Monthly Archives: June 2011

北イタリア某村

用事の相手のモナコ友達が自分の方からカンヌまで出向いてくれたので、一緒に朝食を摂りながら用事をすませることが出来た。 午前9時という空前の早起きが辛かった(後述のごとく勝手に起きちったときは限りに非ず)が、客人がわざわざやってきてくれるというのだからやむをえない。 モナコ人は親切で、これからはパチモン王国、とかゆってはいけないよね、と反省しました。 用事がすんでしまえばカンヌやニースのような下品な町にいる理由がないので、モニとふたりでクルマにとびのって北へ向かいます。 初めはジュニーバに行こうと思ったが、途中で気が変わったので北イタリアを目指すことにした。 サンレモ、ジェノアにトリノを通って行けばミラノはすぐである。 昨日で海岸沿いの道は懲りた(もう夏の大渋滞が始まっていた)ので、わしには珍しくモーターウェイを通って来ました。 ミラノの南に広がる美しい農場地帯を通って、スイス国境に近い、わしの大好きな北イタリアまではすぐである。 あたりまえだが国境を越えるとサインがいっぺんにイタリア語になります。 サービスエリアに、「チャオ」とゆってはいってゆく。 サンドイッチはパンはまだフランス風のバゲットばかりだが挟まっているのはハムとエメンタールの代わりにプロシュートとモッツアレーラになる。 ニュージーランドとかも北島は英語で南島はスペイン語、とかにしたほうが絶対おもろいのに、と考えました。 全部英語なんて退屈でくだらん。 夏の欧州の湖はどこも、さっきまで晴れていたかと思うと突然、凶暴な夕立が襲ってくる。 青空がかき曇ると、そよとも吹いていなかった風がドアを叩き付ける突風になって、辺り一面に水煙があがる沛然たる驟雨になります。 北イタリアも同じで、モニとふたりでテラスで湖を眺めながらワインを飲んでいたら、急にすさまじい夕立が襲ってきた。 モニとわしは慌てて室内に入ってさっき開け放ったばかりの窓を家中走り回って閉めてまわったが、慌てたわしが置き去りにしたバルセロナで買ったゴム草履さんは可愛そうにずぶ濡れになってしまった。 どひゃっと雨が降ったあとは、しかし、ひどかった湿気がなくなって気持のよい風が吹いてくる。 ここから細い田舎道を歩いて降りてゆくと、今日の午後ここにつくなり早速でかけたものすごくおいしいピザ屋さんがあって、世界でいちばんおいしいカルツォーネをつくるばーちゃんがピザ窯につききりでつくってくれるそのカルツォーネは、おおげさでなくて、こんなにおいしいカルツォーネが食べられるのなら死んでもいいかしんない、と思うほどおいしいが、明日はまた日が照りつける白い径を歩いていって、あのミツバチがぶんぶん飛び回る裏庭のテーブルで、陶器のカラフェに入った小さなグラスに淹れたワインを飲み、ばーちゃんと世間話をしながらカルツォーネをお代わりする極楽な夏の午後が過ごせるのに違いない。 わしらが大声で笑っていると、じーちゃんも(ランニング姿で)出てきて、「あー、おれもニュージーランドへいきてえ。どっか新しい新品の仕立て上がりの国へ行くのは、おれの夢なんだぜ」という。 もちろんモニとわしは、ニュージーランドに来れば案内してしんぜるぞ、という。 すると、ばーちゃんもじーちゃんも目を光らせて聞いておる。 犬と猫がいるから、一ヶ月が限度だけどなあー、という。 あいつらさえいなけりゃ、一年くらい出かけるのに。 わしはイタリアのひとやスペインのひとが、どうしてこんなに好きなのだろう、と時々自分で訝しく思うことがある。 二重三重に意味が重層化された、めんどくさい社会をめんどくさいと考えることもなく過ごしているつもりでいても、ルールが違う文化がやっぱしええなあ、と思うのだろうか。 連合王国とフランスでは具体的なルールそのものは異なるが「こういうときはこういうふうにするものだ」という規範が、猛烈に細かいことに至まで厳然と存在する。 その規範の生活はおろか感情に至まで深く食い入っている、その有り様は両方ともとてもよく似ている。 というよりも同じものである。 フランス人の女の子で時にニッポンアニメの登場人物のような格好をして人前に出てきたりするのは、多分、その取り決めにうんざりしてしまっているからであると思われる。 連合王国人が、やけくそみたいな格好でギターをぎゅいいいーんと鳴らすのも、そういう風味がまったくないとはゆわれない。 連合王国やフランスのごとき社会はそういう具合に考え出してしまえば細則めいた決まりごとが網目のように張り巡らされて退屈で硬直したクソ社会とも言えるからである。 イタリアと言えば陽性の、というイメージがあるのかも知れないが、この点ではイタリアもたいして変わらない。 スペインも同じだと思う。 それでも何事かが決定的に違うと思うのは、連合王国やフランスの細則は社会のためという色彩が大きいのに対してイタリアやスペインの細則には「社会」の影が淡くして投影していなくて、個人としての人間と人間がわがままなことを「このくらいならダイジョーブかな?」と考えながら、プッシュプッシュプッシュで押していって、ああ、もうこのくらいでダメね、と納得しあって出来ているところがあるからです。 フランスでも、ちょっとそういうところはある。 モニとわしが一晩だけ泊まったホテルは、クソ高い代わりに「駐車場完備」であるはずなのに、モニとわしが夜中に着いてみると駐車場がいっぱいである。 バレパーキングは田舎のホテルだからねーし。 「駐めるところがないではないか」というと、レストランの客が帰ったら、空くと思うのでそれまで適当にその辺に駐めておいてくれ、という。 これはこういうド田舎のホテルではユーメイなバカ言い訳であって、わしのような若輩衆でも、そんなチョロイ手には乗りません。 … Continue reading

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ノーマッド日記9

1 見渡す限り広がっているひまわりの畑のなかをモニが歩いてくる。 わしは、強い太陽の光に、目を細めて、デコに手をかざして、ゆっくり歩いてくるモニを眺めています。 わしの手には、さっきフリーマーケットで2束1€で買ったラヴェンダーが握られている。 ラヴェンダー農場のおっちゃんが出している屋台で、ラヴェンダーの石鹸と一緒に買った。 おっちゃんは、すっかりモニにみとれてしまって、「マダムの美しさを祝って、この石鹸はタダにしよう」という。 そーか、この国にくれば、モニも「マダム」なのだな、とあらためて考えて、なにがなし、感慨にふけってしまう、アホなわし。 バルセロナが36度だというので、大慌ててでクルマに乗って逃げて、国境を越えるとほどなく23度になって、やったやった勝った、タイショーじゃ、と喜んでいたのに、地中海の太陽の母上はあっというまにわしらに追いついて、今日はアビニョンも36度だった。 空気は乾燥しきっているので、木陰のテーブルに座っていれば涼しいが、木陰から出ると、まるで砂漠のベドウィンになったような気がする。 マンハッタンの有名な帽子屋のJJで買ったコロンビア製のストローで編んだ夏の帽子をかぶってこうして立っていても、頭がぽおおおと熱くなってくるのが判ります。 すごい暑さ。 10分間も表にいれば気分が悪くなってくるような。 「Roussillonは向こうだぞ、ガメ」と自ら「志願」して将校斥候(^^)に出ていたモニが戻りながら指さしている。 そーですか。 わしは、赤い岩が見たいと考えたので今日はAptに行こうと考えたが、モニがちょっと考えてから、赤い岩を見に行くのならRoussillonにしよう、という。 帰りに、Les Grosに寄って行こう。 とても綺麗な町だから。 Roussillonでモニが連れて行ってくれた丘の高台からは赤、白、ベージュの3色に分かれた不思議な崖が見えて、わしをすっかり感心させる。 まるで人工の色のような鮮やかな赤で、セザンヌが塗り込めた色は写実の色彩に過ぎなかったのが判ります。 Les Grosは、いままでわしが見たなかでは最も完璧な、最も美しい町並だった。 驚いてしまった。 だって、こんな町、わし聞いたことないぞ、とゆうと、モニは可笑しそうに笑って、 フランス人は皆しっている、という。 へえー。 モニとわしは、もうすぐ、とゆっても何年か先だが、フランスに越してこようと考えている。 夏と秋をフランスで過ごして、残りをニュージーランドとオーストラリアで過ごすつもり。 いろいろ考えたり、ふたりでデコを近づけてひそひそ話したりして、だんだんそーゆーことに落ち着いた。 マンハッタンは秋の終わりに一ヶ月いればいいよね。 日本にはもう行かないんだろ、ガメ? そしたら、そこにバルセロナをいれよう。 今度はプールがあるところにして、毎年あつくなる気候を凌ごう。 ロンドンは、テキトーでいいや。 フランスにいるんだったら、すぐだし。 用事があるときに、何週間かづつ、行けばいい。 モニが子供を作ろうかと考えたり、やっぱり欲しくないと思ったり、子供が自分の身体から生まれるなんて怖い、と当然の考えをもったり、やっぱりちっこいガメが見たいと考えが変わったりで、そういう面ではわしらの計画はなかなか定まらない。 ガメは、これからの人生で何がやりたいんだ、と訊くので、 「木星に行きたい」というと、その後、しばらく訊いてもらえなくなります。 アフリカに行くのは真剣に具体的な計画を立てることになった。 … Continue reading

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アビニョン

世の中にはインターンという制度があって、マジな就職をする前に職場の試食に行く、という仕組みになっている。試食する若者のほうもちょっと職場をなめてみて、ついでに職場のほうも若者をなめてみて、お互いになめきった態度を醸成する期間を設ける。 お互いになめあう、と聞いて顔をポッと赤らめるような不純青年はあえなく選に洩れる、という一途な若者の天敵なよーな制度である。 わしはもともと就職する気などかけらもなく、そんなヘンタイなことをするくらいなら橋の下で死んだ方がマシじゃけん、と不敵につぶやく学生だったので、インターンなんて先述のごとくヤラシイことをしたことはありません。 その頃はいろんなねーちんといろんなベッドで目がさめたりしておったが、やらしくないの、ほんとだもん。 将来破滅したら作男をすることになる土地を見に行く、というのはインターンとゆえないこともないのお、と呟きながら、わしはアビニョンの美しい村を「空飛ぶじゅーたん」という異名をとるシトロエンのぷにょおーんぷにゃあーんサスペンションで、(悪意に満ちているので有名な)フランスの田舎道をぶっとばしておる。 このフランスの田舎道、というのはだね、たいへんにスリルのある道であって、両側にはぶっとい木の並木が車道に迫って並んでいる。(すなわち逃げ場がない) 道路は狭い道ではクルマがすれちがうのにギリギリであって、そーゆー道ではセンターラインが引けないので存在しない。 そこを100キロを越える速度で、ぶおっ、とすれ違います。 合成速度でゆーと200キロだぜ。 ときどき左側のサイドミラーがふっとんだままのクルマがあるが、それは耳成芳一の耳のように平家の落ち武者にちぎられたのではないのではないかという疑いをもたれている。 ところがモニさんは、そこを悠然と120キロで、ぴゅうううーと走ります。 母国、というのは出身者に自信を与えるものだと見える。 いつもは、ぎゅんぎゅんぎゅーんととばすモニがフランスだと悠然ととばしている感じです。のおーんびり、爆走する。 運転を交代して助手席(助手席って、なんべん使ってもオモロイ日本語だすな)に座っていると、ときどき、とりわけコーナーなどで、もう死ぬ、もう絶対死ぬ、ぎゃああああああああ、と思うのは同じですが、フランス国におけるモニの運転であると何となく安楽に死ねそうな気がしなくもない。 で、モニのかーちゃんが所有しているXXを見たり、そこで泊まったり、おいしそうなレストランを夜とおりかかると、うさぎや牛肉の料理をそこで食べて、眠くなると、「泊まる部屋はありますか?」と訊いて、そこで泊まったりして、あるいは友達のクソでかい休暇用の家の、とんでもない広い部屋に泊まったりして、ずっと遊んでいる。 今日は、アビニョンの郊外の小さな町でクラシックカーレースがあったので、フランス人の友人たちと一緒にピクニックを兼ねて観に行った。 コーナーを抜けたあとのストレートの始まりにある空き地のピクニックテーブルに格子縞模様のテーブルクロスを広げてハムやチーズにバゲットとシャンパンで食事をしながら怒濤のように走り抜けてゆく初代ポルシェやブガッティを見物します。レースなので運転者も助手席のひともカーレース用のごっついヘルメットを被っているが、そこはほれ、なにしろクラシックカーなので、爆音の割にホンダの50CCスクーターよりも遅かったり、手をふっているわしらに窓をあけて手を振って返したり、初夏のアビニョンの、とんでもなく青い空と輝き渉るような緑のなかで、なかなかスピードの神様と寛いでのんびりしているようなやさしい感じのする午後でした。 それから、プールサイドでなかなか暗くならない南仏の太陽の下で、テーブルに運ばれてくる、冷たいメロンのスープ、イカや鴨、ラム、ほんとうはオーストラリアかニュージーランドでなければ食べないと固くふたりでちかったはずなのに、フランスに入った途端、ふたりとも我慢できなくなって、お互いの意思のなさを笑いものにしながらブルーチーズのソースをかけてむさぼり食べてしまうビーフステーキ、それにワインワインワインで、酔っ払ったり、冷たい水が気持がいいなどというものではないほど気持ちがすきっとするプールに飛び込んで泳いだり、またテーブルにもどって、ぶわっかたれな話をしながらワインを飲んだり、また泳いだり、延々と夕食は続いて、やっとさっき部屋に戻ってきたところ。 フランスのど田舎は相変わらず食べ物がおいしくて人間が途方もなく親切で、大陸欧州一の礼儀正しさも変わらなくて、とりわけモニと一緒であると、わしのようなクソ外国人とはまるで違う勘があるようで、自分ひとりでフランスをうろうろしていたときとは、行く先々のレストランのレベルからしてまるで違う国のようである。 モニは普段自分の祖国であるフランスの悪口ばかりゆっているが、ほんとうは自分の国が好きなよーだ、と改めて考えました。 ふだんでも細やかなやさしい気持でいっぱいで、悲しいものを見せると絹が裂けてしまうように壊れてしまいそうな感じのするひとだが、フランスでは一層それがたおやかで、柔らかい感じになる。 モニの口からフランスを誉める言葉を聞いたことがないのに、愛国心などというものは、愛郷心に他ならなくて、なんのことはない、ふたりで一緒にクルマで旅をしてみれば、自然と横から見ていて判るものだと納得しました。 くだらないことを思いつくという点では抜群の実績をほこるわしが考えた、この旅は、もともと原子力発電所を巡るヘンテコな旅にするはずであって、モニも少しもいやとはゆわなかったが、フクシマの恐ろしい成り行きを見て、わしが大陸を縦断する旅行に変更したのでした。 パリにずっといる、という考えもあったが、これにはモニは初めから反対で、パリはどうせそのうち暫く住むことになるのだから、旅行の終わりにちょっと寄って母親に挨拶するだけにしよう、ということであった。 だからアビニョンに行こう。 アビニョンの田舎で、長野でふたりでよくやったようにピクニックをして遊ぼう。 もちろん高速道路は全然使いません。 オカネを払ってわざわざ退屈な道を通るひとはいない。 フランスの気が遠くなるほど美しい田舎道を、安物クルマとはいえど、まことにフランス用に出来たシトロンの滑るようなハイドロサスペンションで、どこまでも続くひまわりの畑や、オリーブの斜面、そして何よりもビンヤードが広がる道を、ふたりで歌を歌いながら走り抜けて遊ぶ。 ときどきワインの醸造所に寄って、テイスティングをしたり、ワインについて教わったり、ワイン作りのおっちゃんやおばちゃんたちと話し込んだり、ビンヤードや醸造所のなかを案内してもらったりして、のんびりする。 今日の朝は土曜日なのでUzesの食べ物市にクルマを走らせて、山ほどチーズとハムを買い込んで、ついでにニュージーランドの家に欠けている美しい柄のプレースマットをいっぱい買い込んだ。 それはまた別の記事で、イタリアに住んでいる「すべりひゆ」どんに手紙を書くようにして記事に書こうと思うが、水が濁っても「ジプシーのせい」、ものがなくなっても「ジプシーのせい」で、モニが憤慨しておばちゃんと言い争いをしたりしたが、それだけが暗い雲の陰りで、他はモニが黙ったまま見せて歩いてくれたとおり、フランス嫌いのわしも、どう考えてもフランスを好きでしかいられないようなことばかりであった。 フランス人は親切で礼儀正しくてはにかみ屋でしかも会話に機知というものがある。 必ず人を笑わせようとする。 友達夫婦とクラシックカーレースを観に行っても、母親がカーキチなのでカメラを構えて道路をにらんでいて、旦那さんは全然興味がないので、草っぱらに仰向けに寝転がってごろごろしている。 母親が17歳のときに生まれていまは12歳になった娘は、今朝競技会に出た乗馬靴のまま母親の横で一生懸命興味深げな風を装って通り過ぎるクルマのあれこれを質問していて、その家族のありようが、夫が無理矢理でも興味があるふりをするに違いない連合王国ともまた違って、自然にのんびりしてラックスした気持が伝わって、大陸の夫婦もいいなあ、モニにもちゃんと、こういう風な気持も味わってもらわねーと、と考えたりした。 なんだかフランスが好きになってしまった。 わしはフランスを用事があって訪ねても、こういう誰にも読まれないためにわざわざ日本語でつけている日記にも書かなければ、他人にも言わなかった。 第一、パリに出かけるのが殆どであって、さっと行ってさっと帰る、というふうでした。 でもモニが世界でいちばんだいだいだい好きなのに、フランスは嫌いである、というのはやはり宇宙の法則に反していたもののよーである。 … Continue reading

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Somos

インフルエンザの予防注射をするのは、腕をさしだして顔をしかめて痛いのを我慢している、その子供のためではない、という考えがある。 予防注射をまるでやらなければひとりの罹患者から10人にうつる事態であるとして、集団予防注射をすれば、それが二人にしかうつらなくなる。 そうするとインフルエンザの収束が当然はやくなるので、だから、予防注射をする。 この立場にたって考えている人に、「わたしの息子が予防注射の副作用のせいで死んでしまった!」と母親が泣きながら訴えても、論理の上では「そーですか」という反応しかしようがないであろう。 泣きつかれた医者、あるいは官僚は、「あんたの息子は、そりゃ あんたにとっては特別かもしれないが、ただの『ひとり』にしか過ぎないではないか、大流行で死ぬ人の数に比べれば、誤差の範囲と思う」と考える。 「自分にとって息子が特別なのは判るが、だからといって騒ぎ立てられても、ぼくにはどうしようもない。困ったひとだな」 世界のあちこちで、(もういまは数がたいへん少なくなってしまったが)フクシマの原発事故に関心をもって眺めているひとたちにとって、最も不思議なのは、福島県の校庭で遊んでいる子供達は(遠くから見ている観察者たちにとっては)何年かすれば大量に「病死」することがほぼ自明としか思われないのに、なんだか日本社会全体が、その福島の子供たちの運命には無関心であって、差し迫った子供の生命の問題にくらべれば、もっと遙かに迂遠な問題とゆえなくもない「原発の廃止」や「未来における自然の力を利用した発電」のほうにしか関心がないようにみえることである。 見える範囲で、福島の子供達の問題が緊急であることを訴え、声をつまらせて、「われわれの社会がこれほど冷淡だと考えたことはなかった」と正見を述べていたのは京都大学の小出裕章というひとだけだった。 第一、日本の政府はふたことめには「安全だ、安全だ」と言っているが、前にも述べたとおり日本の外から眺めている放射能についてはまことに迷信的な西洋人たちのほうは、 日本の政府は、なぜ、あんな殆ど素朴とおもわれるほどのウソをつくのだろう、と考え込んでしまう。 そうやって考えていて、ゆいいつ思い浮かぶのが「全体を生かさなければ個も滅びる」という発想のことであって、ああ、このひとたちは「日本」という全体を生かさねばならないと考えて「福島の子供の生命」というようなものの緊急性を認めると、全体が壊れてしまうと考えているのだな、と納得する。 すごい国だな、と考えて、さっきまで眺めていたコンピュータのスクリーンを閉じます。 時間が経つにつれて日本の破滅の仕方が限りなく1945年8月15日に向かう大日本帝国にそっくりになってゆくのは、要するにその背後にあるロジックが同じだからでしょう。あのときの「国体」というのは煎じ詰めれば天皇というひとりのひとの肉体だったが、今度は、それが「オカネ」という万能の神である。 オカネ、ではあまりに剥きだしなので、たしなみのあるおとなは「経済」と呼ぶが、なに、同じものです。商人がいつのまにか、どれもこれも「ビジネスマン」になりすましているのと変わらない。 誘拐が「連れ去り」、売春が「援助交際」に化けたのとも原理的には同じで、臭い現実に向き合うのが嫌なので、ちょっと新語のフタをしてみただけである。 国民が「大本営発表」に一喜一憂し、現実はどうも違うのでないかと思われるようになってからは、発表の隻言隻語の裏読みをし、終いには現実を見るのはやめて「ダイジョーブだ」「ダイジョーブだ」と言い合うようになる。 それを可能にしているのは、およそ人間であれば誰でも弱さとしてもっている危機に際してのそれとはわかりにく逃避、「放射能の正しい恐がり方」というような一見もっともらしいが、いまの科学の低放射能被曝についての知見がゼロに近い現実を考えれば、ただの虚しい修辞にしかすぎない言い方によく顕れているような、恐怖に足が竦んだ反応としての、非現実的なたかのくくりかただと思います。 知性、というのは、たいへん厄介なものであるのが、思い出されるようだ。 昨日一緒に話した友達は、会社から近い「カタルーニャ・ランブラ」の真ん中を貫いている公園のテーブルに飲み干したビシー・カタランを置いてから、 「福島の子供達は、もうダメだろうが、その程度の犠牲で日本の政府は今回の危機を乗り切るだろうか?」と疑問を述べた。 見通しが甘いのではないか。 あまりに急速に崩壊されては、われわれのほうがもたない。 晴れ渡った初夏の空を見上げて、溜息をついたわしを見て、この友達は、ああガメも急速に日本の崩壊がすすんだ場合を考えて頭がいたいのだな、と考えたようでしたが、ほんとうはわしはそういうことを考えていたわけではなかった。 「その程度の犠牲」という言葉が胸にわだかまってしまって、特別に息を吐き出してしまわなければ胸苦しいような奇妙な気がしたからです。 日本のことを心配してくれて、とゆってくれるひとがこのブログに来るが、わしは特に日本を心配しているわけではなくて、強いて言えばこの世界に生きているわれわれ人間すべての「人間性」というものを心配しているのだと思われる。 母親たちは、自分達の子供に関して「全体の部分」であることを端からまったく認めない、素晴らしい能力を有している。 福島の母親が「この程度の犠牲」という言葉を聞かせられれば悪鬼のように怒るだろう。 しかし、殆どすべてのことを言葉に仕立て直さなければならない社会の一員としてのわしらには、どんな方法が残っているだろうか。 いまの世界は、ばかばかしいほどの過剰な人口を抱えて、資源の争奪がはじまり、食料の不足はそれぞれの内陸から北アフリカや中国の沿岸部にまで兆しとなって顕れている。 そういう世界では、個人というものはまず全体の部分に還元されるが、誰でも知っているとおり、西洋人が骨組みをつくった現在の先進国社会は個人が絶対に全体の部分に還元できないことを前提に設計されている。 実は、いまの人間が手持ちの思想では、到底のりきれるはずがない危機を目前にしていることは、相当のんきな愚か者でも知っている。 この20年、同じ「自由経済」と名前がついていても、われわれの経済世界は歴史上例をみない大変革を遂げた。 その実体は、ごく簡単に言えば「恐慌と戦争がなくても機能していける市場の創出」であったと思います。 そのほんの20年前には夢物語でしかなかった新・自由市場を、諸国が協力してITという巨大なパラダイムシフトを起こすことによってつくりだすことに成功した。 しかし、それだけのパラダイムシフトをくぐってもなお社会というものの本質かもしれない、個人が全体の部分でしかない集団としての人間の素顔を、というのはとりもなおさず人間が本来もっている冷酷さを、フクシマは嫌というほど見せつけたのだと感じる。 フクシマ、というようなことは、あんまり考えたくない問題だな、とつぶやいて立ち上がった友人の表情は、案外、鏡のなかの自分の素顔に嫌気がさした人間の顔だったのかもしれません。

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コメントのご返信でがんす:あきらめることは、とてもかっこわるい

敬愛するジュラどん、 >ブログが公開すぐに読めたからいいことにします。 舞い上がりました。喜びのビクトリー・バク転をしたいところであるが、このアパートでやるとクビが折れるのでやめておきます。 >「subtle」という言葉にゆき当たり、ガメさんのいる英語の世界ではこれって一体どういう意味なんだろう 意味どころか、これとunderstatementの習慣が英語文化へのドアの鍵ですねん。(えらそー、だが) たとえば、 You are welcome. というひとことを 「どういたしまして」 「あなたが大好きなんです」 「二度とくるな、バカ」 「あなたのような人間を軽蔑します」 「いいってことよ」 「あなたがこの世界にいなければ、わたしはどうすればいいでしょう」 めんどくさいから、もうやめるが、何百という意味に分けて、しかもそれが正確に違わず相手に伝わるところが subtleを尊ぶ文化のよいところです。 氷のように冷たい You are welcome. を聞いたことがあるひとなら、それがいかに恐ろしい文化であるかも知っているはずである。 恋人に別れを告げられて、スペインの人は抱き合って泣くが、連合王国人の女のひとは、 「All right」とひとことつぶやいて、恋人を見送った夜、自分の部屋で毒を仰いで死んでしまったりする。 ちゃんとした教育を受けたひとなら、受け入れられない別れに直面しても、涙ひとつこぼさないでしょう。 そのひとことをつぶやくときのほんの少し陰る目の光も「 subtle」の文化にいれてもよい。 もっとチョーくだらない例でいうと、皮のコートなら皮のコートでブランドマークがついていたりするヘンタイなコートを着たりするのはもちろん論外で、まったく同じようなコートを着たひとと並んで、あっ、あのひとコノリーのコートを着てるんだな、と比較の結果によって、ようやく了解されるのでなければ見栄っ張りなのではなくて、バカなのだと思われる。 会話でも「Wasn’t very subtle, was it?」なんちて、よく使います。 >大事なことって、特に派手でも劇的でもない、日常のすき間や言葉の間のようなところに、ふっと落ちている まことにそのとおりであって、ジュラさんはやはり賢すぎてくろうするタイプなのが忍ばれるのい。対あつかいするわけではないが優さんと似ておる。 たとえば履き物を脱いで一段高いところにあがってから家にはいってゆく手順を見落として日本の文化を考えるのは危険ですらある。 同じようにヒップホップガキどもが金曜日の広場でヒップホップに倦んでフラメンコのあの精妙な手拍子と一緒に歌って遊ぶ事を知らないでスペインのことを考えても仕方がないところがある。 文字や勉強で伝わるのは、どんなに精巧でも梗概なのよね。 … Continue reading

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放射能鎖国

フクシマの原発事故で最も同情されない「被害者」はときどき東京にやってきては、築地や銀座の日本料理屋で「やっぱり本場の天ぷらはうまいな」をやっていた海外の金持ち美食家たちであると思われる。 「日本食」はブームというものは、とおのむかしに終わって、「健康食」というようなカテゴリーのものでもなくなって、プレゼンテーションがかっちょいい、しかも微妙な味わいと舌触りにすぐれた調理法として定着した、と思う。 調理法というものは、そのまま文化の形を示しているようなところがあるので、たくさんのひとが日本食を通して「日本人は知的な国民だ」ということを、直截な感覚で理解した。 わしはまだグラシアのアパートで来週フランスに移動するかなあー、どうすっかなあー、もうちょっとカタランソーセージ食べて遊びたい、とくたくたして優柔不断をしているところだが、もともと食べ物に関しては途方もなく保守的なカタロニア人は、インド料理、とかは全然たべません。 ときどき冒険的なのかマーケットリサーチというものがまったく出来ないのか、インド料理屋が忽然と出来ていたりするが、インド人街のまんなかに出来たレストランすら潰れてしまう。 中華料理屋も、ぶっくらこくくらいおいしい高級店が何軒かあるが、昼飯時にはビジネスマンたちがやってきて食事をしても、夜は行きません。 金曜日の夜でも、がらがらである。 ところが日本料理屋だけは、たいていの場合、中国人が経営して調理人も中国のひとであって、チューゴクチューゴクした「鮨」が出てくるが、金曜の夜は延々長蛇の列であって、前にブログでかいたことがある「巻き寿司」を頼んだらスーパーで50円で売っていそうな焼き鳥が一本だけ出てくる(しかもたしか5€)、という、せめて日本語の料理名くらいベンキョーせんかい、というレストランも、相変わらずバルセロナのトップレストランのひとつとして君臨してます。 わし自身が日本料理屋に行かないので、詳しくないせいもあるかもしれないが、どうも日本人が調理している日本料理屋はないと思われるのに日本料理屋だけは、すさまじい数であて、一街区に一軒がキャパシティと思われる中華料理屋、バルセロナ全体で、一軒がキャパシティと思われるタイ料理屋に較べると、途轍もない人気を誇っておる。たとえばディアグノルのfnacがはいっているビル(名前忘れた)の地下フードフロアにあるうどん屋でも、いつ通りかかってもいっぱいです。 他国のエスニック料理がここまで人気を呼ぶのは、はバルセロナの歴史始まって以来とゆわれている。 この事情はニューヨークでもどこでも同じことで、マンガやアニメが廃れつつある一方で、日本料理屋は定着した上で勢いをのばしつつあるよーだ。 それにつられて、たとえば流行として漢字Tシャツにとって代わったカタカナのTシャツであるとか、日本式タトゥー(極彩色倶利伽羅もんもんのことね)も興隆しておる。 イーストビレッジを散歩すると、1960年代に高倉健とならんで全共闘を熱狂させた「緋牡丹お竜」(寺島しのぶかーちゃん)そっくりの背中をしたハクイねーちんが通り過ぎる。 マンハッタンの初夏の太陽に緋牡丹が映えて、かっけええー、と見とれてしまいます。 「知的で好もしい」文化とセットになった日本料理は、とりあえず知的そうならなんでもやってみます、な、お富豪さんたちに当然うけて、「すきやばし次郎」よりは数段うまいと思われる銀座のQには、ロシアから自家用ジェットとチャーターヘリを乗り継いでやってきた若夫婦が、真剣な面持ちで白木の台前に座って、「これはなにか?」「カウンターの向こうから鮨を出す、というすごいアイデアは誰がおもいついたのか?」と職人を質問攻めにしていたりする。 連合王国からはるばる「変わったおいしいもの」を食べにやってきたとーちゃん友達のご領主さまを数寄屋橋の小料理屋につれていくと、飛竜頭をひとくち食べた途端に感極まってしまって、「しまった、こんなうまいものを食べるのではなかった」と訳のわからないことを口走ったりしている。 しかし、そういう遊びも原発事故でみな諦めねばならないことになった。 ふだん放射能と一緒に生活していて、それがだんだん生活の一部になっているらしき日本の人が聞けば笑うだろうが、放射能を迷信的に怖がるガイジンどもは、ふつーにはない放射性物質がそのへんの土壌に含まれている、というだけで、どおおおおおひゃああああ、なので、そんな土地にでかけるなど思いも寄らない。 わしにしてからが、4月だか5月だかにいちど日本に一週間くらい出かけて実況を見聞したい、という希望は秘書のねーちんにあえなく却下されてしまった。 そのときの話では10月まで待てば関西空港経由の航空券を買っておいてやる、4日くらいなら、でかけてもいい、という話だったが、その後の展開が気に入らないとかで、これも「やめました」「絶対、日本に行ってはいけません」という。 結局、日本には当面、百年くらいは行かせてもらえないことになってしまった。 義理叔父は、どーしているだろーか、と思って電話して様子を訊いてみると、かーちゃんシスターが万が一、未来において病気になって、「これはひょっとすると、あのとき日本に一ヶ月戻った祟りなのではないか」と考え出したりしたらたまらん、と気が付いたので、もう日本に戻るのはやめたわ、という。 でも、ほんとうは安全みたいよ、とのほほんとしたことを言ってました。 安全みたい、安全みたい、といいながら、日本に事務所がある合衆国人に至るまで誰も日本に行きたがらないのであって、この合衆国人はいままでは「日本は大事な戦略拠点だから」と言い募って、チョーくだらない用事でも自分で出かけては銀座のわしが紹介してやった料亭で酒池魚林をしていたのに、最近は、若い衆を飛行機に乗せて、「しっかり、がんばってきてね」をしているよーである。 「わたしゃ、カミカゼでんがな」と若い衆がこぼしていました。 ニューヨークの一流料亭は、実は築地からの直送の魚だしてんのよ、と教えてやったら、ダッシュでトイレに駆け込んで吐きにいったアホなマンハッタンおっさんもおった。 トーデンや日本政府や「原子力は素人には判らないのだから、おれにまかせんかい」の「斯界の権威」日本人学者がいうとおり、ガイジンは騒ぎすぎる。 しかし、当たり前だが日本の外に住んで日本を取り巻き、貿易し、投資して日本人たちと一緒に経済を回転させているのは、これらアホガイジンであって、日本人以外は世界中みな「ガイジン」なのです。 で、ね。 ガイジンどもは放射能嫌いなのよ。 ちょっとだけなんだから、いいじゃない、といくら日本の人に言われても、ダメである。 ちょっとでも、嫌です。 そういうバカガイジン反応にうすうす気づいてきたのでしょう。 最近は、同じ記事が日本語と英語とで部分的に違う文章だったりする。 どうも都合が悪いところは書き換えているよーだ。 チベット、とかで検索すると、部分的にまったく違う差し替えられた記事が出てくる「中国版英語ウイキペディア」という話があったが、それとあんまり変わってへんやん。 放射性物質が「人体に安全な範囲」で日本中に蔓延することによって、日本は世界から遮断されつつある。 いや、前から言語やなんかのせいでブラインドがかかって、 よう見られへんかったんやけどね。 もうブラインドがセシウムやストロンチウムの同位体で固まって壁になって、塗り込められて文化石棺化しつつある。 … Continue reading

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ふりかえってみると

このブログを書き始めてからもう5年になる。 ということは、残り2つのブログも5年、あと2つのブログも3年になるということであって、いくら文章を書くのが速い(なにしろ何語で書くのでも何も考えないで書いておるからな)とはいっても我ながらご苦労さんなことである。その他に、(これが文章量としては最も多い)非公開フォーラムをひとつ抱えていて、モニと24時間一緒にいるといっても隙さえあれば、というのはモニが眠っているあいだや絵を描いているときにiPadをちらと盗み見し、PCを開けて、こそこそとブログを書く。 素面のあいだは、自分で考えてもあんまし自信がない言語と向き合っていて、酔っ払ってくるとだんだんなんとかなっていそうなほうの言語に移動する。 この手順を怠るとたとえばモスクワのにーちゃんに「頼むから、恋文みたいな気色の悪い言葉でわしが書いたものをほめないでね。ゲイかとおもったやん」とかゆわれて、がっくりすることになります。 そんなことばかりやっていてもものを書く遊びに使うのは一日に平均すれば2時間もいかないでしょう。わしは昔からなにしろ何も考えなしにえらい勢いでキーボードを叩きまくる(とゆってもやけを起こしてキーボードを殴りつけているわけではないのよ)ので、CPUの処理速度がものを書くという行動の限定要因になっているのではないかとよくからかわれる。 たったいまはモンゴルと中国の文化からやってきた大才Sa Dingdingが大音響でかかっているが、The Motelsのこともあれば、マリア・カラスのこともあります。 音楽をかけないで何かを書くということはない。 往々にして自分でも歌いながら書いているのでモニがいつも呆れはてた、という顔をしてみてます。 旅先であっても、4台はコンピュータをもっているので、テーブルの上に他のコンピュータも広げて、ツイッタに答えたり、フォーラムで話したり、スカイプで「ぎゃはは」と笑いながら、この日本語ブログを書いていたりするので、モニさんは、どうやら狂人と結婚したと思って人生を儚んでいるようだ。 そんなことばかりやっているうちに、ブログを始めたばかりのときはわしひとりで野良犬のようにやっていた冷菜凍死業もいまは5つの街に「カイシャ」があって、一緒に働いているねーちんやおいちゃんたちも○十人という単位になっている。 自分と共に働く人間の数など少ないほうがいいに決まっているので、絞りに絞るが、どうしても増えてしまう。 まるで出来の悪い政府の役所のようです。 ショーバイのような下品な話をここでしても仕方がないが、わしは不景気下でショーバイをすすめてゆくのが好きなようだ。 ブログを読んでいるひとは知っているわけだが、わしの冷菜凍死は不動産の購入というコンサーバティブがちがちの投資から零細技術系会社という冒険の極みとのあいだにグラディエーションになったポートフォリオが年がら年中変化することともうひとつ読んで判るひとは気が付いたはずの無茶苦茶先進的(じぶんでゆっていれば世話はないが)かつサンスー的な投資の二本立てで出来ている。 あんまり書いても退屈なだけだろうから書かないが、駐車場のビルひとつつくるのでも、ただ作って貸しました、というような事業をやるとわしの会社ではクビになります。 なぜ、それをローン貸与化してカウンシルに話をしなかった、とゆってわしに顔を真っ赤にして怒られることになる。 アホか、あんたは。 そんなくだらないことがやりたいのなら駅前で不動産会社でもやればいいではないか、わしは退屈な人間が嫌いなのだ。 ははは、エラソー。 ブログを書き始めてからいままでの最大の変化は、言うまでもなく、モニと結婚したことだった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/モニと一緒にいるということ/ 「あのおおお、結婚していたただけないでしょうか、あの、いや、つまり、Will you marry me?」というチョーマヌケな求婚によって結婚したわしは、しかし、この結婚によって現実とは思えないくらい幸福な生活を送ることになった。 これも、ちゃんと気が付く人は気が付いていて他人の目というものの機能に驚いたが、モニとわしが相変わらずノーマッドのように暮らしているのは、モニとわしが大好きな家をもっと見つけて、ふたりで、あるいは(どちらでも良いとわしは思っているが)ちびモニやちびガメがこの世に出現するならば、ちびモニやちびガメも、遙かな彼方まで続くmeadowやたおやかな波が打ち寄せる浜辺、あるいは超高層のビルが空を覆っている喧噪の街の空中に、オモロイ、リラックス出来る家をみつけて、回遊魚のように回遊して暮らすためである。 この日本語ブログにも書いたが、わしはモニをモニがチビのときから思いも掛けないことで知っていた。 あの冬のサンフランシスコの午後に、オレンジ色のコートに身を包んだ、目が覚めるような金髪と緑色の瞳の生意気な(しかし、いくら否定してもこの世のものでないほど美しい)ガキは、その後も、里見八犬伝なのかね、これは、と思いたくなるような誰にも到底現実とは信じられない偶然によってわしのガキ一生に断続的に現れたが、ふりかえると、よおーし、言ってしまえ、初めから結婚することが決まっていたような気もしてしまうのです。 聞いて怒り出されると困るが、わしはモニの横に座っているだけで嬉しい。 なんとなく、幸せである。 そういうことを言う人はアホだと決まっているが、でも、ほんとうなものは仕方がない。 日本語インターネット上の行動においても夙に指摘されておるとおり、わしは極めて短気であって、人間関係というものをどう思っておるのだ、とむかしから指弾されておる。 なんとも思ってねーんだよ。 わしは友達なんか欲しくねーもん。 味方、なんか、もっと要らん。 ひとりでいるのが好きなんです。 昨日までの友達がなんらかの理由で全部敵になっても、全部なぎ倒して、一瞬にして粛清して、恬淡としているタイプの人間なんです。 友情がなんぼのもんじゃい。 … Continue reading

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