日本についての羅列


最後に日本にいたときから日にちが経つにつれて、日本にいたかどうかもときどき曖昧になるくらい記憶、というか「実感を伴った記憶」が薄れてゆくのはあたりまえのことだが、あたりまえではあっても、やはり何だか奇妙な感じがする。

わしの場合は日本についての記憶は日本語のなかにすっぽり閉じ込められている、という特殊性もあって、いわばカートリッジ式になっているので、こうやって日本語を使わなければ日本のことはまったく思い出さない、とゆってもよい。
それはたいへん奇妙な感覚だが、いくらやってみてもその感覚そのものを日本語で説明するのはそもそも不可能であるように思う。

アーニー・ガンダーセンが論理的に要約すると「日本はもう東京を含めて住めない島になるから、それよりもカリフォルニアやワシントンの汚染を心配すべきだ」とゆっているのを観ていても、カ、カリフォルニア人はたいへんなことになるかもなあ、でも、ほんまかいな、と考えているだけであって、よく考えてみれば日本は十分自分に近しいはずなのにアーサー・ガンダーセンが無表情に恐ろしい予見を告げている言葉が英語なので、「カリフォルニアに起こりうる危機」のほうしか頭にはいってこない。
考えてみなくても、カリフォルニア人が肺がんでバタバタ倒れるような事態になれば、日本はとっくに死の国と化しているわけで、言語が異なるということは、それだけ大きな感情の上での胸壁であるのが自分の頭一個のなかで実感される、というのは不思議な感覚です。

ブログではぶつくさ文句ばかりいっているが、日本では楽しいことのほうが圧倒的に多かった。これは主に記事で罵倒している元トーダイおやじたちが、当の記事をすっかり面白がって、ガメ、ガメ、とゆって一緒に遊んでくれたことも大きいのであって、考えてみるとなんだか釈然としない感じがする。
「頭にこねーのか?」と訊いても、
「だって、全部、ほんとだもんね。ガメが書かなきゃ、私が書きたい」というような調子であって、まことにヘンなおじさんたちであった。
当の本人たちは、度し難いところが厳然とあるひとびとであって、学歴ばかり言ってやがって、こおーのおー、と思って学歴人間を罵倒する記事を書いたあとに、軽井沢の森閑とした家のテラスで、青い誘蛾灯の野蛮なバチバチいう音を背景に、
「学歴、とか言いたがるのは、ブンサンとリニなのよ」
とひとりのおじさんが穏やかに述べれば、他のおじさんは、「ワセダやケイオーは、もっとエリート意識がすごいというぞ」
ひゃっひゃっひゃっ、と愉快そうに笑う、その姿こそ凄まじけれ。
誘蛾灯の青い光に照らされた横顔の印象もあいまって、百鬼夜行、という言葉を思い出したものだった。

しかし、まったく同じおじさんたちが、天然自然に親切なひとびとであって、「ガメ、これを読んでみよ。これはなかなか面白い本であったぞ」と風呂敷に包んだ本をもってきてくれたり。
このひとは本当は画家だったのかしら、と思うような美しい手の込んだ浮世絵を刷ってきてくれて、「これってさ。最後のプリントゴッコでつくった歴史的遺物なのだぞ」といたずらっぽく笑ったりしているのであった。

第一回遠征の頃、鴎外や漱石の話が出たあとでは、「江○勝」や「天満○」に一緒にでかけようと次の日に電話をくれたりしていたのも、このひとびとで、その出で立ちも、自分達自身で「これは日本式キザというものなんです」と称していたが、このおじさんたちは、細いネクタイに風呂敷で、まな板のようにひらべったい胴体に上等の麻の背広を着て、飄々と町を歩いて現れたりして、小津や溝口を神様のように思うわしには、やたらシブイ、かっこよいおやじたちに思われたりした。

横須賀線のグリーン車で「鰺の押し寿司」を食べたり、ウイスキーをちびちびやりながら鎌倉に下る楽しさや、松屋の裏の「はちまき○田」というような店や数寄屋橋の「○亀」のようなぶっくらこくくらいうまい鉢ものを出す一杯飲み屋も、みなこのひとびとに教わった。

振り返ってみると、彼らが鈍感極まりないガイジンガキに教えようと思ったのは、戦前から続く、しかし日本社会に厳然と存在する目に見えにくい「おっとりとした美風」であって、たとえば話に興がのるあまり、盃を飲み干す手が速くなると、意外に厳しい口調で「ガメ、その飲み方ははやすぎる。日本酒というものはね。飲むはやさがとても大事なものなんです。そんなにはやく飲んでは、宴にならない」と手厳しく叱られたりした。

このおじさんたちが極めて広汎で上質な教養をもっていたことを、わしはここに書き留めておかねばならない。具体的な内容は、そのうちに個別にあげつらって、このトーダイおじさんたちの悪口を書こうと思っているので、そのときにしたいが、ブンサンにしてからが、ある人はフランス人の文学者よりもフランス文学に詳しく、ドイツ人の哲学者よりもドイツ哲学に明るい、というようなことは無論たくさんあったのである。
「そういうときに、そういうものを食べたりしねーよー」とか
「あの国で、そんなブドウの食い方するひといねってば」というようなことでわしに笑われることがあったり、「えっ!あの小説のあの部分って、喧嘩してるんじゃなくて、ふつーの会話なのか?本当ですか?」と、おじさんたちが、ぶっくらこく、というようなことはあったが、彼らの欧州的教養を紛いものとみなすことは出来ない。
わしは、元トーダイと話していて、たとえば戦前の、行った事がないのにパリの裏通りの名前からどこにどんな店があるかまで隅々まで知っていた、というような知性のあり方を肯定的に考えるようになった。

トーダイおじさんたちと出かけるのは、わしの「古いものはシブイ」という趣味にもいたくかなっていたので、おじさんたちに手をひかれてやたらと古い店ばかり出かける週末も楽しいものだった。
おかげで、「神○バー」の電気ブランや、白い上っ張りを着たおばちゃんたちが巻いたキャベツをとんとん切っている「と○き」、あるいは、まことに小津的な調度の「ウ○スト」というような店の魅力に取り付かれてしまったりした。

休みになると釈迦堂の切り通しや曼荼羅堂の墓地、名越をわたり、鎧擂を歩いて、むかしの「くらげが干してある漁師の家が軒を連ねていた葉山」や「ハイヤーがずらっと並んでいた「イワ○コーヒー」、まだ肉屋が二軒しかなかった頃の鎌倉の話を聞いて、目を輝かせたりしたものだった。

Sさんの鎌倉山の家を降りて、遠くに「林間病院」が見える道を折れて行くと、右側に江ノ島が見える丘の頂に出て、そこから狭い坂道、公園、と歩いて行くと、突然燦然と銀色に輝く七里ヶ浜に出る。
江ノ電が手前を走っているその場所にくると、いつも、実朝の
「箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に浪のよるみゆ」
という有名な歌を思い出した。

わしが、彼らが見せてくれた東京や鎌倉をいくらほめても、「都電があったころの東京や鎌倉はもっとよかった、という」と共通の反応を見せるのがおもしろかったが、
こうやって書いていると、わしの「日本」という国へのイメージの大半は、こういうトーダイおやじたちがみせてくれたものであることに気が付きます。

もうひとつのグループは、20代のひとびとであって、青山の裏道のバーやカフェで、何時間も話し込んで遊んだのが忘れられない。
もっとも、このグループは日本でいう「帰国子女」が多かった。
ベルギーに十年住んでいた、とかニューヨークに12年いた、というひとびとで、日本語で話していても興奮すると英語やフランス語になったりするひとびとが大半であった。
このひとびととわしは、よくつるんで、古レコード屋などに出没して、「弘田美枝子」とか「テンプターズ」あるいは「浅川マキ」や「シモンサイ」というようなレコードを発掘して「しぶさ」を競った。
なかでももっとも仲がよかったYどんは、「洋食」こそが日本を代表する日本料理である、と豪語していたので、ふたりで次から次に洋食屋へでかけてカツカレー、ポークソテー、カレーライスにライスカレーと食べまくった。
わしがモニと結婚してからは、モニが「洋食」を嫌いなので、頼むから離婚してくれ、と不穏なことを述べたりした。

長野の田舎にいけば農家のばーちゃんと稲穂が揺れる田んぼを歩いて遊び、自分で挽いて打った蕎麦をご馳走になった。
いまはもう潰れてしまった元は麻の工場だったホテルに泊まって富山で遊んだり、伊香保の温泉で酔いつぶれたり、いま思い返してみると、なんという楽しい滞在だったことだろう。

マンハッタンで受け取って、そのあと何度も何度も読み返したT先生からの手紙には、
いちばん最後に
「原発事故さえなければ、どんな国になっても、日本は日本でしかありえなかったのに。
ガメの言うとおり、見えないもの、というものは本当に恐ろしいものだとおもいます」
と書いてある。

こんな日本についての羅列を読まされるひとは気の毒だが、ときどき、永遠に終わらない料理屋のメニューのように、もっともっと日本のよかったことを羅列してやりたい、という誘惑に駆られる。

あれほど楽しかった「日本」という文章の最後に打たれた句点が、こんなふうに不可視に汚れてゆくのを眺めていると、そのくらいの乱暴は許されてもよいような気がしてしまうのです。

(画像はグラシアの町の、ふつーの料理屋。冬はカルソッツがうめー店なんどす)

This entry was posted in 日本と日本人, 日本の社会. Bookmark the permalink.

2 Responses to 日本についての羅列

  1. みりん says:

    お久しぶりです(^^;)
    いやはや、MacBook Air買ってしまいました。我が家のwindowsマシン2台がほぼ同時に壊れ、会社のPCからポチッとしてしまいました。「ジャーン」という音で起動するのは変わらないんですね、約20年ぶりの感覚。Macのキーボード、まだ慣れていません(^^;)
    数日後、新しいOS発表、その名はLion!なにそのタイミングと思いつつ、発売は7月とのこと。1ヶ月ぐらい先かと思う時、果たして7月は来るのかと少し頭をよぎる。この感じ、いままでと決定的に変わってしまいました。以前、親から「若い人は生まれてから何年という捉え方をするが、こっちは死ぬまであと何年と考えるんだ」と言われたことがあります。既に折り返し地点を越えてしまったような考え方をしている雰囲気。
    何となく怖いなと思っても、夜風にあたるのは気持ちがいいのは変わらない。

    許されるなら、初Mac Performaの時代に戻りたいと今だけ言ってみます。
    追伸:Intel Macという表現は何か違和感が・・・。これ、日本だけですかね(-.-;)

  2. コマツナ says:

    ガメ・オベール様、はじめまして、HNコマツナと申します。
    すこしまえから、「おおばかめお」さんのブログを過去にさかのぼったりしつつ
    読んでいました。読むのがたのしみです。ですから、急にやめたりしないで
    ください。読むだけでコメントせずにいるかもしれませんが・・・・・

    ご両親のどちらか、お父様でしたっけ、が日本人でお母様が連合王国人、
    とのことなのですが、とても信じられないほどに日本語がこなれていて、
    そのことに驚くのがまず一番、さらに、この記事で書いていらっしゃる渋い日本
    のこと、古きよき日本のおじいちゃんたちの日本に精通していることに
    第二の驚きがあります。ほんとうに、20代の若者なのですか?
    失礼ながら、もっとお年を召した粋な日本のおじいさまがガメさんという姿を
    借りて書いていらっしゃるのかと思うほどでした。

    日本への痛い指摘や警告も、自分へのそれのようにうけとめながら
    読んでいます。何かがきっかけで、ネット世界でつらい思いをなさったようで、
    残念ですし、また悲しいです。
    日本語とも縁を切ろうと決意しようとしておられるのでしょうか。
    でも、続けていてほしいなと思っている一読者の私です。
    どうぞ、お元気でお幸せに。

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out / Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out / Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out / Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out / Change )

Connecting to %s