあとかたもなくなればいい、と心から呪詛していたという。 ふつーの国では、国が2割もうかると、住んでいる人間にも1割は還元される。 いまわしがその小さな島の空中に腰掛けてこのブログを書いているマンハッタンでは、 日本の国家社会主義経済体制に守られた製造業にボロクソに負けて崩壊寸前までいった経済が、金融とITとパテントによって繁栄を取り戻すにつれて、みるみるうちに街が安全になっていった。 5thAveにすら散在していた危険なブロックを避けて、あっちに渡ったりこっちに渡ったりしながらでなければまっすぐ通りを歩いてゆくことも出来ず、女びとなどはロッカーもしくは鞄にハイヒールをいれて、襲われたとき必死に走って逃げるためにスニーカーにはきかえて通勤するのが常識であって、しかも日が暮れると、引き込まれない用心にビルの側を歩かなかった街が、女同士、午前2時にほろ酔い気分で12センチくらいはあるヒールの靴で歩いていてもあたりまえになった。 太ったおっちゃんが乗ると、そのままパンクしてへたりこむんちゃうか、と思うくらいボロイタクシーは、あっというまに新車になり、いままで家を買うことを考えることも出来なかった中層の下くらいでも家が買えるようになった。 かつては週末の1ドルピザをかじりながらテレビを観るガールフレンドやボーイフレンドと一緒の週末に、ミシュランガイドをひろげて、テーブルにロウソクがともるレストランを予約してでかけるようになった。 病院が建設され、大学の設備が素晴らしいスピードで拡充され、奨学金制度は改善されて、個人の生活が誰がみてもわかりやすい形でよくなっていった。 「社会が繁栄すれば、わしの暮らしもよくなるのだな」とみなが実感したのです。 この事情はオーストラリアでもニュージーランドでも、社会が全然改良されないので有名であって、いまと中世とどこがちゃうねん、とアメリカ人などにゆわれるシブイ社会を主催している連合王国ですら同じです。 個人の生活が楽にならなければ、誰もそんなバカみたいに働くわけないやん。 だから、「いまは我慢して社会のため」とか「ここは辛いが会社のため」というような大時代なバカ理屈は、舌をつきだして、目をひらいて、あかんべのベロベロバーをせねばならぬ。 具体的には高い生産性で仕事をしている若い世代に高給を払わないで「50歳まで勤めたらオカネモチにしてあげるからね」というような田舎に娘を買いに来た女衒みたいというか、妾に毎日自分の褌をかえてもらおうとしているガハハジジイというか、そういう下品な理屈にたった会社に就職してはいけないのです。 … Continue reading

Posted in 福島第一原子力発電所事故, 十全外人文庫, 日本の社会 | 17 Comments