世界が終わった次の日に


Japan block dayに行った。
行った、というよりもモニと日曜日の散歩でPark Aveをぶらぶらとセントラルステーションのほうに歩いて行ったら、やっていた、というのが正しい。
手前の他の国の屋台に較べても、遙かに盛況で食べ物の屋台にはどこも延々長蛇の列が出来ていた。
会場の中心になるところには東北出身のひとたちが店を出していて「宮城県人会」「福島県人会」「岩手県人会」というサインが出ている。
いちばん駅よりのところにはステージがしつらえてあって、太鼓と笛と三味線にあわせて阿波踊りの小さな「連」が舞台のうえで踊っていた。
人間があまりに多いので、モニとわしは会場にはいってゆけなかったが、いろいろな出店がある通りの、日本のところだけ、人間が充満していることをなんだか訳もなく嬉しいことのように思いました。

日本の屋台は余りにひとが多いので、モニとわしは、日曜日にはまるでやる気のないおっさんがひとりで店を取り仕切っているカフェテリアでコーヒーとビスケット(アメリカ式に言えばクッキー)を食べた。

5月の終わりだというのに冬のように冷たい風が吹いてきて、モニとわしは寒い。
20thを歩いて家に帰ってきました。
モニは、そこからひとりで買い物に行ったが、わしはアパートに帰って午寝をした。
セントラルパークでは「ジャパンデー」もやっていたはずだが、そこに行こうというほどの興味がもうわしにはなくなっているので、億劫で行かなかった。
人間の自然な気持ちというものは、寂しいものであって、触れないでいるものは、毎日遠くなってゆくものなのだと思います。

天使の喇叭がなったのでびっくりして飛び起きたが、夢にしかすぎなかった。
アイスランドの火山が爆発したが、モニさんとあなたは欧州に帰ってくる予定を変えなくてもよいのか、というかーちゃんのメールを読みました。

そーゆーことは火山灰に訊いてくれ、と返事を書いてもよいが、かーちゃんには生まれて以来、わしが人生の前半の物語においていろいろ世話になっているので、そうぶっきらぼうなことを書くわけにはいかない。
モニと相談して決めます、と返信を書いた。

欧州に帰れなければ、モニは、きっとブエノスアイレスに行きたいというだろう。
でも大陸欧州旅行用に買っちった新しいクルマはどーなるんだ。

ここまでわしのブログを辛抱づよく読んできてくれたひとびとは、わしは「自称ニュージーランド人」なだけで、いわば騙りであって、本当は欧州人であることを知っているわけである。
ニュージーランドのパスポートを持っているので、無論ニュージーランド人であってもいいわけだが、なんというか、わしには「ニュージーランド人」であると胸をはってゆえるような溌剌としたところに欠けるところがあるようだ。
「ワナビー・ニュージーランド人」ですのい。

欧州人に生まれるということは人間として最悪であって、なんだか濃縮された人間として生まれつくことでもある。
コンデンスト人間、なのです。
稀釈しないと強烈すぎて受け付けられないのだとゆわれている。

欧州などというものは、ひとりの人間が20年くらい住んだからとゆって判るわけはない。
日本で言えば京都社会のようなもので、しかも、京都よりも百倍くらいコンジョが悪くて、千倍も徹底的に何もかもよいものは隠されている。

何も難しいことをゆっているのではない。
きみは、ボンドストリートに行けば、ロンドンのうちでも一流の品物を買える、と思っているかも知れないが、ははは、甘い。
欧州というところでは、最もよいものは看板もなにもない、アパートの4階、というようなところにあるのであって、一時が万事、そういう世界なのです。
早い話が、クラブの飯に飽きて、わしがよくでかけるレストランは、ガイドブックには出ていない高級ホテルの地下にあって、名前がない。
看板がない、というようななまやさしいことではなくて、あの天上の味を饗している料理屋には名前そのものがないのです。

マディソンアヴェニューのモニが行きつけの店は、普段は閉まっていて、モニが電話すると店を開ける、というシステムだが欧州の店は、そこまでの親切心もない。
店の顔をもっておらず、名前もない。

欧州とは、そういう密やかな、バカバカしい特権で出来ている社会なので、それが受け入れられない精神構造の人間には欧州というものが、まるごと判らない。
第一、酷い人になると、欧州人がほんとうに思ったことを言う習慣がある、と誤解しているひとまでいる。
ひどい誤解です。
ウソだ本当だと騒ぎたがる幼稚な頭には欧州などという文明のルールで出来ている家は全然判らない、のだと思います。

モニは、そういう欧州の老衰ぶりが嫌いなので、「新しい世界に住もう」と結婚したときからゆっていた。
「新しい世界」には、きみがやれることがたくさんあって、やる気になれば首相の隣の椅子に腰掛けて、「ああいう政策はおかしいのではないか」と意見を述べることができる。
別に特別な地位のひとにならなくても誰でも出来ます。

人間の意地悪さによってではなくて、自然のやさしい手で隠された場所がたくさんあって、カヤックに乗って、人気のない川を遡ってゆけば、簡単にそこにたどり着ける。
シャベルで河床に温泉を掘って、裸でシャンパンを飲みながら遊ぶ、なんちゅうのは朝飯前でごんす。

モニとふたりで水着も着ないでふたりで泳ぐ夏の午後や、「ぎゃあああああああー」と叫びながら滝壺に飛び込む朝は、ニュージーランドでは当たり前の一日の過ごし方である。

暫くはロンドンとマンハッタンとオークランドとクライストチャーチをうろうろしていればいいのではないか、とモニが言い出すのに理由がある。
モニが口に出しては言わないだけで、「文明にばかり触れていると、文明の病気に感染しはしないか」とゆっているのです。
そうして、それは、きっとモニのほうが正しいのに違いない。
いつものことだが

モニがたくさんの買い物紙袋と一緒に帰ってきたので、わしも午寝のベッドから起きて、
ヴィレッジのふたりでよく出かけるイタリアンレストランに出かけた。
ブルーポイントの牡蠣を12個とパンチェッタで塩味を利かせたトマトソースのタリアテッレを食べた。レモンチェロが、あんまり冷えていなかったので文句をゆってタダにしてもろうた。
次のグラッパもおかげでタダであった(^^)

レストランを出て通りを歩いてゆくと交差点の信号を待って立っていると、モニに、
感に堪えたようにして「You look gorgeous!」と声をかけてゆくひとたちがいる。
アメリカって、やっぱりおもしれーなーと思います。
ロンドンで、そんなことを言うひとびとは変態である。
モニが同じことをロンドンの、たとえばリージェントストリートの交差点で言われれば微かに眉をひそめて終わりでしょう。
しかしマンハッタンという島はキチガイのたまり場なので、モニも影響を受けて「ありがとう」とちゃんとあいさつします。
とんでもなく礼儀に外れてしまっておる。

でも、悪くはない。
わしは、アメリカ人の、そういうバカげた率直さが嫌いではない。
あのバカっぽい、というよりもバカそのものの英語の発音は願い下げだが。

わしらは、どこにいても「よそもの」であろうとしてきた。
モニとわしは結局、ノーマッドだからです。
どこにも、何にも属したくない、と願って暮らしてきた。
人間の社会になんて関わりたくない、と考えて過ごしてきた。
ふたりとも、この社会には遊びにきただけであって、見知らぬ人と気持ちが通い合う一瞬や、カウンタ越しに述べる短い冗談に笑いあうことくらいが、人間の社会との関わりだと思ってきた。

人間の偉大さは人間がこれほど誇らかに思っている「知」になどあるわけがない。
人間の真に偉大な点は愚かであることにあると思います。
楽しいリズムが聞こえてくれば身体をゆすって踊り、機嫌がよくなれば鼻歌を歌い、
ガールフレンドの頬にそっと指を触れて涙ぐみ、何の理由もなく道のまんなかで抱き合って離れられなくなる、そういう衝動以外に人間の価値があるだろうか?

真善美、というが、人間には真も善も判りはしない。
美だけには、神よりも鋭く反応して、大理石を削り、絵の具を発明して、まして音階の数列すら見いだして、理由のない情熱をたたきつけるように、あるいは、情熱を整列させようとするひとのように、突き動かされてきた。

しかしたとえば数学の井戸のなかに深くもぐってゆくと、人間には真や善が理解できるほどの語彙が初めからないのだと思えてくる。
せいぜい町内の様子を説明するのがやっとの語彙で宇宙を説明する無理を考えてみなければならない。

ワインを飲み飽きたので、バーテンダーにお願いして、壁のドアに隠れているスコットランドの地酒を出してもらった。
輝かしい黄金の液体。
水も、氷も受け付けない純粋に孤独な黄金色の液体は、人間を狂わせもするが、すべてを忘却させてもくれる。
スコットランドの神様がイングランド人たちに敗れて国を失ったスコットランド人たちを哀れんで地上に残しておいてくれたのだとゆわれておる(^^)

正気でいられるはずのないこの世界を人間が生き延びてゆけるように、神が人間の愚かさに敬意を表して、つくりだしてくれた美しい液体をバーテンダーとふたりで瓶の半分飲んで、夜更けのヴィレッジの裏道を家まで帰りました。

画像は、世界が後10分で終わる(英語世界では今年の5月21日に世界は破滅する、と信じていた人が結構いたのです}というのでユニオンスクエアに現れて最後のコーラをひとくち飲むキリスト(^^;)
ベストバイに寄ってから広場を通りかかって「キリストはどこに行ったんだ?」と訊いたらチェス相手を待っていたアフリカンアメリカンにーちゃんが、「世界終末の瞬間」の様子を教えてくれた。
みなで輪になって世界の終わりに向かってカウントダウした。
何事も起こらないので、みなががっかりしてどよめいていると、キリストのほうは「世界が終わらなかったので、また来るわ」とゆってコーラを飲み干してから十字架を担いでよろよろとブロードウエイを歩いて消えたそうである(^^)

This entry was posted in アメリカ, 日本と日本人, 日本の社会. Bookmark the permalink.

7 Responses to 世界が終わった次の日に

  1. SD says:

     世間一般にそうするのが好ましいとされていることばかり考えていると、ガメさんの「肉体スーツ」理論のことをすっかり忘れてしまいます。
     「人間はこの世界を楽しむために生まれてきた」という考えは、多くの日本人にとっては実際には受け入れるのが難しい考え方なのではないかと考えます(かくいう私も、これについて柔軟に考えられているとは思えない)。日本人は、「働かざる者食うべからず」というように、働くことは23歳(19歳)からの人生の義務の一つとでも考えるところがあって、働くことを単に生活の一部分とか、生活の手段としてとらえる向きがまだまだ希薄です。とりわけ今、管理職にいる壮年・老年世代は、そういう哲学にくるまれて生きてきてそれなりにうまくいったため、なかなか社会全体がこの気楽な方向へと動いてゆきません。
     彼らがよってすがるのが、「社会人」であることへの優越感です。(もっぱら会社勤めの)働く人間のことを指して「社会人」という言葉を使うことには、働いていることこそが最も尊いことであって、大人にもなってただ生きているだけでは尊くないばかりか、社会の一員ですらない……という考えが暗に込められています。「社会復帰」が再び働き始めることを指していることを、ここに付け加えてもいいでしょう。
     ガメさんが「幼稚な頭」と切り捨てる「嘘か本当か」というような矮小な二元論にとらわれる思考は、労働に縛られてしまった人間の、せめてもの虚栄心の裏返しなのだと思うことがあります。彼らはもうすでに、人間(しかも、ほかならぬ同胞たち)を独善的な基準で尊いものとそうでないものに分けてしまっているからです。人間としての在り方を保つのに必要な時間さえもてないことと併せて、彼らが二元論以上の微妙を理解できない頭をもっていることを、誰も驚きはしないでしょう。

    • わしが親愛なる友人のSDどん、

      >ガメさんの「肉体スーツ」理論のことをすっかり忘れてしまいます。

      わしの肉体は一万円スーツの「はるやま」だったのか。

      >、働くことは23歳(19歳)からの人生の義務の一つとでも考えるところがあって

      不幸なことですのい。それでは仕事をするのが辛かんべ。

      >彼らが二元論以上の微妙を理解できない頭をもっていることを、誰も驚きはしないでしょう。

      一元でも二元でもいいから、あと1時間ねさせてくれ、と思ってたりして。

  2. J.Hasegawa says:

    無理解な人々から大切な物を遠ざけるには、孤独に耐える心が必要です。
    きっと欧州人の心にある花壇には無数の踏み跡が刻まれているのでしょう。

    だからこそ五感が失われた暗闇の中で、神様の差し出す手のぬくもりを感じとることができるのかもしれません。

    でもニュージーランドのほうが良さそうだなあ。ラム肉好きだし。

    • J.Hasegawaどの、

      >でもニュージーランドのほうが良さそうだなあ。ラム肉好きだし。

      合衆国でもラムきちがいの中東人が食べるラムはNZものですねん。
      ラムは肉らしくなくて、かわゆい子羊ちゃんをぶち殺してすぐに食べるのがいちばんおいしいので
      NZのラムはNZで食べるのがもっともおいしい。

      うめーぞお

      • J.Hasegawa says:

        ニュージーランドのラムは近所のスーパーでも置いてあって、ひいきにしています。昔はどこの国の物か分からん円柱形の冷凍ラム肉ばかりでした。日本では北海道の士別産がおすすめです。
         ラム肉は他の肉には味わえないコクが好きです。そして花見やキャンプでの楽しい思い出を伴っている味でもあります。
         未来のこども達も食べ物が楽しい思い出と結びついてくれたら、と願わずにはいられません。

  3. SD says:

     フェミニストのhumanという語とその意味についての議論を援用すると、「社会の一員とは働いている人のことだ」と思っている人ほど、実は労働から疎外されることを恐れているのではないかと考えました。

     今の管理職世代は「会社人間」であることしかできなかったのかな、という思いがあり、私自身は彼らを徹底的に責め抜くつもりはないのですが、そういって追及の手を緩めて彼らの功績を賞賛してきたその返答が「ゆとり社員」「ETC社員」というような間抜けな言辞と諸社会問題への無策だったことを思って、心を鬼にしなくてはいけないと思っています。

    >不幸なことですのい。それでは仕事をするのが辛かんべ。
     しかし、今の日本語世界ではそれに疑問を容れることは難しいです(経験談)。それでも、一部のブロガーさん達の長期にわたる努力で、若者世代の間ではそれなりに、「仕事」ってなんだろう、と考えるための余地が整ってきたように思います。

    >一元でも二元でもいいから、あと1時間ねさせてくれ、と思ってたりして。
     ははは。確かに。

  4. J.Hasegawa さま、

    >ニュージーランドのラムは近所のスーパーでも置いてあって、ひいきにしています。

    すばらしい。

    > ラム肉は他の肉には味わえないコクが好きです。

    わしにとっては「肉」とゆえば牛肉かラムっすから。

    >未来のこども達も食べ物が楽しい思い出と結びついてくれたら、と願わずにはいられません。

    ほんとうっすな。
    わしは食事っちゅうと夏の晴れた日のバーベキューや、大きくなってからのやはり庭にテーブルを出しての楽しい家族での食事の時間を思い出す。
    いま考えてみるとラッキーであった、と思います。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s