Monthly Archives: June 2011

北イタリア某村

用事の相手のモナコ友達が自分の方からカンヌまで出向いてくれたので、一緒に朝食を摂りながら用事をすませることが出来た。 午前9時という空前の早起きが辛かった(後述のごとく勝手に起きちったときは限りに非ず)が、客人がわざわざやってきてくれるというのだからやむをえない。 モナコ人は親切で、これからはパチモン王国、とかゆってはいけないよね、と反省しました。 用事がすんでしまえばカンヌやニースのような下品な町にいる理由がないので、モニとふたりでクルマにとびのって北へ向かいます。 初めはジュニーバに行こうと思ったが、途中で気が変わったので北イタリアを目指すことにした。 サンレモ、ジェノアにトリノを通って行けばミラノはすぐである。 昨日で海岸沿いの道は懲りた(もう夏の大渋滞が始まっていた)ので、わしには珍しくモーターウェイを通って来ました。 ミラノの南に広がる美しい農場地帯を通って、スイス国境に近い、わしの大好きな北イタリアまではすぐである。 あたりまえだが国境を越えるとサインがいっぺんにイタリア語になります。 サービスエリアに、「チャオ」とゆってはいってゆく。 サンドイッチはパンはまだフランス風のバゲットばかりだが挟まっているのはハムとエメンタールの代わりにプロシュートとモッツアレーラになる。 ニュージーランドとかも北島は英語で南島はスペイン語、とかにしたほうが絶対おもろいのに、と考えました。 全部英語なんて退屈でくだらん。 夏の欧州の湖はどこも、さっきまで晴れていたかと思うと突然、凶暴な夕立が襲ってくる。 青空がかき曇ると、そよとも吹いていなかった風がドアを叩き付ける突風になって、辺り一面に水煙があがる沛然たる驟雨になります。 北イタリアも同じで、モニとふたりでテラスで湖を眺めながらワインを飲んでいたら、急にすさまじい夕立が襲ってきた。 モニとわしは慌てて室内に入ってさっき開け放ったばかりの窓を家中走り回って閉めてまわったが、慌てたわしが置き去りにしたバルセロナで買ったゴム草履さんは可愛そうにずぶ濡れになってしまった。 どひゃっと雨が降ったあとは、しかし、ひどかった湿気がなくなって気持のよい風が吹いてくる。 ここから細い田舎道を歩いて降りてゆくと、今日の午後ここにつくなり早速でかけたものすごくおいしいピザ屋さんがあって、世界でいちばんおいしいカルツォーネをつくるばーちゃんがピザ窯につききりでつくってくれるそのカルツォーネは、おおげさでなくて、こんなにおいしいカルツォーネが食べられるのなら死んでもいいかしんない、と思うほどおいしいが、明日はまた日が照りつける白い径を歩いていって、あのミツバチがぶんぶん飛び回る裏庭のテーブルで、陶器のカラフェに入った小さなグラスに淹れたワインを飲み、ばーちゃんと世間話をしながらカルツォーネをお代わりする極楽な夏の午後が過ごせるのに違いない。 わしらが大声で笑っていると、じーちゃんも(ランニング姿で)出てきて、「あー、おれもニュージーランドへいきてえ。どっか新しい新品の仕立て上がりの国へ行くのは、おれの夢なんだぜ」という。 もちろんモニとわしは、ニュージーランドに来れば案内してしんぜるぞ、という。 すると、ばーちゃんもじーちゃんも目を光らせて聞いておる。 犬と猫がいるから、一ヶ月が限度だけどなあー、という。 あいつらさえいなけりゃ、一年くらい出かけるのに。 わしはイタリアのひとやスペインのひとが、どうしてこんなに好きなのだろう、と時々自分で訝しく思うことがある。 二重三重に意味が重層化された、めんどくさい社会をめんどくさいと考えることもなく過ごしているつもりでいても、ルールが違う文化がやっぱしええなあ、と思うのだろうか。 連合王国とフランスでは具体的なルールそのものは異なるが「こういうときはこういうふうにするものだ」という規範が、猛烈に細かいことに至まで厳然と存在する。 その規範の生活はおろか感情に至まで深く食い入っている、その有り様は両方ともとてもよく似ている。 というよりも同じものである。 フランス人の女の子で時にニッポンアニメの登場人物のような格好をして人前に出てきたりするのは、多分、その取り決めにうんざりしてしまっているからであると思われる。 連合王国人が、やけくそみたいな格好でギターをぎゅいいいーんと鳴らすのも、そういう風味がまったくないとはゆわれない。 連合王国やフランスのごとき社会はそういう具合に考え出してしまえば細則めいた決まりごとが網目のように張り巡らされて退屈で硬直したクソ社会とも言えるからである。 イタリアと言えば陽性の、というイメージがあるのかも知れないが、この点ではイタリアもたいして変わらない。 スペインも同じだと思う。 それでも何事かが決定的に違うと思うのは、連合王国やフランスの細則は社会のためという色彩が大きいのに対してイタリアやスペインの細則には「社会」の影が淡くして投影していなくて、個人としての人間と人間がわがままなことを「このくらいならダイジョーブかな?」と考えながら、プッシュプッシュプッシュで押していって、ああ、もうこのくらいでダメね、と納得しあって出来ているところがあるからです。 フランスでも、ちょっとそういうところはある。 モニとわしが一晩だけ泊まったホテルは、クソ高い代わりに「駐車場完備」であるはずなのに、モニとわしが夜中に着いてみると駐車場がいっぱいである。 バレパーキングは田舎のホテルだからねーし。 「駐めるところがないではないか」というと、レストランの客が帰ったら、空くと思うのでそれまで適当にその辺に駐めておいてくれ、という。 これはこういうド田舎のホテルではユーメイなバカ言い訳であって、わしのような若輩衆でも、そんなチョロイ手には乗りません。 … Continue reading

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ノーマッド日記9 南仏

1 見渡す限り広がっているひまわりの畑のなかをモニが歩いてくる。 わしは、強い太陽の光に、目を細めて、デコに手をかざして、ゆっくり歩いてくるモニを眺めています。 わしの手には、さっきフリーマーケットで2束1€で買ったラヴェンダーが握られている。 ラヴェンダー農場のおっちゃんが出している屋台で、ラヴェンダーの石鹸と一緒に買った。 おっちゃんは、すっかりモニにみとれてしまって、「マダムの美しさを祝って、この石鹸はタダにしよう」という。 そーか、この国にくれば、モニも「マダム」なのだな、とあらためて考えて、なにがなし、感慨にふけってしまう、アホなわし。 バルセロナが36度だというので、大慌ててでクルマに乗って逃げて、国境を越えるとほどなく23度になって、やったやった勝った、タイショーじゃ、と喜んでいたのに、地中海の太陽の母上はあっというまにわしらに追いついて、今日はアビニョンも36度だった。 空気は乾燥しきっているので、木陰のテーブルに座っていれば涼しいが、木陰から出ると、まるで砂漠のベドウィンになったような気がする。 マンハッタンの有名な帽子屋のJJで買ったコロンビア製のストローで編んだ夏の帽子をかぶってこうして立っていても、頭がぽおおおと熱くなってくるのが判ります。 すごい暑さ。 10分間も表にいれば気分が悪くなってくるような。 「Roussillonは向こうだぞ、ガメ」と自ら「志願」して将校斥候(^^)に出ていたモニが戻りながら指さしている。 そーですか。 わしは、赤い岩が見たいと考えたので今日はAptに行こうと考えたが、モニがちょっと考えてから、赤い岩を見に行くのならRoussillonにしよう、という。 帰りに、Les Grosに寄って行こう。 とても綺麗な町だから。 Roussillonでモニが連れて行ってくれた丘の高台からは赤、白、ベージュの3色に分かれた不思議な崖が見えて、わしをすっかり感心させる。 まるで人工の色のような鮮やかな赤で、セザンヌが塗り込めた色は写実の色彩に過ぎなかったのが判ります。 Les Grosは、いままでわしが見たなかでは最も完璧な、最も美しい町並だった。 驚いてしまった。 だって、こんな町、わし聞いたことないぞ、とゆうと、モニは可笑しそうに笑って、そうかも知れないわね、と笑っている。 モニとわしは、もうすぐ、とゆっても何年か先だが、フランスに越してこようと考えている。 夏と秋をフランスで過ごして、残りをニュージーランドとオーストラリアで過ごすつもり。 いろいろ考えたり、ふたりでデコを近づけてひそひそ話したりして、だんだんそーゆーことに落ち着いた。 マンハッタンは秋の終わりに一ヶ月いればいいよね。 日本にはもう行かないんだろ、ガメ? そしたら、そこにバルセロナをいれよう。 今度はプールがあるところにして、毎年あつくなる気候を凌ごう。 ロンドンは、テキトーでいいや。 フランスにいるんだったら、すぐだし。 用事があるときに、何週間かづつ、行けばいい。 モニが子供を作ろうかと考えたり、やっぱり欲しくないと思ったり、子供が自分の身体から生まれるなんて怖い、と当然の考えをもったり、やっぱりちっこいガメが見たいと考えが変わったりで、そういう面ではわしらの計画はなかなか定まらない。 ガメは、これからの人生で何がやりたいんだ、と訊くので、 「木星に行きたい」というと、その後、しばらく訊いてもらえなくなります。 アフリカに行くのは真剣に具体的な計画を立てることになった。 インドも。 2 … Continue reading

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アビニョン

世の中にはインターンという制度があって、マジな就職をする前に職場の試食に行く、という仕組みになっている。試食する若者のほうもちょっと職場をなめてみて、ついでに職場のほうも若者をなめてみて、お互いになめきった態度を醸成する期間を設ける。 お互いになめあう、と聞いて顔をポッと赤らめるような不純青年はあえなく選に洩れる、という一途な若者の天敵なよーな制度である。 わしはもともと就職する気などかけらもなく、そんなヘンタイなことをするくらいなら橋の下で死んだ方がマシじゃけん、と不敵につぶやく学生だったので、インターンなんて先述のごとくヤラシイことをしたことはありません。 その頃はいろんなねーちんといろんなベッドで目がさめたりしておったが、やらしくないの、ほんとだもん。 将来破滅したら作男をすることになる土地を見に行く、というのはインターンとゆえないこともないのお、と呟きながら、わしはアビニョンの美しい村を「空飛ぶじゅーたん」という異名をとるシトロエンのぷにょおーんぷにゃあーんサスペンションで、(悪意に満ちているので有名な)フランスの田舎道をぶっとばしておる。 このフランスの田舎道、というのはだね、たいへんにスリルのある道であって、両側にはぶっとい木の並木が車道に迫って並んでいる。(すなわち逃げ場がない) 道路は狭い道ではクルマがすれちがうのにギリギリであって、そーゆー道ではセンターラインが引けないので存在しない。 そこを100キロを越える速度で、ぶおっ、とすれ違います。 合成速度でゆーと200キロだぜ。 ときどき左側のサイドミラーがふっとんだままのクルマがあるが、それは耳成芳一の耳のように平家の落ち武者にちぎられたのではないのではないかという疑いをもたれている。 ところがモニさんは、そこを悠然と120キロで、ぴゅうううーと走ります。 母国、というのは出身者に自信を与えるものだと見える。 いつもは、ぎゅんぎゅんぎゅーんととばすモニがフランスだと悠然ととばしている感じです。のおーんびり、爆走する。 運転を交代して助手席(助手席って、なんべん使ってもオモロイ日本語だすな)に座っていると、ときどき、とりわけコーナーなどで、もう死ぬ、もう絶対死ぬ、ぎゃああああああああ、と思うのは同じですが、フランス国におけるモニの運転であると何となく安楽に死ねそうな気がしなくもない。 で、モニのかーちゃんが所有しているXXを見たり、そこで泊まったり、おいしそうなレストランを夜とおりかかると、うさぎや牛肉の料理をそこで食べて、眠くなると、「泊まる部屋はありますか?」と訊いて、そこで泊まったりして、あるいは友達のクソでかい休暇用の家の、とんでもない広い部屋に泊まったりして、ずっと遊んでいる。 今日は、アビニョンの郊外の小さな町でクラシックカーレースがあったので、フランス人の友人たちと一緒にピクニックを兼ねて観に行った。 コーナーを抜けたあとのストレートの始まりにある空き地のピクニックテーブルに格子縞模様のテーブルクロスを広げてハムやチーズにバゲットとシャンパンで食事をしながら怒濤のように走り抜けてゆく初代ポルシェやブガッティを見物します。レースなので運転者も助手席のひともカーレース用のごっついヘルメットを被っているが、そこはほれ、なにしろクラシックカーなので、爆音の割にホンダの50CCスクーターよりも遅かったり、手をふっているわしらに窓をあけて手を振って返したり、初夏のアビニョンの、とんでもなく青い空と輝き渉るような緑のなかで、なかなかスピードの神様と寛いでのんびりしているようなやさしい感じのする午後でした。 それから、プールサイドでなかなか暗くならない南仏の太陽の下で、テーブルに運ばれてくる、冷たいメロンのスープ、イカや鴨、ラム、ほんとうはオーストラリアかニュージーランドでなければ食べないと固くふたりでちかったはずなのに、フランスに入った途端、ふたりとも我慢できなくなって、お互いの意思のなさを笑いものにしながらブルーチーズのソースをかけてむさぼり食べてしまうビーフステーキ、それにワインワインワインで、酔っ払ったり、冷たい水が気持がいいなどというものではないほど気持ちがすきっとするプールに飛び込んで泳いだり、またテーブルにもどって、ぶわっかたれな話をしながらワインを飲んだり、また泳いだり、延々と夕食は続いて、やっとさっき部屋に戻ってきたところ。 フランスのど田舎は相変わらず食べ物がおいしくて人間が途方もなく親切で、大陸欧州一の礼儀正しさも変わらなくて、とりわけモニと一緒であると、わしのようなクソ外国人とはまるで違う勘があるようで、自分ひとりでフランスをうろうろしていたときとは、行く先々のレストランのレベルからしてまるで違う国のようである。 モニは普段自分の祖国であるフランスの悪口ばかりゆっているが、ほんとうは自分の国が好きなよーだ、と改めて考えました。 ふだんでも細やかなやさしい気持でいっぱいで、悲しいものを見せると絹が裂けてしまうように壊れてしまいそうな感じのするひとだが、フランスでは一層それがたおやかで、柔らかい感じになる。 モニの口からフランスを誉める言葉を聞いたことがないのに、愛国心などというものは、愛郷心に他ならなくて、なんのことはない、ふたりで一緒にクルマで旅をしてみれば、自然と横から見ていて判るものだと納得しました。 くだらないことを思いつくという点では抜群の実績をほこるわしが考えた、この旅は、もともと原子力発電所を巡るヘンテコな旅にするはずであって、モニも少しもいやとはゆわなかったが、フクシマの恐ろしい成り行きを見て、わしが大陸を縦断する旅行に変更したのでした。 パリにずっといる、という考えもあったが、これにはモニは初めから反対で、パリはどうせそのうち暫く住むことになるのだから、旅行の終わりにちょっと寄って母親に挨拶するだけにしよう、ということであった。 だからアビニョンに行こう。 アビニョンの田舎で、長野でふたりでよくやったようにピクニックをして遊ぼう。 もちろん高速道路は全然使いません。 オカネを払ってわざわざ退屈な道を通るひとはいない。 フランスの気が遠くなるほど美しい田舎道を、安物クルマとはいえど、まことにフランス用に出来たシトロンの滑るようなハイドロサスペンションで、どこまでも続くひまわりの畑や、オリーブの斜面、そして何よりもビンヤードが広がる道を、ふたりで歌を歌いながら走り抜けて遊ぶ。 ときどきワインの醸造所に寄って、テイスティングをしたり、ワインについて教わったり、ワイン作りのおっちゃんやおばちゃんたちと話し込んだり、ビンヤードや醸造所のなかを案内してもらったりして、のんびりする。 今日の朝は土曜日なのでUzesの食べ物市にクルマを走らせて、山ほどチーズとハムを買い込んで、ついでにニュージーランドの家に欠けている美しい柄のプレースマットをいっぱい買い込んだ。 それはまた別の記事で、イタリアに住んでいる「すべりひゆ」どんに手紙を書くようにして記事に書こうと思うが、水が濁っても「ジプシーのせい」、ものがなくなっても「ジプシーのせい」で、モニが憤慨しておばちゃんと言い争いをしたりしたが、それだけが暗い雲の陰りで、他はモニが黙ったまま見せて歩いてくれたとおり、フランス嫌いのわしも、どう考えてもフランスを好きでしかいられないようなことばかりであった。 フランス人は親切で礼儀正しくてはにかみ屋でしかも会話に機知というものがある。 必ず人を笑わせようとする。 友達夫婦とクラシックカーレースを観に行っても、母親がカーキチなのでカメラを構えて道路をにらんでいて、旦那さんは全然興味がないので、草っぱらに仰向けに寝転がってごろごろしている。 母親が17歳のときに生まれていまは12歳になった娘は、今朝競技会に出た乗馬靴のまま母親の横で一生懸命興味深げな風を装って通り過ぎるクルマのあれこれを質問していて、その家族のありようが、夫が無理矢理でも興味があるふりをするに違いない連合王国ともまた違って、自然にのんびりしてラックスした気持が伝わって、大陸の夫婦もいいなあ、モニにもちゃんと、こういう風な気持も味わってもらわねーと、と考えたりした。 なんだかフランスが好きになってしまった。 わしはフランスを用事があって訪ねても、こういう誰にも読まれないためにわざわざ日本語でつけている日記にも書かなければ、他人にも言わなかった。 第一、パリに出かけるのが殆どであって、さっと行ってさっと帰る、というふうでした。 でもモニが世界でいちばんだいだいだい好きなのに、フランスは嫌いである、というのはやはり宇宙の法則に反していたもののよーである。 … Continue reading

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Somos

インフルエンザの予防注射をするのは、腕をさしだして顔をしかめて痛いのを我慢している、その子供のためではない、という考えがある。 予防注射をまるでやらなければひとりの罹患者から10人にうつる事態であるとして、集団予防注射をすれば、それが二人にしかうつらなくなる。 そうするとインフルエンザの収束が当然はやくなるので、だから、予防注射をする。 この立場にたって考えている人に、「わたしの息子が予防注射の副作用のせいで死んでしまった!」と母親が泣きながら訴えても、論理の上では「そーですか」という反応しかしようがないであろう。 泣きつかれた医者、あるいは官僚は、「あんたの息子は、そりゃ あんたにとっては特別かもしれないが、ただの『ひとり』にしか過ぎないではないか、大流行で死ぬ人の数に比べれば、誤差の範囲と思う」と考える。 「自分にとって息子が特別なのは判るが、だからといって騒ぎ立てられても、ぼくにはどうしようもない。困ったひとだな」 世界のあちこちで、(もういまは数がたいへん少なくなってしまったが)フクシマの原発事故に関心をもって眺めているひとたちにとって、最も不思議なのは、福島県の校庭で遊んでいる子供達は(遠くから見ている観察者たちにとっては)何年かすれば大量に「病死」することがほぼ自明としか思われないのに、なんだか日本社会全体が、その福島の子供たちの運命には無関心であって、差し迫った子供の生命の問題にくらべれば、もっと遙かに迂遠な問題とゆえなくもない「原発の廃止」や「未来における自然の力を利用した発電」のほうにしか関心がないようにみえることである。 見える範囲で、福島の子供達の問題が緊急であることを訴え、声をつまらせて、「われわれの社会がこれほど冷淡だと考えたことはなかった」と正見を述べていたのは京都大学の小出裕章というひとだけだった。 第一、日本の政府はふたことめには「安全だ、安全だ」と言っているが、前にも述べたとおり日本の外から眺めている放射能についてはまことに迷信的な西洋人たちのほうは、 日本の政府は、なぜ、あんな殆ど素朴とおもわれるほどのウソをつくのだろう、と考え込んでしまう。 そうやって考えていて、ゆいいつ思い浮かぶのが「全体を生かさなければ個も滅びる」という発想のことであって、ああ、このひとたちは「日本」という全体を生かさねばならないと考えて「福島の子供の生命」というようなものの緊急性を認めると、全体が壊れてしまうと考えているのだな、と納得する。 すごい国だな、と考えて、さっきまで眺めていたコンピュータのスクリーンを閉じます。 時間が経つにつれて日本の破滅の仕方が限りなく1945年8月15日に向かう大日本帝国にそっくりになってゆくのは、要するにその背後にあるロジックが同じだからでしょう。あのときの「国体」というのは煎じ詰めれば天皇というひとりのひとの肉体だったが、今度は、それが「オカネ」という万能の神である。 オカネ、ではあまりに剥きだしなので、たしなみのあるおとなは「経済」と呼ぶが、なに、同じものです。商人がいつのまにか、どれもこれも「ビジネスマン」になりすましているのと変わらない。 誘拐が「連れ去り」、売春が「援助交際」に化けたのとも原理的には同じで、臭い現実に向き合うのが嫌なので、ちょっと新語のフタをしてみただけである。 国民が「大本営発表」に一喜一憂し、現実はどうも違うのでないかと思われるようになってからは、発表の隻言隻語の裏読みをし、終いには現実を見るのはやめて「ダイジョーブだ」「ダイジョーブだ」と言い合うようになる。 それを可能にしているのは、およそ人間であれば誰でも弱さとしてもっている危機に際してのそれとはわかりにく逃避、「放射能の正しい恐がり方」というような一見もっともらしいが、いまの科学の低放射能被曝についての知見がゼロに近い現実を考えれば、ただの虚しい修辞にしかすぎない言い方によく顕れているような、恐怖に足が竦んだ反応としての、非現実的なたかのくくりかただと思います。 知性、というのは、たいへん厄介なものであるのが、思い出されるようだ。 昨日一緒に話した友達は、会社から近い「カタルーニャ・ランブラ」の真ん中を貫いている公園のテーブルに飲み干したビシー・カタランを置いてから、 「福島の子供達は、もうダメだろうが、その程度の犠牲で日本の政府は今回の危機を乗り切るだろうか?」と疑問を述べた。 見通しが甘いのではないか。 あまりに急速に崩壊されては、われわれのほうがもたない。 晴れ渡った初夏の空を見上げて、溜息をついたわしを見て、この友達は、ああガメも急速に日本の崩壊がすすんだ場合を考えて頭がいたいのだな、と考えたようでしたが、ほんとうはわしはそういうことを考えていたわけではなかった。 「その程度の犠牲」という言葉が胸にわだかまってしまって、特別に息を吐き出してしまわなければ胸苦しいような奇妙な気がしたからです。 日本のことを心配してくれて、とゆってくれるひとがこのブログに来るが、わしは特に日本を心配しているわけではなくて、強いて言えばこの世界に生きているわれわれ人間すべての「人間性」というものを心配しているのだと思われる。 母親たちは、自分達の子供に関して「全体の部分」であることを端からまったく認めない、素晴らしい能力を有している。 福島の母親が「この程度の犠牲」という言葉を聞かせられれば悪鬼のように怒るだろう。 しかし、殆どすべてのことを言葉に仕立て直さなければならない社会の一員としてのわしらには、どんな方法が残っているだろうか。 いまの世界は、ばかばかしいほどの過剰な人口を抱えて、資源の争奪がはじまり、食料の不足はそれぞれの内陸から北アフリカや中国の沿岸部にまで兆しとなって顕れている。 そういう世界では、個人というものはまず全体の部分に還元されるが、誰でも知っているとおり、西洋人が骨組みをつくった現在の先進国社会は個人が絶対に全体の部分に還元できないことを前提に設計されている。 実は、いまの人間が手持ちの思想では、到底のりきれるはずがない危機を目前にしていることは、相当のんきな愚か者でも知っている。 この20年、同じ「自由経済」と名前がついていても、われわれの経済世界は歴史上例をみない大変革を遂げた。 その実体は、ごく簡単に言えば「恐慌と戦争がなくても機能していける市場の創出」であったと思います。 そのほんの20年前には夢物語でしかなかった新・自由市場を、諸国が協力してITという巨大なパラダイムシフトを起こすことによってつくりだすことに成功した。 しかし、それだけのパラダイムシフトをくぐってもなお社会というものの本質かもしれない、個人が全体の部分でしかない集団としての人間の素顔を、というのはとりもなおさず人間が本来もっている冷酷さを、フクシマは嫌というほど見せつけたのだと感じる。 フクシマ、というようなことは、あんまり考えたくない問題だな、とつぶやいて立ち上がった友人の表情は、案外、鏡のなかの自分の素顔に嫌気がさした人間の顔だったのかもしれません。

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コメントのご返信でがんす:あきらめることは、とてもかっこわるい

敬愛するジュラどん、 >ブログが公開すぐに読めたからいいことにします。 舞い上がりました。喜びのビクトリー・バク転をしたいところであるが、このアパートでやるとクビが折れるのでやめておきます。 >「subtle」という言葉にゆき当たり、ガメさんのいる英語の世界ではこれって一体どういう意味なんだろう 意味どころか、これとunderstatementの習慣が英語文化へのドアの鍵ですねん。(えらそー、だが) たとえば、 You are welcome. というひとことを 「どういたしまして」 「あなたが大好きなんです」 「二度とくるな、バカ」 「あなたのような人間を軽蔑します」 「いいってことよ」 「あなたがこの世界にいなければ、わたしはどうすればいいでしょう」 めんどくさいから、もうやめるが、何百という意味に分けて、しかもそれが正確に違わず相手に伝わるところが subtleを尊ぶ文化のよいところです。 氷のように冷たい You are welcome. を聞いたことがあるひとなら、それがいかに恐ろしい文化であるかも知っているはずである。 恋人に別れを告げられて、スペインの人は抱き合って泣くが、連合王国人の女のひとは、 「All right」とひとことつぶやいて、恋人を見送った夜、自分の部屋で毒を仰いで死んでしまったりする。 ちゃんとした教育を受けたひとなら、受け入れられない別れに直面しても、涙ひとつこぼさないでしょう。 そのひとことをつぶやくときのほんの少し陰る目の光も「 subtle」の文化にいれてもよい。 もっとチョーくだらない例でいうと、皮のコートなら皮のコートでブランドマークがついていたりするヘンタイなコートを着たりするのはもちろん論外で、まったく同じようなコートを着たひとと並んで、あっ、あのひとコノリーのコートを着てるんだな、と比較の結果によって、ようやく了解されるのでなければ見栄っ張りなのではなくて、バカなのだと思われる。 会話でも「Wasn’t very subtle, was it?」なんちて、よく使います。 >大事なことって、特に派手でも劇的でもない、日常のすき間や言葉の間のようなところに、ふっと落ちている まことにそのとおりであって、ジュラさんはやはり賢すぎてくろうするタイプなのが忍ばれるのい。対あつかいするわけではないが優さんと似ておる。 たとえば履き物を脱いで一段高いところにあがってから家にはいってゆく手順を見落として日本の文化を考えるのは危険ですらある。 同じようにヒップホップガキどもが金曜日の広場でヒップホップに倦んでフラメンコのあの精妙な手拍子と一緒に歌って遊ぶ事を知らないでスペインのことを考えても仕方がないところがある。 文字や勉強で伝わるのは、どんなに精巧でも梗概なのよね。 … Continue reading

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放射能鎖国

フクシマの原発事故で最も同情されない「被害者」はときどき東京にやってきては、築地や銀座の日本料理屋で「やっぱり本場の天ぷらはうまいな」をやっていた海外の金持ち美食家たちであると思われる。 「日本食」はブームというものは、とおのむかしに終わって、「健康食」というようなカテゴリーのものでもなくなって、プレゼンテーションがかっちょいい、しかも微妙な味わいと舌触りにすぐれた調理法として定着した、と思う。 調理法というものは、そのまま文化の形を示しているようなところがあるので、たくさんのひとが日本食を通して「日本人は知的な国民だ」ということを、直截な感覚で理解した。 わしはまだグラシアのアパートで来週フランスに移動するかなあー、どうすっかなあー、もうちょっとカタランソーセージ食べて遊びたい、とくたくたして優柔不断をしているところだが、もともと食べ物に関しては途方もなく保守的なカタロニア人は、インド料理、とかは全然たべません。 ときどき冒険的なのかマーケットリサーチというものがまったく出来ないのか、インド料理屋が忽然と出来ていたりするが、インド人街のまんなかに出来たレストランすら潰れてしまう。 中華料理屋も、ぶっくらこくくらいおいしい高級店が何軒かあるが、昼飯時にはビジネスマンたちがやってきて食事をしても、夜は行きません。 金曜日の夜でも、がらがらである。 ところが日本料理屋だけは、たいていの場合、中国人が経営して調理人も中国のひとであって、チューゴクチューゴクした「鮨」が出てくるが、金曜の夜は延々長蛇の列であって、前にブログでかいたことがある「巻き寿司」を頼んだらスーパーで50円で売っていそうな焼き鳥が一本だけ出てくる(しかもたしか5€)、という、せめて日本語の料理名くらいベンキョーせんかい、というレストランも、相変わらずバルセロナのトップレストランのひとつとして君臨してます。 わし自身が日本料理屋に行かないので、詳しくないせいもあるかもしれないが、どうも日本人が調理している日本料理屋はないと思われるのに日本料理屋だけは、すさまじい数であて、一街区に一軒がキャパシティと思われる中華料理屋、バルセロナ全体で、一軒がキャパシティと思われるタイ料理屋に較べると、途轍もない人気を誇っておる。たとえばディアグノルのfnacがはいっているビル(名前忘れた)の地下フードフロアにあるうどん屋でも、いつ通りかかってもいっぱいです。 他国のエスニック料理がここまで人気を呼ぶのは、はバルセロナの歴史始まって以来とゆわれている。 この事情はニューヨークでもどこでも同じことで、マンガやアニメが廃れつつある一方で、日本料理屋は定着した上で勢いをのばしつつあるよーだ。 それにつられて、たとえば流行として漢字Tシャツにとって代わったカタカナのTシャツであるとか、日本式タトゥー(極彩色倶利伽羅もんもんのことね)も興隆しておる。 イーストビレッジを散歩すると、1960年代に高倉健とならんで全共闘を熱狂させた「緋牡丹お竜」(寺島しのぶかーちゃん)そっくりの背中をしたハクイねーちんが通り過ぎる。 マンハッタンの初夏の太陽に緋牡丹が映えて、かっけええー、と見とれてしまいます。 「知的で好もしい」文化とセットになった日本料理は、とりあえず知的そうならなんでもやってみます、な、お富豪さんたちに当然うけて、「すきやばし次郎」よりは数段うまいと思われる銀座のQには、ロシアから自家用ジェットとチャーターヘリを乗り継いでやってきた若夫婦が、真剣な面持ちで白木の台前に座って、「これはなにか?」「カウンターの向こうから鮨を出す、というすごいアイデアは誰がおもいついたのか?」と職人を質問攻めにしていたりする。 連合王国からはるばる「変わったおいしいもの」を食べにやってきたとーちゃん友達のご領主さまを数寄屋橋の小料理屋につれていくと、飛竜頭をひとくち食べた途端に感極まってしまって、「しまった、こんなうまいものを食べるのではなかった」と訳のわからないことを口走ったりしている。 しかし、そういう遊びも原発事故でみな諦めねばならないことになった。 ふだん放射能と一緒に生活していて、それがだんだん生活の一部になっているらしき日本の人が聞けば笑うだろうが、放射能を迷信的に怖がるガイジンどもは、ふつーにはない放射性物質がそのへんの土壌に含まれている、というだけで、どおおおおおひゃああああ、なので、そんな土地にでかけるなど思いも寄らない。 わしにしてからが、4月だか5月だかにいちど日本に一週間くらい出かけて実況を見聞したい、という希望は秘書のねーちんにあえなく却下されてしまった。 そのときの話では10月まで待てば関西空港経由の航空券を買っておいてやる、4日くらいなら、でかけてもいい、という話だったが、その後の展開が気に入らないとかで、これも「やめました」「絶対、日本に行ってはいけません」という。 結局、日本には当面、百年くらいは行かせてもらえないことになってしまった。 義理叔父は、どーしているだろーか、と思って電話して様子を訊いてみると、かーちゃんシスターが万が一、未来において病気になって、「これはひょっとすると、あのとき日本に一ヶ月戻った祟りなのではないか」と考え出したりしたらたまらん、と気が付いたので、もう日本に戻るのはやめたわ、という。 でも、ほんとうは安全みたいよ、とのほほんとしたことを言ってました。 安全みたい、安全みたい、といいながら、日本に事務所がある合衆国人に至るまで誰も日本に行きたがらないのであって、この合衆国人はいままでは「日本は大事な戦略拠点だから」と言い募って、チョーくだらない用事でも自分で出かけては銀座のわしが紹介してやった料亭で酒池魚林をしていたのに、最近は、若い衆を飛行機に乗せて、「しっかり、がんばってきてね」をしているよーである。 「わたしゃ、カミカゼでんがな」と若い衆がこぼしていました。 ニューヨークの一流料亭は、実は築地からの直送の魚だしてんのよ、と教えてやったら、ダッシュでトイレに駆け込んで吐きにいったアホなマンハッタンおっさんもおった。 トーデンや日本政府や「原子力は素人には判らないのだから、おれにまかせんかい」の「斯界の権威」日本人学者がいうとおり、ガイジンは騒ぎすぎる。 しかし、当たり前だが日本の外に住んで日本を取り巻き、貿易し、投資して日本人たちと一緒に経済を回転させているのは、これらアホガイジンであって、日本人以外は世界中みな「ガイジン」なのです。 で、ね。 ガイジンどもは放射能嫌いなのよ。 ちょっとだけなんだから、いいじゃない、といくら日本の人に言われても、ダメである。 ちょっとでも、嫌です。 そういうバカガイジン反応にうすうす気づいてきたのでしょう。 最近は、同じ記事が日本語と英語とで部分的に違う文章だったりする。 どうも都合が悪いところは書き換えているよーだ。 チベット、とかで検索すると、部分的にまったく違う差し替えられた記事が出てくる「中国版英語ウイキペディア」という話があったが、それとあんまり変わってへんやん。 放射性物質が「人体に安全な範囲」で日本中に蔓延することによって、日本は世界から遮断されつつある。 いや、前から言語やなんかのせいでブラインドがかかって、 よう見られへんかったんやけどね。 もうブラインドがセシウムやストロンチウムの同位体で固まって壁になって、塗り込められて文化石棺化しつつある。 … Continue reading

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ふりかえってみると

このブログを書き始めてからもう5年になる。 ということは、残り2つのブログも5年、あと2つのブログも3年になるということであって、いくら文章を書くのが速い(なにしろ何語で書くのでも何も考えないで書いておるからな)とはいっても我ながらご苦労さんなことである。その他に、(これが文章量としては最も多い)非公開フォーラムをひとつ抱えていて、モニと24時間一緒にいるといっても隙さえあれば、というのはモニが眠っているあいだや絵を描いているときにiPadをちらと盗み見し、PCを開けて、こそこそとブログを書く。 素面のあいだは、自分で考えてもあんまし自信がない言語と向き合っていて、酔っ払ってくるとだんだんなんとかなっていそうなほうの言語に移動する。 この手順を怠るとたとえばモスクワのにーちゃんに「頼むから、恋文みたいな気色の悪い言葉でわしが書いたものをほめないでね。ゲイかとおもったやん」とかゆわれて、がっくりすることになります。 そんなことばかりやっていてもものを書く遊びに使うのは一日に平均すれば2時間もいかないでしょう。わしは昔からなにしろ何も考えなしにえらい勢いでキーボードを叩きまくる(とゆってもやけを起こしてキーボードを殴りつけているわけではないのよ)ので、CPUの処理速度がものを書くという行動の限定要因になっているのではないかとよくからかわれる。 たったいまはモンゴルと中国の文化からやってきた大才Sa Dingdingが大音響でかかっているが、The Motelsのこともあれば、マリア・カラスのこともあります。 音楽をかけないで何かを書くということはない。 往々にして自分でも歌いながら書いているのでモニがいつも呆れはてた、という顔をしてみてます。 旅先であっても、4台はコンピュータをもっているので、テーブルの上に他のコンピュータも広げて、ツイッタに答えたり、フォーラムで話したり、スカイプで「ぎゃはは」と笑いながら、この日本語ブログを書いていたりするので、モニさんは、どうやら狂人と結婚したと思って人生を儚んでいるようだ。 そんなことばかりやっているうちに、ブログを始めたばかりのときはわしひとりで野良犬のようにやっていた冷菜凍死業もいまは5つの街に「カイシャ」があって、一緒に働いているねーちんやおいちゃんたちも○十人という単位になっている。 自分と共に働く人間の数など少ないほうがいいに決まっているので、絞りに絞るが、どうしても増えてしまう。 まるで出来の悪い政府の役所のようです。 ショーバイのような下品な話をここでしても仕方がないが、わしは不景気下でショーバイをすすめてゆくのが好きなようだ。 ブログを読んでいるひとは知っているわけだが、わしの冷菜凍死は不動産の購入というコンサーバティブがちがちの投資から零細技術系会社という冒険の極みとのあいだにグラディエーションになったポートフォリオが年がら年中変化することともうひとつ読んで判るひとは気が付いたはずの無茶苦茶先進的(じぶんでゆっていれば世話はないが)かつサンスー的な投資の二本立てで出来ている。 あんまり書いても退屈なだけだろうから書かないが、駐車場のビルひとつつくるのでも、ただ作って貸しました、というような事業をやるとわしの会社ではクビになります。 なぜ、それをローン貸与化してカウンシルに話をしなかった、とゆってわしに顔を真っ赤にして怒られることになる。 アホか、あんたは。 そんなくだらないことがやりたいのなら駅前で不動産会社でもやればいいではないか、わしは退屈な人間が嫌いなのだ。 ははは、エラソー。 ブログを書き始めてからいままでの最大の変化は、言うまでもなく、モニと結婚したことだった。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/01/07/モニと一緒にいるということ/ 「あのおおお、結婚していたただけないでしょうか、あの、いや、つまり、Will you marry me?」というチョーマヌケな求婚によって結婚したわしは、しかし、この結婚によって現実とは思えないくらい幸福な生活を送ることになった。 これも、ちゃんと気が付く人は気が付いていて他人の目というものの機能に驚いたが、モニとわしが相変わらずノーマッドのように暮らしているのは、モニとわしが大好きな家をもっと見つけて、ふたりで、あるいは(どちらでも良いとわしは思っているが)ちびモニやちびガメがこの世に出現するならば、ちびモニやちびガメも、遙かな彼方まで続くmeadowやたおやかな波が打ち寄せる浜辺、あるいは超高層のビルが空を覆っている喧噪の街の空中に、オモロイ、リラックス出来る家をみつけて、回遊魚のように回遊して暮らすためである。 この日本語ブログにも書いたが、わしはモニをモニがチビのときから思いも掛けないことで知っていた。 あの冬のサンフランシスコの午後に、オレンジ色のコートに身を包んだ、目が覚めるような金髪と緑色の瞳の生意気な(しかし、いくら否定してもこの世のものでないほど美しい)ガキは、その後も、里見八犬伝なのかね、これは、と思いたくなるような誰にも到底現実とは信じられない偶然によってわしのガキ一生に断続的に現れたが、ふりかえると、よおーし、言ってしまえ、初めから結婚することが決まっていたような気もしてしまうのです。 聞いて怒り出されると困るが、わしはモニの横に座っているだけで嬉しい。 なんとなく、幸せである。 そういうことを言う人はアホだと決まっているが、でも、ほんとうなものは仕方がない。 日本語インターネット上の行動においても夙に指摘されておるとおり、わしは極めて短気であって、人間関係というものをどう思っておるのだ、とむかしから指弾されておる。 なんとも思ってねーんだよ。 わしは友達なんか欲しくねーもん。 味方、なんか、もっと要らん。 ひとりでいるのが好きなんです。 昨日までの友達がなんらかの理由で全部敵になっても、全部なぎ倒して、一瞬にして粛清して、恬淡としているタイプの人間なんです。 友情がなんぼのもんじゃい。 … Continue reading

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個人のための後退戦マニュアル・その4

もうここまで来てしまうと未来の日本の経済的破滅を疑う人はいなくなったようである。 少なくとも、わしが話をするひとびとの範囲ではいなくなった。 ここで「範囲」というのは冷菜凍死家としてのわしが接触をもつ範囲であって、もうひとつのわし世界においては「日本って、経済がテイチョーなのか?儲かってるんだとばかり思ってた。ポッキーつくってる会社つぶれたら困るなあー」というオオタワケがたくさんいるので、こっちは人語の世界の住人とみなしておらないので省く。 焦点は「日本の経済的大破滅が何時くるか?」というほうに移ってしまっている。 東北震災があった瞬間は、災厄というものが経済に与える法則に従って、これで破滅の時期がやや遠くなった、という意見が多くなったが、次の瞬間のフクシマのニュースによってこの意見は雨散霧消したとおもいたまえ。 その後の経過をみると、(日本では「事態が落ち着いた」ことになっているのは、承知しているが)「対策をやめちった」状態であって、「ま、熔岩みたくなった核燃料が地下のどのくらいまで潜っていくものか、見物しましょう」というすごいことになったので、そんなもん経済的な評価なんか出来るかよ、ということになった。 余りのことに、たださえ一喜一憂欣喜雀躍右往左往が習性の自称「経済学者」たちは、舞台の上で見栄を切ってみたり、生半可を通り越して勘が悪いのにも程があるバカ「科学知識」をふりまわして、「反原発はテロ」だとゆってみて僅かに英語世界で漏れ聞いた英語人たちに失笑を買ったりしている。 混沌、という言葉のもともとの言葉の雰囲気を伝えるところがあります。 2015年くらいなんちゃうか、というのがいちばん多い意見であるよーだ。 破滅の形は、いま日本の専門家がみな胸をはって「起きる確率0%」と断言しているデフォルトそのものである、というのが、まず一般的な意見でしょう。 しかも確率としてはデフォルトが習慣化しているギリシャ問題などよりも、イタリアやフランスが日本に先行的に破滅して、みながそっちの方角を向いて「きゃあああ」をしているときに、あっち向いてホイ、東の片隅で、巨大な経済があえなく建屋崩壊となるのだと思われる。 スケアモンガリングちゃいまんねん。 アホらしいことに、もう5年も書いているこのブログで何回も書いたように、途中までは対策が出来たが、それも麻生首相の頃に加速がついた集団的狂気によって恢復のチャンスは逸してしまった。 しかし、これも前に書いたように日本人の国民性というものを考えると、日本のひとが世界一の天分に恵まれた「先送り」の真に天才的な技巧を凝らして先延ばしに先延ばしを繰り返して、100の価値の生産財を70の価値の製品に変えて、それをさまざまな政治社会の締め付けによって正常らしく生き延びさせるよりも、いったん破滅したほうがよい、とも言える。 これからやってくる「グレイト・カタストロフィ」の日が来て、それから日本が1980年代初頭の状態に復興するまで多分5年とかからないのではなかろうか、と信ずる理由がわしにはある。 だから、そっちのほうがいいのよ。 途中は悲惨であるし、隠してもしょーがないから、ゆってしまうと、いま40代後半から60代前半くらいまでの人間は若い世代の慈悲にすがって生きてゆくより他になくなるだろうが、 しかし、いまの日本の状況は彼らの特徴である賢しらぶった徹底的な無責任が産みだしたものである。 自業自得、であると思います。 逆に彼らの老後が「保障」されるようであれば、日本という国など2025年頃には悪くすればなくなっているに違いない。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/09/破滅と再生への道_2/ わしは自分が日本語を書いているときには1992年に江戸川のほとりで自分が通っていた塾の教師に強姦されて惨殺された14歳の女の子の亡霊だと思っているが、ほんとうは日本のひとではない。 それでもわしには想像力と日本語という日本人の生活に分け入ってゆけるふたつの偉大な法力をもっているので、自分がいま日本人で日本にいる20歳の大学生だったら、と考えてみることは出来る。 わしならどうするだろう。 まず、早起きする。 こら、そこのきみ、ふきだしてはいかむ。 ほんまやねんぞ。 ロマン主義的傾向の作家たちを見ていて、いいとしこいてアホみてえ、と思うのは、彼らが言う「絶望」だの「憂愁」だのは、なに、酒もタバコもやめて、日の出とともに起きてジムで一時間ジョギングマシンの上でハムスターのように走り狂うなり、プールで1キロ全力で泳ぐなり、要するに肉体を活性化させれば解決してしまうだけのことで、自分の自堕落と世界の頽廃とを混同して自己憐憫に耽っているだけだからです。 それから良い音楽を探すだろう。 良い音楽がなければ魂が目をさましてくれない。 学校が休みになれば、いっちょう、ひと夏苛酷にベンキョーしてみっか、と考えて英語の本を大量に買い込んできて読むだろう。 わしが言うのもなんだが、いまの世界では、残念なことに英語とスペイン語だけが世界語であって、他の言語は急速に地方語化している。 中国語ですら地方語の位置に転落しているのは母語として最大人口を誇る中国人たちが最もよく知っていることです。 だから英語を勉強する。 スペイン語でも、可なり。 どうやって勉強するかというと、教本なんか買わねーよ。 神保町かどこかまでぶらぶらでかけていって、「フレンズ」の全シリーズかなんかを5割引で買ってくると思う。 日本語字幕がついてしまっては意味がないので、字幕が日本語の場合は、やむをえないからamazon.comからリージョン1ものを購入するであろう。 字幕なしでも判るひとは、この限りにあらず。 外国語は、いろはにほへど、あいうえお、ABC、ウナ、ドス、トレスから始めて、だいたい6ヶ月くらいでぺらぺらあるいはヘロヘロに話せるまで習得できるものだということになっている。 … Continue reading

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夏になった

1 タピエス・ミュージアムのなかにある図書室に用事があったのででかけた。 グラシアからは、当然のことながら「パッサージュ・ド・グラシア」という文字通りの道を降りて行きます。 途中、一部、脇道に入ったが、それはヴィシ・カタランやカバを飲むためであるにすぎない。 グラシアから昼間バルセロナに降りてくることは滅多にないが、出てきてみると今年は日本の観光客が、というか日本の団塊世代が仰山いてはるので驚きました。 いつものごとく白い上っ張りを着て、いつものごとく上機嫌な、わしがバルセロナにくればいっぺんは立ち寄るバールのおじちゃんに「日本のひとが、いっぱいいるなあ」というと「中国は儲かってるからな」という。 会話があまりに微妙なので、そのあとの接ぎ穂もなく、一瞬で終わってしまった。 カメラを首からぶらさげて、ベストを着ている、というニッポンニッポンした格好の団塊おじちゃんやおばちゃんたちはタピエス美術館にもちゃんといて、大声で話し出したので館内のひとびとはぶっくらこいて見返っていたが、そのうちすぐ静かになって、無口になってバシバシ絵の写真を撮りだしたので、なにがなし、心配な感じで見ていたわしも安心しました。 こういうところで「心配」な感じになるところが、わしと日本のややこしいわだかまりをあらわしておるよーだ。 タピエスというじーちゃんは、無茶苦茶かっこいいじーちゃんであって、たしか86歳くらいだと思うが、禅っぽい画家であるよりも、そのへんのゴミをひょいと拾い上げて、たちまち一定のイメージを喚起する造形をつくりあげる名人であるよりも、モニとわしにとっては、 あくまで「かっこいいじーちゃん」の印象が強いひとです。 白いカンバスの周りを指を鳴らしながら歩き回る有名な癖も、若いときから片方が高くて片方が低い特徴のある眉も、ひたすらかっちょいいうらやましいジジイであると思う。 うらやまジジイの館を出て、モニとふたりで、なんだか暑いのお、と言いながらグラシアの「革命広場」でカバを飲みながら、ふと広場の片隅の薬局の温度計を見たら32.5度であった。 見なければよかった。 ヘンなものを見てしまったので、ますます暑くなってしまった。 ワインを両腕いっぱいに抱えた北欧人と行き会ったので、あついのお、という話をしたり、見る度にだんだんでっかくなってくるレストラン主人のおばちゃんと、やはり道で出会って、このあいだもらったインド・スパニッシュ音楽のCDのお礼を述べたり、暑いので、少し歩いてはへろへろになって、テーブルに座ってカバを飲んで休んでモニに笑われたり、グラシアの道は、なかなか進まない。 まるで南極点に向かうスコット探検隊のよーだ、と莫迦なことを考えました。 2 Niraj Chag を聴く度に日本のことを思い出すのはなぜだろう。 きっと、あのひとの声の「やさしい」ところが、日本の何かに似ているのに違いない。 「日本人は『やさしさ』をブームにすることによって、自分達の文化のなかにあったやさしさを殺してしまったんだよ」と義理叔父はゆっていたが、そういうこともあるのだろうか。 わしが行ってみたころの日本はすでに、悪い方で言えば、なんだかぎくしゃくした、プライドばかり高いような国になっていて、第一、日本のひと同士お互いに見栄が邪魔になってくたびれはててしまっているような奇妙な社会だった。 そういうことから自由だったのは、このあいだも書いた中学高校も「ゆーめい校」を出たトーダイおじさんたちくらいのもので、日本では「学歴」というものはひとがいうよりも重いものに思われた。 なんだか、ベンキョーで人生が決まる国なんてやだな。 いっそ、50メートルのかけっこで人生が決まるほうがよいような気がする。 ウインストン・チャーチルというひとは日本で言えば赤尾敏がいちばん似ていそうな右翼キチガイ親父のようなひとであったが、しかし、赤尾先生と断然異なるのは演説が途方もなく上手であったことだった。 特に誰が見ても勝つわけねーじゃん、なナチス・ドイツとの孤独な戦争のあいだじゅう、イギリス人たちは、「もうダメだべ」と思いながらそれでも暖炉の横の背の高いラジオのそばに家族で集まって、あの眠そうな、酔っ払ってるみたいな、ものうげな声の演説を聴く度に「まだ、もしかしたらやれるかもしれない」と自分で自分をだますのにかろうじて成功して、明日もなんとかすっぺ、とつぶやきながら寝床に向かったものだった。 このチャーチルというひとは、ベンキョーが全然できないひとで、同級生の背後からそっと忍び寄ってプールに突き落としたりするのは得意だったが、ほぼ犬でも入れたオックスフォードやケンブリッジというような友達がみな進む学校へはどうしても合格できなくて、3年くらい「浪人」していたはずである。 浪人、といっっても、この当時の連合王国の入学試験は、「はい、お手」「ロール・オーバー」 はい、よく出来ましたねー、合格です、 というような程度のものであったから、勉強ができなかったのではなくて、勉強がものすごくできなかったのであると思われる。 弁護の余地がないくらい勉強が出来ないのが判明したので、両親は情実だけで合否が決まる士官学校に入学させて放射線の基準値を超えたお茶を濁すことにしたが、 学校のほうでは、一応、ラテン語だけはなんとか判るようにしておいてね、ということであった。 ところが、おそるべし、若いウインストンはラテン語をいくらにらんでもひとことも判らないので、白紙のままの答案を前にして、ついには居眠りをしてしまいます。 「そのときの、憐れみに満ちた試験官の顔を私は一生忘れない」と彼は書いておる。 合格、したんだけどね。 大西洋の向こうのダン・クエールみたい、というか、ブッシュみたい、というか。 長じては彼は右翼政治家になった。 … Continue reading

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日本についての羅列

最後に日本にいたときから日にちが経つにつれて、日本にいたかどうかもときどき曖昧になるくらい記憶、というか「実感を伴った記憶」が薄れてゆくのはあたりまえのことだが、あたりまえではあっても、やはり何だか奇妙な感じがする。 わしの場合は日本についての記憶は日本語のなかにすっぽり閉じ込められている、という特殊性もあって、いわばカートリッジ式になっているので、こうやって日本語を使わなければ日本のことはまったく思い出さない、とゆってもよい。 それはたいへん奇妙な感覚だが、いくらやってみてもその感覚そのものを日本語で説明するのはそもそも不可能であるように思う。 アーニー・ガンダーセンが論理的に要約すると「日本はもう東京を含めて住めない島になるから、それよりもカリフォルニアやワシントンの汚染を心配すべきだ」とゆっているのを観ていても、カ、カリフォルニア人はたいへんなことになるかもなあ、でも、ほんまかいな、と考えているだけであって、よく考えてみれば日本は十分自分に近しいはずなのにアーサー・ガンダーセンが無表情に恐ろしい予見を告げている言葉が英語なので、「カリフォルニアに起こりうる危機」のほうしか頭にはいってこない。 考えてみなくても、カリフォルニア人が肺がんでバタバタ倒れるような事態になれば、日本はとっくに死の国と化しているわけで、言語が異なるということは、それだけ大きな感情の上での胸壁であるのが自分の頭一個のなかで実感される、というのは不思議な感覚です。 ブログではぶつくさ文句ばかりいっているが、日本では楽しいことのほうが圧倒的に多かった。これは主に記事で罵倒している元トーダイおやじたちが、当の記事をすっかり面白がって、ガメ、ガメ、とゆって一緒に遊んでくれたことも大きいのであって、考えてみるとなんだか釈然としない感じがする。 「頭にこねーのか?」と訊いても、 「だって、全部、ほんとだもんね。ガメが書かなきゃ、私が書きたい」というような調子であって、まことにヘンなおじさんたちであった。 当の本人たちは、度し難いところが厳然とあるひとびとであって、学歴ばかり言ってやがって、こおーのおー、と思って学歴人間を罵倒する記事を書いたあとに、軽井沢の森閑とした家のテラスで、青い誘蛾灯の野蛮なバチバチいう音を背景に、 「学歴、とか言いたがるのは、ブンサンとリニなのよ」 とひとりのおじさんが穏やかに述べれば、他のおじさんは、「ワセダやケイオーは、もっとエリート意識がすごいというぞ」 ひゃっひゃっひゃっ、と愉快そうに笑う、その姿こそ凄まじけれ。 誘蛾灯の青い光に照らされた横顔の印象もあいまって、百鬼夜行、という言葉を思い出したものだった。 しかし、まったく同じおじさんたちが、天然自然に親切なひとびとであって、「ガメ、これを読んでみよ。これはなかなか面白い本であったぞ」と風呂敷に包んだ本をもってきてくれたり。 このひとは本当は画家だったのかしら、と思うような美しい手の込んだ浮世絵を刷ってきてくれて、「これってさ。最後のプリントゴッコでつくった歴史的遺物なのだぞ」といたずらっぽく笑ったりしているのであった。 第一回遠征の頃、鴎外や漱石の話が出たあとでは、「江○勝」や「天満○」に一緒にでかけようと次の日に電話をくれたりしていたのも、このひとびとで、その出で立ちも、自分達自身で「これは日本式キザというものなんです」と称していたが、このおじさんたちは、細いネクタイに風呂敷で、まな板のようにひらべったい胴体に上等の麻の背広を着て、飄々と町を歩いて現れたりして、小津や溝口を神様のように思うわしには、やたらシブイ、かっこよいおやじたちに思われたりした。 横須賀線のグリーン車で「鰺の押し寿司」を食べたり、ウイスキーをちびちびやりながら鎌倉に下る楽しさや、松屋の裏の「はちまき○田」というような店や数寄屋橋の「○亀」のようなぶっくらこくくらいうまい鉢ものを出す一杯飲み屋も、みなこのひとびとに教わった。 振り返ってみると、彼らが鈍感極まりないガイジンガキに教えようと思ったのは、戦前から続く、しかし日本社会に厳然と存在する目に見えにくい「おっとりとした美風」であって、たとえば話に興がのるあまり、盃を飲み干す手が速くなると、意外に厳しい口調で「ガメ、その飲み方ははやすぎる。日本酒というものはね。飲むはやさがとても大事なものなんです。そんなにはやく飲んでは、宴にならない」と手厳しく叱られたりした。 このおじさんたちが極めて広汎で上質な教養をもっていたことを、わしはここに書き留めておかねばならない。具体的な内容は、そのうちに個別にあげつらって、このトーダイおじさんたちの悪口を書こうと思っているので、そのときにしたいが、ブンサンにしてからが、ある人はフランス人の文学者よりもフランス文学に詳しく、ドイツ人の哲学者よりもドイツ哲学に明るい、というようなことは無論たくさんあったのである。 「そういうときに、そういうものを食べたりしねーよー」とか 「あの国で、そんなブドウの食い方するひといねってば」というようなことでわしに笑われることがあったり、「えっ!あの小説のあの部分って、喧嘩してるんじゃなくて、ふつーの会話なのか?本当ですか?」と、おじさんたちが、ぶっくらこく、というようなことはあったが、彼らの欧州的教養を紛いものとみなすことは出来ない。 わしは、元トーダイと話していて、たとえば戦前の、行った事がないのにパリの裏通りの名前からどこにどんな店があるかまで隅々まで知っていた、というような知性のあり方を肯定的に考えるようになった。 トーダイおじさんたちと出かけるのは、わしの「古いものはシブイ」という趣味にもいたくかなっていたので、おじさんたちに手をひかれてやたらと古い店ばかり出かける週末も楽しいものだった。 おかげで、「神○バー」の電気ブランや、白い上っ張りを着たおばちゃんたちが巻いたキャベツをとんとん切っている「と○き」、あるいは、まことに小津的な調度の「ウ○スト」というような店の魅力に取り付かれてしまったりした。 休みになると釈迦堂の切り通しや曼荼羅堂の墓地、名越をわたり、鎧擂を歩いて、むかしの「くらげが干してある漁師の家が軒を連ねていた葉山」や「ハイヤーがずらっと並んでいた「イワ○コーヒー」、まだ肉屋が二軒しかなかった頃の鎌倉の話を聞いて、目を輝かせたりしたものだった。 Sさんの鎌倉山の家を降りて、遠くに「林間病院」が見える道を折れて行くと、右側に江ノ島が見える丘の頂に出て、そこから狭い坂道、公園、と歩いて行くと、突然燦然と銀色に輝く七里ヶ浜に出る。 江ノ電が手前を走っているその場所にくると、いつも、実朝の 「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に浪のよるみゆ」 という有名な歌を思い出した。 わしが、彼らが見せてくれた東京や鎌倉をいくらほめても、「都電があったころの東京や鎌倉はもっとよかった、という」と共通の反応を見せるのがおもしろかったが、 こうやって書いていると、わしの「日本」という国へのイメージの大半は、こういうトーダイおやじたちがみせてくれたものであることに気が付きます。 もうひとつのグループは、20代のひとびとであって、青山の裏道のバーやカフェで、何時間も話し込んで遊んだのが忘れられない。 もっとも、このグループは日本でいう「帰国子女」が多かった。 ベルギーに十年住んでいた、とかニューヨークに12年いた、というひとびとで、日本語で話していても興奮すると英語やフランス語になったりするひとびとが大半であった。 このひとびととわしは、よくつるんで、古レコード屋などに出没して、「弘田美枝子」とか「テンプターズ」あるいは「浅川マキ」や「シモンサイ」というようなレコードを発掘して「しぶさ」を競った。 なかでももっとも仲がよかったYどんは、「洋食」こそが日本を代表する日本料理である、と豪語していたので、ふたりで次から次に洋食屋へでかけてカツカレー、ポークソテー、カレーライスにライスカレーと食べまくった。 わしがモニと結婚してからは、モニが「洋食」を嫌いなので、頼むから離婚してくれ、と不穏なことを述べたりした。 長野の田舎にいけば農家のばーちゃんと稲穂が揺れる田んぼを歩いて遊び、自分で挽いて打った蕎麦をご馳走になった。 いまはもう潰れてしまった元は麻の工場だったホテルに泊まって富山で遊んだり、伊香保の温泉で酔いつぶれたり、いま思い返してみると、なんという楽しい滞在だったことだろう。 … Continue reading

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「革命広場」の朝の歌

今日は月曜日だが何の日だったか完全にぶち忘れたバルセロナの祝日なので外にでない。 なあんにも開いてないに決まっているからのい。 モニさんがお腹がすいたというので食堂の椅子に座って、手をパンパンと叩いてみたが夕飯さんは自発的に現れてくれないので、やむをえず、わしのほうからキッチンに出向いて夕飯をつくることにしました。 昨日八百屋で買ったトマトとアーティチョークとチョリソでソースをつくってスパゲティをゆでた。前菜にはアスパラガス。またその前には、アホのスープもついてます。 アホのスープ、とゆってもわしの特製スープではない。 ソパ・デ・アホ、すなわち、にんにくのスープです。 カタロニア人は、こんな野蛮で原始的な感じがするスープを食べないが、わしはなかなか好きスープなので、ついでだから自分でつくることにした。 カウンターでカバをのみながら、「お腹がすいたなあー」と呟きつつ料理を爛々と光る眼でみつめているモニにときどきハモンをあげたりしながら、黙々黙と料理をつくるわし..ちゅうのは嘘で、フラメンコの音楽をかけて踊りながらつくってるねんけどな。 モニが、こんな退屈しないひと珍しいな、といいながら、くすくす笑いながら見てます。 妻に台所で見つめられると、コーフンしちゃうのい。 わしは名人級の料理人であるから、当然ながら完璧にアルデンテのスパゲッティはうまかった。 カバとワインで、モニとわしは幸せになりました。 今日は祝日でバールもジェラート屋も中近東人たちのお茶とバクラバの店も何も開いてないから出かけないが、いつもなら、この時間は散歩の時間です。 グラシアの狭い迷路のような道をあちこちに歩いて、迷宮の結節点のようにそこここにあるプラサ(広場)で、椅子に腰掛けてタパス(小皿料理)を一個だけ頼んで、あるいは不味いと判っていれば食べ物は全然頼まないでワインやカバを飲む。 絶叫しながら走り回るガキどもや、キスしたまま化石化した大学生のカップルや、そのへんの国の「プロ」よりも遙かに上手なギター片手に大声で歌を歌っているにーちゃんや、を眺めながら、木の枝を揺らす初夏の風の音を聞いて、のんびりする。 両側に壁のようにアパートが建ち並ぶ人気のない道を歩いて行くと、向こうから胡乱な4人づれの高校生ガキが道いっぱいに広がって歩いてくる。 Tシャツの着方とひとりはモヒカンのヘスタイルがいかにも「わし、バカだし」と詳述しておる。バカ、とゆってもスペイン語の牛肉という意味ではないのよ。 日本語の無明が極まった人の意味であります。 わしは不沈戦艦プリンスオブウエールズの生まれ変わりだとゆわれておるので、そんなできそこないの掃海艇が横列をつくったようなもののために緊張したりしません。 相手がくだらない歩き方をしていると避けてもやらないので、おかげで日本にいた頃はわしの分厚い胸に油ぎったデコをぶつけるサラリーマンがようけおったものである。 ちゃんと前を見て歩かんかい。 初代不沈戦艦は酸素魚雷とかいう日本軍のクソ魚雷にあたって、あっというまに轟沈してしまったが、贋物はつおいねん。 と、くだらないことを考えていたら、ガキ共何を思ったかフラメンコの拍を手で打ちながら歌い始めた、ほら、こうやってやんだぜ、っちゅう感じで、あのわしのだいだいだい好きなスペイン人の特技のリズムを手で刻んでおる。 近づいてきたところで「うまいな」というと、「おーっ、まかせなさい!」とゆって親指を立てて去ってゆく。 グラシアの裏通りを歩いていると、そういうことがいくらもあります。 広場で座っていると、いろいろなひとが話しかけてくる。 グラシアというのは、一応、バルセロナの青山・原宿だということになっているが、そういう浅草の血がどこかで混じっっちゃったんちゃう?というようなところがある町でもあるのです。 ぶっきらぼう・ぶあいそ、で、ひとなつこくて極端なくらい親切です。 それがこの町の居心地の良さをつくっている。 当然広場によって性格が異なっていて、好きな広場嫌いな広場はもちろん、その日の気分によって行きたい広場も行きたくない広場もある。 ふだんは、わしは「緑の道」という道が好きであって、そこを通って、「革命広場」という名前の広場へ行く。 「革命広場」、Plaza de la revolución、とゆえばハバナのでかいのが有名だが、グラシアのはもちろん、ああいう派手派手しいのとはちゃいます。 小さな、緑の道がまんなかに通っている、小さなスクエアである。 周りには有名な「オ・グラシア」を含む何軒かの店があって、そういう店が広場にテーブルを出している。 モニとわしは緑の道を歩いて、ときどきは、途中のパレスチナ人がやっているお茶屋で、仰山種類があるバクラバからひとつを選んで、ミントやピスタチオのお茶を飲んで、ああーうめええーと思いながら広場の椅子に腰掛けて、カバや赤ワインを飲むのが習慣である。 楽しいのよ。 ニューヨークももちろん良い街だが、アメリカ人はどうがんばってもカタロニア人よりも頭が悪いので、こういう「場」がつくれない。 … Continue reading

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零細な夜についてのメモ

ひきこもりでプーなへんなひとでもときどきは自分の会社の人間を集めて、その前に姿を現すことがある。 午後九時。 会社のクルマを断って、雄々しくも自分でタクシーを止めて、フニクラ(注)というグラシアの山の上にあるレストランに向かうわしの姿があるとおもいたまえ。 もちろん、自閉症じみた、ちょっと吃るみたいなヘンな話し方の旦那を見守るようにしてモニも一緒です。 グラシアの後背の丘は新しい住宅地として開発されていて、若い共稼ぎ夫婦にとってはあこがれの住宅地である。 そこを抜けて、もっとずっと登ってゆくとレストランやバーが何軒かある丘の頂に出ます。 いつまでも無理矢理隠しているのもカッコワルイので、むかしからのネット友達は知っていることでもばらしてしまうと、わしはこのバルセロナに会社をもっていて、その会社は実はウクライナ人とロシア人ばかりが働いている不思議な会社である。 いや、数の上ではカタロニア人のほうが多いけどね。 幹部は、カタロニア政府から見れば許し難いことにすべてガイジンであって、シャチョーもウクライナの元戦車兵です。 しこうして、会社の持ち主はひきこもりのクマのプーさんなニュージーランド人である。 なんというヘンな会社でしょう。 こんなこと書いて信じるやつがいると思っているのか。 いや別に信じなくてもいいのよ。 第一、書いているひとも、(「はてな」のひとびとによれば)ニセガイジンだし。 モニとわしは午後九時20分くらいについたが、当然さきについているべき会社の諸君は、はっはっは、わしの会社だからな、誰もいねーんでやんの。 モニとわしは案内されたテーブルのすみっこに腰掛けて、外を眺めながらカバを飲んだ。 日本でゆえば高級料亭の鰹節みたいに薄く削られたハモン・イベリコを食べながら社員たちの到着を待ちます。 午後九時半。 どどどっ、と音を立てて階段を歩いてあがるエネルギーが充満したひとびと。 先頭は元戦車兵であって、横にはちびっこいが、あいもかわらずすげー美人の奥さんが立っている。 戦車兵は若かりしころのアーノルド・シュワルツネガーみたいな肉体の持ち主だが、眉毛がうすくて一見すると危ないひとみたいな顔のほうはにっこり笑うと、しかし、子供のようです。 「ああああー、ガメだ。ガメがここにいるんだ。信じられない」という。 信じられない、って昨日も会ったやん。 それから、わしらの楽しい夕餉がはじまった。 わしはもう長いあいだ大陸欧州では牛肉を食べなかったが、今日はよいことにした。 ひさしぶりに食べる牛肉を楽しみながら、カタロニアの経済がいかに危機的か、スペイン全体に足をひっぱられて、いまにも沈没寸前であるか、というみなの話に耳を傾けた。 カタロニアの経済危機は、わしがマンハッタンで考えていたよりも遙かに深刻であって、話が具体的な数字に及ぶと、元戦車兵も、ドイツ軍の88ミリ砲に照準をすっかりつけられてしまったように怯えた表情です。 こんなに酷いとは思わなかった。 来てよかった。 口々に話してくれる実情の、その口吻でほぼ事態が理解されてしまったので、わしはエラソーに手をあげて、「もうここからは仕事のはなしはやめるべ」とゆいます。 わしは、のんびりなので、会社がつぶれて破産が宣告されたころには、方策を思いつくであろう。 ロシア人たちとウクライナ人たちは、もともと仲がわるい。 話す言葉も、イタリア語とスペイン語くらいには違います。 スペイン語に英語やフランス語やロシア語やウクライナ語、それにカタロニア語まで混じって、わけがわからない会話を交わしながら、わしらはだんだん酔っ払っていった。 ロシア人たちはたとえばウクライナ人たちに較べても、途方もなくアジア人的なので、日本人や中国のひとたちがやるように、立ち上がって来て「まあ、一献」をちゃんとやります。 礼儀正しく受けているあいだに、マジで酔っ払ってしまった。 なんだか、暫時記憶が途切れていて、桁外れにおいしかったはずの食後のデザートのあとは、わしらはおおぜいのまま広いテラスのあるバーにいた。 今日は空気が澄んでいるので、夜のバルセロナの町が遠く海辺まで見えておる。 午前二時。 わしはひょろひょろとたちあがって、演説をぶっこきます。 … Continue reading

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風をつかむ

増殖炉型原子力発電所もんじゅのバカバカしいほどの危なさについては、20年前でもデザインの余りのひどさがW先生を慕って、その頃核融合研究の最先端校のひとつであった名古屋大学に世界中から集まってきていた外国人研究者たちと元トーダイの義理叔父たちが酒を飲むときの肴の笑い話になっていたというから、余程まえから知れ渡っていたのである。 ずっとあと、それから約16年後になって、他文化を征服すべく、乾隆帝、あるいは謎の怪人ナゾーに倣って起草した偉大な十全遠征計画の一貫として日本に愛馬「ラバーダッキーIX世」とやってきたわしは、まだ「もんじゅ」が動いている、というか動かないで壊れている、というかの状態であることを知って死ぬほどびっくりしました。 日本という国家が自分の国民を守るために行う祭祀的ロシアンルーレットの一種なのだろうと考えて納得しましたが、5年間11回に及んだ断続的な滞在のあいだ、もんじゅは爆発しないのに経済を始め、何もかもあんまりうまくいってないのを観察して、国家的呪術においては後期平成朝よりも平安朝のほうが発達していたよーだ、という感想をもった。 そうこうしているうちに浜岡という所にある原子力発電所が地震断層の畔に立っているのを発見して、国家的ブラックジョークなのだろうか、と思ったりしたこともあったが、もともとダサイ技術にしか過ぎない遅滞化核分裂技術になど何の興味もない上に、わしからみるといくら興味があるといっても外国の事にしかすぎないという無意識的な気持もあったのでしょう、朝ご飯のチョコレートトースト用に正しいチョコレートの購入やレース用自転車の修理や島宇宙をつなぐ関数理論やモニの身体が立てる正体が判らないが何だか気が遠くなるようないい匂いや、そういうことどもが入り乱れて乱雑に進行している日常のなかの、どうでもいいやな未決箱に放り込まれたままになってしまった。 ところがオークランドのラミュエラというところにある家のテレビがあるほうのラウンジでモニとふたりで並んでカウチに腰掛けてテレビを見ていたら50インチの画面いっぱいに、なんだか伸びやかで健全な感じがする、したがって神様の冷酷さをそのまま映像化したような感じがする津波の映像を見て、青ざめてしまったのは前にこのブログにも書いた。 厄災は「もんじゅ」でも浜岡でもない方角から、しかしもっとべっとりと絡みついてくるようなやりきれないやり方でやってきたのでした。 日本では、ひとの噂も七十五日というが、それは真に本当であって、ここまでずっと眺めていると事故後すぐに日本政府が「フクシマの原発で大厄災が起きてしまった。これは人類が経験したことがない事態になるのがもう判っているが、青森から東京に至広範囲の人間を退避させるだけのオカネが、もうこの国にはないのです。政府は、あなたがたを助けてあげられない。だから、どうか、みなさんが各自の判断との能力で、西の地方にいる親戚を頼って、あるいはお友達に依頼して逃げて下さい。自分の一身を救済してください」と言えば発揮できたかも知れない日本人の国民としての跳躍力も、バネが壊れたように失われてしまった。 政府としては最も恐れていた国民が大パニックを起こして世界に国としての恥をさらすという事態は免れた。 結局、原子力の輸出でこれからも稼いでいかねばならない合衆国やフランスやロシア(イタリアの友人すべりひゆがフクシマ事故の後のサルコジの第一声が「この事故がフランスがいま契約締結をめざすイタリアへの4基の原発売却に悪い影響を与えないように全力をつくす」だったことを一生わすれない、といって怒っていたのを憶えている)を始めとする原子力村の構成員たちは日本政府と日本を起点とする核汚染に目をつむるかわりに日本政府が情報を統制しながら「粛々と」すすめてゆく、国民の被曝耐性に信頼した日本の汚染列島化にお墨付きを与えたかのように見えます。 これを政治というものに照らしてみると、歴史的に国家がいかに個人に対して非情な要求をしても黙々と受け入れてきた日本人というものの性質をうまく利用した日本という国の天才的な(国家としての)天才的な知恵であるということが出来る。 タイミングをうしなって、75日も経ってしまえば、あるいは日本人ではなくても人間には決断に至る魂の跳躍力などもちようがないのかもしれません。 日本のひとびとはひとりひとり分断されて、途方にくれながら、あるときは幼い子供のために逃げたがっている母親に冷笑を向けてみせ、西へ転勤願いを出した同僚の机の脚を蹴り上げて、何事もなかったかのように、自分の心に言い聞かせようとしている。 ときどき、わしは、原子力事故後の日本人は、まるで自分が死んでしまったことを信じられないでいる霊魂のようだ、と思う事がある。 自分の身に文字通り致命的なことが起きてしまったことが信じられなくて、まだ現実を認められずに地上を彷徨う魂魄のようだ。 わしはマンハッタンからやってきた地中海沿岸の小さな町で、なつかしい顔がたくさん暮らしている日本の事を考えている。 インターネットだけで知っている友達も含めて、わしのメーラーの受信箱には、自分達の苦しい気持を述べた長いメールがたくさんはいっている。 わしは、それを何度も何度も読んでみる。 もうどれのメールであっても暗誦できそうです。 遠くから見ているといろいろなことがわかる。 眼前にいまどうしても消さなければならない大火があるのに、それが不可能であるのが判ってきたために、みながそもそも火事が起きた原因について侃々諤々の論争を始めてしまっている。まだ最も危険が差し迫った家が燃えさかっているのに、隣の町にも同じような火事を起こしそうな家がある、いや、あの家は遙かに安全な家が、と罵りあいが始まっている。 ところが目にも見えず、においもなく、音すら聞こえない、人間が発明した火のなかで最も悪質で危険な火は、そうやって議論しているひとびとの上に黒々と横たわっている梁をもう焼きつくそうといしている。 焼け落ちようとしている家のなかでは一億という数を超えるひとびとが悪意と全体を部分に優先させようとしている強い意志、人間を制度の部分とみなそうとする強力な思想的な力によって農家は消費者から、雇用者は被雇用者から、というように限りなく分断されてしまっている。 義理叔父から長い手紙が来て、かーちゃんシスターの、子供たちをひきつれて合衆国に帰ったアメリカ人の知り合いが、東北の町に住む日本人の夫と二ヶ月に及ぶ長い接点がひとつもない言い争いのあとで、とうとう離婚することに決まったそうでした。 わしは、他にもさまざまな局面で日本社会に住むひとりひとりの生活を破壊してゆくフクシマ事故の様相を報告する義理叔父の手紙を繰り返し読みながら、唇をかみしめてみるが、どんなに考えても、個人のレベルですら、「フクシマへの無関心」を決めこうとしているように見えるこの世界で出来ることに実効性を認められない。 こうやって誰にも聞こえない日本語を書き連ねて、暗然とした気持になるくらいのことしか、ほんとうに自分にやれていることはないのではないか、と思ってしまうのです。 寄付も、働きかけも、なんだか風のなかで腕をむなしくぐるぐるまわしている人のようだ。 そう考えると、やりきれない気がしてしまうのです。

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迷宮のなかで

グラシア http://www.barcelona-tourist-guide.com/en/areas/gracia-barrio.html の巨大な迷宮のような町を半日歩き回った。 スペイン語世界のぴんからトリオとゆわれている(とはいっても日本式な言い方をすれば「フランスのバンド」だが「何とか国人」であるという定義にはいまの世界では、たいした意味がないのはヒターノであることとはあまり関係がない)、Gipsy Kingsの「No Volvere」 http://www.youtube.com/watch?v=FZwEE2s3qxE や「Gitano Soy」 http://www.youtube.com/watch?v=TfVSjDOR0Gg を口ずさみながら、しばらく会わなかった町のあちこちにいる友達たちを訪ねて歩いた。 タパスバーに行けば別に隠しもせずおおっぴらにビールを飲みながら給仕する、あの誰でもひとめみればぐっと来て参ってしまうくたびれた顔つきのおっちゃんウエイタたちが、「おっ、珍しい奴が来たな」という顔で迎えてくれます。 いろいろなやりかたで料理したいもの上に目玉焼きをぶっかけてつぶしたカタロニア式のhuevos y jamon http://www.directoalpaladar.com/recetas-de-huevos-y-tortillas/receta-de-huevos-rotos-con-jamon-en-virutas がわしは大好きだが、カタロニアにおける料理店総本山の、というのは、取りもなおさず世界一食べ物がうまいグラシアでは、この料理が不味い店を探すほうがたいへんである。 今日の店は新しく出来た、「どうして、こんな所に店があるんだろう」と思うような小路をはいってずっと歩いて、そのまた奥にまた人がひとりやっと歩いていけるような径をしばらくいったところにひっそりとあるバー料理屋だったが、おおげさだと思われても、この世のものではないくらいおいしかった。 前に書いた北大路魯山人先生ならテーブルに抱きついて 「ぼく、絶対日本にかえらないもん、やだもん」と叫んだと思われる。 魯山人先生がモデルの海原雄作であれば、あの由井正雪が髪をブリーチしたみたいな髪の毛をいからせながら、「主人、おれはここに残るぞ!」と咆吼するに違いない。 そのくらい、おいしーんです。 ほんとよ。 ワイングラスではなくて、コップで出てくるテンプラニーニョを飲みながら、仕事がない同士で、フットボールの話に熱中しているおっちゃんたちや、主婦おばちゃんたちが子供の学校の話に夢中になっているのを、のんびり眺めていると、どんなに、わしにあわせてドレスダウンしていても、やはりこういう所にくれば場違いで、男たちがちらちら磁石のほうを向いてしまう釘でもあるかのように顔を向けてしまうモニに「ガメは、ほんとうに、こういうところが好きなんだな」と笑われてしまった。 フロレンスでもニューヨークでも、あなたが行くところはとてもよく似ているのに気が付いているか。 わしが世界でいちばん大好きな水である、いつでも微かに硫黄の匂いがする、Vichy Catalan http://www.vichycatalan.jp/vichy_ca.html を飲み終わって、チョコレートがはさんであって表面に蜂蜜を塗ってあるクロワッサンでカフェコンレチェを一杯。 おいしかったにゃあー、と思いながら、あまりの幸福にぼんやりしてしまった頭で考えてみる世界というには脈絡というものがなくて、輪郭もはっきりせず、言葉で考えられるものであるよりも視覚や味覚によって「感じられる」ものであるような気がしてきてしまう。 感覚がほんの少し位相がずれて人間という「語彙」の外側に出てしまうような奇妙な感覚があります。 テラスにびっしり鉢植えがぶらさがっているノッポのアパートがクルマがやっと一台通れるような路地の両側に隙間もなくたっているグラシアの町の落ち着きは、人間の文明が本来もっている落ち着きには違いがなくて、その証拠には、この町に較べれば5倍は空間に余裕がある東京人やニューヨーク人は年中物理的な閉塞に悩まされているのに、グラシアという町には少しも「息が詰まる」ようなところがない。 そこにあるのは、千年というような時間の流れのなかで余計なことがみなはがれおちて本来人間を構成している感覚が素顔に復ったとでもいうような、人間が文明の力で人間本来の姿にもどった姿であって、いまでは否定された「悪い文明」や「良い文明」というような考え方が、文明の恵みのひかりが個人の幸福を光合成するか、それとも国家のような曖昧な化け物を育ててその国家の構成員である個人を国家の部分化して何から何まで吸い取ってしまうかという違いに基づいていたものであることをいまさらのように思い出します。 19歳くらいの背の高い若い男が、もうひとりの同じくらいの年の仲間と狭い舗道のまんなかで10歳くらいの子供同士のように抱き合ってじゃれついていると思っていたら、わしの前を歩いていたモニに「タバコをくれよ」とゆっておる。 モニにきびしい調子で「ない」といわれている。 オートバイの影で腰が抜けてしまったような様子で尻餅をついて蹲って頭を抱え込んでいる全身刺青だらけの若い女がいる。 6階の窓から太い首を出して、ランニング姿の中年の男がぼんやりタバコをふかしながら道行くひとを眺めている。 その同じ一角に、モモ社のヘルメットに腕を通した、ファッション雑誌の表紙を撮影している最中だとでもいうような姿の、多分学生、背の高い若い女びとがふたりで何事か話し合って笑いころげている。 懐かしい石畳の狭い道を通って、今日の最後の目的地についた。 その北欧人の主人がいるワインバーで、立ち飲みのまるいテーブルを囲んで主人とモニとわしと3人で話した。 … Continue reading

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グラシア暮らし、なんちて

1 エール・フランスのJFKラウンジのことでごんす。 北大路魯山人のヨーロッパ紀行には実際に欧州をまわってみると世人が言うのとは異なってイギリスの料理が欧州最高であって、日本料理もイギリスの「食の豊かさと深さ」には到底およばない、そこへいくとフランス料理は名前倒れであって、結局世界中の半可通が文明的に浅いフランス料理屋をもてはやした結果虚名ができただけである、と書いてあって、喝破82号をしているのを読んで、な、なんという正しいタニシ親父(注)であろう、とカンドーしてニコニコしていたら、モニに「どうしたんだ、ガメ」とゆわれた。 このひとは、ほら、義理叔父が好きな陶器をつくったりもした日本で初めてのグルメおじさんなんだけど、「やはりフランス料理が世界一で、その味覚の深さにはなんぴともおよばない」と書いてあるみたい、と正直に伝えると、モニが、あたりまえではないか、という顔をして小さく頷いている。 わしはサラダ棚からギッテきたオリーブのペーストとバタとチョコレートペーストとクリームをパンにてんこ盛りにして、むふふふと思いながら食べておる。 と、時はあたかも搭乗時刻10分前、安宅の関は富樫で保つ、わしのiPhone4がぶぶっと鳴って、バルセロナを仕切っているLからメールが到着したと思い給え。 「Urgently」という題は英語として間違っていると思うひともいるだろうが、Lはロシア人だから、これでいーのだ。 前にも書いたようにjosicoはんも近所を歩いてみたというグラシアの丘の上にあるわしのカッチョイイテラスのあるアパートは因業家貸しからなかなか脱却できないわしの吝嗇によって他人に貸してある。 それでモニとわしはバルセロナにいるときは親から継承したホテルやアパートをいっぱい経営しているカタロニア人友達の「すねかじりB」のアパートに泊まることにしているが、そのBがアホちゃいまんねんぶりを発揮して、モニとわしの予約をころっと忘れて、他のカップルと契約してもうたので、どうすればいいだろう、とゆってきたというのであった。 チョコレートクリームを最近また伸ばしておるひげにいっぱいくっつけて、事態の深刻さに真剣な表情をつくるわし。 モニに画面を見せると、モニは「やっぱりBはバカだな」と感心している。 そーゆーわけで、モニとわしはBが所有しているアパートのなかでも最も高級なアパートにただで2週間逗留することになったのです。 「そーゆーわけで」て、なにも訳かいてないやん、と思ったきみ、きみは、ほら、正しいんだけどさ、詮索好きすぎてお友達が出来ない人ておるやん。 あれでしょう。 そんなつまらない経緯、「ふーん、じゃあ奥さんに、あれも、これとかも、あんなんだってばらしちゃいおーかなあー」な、深刻で息詰まるBとの交渉を書いても退屈なだけであると思う。 むかしとった杵柄も、習い憶えたカツアゲの技も、遠い日の記憶になったのお。 夜には懐かしいDiagonalの裏通りを歩いて、この世界のものであるとは絶対に誰にも信じられない4年もののハモン・イベリコとパンコントマテとリオハでモニとふたりでこの世界にやってきたことを歓びあった。 カタロニア人達は、相変わらずぶっきらぼうで親切で、誉められると、身も世もないほど歓んで、ああまたこの天国にも地獄にもいちばん近い町に帰ってきたのだ、と思う。 帰りには雷鳴が鳴り響いて稲妻が空を引き裂く土砂降り天気になったのでタクシーで帰ったが、アパートまで2ブロックというところでモニが「ここで降りて濡れて帰ろう」というので訝しがる気のいいタクシーのおじちゃんに告げて、ずぶ濡れになりながら、ふたりできゃあきゃあ嬉しがって笑いながら帰ってきました。 正面玄関まで辿り着いた。 滝のような雨のなかでモニとわしは抱き合ってキスした。 ずっとずっと抱き合っていて、キスが長いので有名なスペイン人たちを軽く凌駕して圧倒してもうた。 うー、やった。 この町に戻ってきた。 いえい。 2 エールフランスの添乗員たちはいつも徹底的に親切だが、今回のひとたちも良かった。 食事に出てきたブリーを食べるのにジャムが欲しいんだけど、というと、朝ご飯用のがあるかもしれないから見てくる、という。ちょっと歩いていきかけてから、戻ってきて何のジャムがいいいんだ?と訊くので「アプリコット」というと、「ええええー、ブリーにアプリコットですか。チェリー、とかのほうがええんちゃうの?」という。 「アプリコットがええの」ときっぱりと述べるわし。 釈然としない顔で台所に消えたが、戻ってくると、「よいかね、きみ、今日はきみはすごくラッキーだぜ。ほれ、アプリコット」という。 わしは旅行に出た先で、親切なひとびとと話して暖かい気持になるのが好きです。 前にこのブログで同じ事を書いたら、「そんなのはくだらん」「そんな偽善的なふれあいでよろこぶあなたはバカだと思う」というひとがいっぱいきて驚いたが、わし、あんさんらのような「賢いみなさん」の気持はわかりまひんねん。 たとえばエールフランスの国内線のセキュリティの細かさは狂気の沙汰であって、わしは常時コンピュータを4つにiPadとキンドルをもって歩いているので、当然ケーブル類もたくさんあるが、セキュリティ人たちが右往左往して、ゲートのこっちと向こうをいったりきたりしている。 「すみません、もう一回、お願いします」というので、都合3回もわしもゲートをいったりきたり。 そのうちに、あー、めんどくさい、と思ったのでしょう。 インド系のおやじ係員が「だから、コンピュータ関連品はみなトレイに出してくれ、と言ったじゃないか」という。 わしが、それは、ちょっと失礼だろう、と考えたので。 「コンピュータ本体、とはきみは言ったが、関連品、なんて聞いてないぞ。ふざけた口を利くとそれ相応の反応にあうと思うが、それだけの覚悟を決めてきみは、そういう尊大な事を言うのだな」という。 小さい声のフランス語で「すみません」とかなんとかゆっておる。 「謝りたいときには、わしらの世界ではもっと明瞭に謝るほうがいいとされておる」 … Continue reading

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ノーマッド日記8

1 ウクライナ人たちのダイナーで赤ワインを飲みながらザワークラウトときのこがはいったPierogiを食べたり、ヴィレッジのワインバーでうさぎのポットパイをお代わりして笑われたり、テンプラニーニョでスペイン式のポークチョップを食べて大満腹になったりしているうちに、もう欧州へでかける日が近くなった。 アパートにひさしぶりに戻って来た頃は、まだ摂氏8度くらいで肌寒かったのが、もう28度を越えるくらいになって、初夏の気持ちの良い日が続いている。 「旧交を温める」というが、舗道にはりだしたテーブルで夕食を摂っていれば、もうまる1年会っていなかった友達が通りかかって、とびかかるように抱きついて喜んでくれたり、バーにいれば、後ろから肩に触られて、振り返ると、懐かしい顔が満面に笑みを浮かべて立っていたりした。 ましてヴィレッジなどは狭い町なので、戻ってきたことがあっというまに知れ渡って、毎晩遊んで歩くことになってしまった。 いまはまだ半年、一年と続けて住む気はしないが年をとれば結局はマンハッタンに住むだろうか、とモニと話しました。 マンハッタンは人間くさい街であると思う。 同じ店に三回も行けば、もうバーテンダーはカザフスタンの故郷の町のことを目に涙を浮かべて話し、是非きてくれ、世界でいちばん素晴らしい町なんだ、という。 階上に走っていって名刺をとってくると、自分のemail accountを書いて、きみのもぼくにくれるんだろうな、と要求する。 前にあったときにメールを書くからとゆったのに書かなかったウエイトレスのねーちゃんには、書くとゆったではないかと怒られる。 郵便局に行ってさえ、「この頃見なかったなあ、いったいどこに行ってたの」とコロンビア出身のおばちゃんに半ば𠮟責されます。 「あなたがいないあいだに、Hのバカが汚い手を使って局長になったのよ」 て、おばちゃん、客に内部ポリティクスの話をしてどーするんだ(^^) モニが女友達たちと出かけてしまった午後、わしは一階の受付の脇に隠してあるスケボーを取り出してパークアヴェニューをグランドセントラル駅からユニオンスクエアまで、ノンストップで滑りおりて遊んだ。 すげートゥーティングだったが、知るかよ。 自転車とスケボーは信号を無視するためにある。 欧州に出戻るまでに一度やりたかったので満足しました。 あるいはアパートの屋上に出て、ワインを飲みながら、天気がいいといつも隣のビルの屋上でのんびりしているじーちゃんと話しをした。 「なんという気持のいい日だろう。きみ、そうはおもわないか。 おれの年になれば、もういつでもこの世とはお別れだが、世界はとてもいいところだった。おれは神様に感謝するよ。 人間にも!」 という。 ワインを急いで飲み過ぎたわしは、なにがなし、鼻の奥がつんと来て、しばらく黙ってしまいます。 じーちゃんは上半身裸の胸に太陽の光をいっぱいに浴びて気持がよさそーだ。 マンハッタンには昼間には昼間の、夜には夜の太陽が出て、それぞれ暖かい光と闇で人間を包んでくれる。 夜の密やかな欲望や、小さな狂気、暗ければ思い切ってやれる事ども、甘いにおいがする部屋や、酩酊、物陰に隠れている神の言葉で、誰もが世界について考えてみる。 聞き取りにくい声で話されている言葉や、遠くから微かにもれてくる忍び泣きの声、もっと具体的なことならば、すれちがった二人連れの聞き違いようのない古代ラテン語の会話、地上20階の建物の上からじっと地上を見下ろしている身動きひとつしない男の影、 そういったすべてのものでマンハッタンという街は出来ていて、一度、その内側深くに出かけてしまうと、またその巨大な「柔らかな痛み」のなかに戻ってこないわけにはいかなくなってしまう。 世界でただひとつの「都会」、しかも自分自身の強烈な意思をもつ都会なのだと思う。 ここに戻ってこないひとなど、いるのだろうか? 2 先週はPaloma Herreraがジゼルを踊っているというので、アメリカン・バレ・シアターまで観にいった。朝、なんだか機嫌が悪かった(別にわしが悪いことをしたわけではない。モニは、ときどき何の理由もなく機嫌が悪くなります。モニは「女はそういうものだ」というが、わしには判らん)モニを笑わせようと思ってシャワーから出てくるときに裸で「スタート・ミー・アップ」の振り付けをやりながらラウンジにはいっていったら、モニはすっかり上機嫌になったかわりに、腰をひねってしまった。 いでえええーと唸りながら1ブロックあるくのにも脂汗を流しながら歩いて行った。 なんだかマイケルジャクソンのムーンウォーキングみたいな歩き方で歩いていて、ときどき「ぐわっ」とか「ぎゃっ」とか叫びながらコロンバスサークルから劇場に向かって歩いていた、わしの同族の水準からしても巨大なにーちゃんを目撃したひと、あれはわしでしてん。 横で言葉だけは「大丈夫か?」と言いながら、必死で笑いをこらえていた薄情なスーパー美人がいたと思うが、あれがモニというひとです。 第二幕でのPaloma Herreraは、ときどき体重がゼロになってしまうように見えた。 身体がつくりだしみせる形の美しさと羽毛のような軽さに観ているひとはみな息をのんでいた。 … Continue reading

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