ノーマッド日記9

見渡す限り広がっているひまわりの畑のなかをモニが歩いてくる。
わしは、強い太陽の光に、目を細めて、デコに手をかざして、ゆっくり歩いてくるモニを眺めています。
わしの手には、さっきフリーマーケットで2束1€で買ったラヴェンダーが握られている。
ラヴェンダー農場のおっちゃんが出している屋台で、ラヴェンダーの石鹸と一緒に買った。
おっちゃんは、すっかりモニにみとれてしまって、「マダムの美しさを祝って、この石鹸はタダにしよう」という。
そーか、この国にくれば、モニも「マダム」なのだな、とあらためて考えて、なにがなし、感慨にふけってしまう、アホなわし。
バルセロナが36度だというので、大慌ててでクルマに乗って逃げて、国境を越えるとほどなく23度になって、やったやった勝った、タイショーじゃ、と喜んでいたのに、地中海の太陽の母上はあっというまにわしらに追いついて、今日はアビニョンも36度だった。
空気は乾燥しきっているので、木陰のテーブルに座っていれば涼しいが、木陰から出ると、まるで砂漠のベドウィンになったような気がする。
マンハッタンの有名な帽子屋のJJで買ったコロンビア製のストローで編んだ夏の帽子をかぶってこうして立っていても、頭がぽおおおと熱くなってくるのが判ります。
すごい暑さ。
10分間も表にいれば気分が悪くなってくるような。

「Roussillonは向こうだぞ、ガメ」と自ら「志願」して将校斥候(^^)に出ていたモニが戻りながら指さしている。
そーですか。
わしは、赤い岩が見たいと考えたので今日はAptに行こうと考えたが、モニがちょっと考えてから、赤い岩を見に行くのならRoussillonにしよう、という。
帰りに、Les Grosに寄って行こう。
とても綺麗な町だから。

Roussillonでモニが連れて行ってくれた丘の高台からは赤、白、ベージュの3色に分かれた不思議な崖が見えて、わしをすっかり感心させる。
まるで人工の色のような鮮やかな赤で、セザンヌが塗り込めた色は写実の色彩に過ぎなかったのが判ります。
Les Grosは、いままでわしが見たなかでは最も完璧な、最も美しい町並だった。
驚いてしまった。
だって、こんな町、わし聞いたことないぞ、とゆうと、モニは可笑しそうに笑って、
フランス人は皆しっている、という。
へえー。

モニとわしは、もうすぐ、とゆっても何年か先だが、フランスに越してこようと考えている。
夏と秋をフランスで過ごして、残りをニュージーランドとオーストラリアで過ごすつもり。
いろいろ考えたり、ふたりでデコを近づけてひそひそ話したりして、だんだんそーゆーことに落ち着いた。
マンハッタンは秋の終わりに一ヶ月いればいいよね。
日本にはもう行かないんだろ、ガメ?
そしたら、そこにバルセロナをいれよう。
今度はプールがあるところにして、毎年あつくなる気候を凌ごう。
ロンドンは、テキトーでいいや。
フランスにいるんだったら、すぐだし。
用事があるときに、何週間かづつ、行けばいい。

モニが子供を作ろうかと考えたり、やっぱり欲しくないと思ったり、子供が自分の身体から生まれるなんて怖い、と当然の考えをもったり、やっぱりちっこいガメが見たいと考えが変わったりで、そういう面ではわしらの計画はなかなか定まらない。

ガメは、これからの人生で何がやりたいんだ、と訊くので、
「木星に行きたい」というと、その後、しばらく訊いてもらえなくなります。
アフリカに行くのは真剣に具体的な計画を立てることになった。
インドも。

結婚などは、紙切れ一枚の問題にしか過ぎない。
モニの国のひとびとは、とうの昔に結婚などというものの信憑性を捨ててしまった。
エンゲルスが聞いたらさぞかし喜ぶだろうが、若いフランス人にとっては結婚などは意匠にしか過ぎなくなった。
それが単なる「社会的な取り決め」に過ぎないのがフランス人たちには裸の真実として判ってしまったので、社会や「国」という陳腐化した思想から恋人と手に手をとってするりと抜け出してしまうことにした若い世代には、そんなことはどうでもよくなってしまったのでした。

合衆国暮らしが長いとはいえ、モニはやっぱりフランスのひとだなあ、と思う事がある。
たとえば、モニは、ときどき唇の両端を思い切り下に下げる、わしから見るとオモロイ表情をすることがあるが、ああいう表情は英語世界人にはない。
ずっと後になってスペイン人も同じ表情をするのを発見したが、物語のお姫様然としたモ二の顔に全然あわないので、うー、おもろい、とよく思ったものでした。

だからモニが、わしが、まことにぶわっかたれなやりかたで結婚を申し込んだとき、文字通り、わしのクビにとびついて喜んでくれたあの冬の日、わしは途方もなく嬉しかったし、驚きもした。
もちろんブログには書かなかったが、降りしきる雪のなかを、モニとわしは朝まで起きていて、お互いをどんなに愛しているか、という笑い話をした。
あのときも、このときも、わしは要するにあなたが好きだった。
ガメが、ずぶ濡れになって、両手にいっぱいヒアシンスの花束を抱えてアパートのドアの前に立っていた、あの午後のことが忘れられない。
あなたはまるで、飼い主に捨てられた子犬のようだった。
もっと意地悪して、立たせておこうと思ったのに、だからドアの鍵を外して、ガメを部屋にいれてしまった。

あなたがいて、わたしがいるのはなんという素晴らしいことだろう。
この容赦のない社会で、どうして巡り会えたのだろう。

ラヴェンダーの花束を後ろの座席においたので、クルマのなかがラヴェンダーの香りでむせるようです。
いまは助手席に座っているわしの足下にはVittelの空き瓶がいっぱい転がっている。
わしはVittelが大好きなのでモニにいつも「ガメは赤ちゃんみたいだな」とゆってからかわれる。
複雑な怪奇なシトロンのオーディオシステムに順って配線したシャッフルモードの
iPodからはAreskiのMagicien
http://www.youtube.com/watch?v=9uiAdE0_q80&feature=related
や、ずっとむかしからモニとわしが一緒に歌う歌のLe Brin D’Herbe
http://www.youtube.com/watch?v=Zamr5uRAnPE
が流れてくる。

ふたりとも、ただこの世界には遊びにきたモニとわしは、どこまで行けるだろう。
世界のことなんてどうでもいいや、と思っているのに、フクシマのニューズが流れるとモニとわしの目に涙がにじんでしまうのは何故だろう。
「放射性物質が必ずしも人体に有害であるとは限らない」というひとびとをどうしても許す事が出来ない、と感じるのはなぜだろう。

突然すごくヘンなことをいうと、放射線物質が人体に有害であるかそうでないかという事が「意見の違いだ」というひとをたくさんみたが、それは少なくともSeydou Keitaが撮影できた人間ではないのだと思う。
そんな人間と友達でいたくない、と思う。

薄汚い人間にも良いところがある、というひととも、わしは話していたくない。
「わたしはいろいろな人間を受け入れらる人間なんです」というのは人間の形をした化けものであって、わしはヴェネチアというところで、微笑しながら、人間のすばらしさの話をしながら、「どんな人間にも良いところがあるのだから」という神父と会ったことがあったが、その夜、勝ち誇った悪魔の夢を見た。
彼は人間の寛容というものの薄汚さを嘲笑していたのです。
神への信仰を自分への信仰へ気づかれずに変更することの容易さについて、わしに語って聞かせた。
きみは、人間の「やさしさ」というものの薄汚さについて知識がなさすぎる。

ここには書かないが、彼の一言隻句をわしはまだおぼえている。
きみは笑うかもしれないが、どんな人間にも「薄汚いものを不用意に受け入れてはいけない時期」というものがある。
耳に快いものを恐れなければならない「時」というものがある。

メロンと生ハムのサラダ(ルーコラの上に小さく切った生ハムとメロンが散らしてあるのね)から始まって、ブルーチーズソースのステーキ(こればっかりやん)、特大グラスにいっぱいのシャンパンにつかったカシスのシャーベット、ちゅうような夕食を食べる。
小川が流れる堤の上にテーブルを並べたレストランです。
給仕のねーちんやおっちゃんが、最近景気がいかに悪いか解説してくれる。
英語ができねーと、これからはやっていけないかなあー。
でも、ときどき英語が話せてとーぜんだろ、というひとたちがくると、やっぱり嫌な感じがする。
意地でも英語なんか話さないと思ってしまう。
夕食は量は多すぎたが、とてもおいしくて、「すげー、うまかっただよ」という。
シェフのおばちゃんが、わしらの言うことを聞きつけて、キッチンから出てきて、また来るがええだ、といいに来ます。
うん、また来ます。
わしはフランスが大好きだぞ、というと、
給仕のおっちゃんがラ・マルセイエーズを歌い出しそうなくらい喜んでおる(^^)
ぐ、ぐるじい、と思いながら、クルマに乗り込む、わし。

モニはオープンロードから見える原発を指さして「ガメ、ほら、あそこにフランス人がどれほどバカであるかの証拠がある」という。

「フランス人のほうが、ずっとバカなのに、どうして日本人が罰っせられなければならないのだろう」と言います。
モニさんは、ちょと涙ぐんでおる。

もう、このブログをずっと読んでくれているひとは気が付いているだろうから言うと、モニは日本という国が好きでなかった。
理屈よりもてんから合わなかったようで、フクシマのときに、わしが日本にいなかったのも、モニが、「もう絶対、嫌だと思う。ガメ。こんな国にいるのは私たちにとって良くないことだと思う」というので、ニュージーランドへ引き揚げたのでした。

でもフクシマは、モニには耐えられなかったよーだ。
二ヶ月くらいは、わしが日本語を読んで話す解説を聞いてくれていたが、途中から、もう聞きたくない、と言い出した。
わしも当然だと思ったので、話すのをやめてしまった。

野依というひとが「消せない火を燃やしてはいけなかったのだ」とゆっていたそうだが、原子力発電についての話はこのひと言につきている。

広尾山の家は意外と高い値段で買う人が現れたそうだ。
軽井沢の「山の家」も、売りに出そうと思っています。
あんまり考えてみたわけでもないのに、「日本にもう一度行ってみる」ということが考えられなくなっている自分を発見してぶっくらこいてしまう。

なんだか、自分の記憶のなかにどうしても思い出せない小さな斑点が出来てしまったとでもいうような、やりきれない感じがする。
日本という国はどうなるのだろう、と思ってみるが、そう考えて日本語サイトに行ってみると、当の日本では何もかもすっかり「大丈夫」な事になってしまっているので、いっそう絶望が深まってしまうのです。

もう、きみには、わしの言葉が伝わらなくなっているにちがいないけど。

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