Daily Archives: June 15, 2011

日本についての羅列

最後に日本にいたときから日にちが経つにつれて、日本にいたかどうかもときどき曖昧になるくらい記憶、というか「実感を伴った記憶」が薄れてゆくのはあたりまえのことだが、あたりまえではあっても、やはり何だか奇妙な感じがする。 わしの場合は日本についての記憶は日本語のなかにすっぽり閉じ込められている、という特殊性もあって、いわばカートリッジ式になっているので、こうやって日本語を使わなければ日本のことはまったく思い出さない、とゆってもよい。 それはたいへん奇妙な感覚だが、いくらやってみてもその感覚そのものを日本語で説明するのはそもそも不可能であるように思う。 アーニー・ガンダーセンが論理的に要約すると「日本はもう東京を含めて住めない島になるから、それよりもカリフォルニアやワシントンの汚染を心配すべきだ」とゆっているのを観ていても、カ、カリフォルニア人はたいへんなことになるかもなあ、でも、ほんまかいな、と考えているだけであって、よく考えてみれば日本は十分自分に近しいはずなのにアーサー・ガンダーセンが無表情に恐ろしい予見を告げている言葉が英語なので、「カリフォルニアに起こりうる危機」のほうしか頭にはいってこない。 考えてみなくても、カリフォルニア人が肺がんでバタバタ倒れるような事態になれば、日本はとっくに死の国と化しているわけで、言語が異なるということは、それだけ大きな感情の上での胸壁であるのが自分の頭一個のなかで実感される、というのは不思議な感覚です。 ブログではぶつくさ文句ばかりいっているが、日本では楽しいことのほうが圧倒的に多かった。これは主に記事で罵倒している元トーダイおやじたちが、当の記事をすっかり面白がって、ガメ、ガメ、とゆって一緒に遊んでくれたことも大きいのであって、考えてみるとなんだか釈然としない感じがする。 「頭にこねーのか?」と訊いても、 「だって、全部、ほんとだもんね。ガメが書かなきゃ、私が書きたい」というような調子であって、まことにヘンなおじさんたちであった。 当の本人たちは、度し難いところが厳然とあるひとびとであって、学歴ばかり言ってやがって、こおーのおー、と思って学歴人間を罵倒する記事を書いたあとに、軽井沢の森閑とした家のテラスで、青い誘蛾灯の野蛮なバチバチいう音を背景に、 「学歴、とか言いたがるのは、ブンサンとリニなのよ」 とひとりのおじさんが穏やかに述べれば、他のおじさんは、「ワセダやケイオーは、もっとエリート意識がすごいというぞ」 ひゃっひゃっひゃっ、と愉快そうに笑う、その姿こそ凄まじけれ。 誘蛾灯の青い光に照らされた横顔の印象もあいまって、百鬼夜行、という言葉を思い出したものだった。 しかし、まったく同じおじさんたちが、天然自然に親切なひとびとであって、「ガメ、これを読んでみよ。これはなかなか面白い本であったぞ」と風呂敷に包んだ本をもってきてくれたり。 このひとは本当は画家だったのかしら、と思うような美しい手の込んだ浮世絵を刷ってきてくれて、「これってさ。最後のプリントゴッコでつくった歴史的遺物なのだぞ」といたずらっぽく笑ったりしているのであった。 第一回遠征の頃、鴎外や漱石の話が出たあとでは、「江○勝」や「天満○」に一緒にでかけようと次の日に電話をくれたりしていたのも、このひとびとで、その出で立ちも、自分達自身で「これは日本式キザというものなんです」と称していたが、このおじさんたちは、細いネクタイに風呂敷で、まな板のようにひらべったい胴体に上等の麻の背広を着て、飄々と町を歩いて現れたりして、小津や溝口を神様のように思うわしには、やたらシブイ、かっこよいおやじたちに思われたりした。 横須賀線のグリーン車で「鰺の押し寿司」を食べたり、ウイスキーをちびちびやりながら鎌倉に下る楽しさや、松屋の裏の「はちまき○田」というような店や数寄屋橋の「○亀」のようなぶっくらこくくらいうまい鉢ものを出す一杯飲み屋も、みなこのひとびとに教わった。 振り返ってみると、彼らが鈍感極まりないガイジンガキに教えようと思ったのは、戦前から続く、しかし日本社会に厳然と存在する目に見えにくい「おっとりとした美風」であって、たとえば話に興がのるあまり、盃を飲み干す手が速くなると、意外に厳しい口調で「ガメ、その飲み方ははやすぎる。日本酒というものはね。飲むはやさがとても大事なものなんです。そんなにはやく飲んでは、宴にならない」と手厳しく叱られたりした。 このおじさんたちが極めて広汎で上質な教養をもっていたことを、わしはここに書き留めておかねばならない。具体的な内容は、そのうちに個別にあげつらって、このトーダイおじさんたちの悪口を書こうと思っているので、そのときにしたいが、ブンサンにしてからが、ある人はフランス人の文学者よりもフランス文学に詳しく、ドイツ人の哲学者よりもドイツ哲学に明るい、というようなことは無論たくさんあったのである。 「そういうときに、そういうものを食べたりしねーよー」とか 「あの国で、そんなブドウの食い方するひといねってば」というようなことでわしに笑われることがあったり、「えっ!あの小説のあの部分って、喧嘩してるんじゃなくて、ふつーの会話なのか?本当ですか?」と、おじさんたちが、ぶっくらこく、というようなことはあったが、彼らの欧州的教養を紛いものとみなすことは出来ない。 わしは、元トーダイと話していて、たとえば戦前の、行った事がないのにパリの裏通りの名前からどこにどんな店があるかまで隅々まで知っていた、というような知性のあり方を肯定的に考えるようになった。 トーダイおじさんたちと出かけるのは、わしの「古いものはシブイ」という趣味にもいたくかなっていたので、おじさんたちに手をひかれてやたらと古い店ばかり出かける週末も楽しいものだった。 おかげで、「神○バー」の電気ブランや、白い上っ張りを着たおばちゃんたちが巻いたキャベツをとんとん切っている「と○き」、あるいは、まことに小津的な調度の「ウ○スト」というような店の魅力に取り付かれてしまったりした。 休みになると釈迦堂の切り通しや曼荼羅堂の墓地、名越をわたり、鎧擂を歩いて、むかしの「くらげが干してある漁師の家が軒を連ねていた葉山」や「ハイヤーがずらっと並んでいた「イワ○コーヒー」、まだ肉屋が二軒しかなかった頃の鎌倉の話を聞いて、目を輝かせたりしたものだった。 Sさんの鎌倉山の家を降りて、遠くに「林間病院」が見える道を折れて行くと、右側に江ノ島が見える丘の頂に出て、そこから狭い坂道、公園、と歩いて行くと、突然燦然と銀色に輝く七里ヶ浜に出る。 江ノ電が手前を走っているその場所にくると、いつも、実朝の 「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に浪のよるみゆ」 という有名な歌を思い出した。 わしが、彼らが見せてくれた東京や鎌倉をいくらほめても、「都電があったころの東京や鎌倉はもっとよかった、という」と共通の反応を見せるのがおもしろかったが、 こうやって書いていると、わしの「日本」という国へのイメージの大半は、こういうトーダイおやじたちがみせてくれたものであることに気が付きます。 もうひとつのグループは、20代のひとびとであって、青山の裏道のバーやカフェで、何時間も話し込んで遊んだのが忘れられない。 もっとも、このグループは日本でいう「帰国子女」が多かった。 ベルギーに十年住んでいた、とかニューヨークに12年いた、というひとびとで、日本語で話していても興奮すると英語やフランス語になったりするひとびとが大半であった。 このひとびととわしは、よくつるんで、古レコード屋などに出没して、「弘田美枝子」とか「テンプターズ」あるいは「浅川マキ」や「シモンサイ」というようなレコードを発掘して「しぶさ」を競った。 なかでももっとも仲がよかったYどんは、「洋食」こそが日本を代表する日本料理である、と豪語していたので、ふたりで次から次に洋食屋へでかけてカツカレー、ポークソテー、カレーライスにライスカレーと食べまくった。 わしがモニと結婚してからは、モニが「洋食」を嫌いなので、頼むから離婚してくれ、と不穏なことを述べたりした。 長野の田舎にいけば農家のばーちゃんと稲穂が揺れる田んぼを歩いて遊び、自分で挽いて打った蕎麦をご馳走になった。 いまはもう潰れてしまった元は麻の工場だったホテルに泊まって富山で遊んだり、伊香保の温泉で酔いつぶれたり、いま思い返してみると、なんという楽しい滞在だったことだろう。 … Continue reading

Posted in 日本と日本人, 日本の社会 | 2 Comments