個人のための後退戦マニュアル・その4

もうここまで来てしまうと未来の日本の経済的破滅を疑う人はいなくなったようである。
少なくとも、わしが話をするひとびとの範囲ではいなくなった。
ここで「範囲」というのは冷菜凍死家としてのわしが接触をもつ範囲であって、もうひとつのわし世界においては「日本って、経済がテイチョーなのか?儲かってるんだとばかり思ってた。ポッキーつくってる会社つぶれたら困るなあー」というオオタワケがたくさんいるので、こっちは人語の世界の住人とみなしておらないので省く。

焦点は「日本の経済的大破滅が何時くるか?」というほうに移ってしまっている。
東北震災があった瞬間は、災厄というものが経済に与える法則に従って、これで破滅の時期がやや遠くなった、という意見が多くなったが、次の瞬間のフクシマのニュースによってこの意見は雨散霧消したとおもいたまえ。
その後の経過をみると、(日本では「事態が落ち着いた」ことになっているのは、承知しているが)「対策をやめちった」状態であって、「ま、熔岩みたくなった核燃料が地下のどのくらいまで潜っていくものか、見物しましょう」というすごいことになったので、そんなもん経済的な評価なんか出来るかよ、ということになった。
余りのことに、たださえ一喜一憂欣喜雀躍右往左往が習性の自称「経済学者」たちは、舞台の上で見栄を切ってみたり、生半可を通り越して勘が悪いのにも程があるバカ「科学知識」をふりまわして、「反原発はテロ」だとゆってみて僅かに英語世界で漏れ聞いた英語人たちに失笑を買ったりしている。
混沌、という言葉のもともとの言葉の雰囲気を伝えるところがあります。

2015年くらいなんちゃうか、というのがいちばん多い意見であるよーだ。
破滅の形は、いま日本の専門家がみな胸をはって「起きる確率0%」と断言しているデフォルトそのものである、というのが、まず一般的な意見でしょう。
しかも確率としてはデフォルトが習慣化しているギリシャ問題などよりも、イタリアやフランスが日本に先行的に破滅して、みながそっちの方角を向いて「きゃあああ」をしているときに、あっち向いてホイ、東の片隅で、巨大な経済があえなく建屋崩壊となるのだと思われる。
スケアモンガリングちゃいまんねん。
アホらしいことに、もう5年も書いているこのブログで何回も書いたように、途中までは対策が出来たが、それも麻生首相の頃に加速がついた集団的狂気によって恢復のチャンスは逸してしまった。
しかし、これも前に書いたように日本人の国民性というものを考えると、日本のひとが世界一の天分に恵まれた「先送り」の真に天才的な技巧を凝らして先延ばしに先延ばしを繰り返して、100の価値の生産財を70の価値の製品に変えて、それをさまざまな政治社会の締め付けによって正常らしく生き延びさせるよりも、いったん破滅したほうがよい、とも言える。
これからやってくる「グレイト・カタストロフィ」の日が来て、それから日本が1980年代初頭の状態に復興するまで多分5年とかからないのではなかろうか、と信ずる理由がわしにはある。

だから、そっちのほうがいいのよ。
途中は悲惨であるし、隠してもしょーがないから、ゆってしまうと、いま40代後半から60代前半くらいまでの人間は若い世代の慈悲にすがって生きてゆくより他になくなるだろうが、
しかし、いまの日本の状況は彼らの特徴である賢しらぶった徹底的な無責任が産みだしたものである。
自業自得、であると思います。
逆に彼らの老後が「保障」されるようであれば、日本という国など2025年頃には悪くすればなくなっているに違いない。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/09/破滅と再生への道_2/

わしは自分が日本語を書いているときには1992年に江戸川のほとりで自分が通っていた塾の教師に強姦されて惨殺された14歳の女の子の亡霊だと思っているが、ほんとうは日本のひとではない。
それでもわしには想像力と日本語という日本人の生活に分け入ってゆけるふたつの偉大な法力をもっているので、自分がいま日本人で日本にいる20歳の大学生だったら、と考えてみることは出来る。

わしならどうするだろう。

まず、早起きする。
こら、そこのきみ、ふきだしてはいかむ。
ほんまやねんぞ。
ロマン主義的傾向の作家たちを見ていて、いいとしこいてアホみてえ、と思うのは、彼らが言う「絶望」だの「憂愁」だのは、なに、酒もタバコもやめて、日の出とともに起きてジムで一時間ジョギングマシンの上でハムスターのように走り狂うなり、プールで1キロ全力で泳ぐなり、要するに肉体を活性化させれば解決してしまうだけのことで、自分の自堕落と世界の頽廃とを混同して自己憐憫に耽っているだけだからです。

それから良い音楽を探すだろう。
良い音楽がなければ魂が目をさましてくれない。
学校が休みになれば、いっちょう、ひと夏苛酷にベンキョーしてみっか、と考えて英語の本を大量に買い込んできて読むだろう。
わしが言うのもなんだが、いまの世界では、残念なことに英語とスペイン語だけが世界語であって、他の言語は急速に地方語化している。
中国語ですら地方語の位置に転落しているのは母語として最大人口を誇る中国人たちが最もよく知っていることです。
だから英語を勉強する。
スペイン語でも、可なり。
どうやって勉強するかというと、教本なんか買わねーよ。
神保町かどこかまでぶらぶらでかけていって、「フレンズ」の全シリーズかなんかを5割引で買ってくると思う。
日本語字幕がついてしまっては意味がないので、字幕が日本語の場合は、やむをえないからamazon.comからリージョン1ものを購入するであろう。
字幕なしでも判るひとは、この限りにあらず。
外国語は、いろはにほへど、あいうえお、ABC、ウナ、ドス、トレスから始めて、だいたい6ヶ月くらいでぺらぺらあるいはヘロヘロに話せるまで習得できるものだということになっている。
わしの高校の先生は 3ヶ月だと主張していたが、あの禿げはマジメ人間なのでまともな人間の参考にならぬ。
言語の習得は「読む」「聴く」「話す」のどれかひとつ、入り口として入りやすいところから入って三つのうちのどれかが出来るようになれば、必ず他のふたつも出来るようになっている。
日本にいるときに「読めるのに話せない」というひとがいたが、それはただ「頭のなかで忙しく訳せる」というだけのことで、読めてないから話せない、というごく当然のことが起こっているにすぎない。

とはいうものの、主に、ちゃんと興味がもてない、という理由によって、新しい言語の習得がそもそも苦手なひと、というのも厳然として存在する。
ノーベル物理学賞をもらった江崎玲於奈先生の英語は伝説的に酷いものであって、先生の奥さんが書いた滞米日記には、ある日、何年経っても、町に出て買い物ひとつするにも何回も聞き返されて結局なにも買えないで帰ってくる、何をゆっているか判らないといってガキどもにまでバカにされる、という日常につくづく嫌気がさした先生が、一念発起乾坤一擲暴勇のひととなって、英語の発音を練習してLとRの区別がつくようにしようとするところが出てくる。
よーし、これでダイジョーブじゃ、ということになって、いよいよ実践段階となってカフェにでかけて、Lのところにうんとこさ力をいれてミルクを注文したらメロンが出てきたそーである(^^)
江崎玲於奈先生の講座はどこでも人気講座だったが、何をゆっているのかさっぱりわからないのでも有名であって、江崎先生がMITで特別講義かなにかをやったときには大学で別に開いた自主講座「エサキイングリッシュ」、江崎先生の英語を理解するための特別講座を受講しなければ受講が許可されなかったという(当時HBSにいた義理叔父友達談)

江崎先生のような場合もあるが、そのときは、わしは語彙に専心することを薦める。
語彙がないひとの外国語習得はとにもかくにも見込みがない、と思う。

ひと夏苛酷にベンキョーして英語が身についたら、出来れば外国に行くのがよい。
前にも書いたようにワーキングホリデービザで一年くらい行ってしまうのが推奨される。
そこできみが女ならそのへんの男をたぶらかして外国人の情人をつくってしまうのが最もよい。
えー、あんな毛むくじゃらでおっきそーなの気味悪いじゃん、というなかれ、いーじゃん、一生に一回くらい。
気に入らなければ帰国するときに捨ててくればいいだけのことよ。
きみが男なら、綺麗なねーちゃんを探訪して恋に狂って、往古の恋人のごとく恋文を書き狂い、電話をかけまくり、ストーカーと化して、警察の留置場で一晩くらいお世話になるくらいであったほうがよい。
劣情は情熱の母である、という。
きみの魂はそうやって豊かになってゆくが、その過程できみの言語能力も向上するはずである。

残念だが、そうこうしているうちに、きみは日本の大学のシステムが低劣であることに気づくだろう。そしたら、わしは連合王国の大学がよいと思うが、合衆国の大学でも別にかまわん、そこで思い切り勉強すればよろしい。
大陸欧州の大学は権威主義に堕しておるので、すすめられん。
あれなら、日本の旧ブランド、トーダイとかのほうが案外いいかもしれません。

諸般の事情によって外国にいかれない場合はどうすればいいだろうか。
わしは「ひきこもる」のがよいと思います。
本を山のように買い込んで、あるいは我が友(@thingmeurl)のごとく図書館から借りまくって、ちょうど井戸の上から遙かな下の暗い水面を覗き込むように、うっすらと映っている自分の影に目を凝らして毎日を暮らすのがよいと思う。
そうすると半分狂人になったような気分になるに違いないが、ぬわあに、まわりはもっと完全に狂っているのだから、きみのほうが半分だけ正気なんです。

そのうちに、きみはきみの魂のためにあつらえたような「乗り物」を発見するだろう。
それはギターであるかもしれないし、写真であるかもしれないし、絵であるかもしれない。
ただの単なる「絶望」であるかもしれないが、それがしがない一個の「絶望」でしかない場合であってさえ、その絶望という乗り物はきみの手をひいて、それまできみが住んでいた狭い洞窟のような言語がむなしく反響する世界から連れ出してくれるに決まっておる。
そのあいだの生活は、「食えればいい」という方針で臨むのがよい。
別に職がなくて親のすねかじってるんでもええやん。
クソ社会でえられる職業など、それが見た目にどんな立派でも、誇らしくても、クソ仕事に決まっているからです。
そんなものがきみの人生と相渉る可能性はゼロであるに決まっておる。

くれぐれも、わかったようなことを言って、もっともらしくきみを掣肘して、いいとしこいて、いきがっているきみの周りのクソ中年にだまされてはいかむ。
彼らこそが、このクソ社会をでっちあげた張本人たちであって、話全体の責任はなべて彼らの肩にあるのに、その責任をこっそり物陰で下ろしてしまって、自分達はそんなことをしていないかのように、口を拭って、まるで年相応の人間であるかのような顔をしているだけである。
あまつさえ、最低の社会保障だけは確約しろ、と盗人たけだけしいことをいう。

落ち着いて考えてみればわかるが、彼らの言い分が通ればきみの人生はひとかけらも残らない。
だから、いまはただ自分にやさしくすることを考えなければいけないのです。
親も兄弟も、あるもんけ。
そうでなければ、いかに自分自身の魂といえど、自分に対して深刻な叛乱を起こすであろう。
きみの人生を破壊して、魂は自分達の自由の土地に帰って行こうとするだろう。
そうなってからでは、もう遅いのです。

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2 Responses to 個人のための後退戦マニュアル・その4

  1. ponpoko says:

    どぉもガメさん。こんにちは。
    今日も色々と面白い事を教えてくださってありがとうございます。

    今ちょっと仕事の関係でポルトガル語を勉強しているのですが、
    なかなか頭に入ってきません。年をとったせいでしょうか(苦笑)

    ブラジルに行くのでポルトガル語なわけですが、スペイン語のほうが
    世界的には有利だとは残念でした・・・。英語も今後は頑張ります!!

    オブリガード。

  2. snowpomander says:

    2011年の年頭から読み始めて今夜は個々まで来ました。ガメさんはワーホリ未満の青年達や同年代の人に語ってる、その言葉はワーホリの圏外の年代にも届きますね。齢はワーホリのダブルショットなみなみ一杯おまけ付き、それでも心にがーんと除夜の鐘のように引導の響きが入ります。
    「絶望」から乗り物が見つかる、それいーですね。引きこもってガメ語録に没頭する。どうせ海外に持ってゆけないんだから、シャンパンもワインもブッシュミルズのアイリッシュクリームもバルサミコもきれいにたいらげてしまおう。オーストラリアの蜂蜜も自家製のマーマレードも持ち出せない。ガメさんの超絶グルメを味わいながらそれなりに引き蘢り三昧しよう。「絶望」の使い倒しは禅に基本トレーニングであるのい。ガメさん、スケアの嵐の中に立つアレキサンドリアの灯火、優しきクリアモンガリングの君よ、ありがとう。
    さて、過去時間を圧縮せんとてガメぶ録”の読破続行。

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