Monthly Archives: July 2011

La Carte s’il vous plaît

1  モニと結婚する前は、フランスを旅行する、というと昼食はトラックの運転手さんたちが集まるところで摂る、と決まっていた。 街道のあちこちにあるこういう定食屋は、おいしいし、安いからです。 日本でゆえばでっかいポテトサラダみたいなのとかサラミが10枚くらい載っていてマヨネーズさんがかかっているみたいな前菜、本家なのだから当たり前だが、これはこんなうまい食べ物だったけかと思うほどおいしいフレンチフライがごしゃまんと脇に積まれたビーフステーキ、何種類でも自分で勝手に切り取って食べればよいチーズ、赤ワイン500ml、それにクランブルレと珈琲がついて10€、というのが相場であった。 そういう謂わばフランス式定食屋神田食堂が至る所にあるのがフランスという国のもうひとつの良い所でクルマでどこからどこへ移動しても、お腹がすいたところでテキトーに昼飯を食べて、夜はまたテキトーによさそうな食堂にはいって、部屋が食堂についていれば、そこで泊まればよい。 気楽なもんです。 モニというひとは、しかし、そういう場所に一緒に行くとはなはだしく場違いなひとで、 食堂に一歩はいるなり、食堂のおばちゃんたちは、し、しまった非現実的なものを見てしまった、という顔になり、トラックの運転手さんたちは、怯えた表情を浮かべて顔をひきつらせている。 別にモニさんが目を燐のように輝かせて口から紅蓮の炎をはきだしているわけではありません。 やや現実味を欠いているほどの美人であるモニが店にはいってきてしまったので、店のなかが皆「どーしよー」という空気になっているだけである。 その後ろから、義理叔父にゆわせると「極楽のトンボでも怒り出すくらい気楽そうな」わしがはいってゆくと、冗談ではなくて、いっせいに安堵の空気がもれる。 よ、よかった、人間のお供が一緒ではないか、おまけになんだかへらへらしていてちょっとバカそーだし、と思うもののようである。 パリの郊外で週末を過ごすことに成ったので、モニとわしはモニかーちゃんご一行さまよりひと足はやく移動することにした。 途中、お腹がすいてきたので、「お昼ご飯、どーしよー」とモニに訊くと、 トラック食堂に行こう、という。 えええええー、と思ったが、ひさしぶりでもあるし、ま、いいか、ということにした。 最後にこの手の定食屋に来てからだいぶん時間が経ってはいるが、いまでも全然おんなじです。 狭い店内にはトラックの運転手さんたちがひしめいていて、テーブルはみな相席で満員である。 メニューは相変わらずほぼ上記のごとき内容で、しかも2年は経っているのにまだ10€である。 おばちゃんたちは初めモニに話しかけるときには「おっかなびっくり」という表現がぴったりの様子だったが、モニというひとは平明なひとなので、ひと言ふた言言葉を交わしただけで、安心するばかりか嬉しくなってしまったようでした。 おばちゃんたちが忙しいのに、なにくれとなく気をつかってくれるので昼食は楽しいものだった。 前菜を食べ終わったくらいのところで、ふたりの大学生がはいってきて、モニとわしのテーブルの隣でトラックおじちゃんと相席をすることになった。 なにしろ狭い店内なのでモニが椅子を動かして道をあけてやると、大学生ふたりは、大恐縮して、盛んにお礼をいっておる。 ふたりとも身なりのよい、気持のよい青年である。 向かいで炭酸水ボドアをちびちび飲んでいたおっちゃんが、ふたりの青年に向かって、話かけ始める。 自分はクルマを運搬する途中でここに寄ったのだが、今日は天気もいいし、道も空いているし、いい日でした。 ふたりの青年は、返事をしません。 失礼にしている、というのでは全然ない。 ごく自然に返事をしない。 片方の大学生はおじちゃんの顔を見ているが、もう片方に至ってはおじちゃんの座っている「方角」を見ているだけで、まるで横から見ていると、あたかもトラックおじちゃんは亡霊であって、青年には見えていないもののごとくである。 おじちゃんは、相変わらず機嫌よく話しかけているが、とうとう勘定をすませて立ってゆくまで、このふたりの青年は、メニューに載っている食べ物の相談やこれから出かける先の森についてお互いのあいだだけで会話するだけで、トラックおじちゃんにはひと言も話しかけるとか返答する、というようなことはなくて終わってしまった。 あまつさえ、おじちゃんは「では、ご機嫌よう、気をつけて旅をしてくださいね」と挨拶をしていったが、別にこのふたりは挨拶を返すというのでもない。 わしは、フランスだのお、と見ていて思います。 フランス人の習慣では、別にこのふたりはおっちゃんに対してケーベツ的な態度をとっていたわけではない。 「話をする場面ではない」から話さなかっただけです。 日本では「身分ちがい」というような事を聞くと、幸せにも、みながその時代錯誤な語彙にふきだしてしまうが、フランスではいまでも「身分違い」という事が厳然とある。 身分が下のものは、身分が上のものに話しかけたりしないことになっておる。 おっちゃんが盛んに話しかける失礼はとがめないとして、このふたりがおっちゃんに返事をする理由はなにもないので、ふたりは、まるで自分達に見えていない幽霊と相席しているかのような態度にみえたのでした。 だから何よ、とゆわれても困る。 ずっとずっと大陸欧州にすんでいる日本のひとから来たメールのなかに、フランス社会の「身分」について触れているところがあって、それは殊更にフランス社会に厳しい身分の区別があることを嘆いている、ということでは無論なくて、話の一環として、単純に身分について触れていて、こんなに長いあいだ住んでいるのに、どうもいまだによーわからん、と書いてあったのでしたが、読んでいたわしは、そーか、このひとも欧州に長く住みすぎて、到頭、そんなところまで見ちゃったのか、と考えたので、自分で考えてみるヒントとして定食屋で見たことを日本語で書いてみよう、と思っただけである。 … Continue reading

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食物図鑑 その8 グラシア篇

バルセロナという町は、スペインの一部であることを全身で嫌がっているような町です。 わしのアパートがあるグラシアという、元は独立した町であっていまはバルセロナの一部ということになっている町は、特にそういう気分が強いよーだ。 路地の奥に分け入ってゆくようなレストランに行くと、スペイン語すら書いてなくてカタロニア語だけだったりする。 わしはカタロニア語はパーリンプッだが、メニューだけは読めるのはそういう理由によっている。 むかしは、イノシシを頼んだつもりであったのに、なんだかわけがわからねえ内臓のホルモン焼きがでてきて、ははは、おもしれえー、これだから他国での食事はやめられん、と呟いて泣きながら食べたものだったが、最近は、ちゃんと何を自分で注文しているのか判っているのだから偉人であるとゆえる。 カタロニアと言えば、むろん、パン・アム・トマカ、スペイン語に翻訳すればパン・コン・トマテです。 生活の基本であるとゆってもよい。 何をオーバーなと思ったきみ、そーではないのよ。 食べ物を軽視するすべての思想はケーハクな思想である、なんちて。 いやいや「思想」とかゆっておると食べ物がまずくなるからやめておくべ。 知らない人のために述べておくと、パン・コン・トマテとゆーのは、上の写真のごとくパンに、 1 まず生ニンニクのクローブをすりすりする。 2 その後にトマトを切った断面をすりすりする。 という厳粛な手順を経て出来る食べ物で、同じスペインでも、異なる地方へ行くと、 輪切りのトマトをのっけてみたり、もっと言語道断なことには全くニンニクをすりすりしていない「パン・コン・トマテ」まであるが、マンハッタンの人気「バルセロナ・タパス・バー」で出している、オリーブをすったのや、ドライトマトをオリーブオイルにつけたのや、いろいろな「ソース」がついてくる「パン・コン・トマテ」と同じくらい大邪道である。 (因みに、あの9th Aveのタパスバーのシェフは、あろうことか、バルセロナのおっちゃんなので、「こんなん出していーとおもっとるのか」とゆったら、「おれが決めたんじゃなくて、あそこにいるカリフォルニア出身のクソ女が決めたんだもん」と言い逃れしておった。いまは悔いて、わしの姿を見る度に作る料理の量を二倍するので、ついに神の許しを得たよーだが) バルセロナに行って不平たらたら、「あんな酷いところは初めてだ」というのは、だいたい世界的なイナカモノであるアメリカ人であって、日本のオーサカやトーキョーから来たひとは概ね「バルセロナ大好き」になって帰るもののよーである。 それは何故かとゆーと、簡単で、バルセロナ自体、小さいとゆえど都会だからです。 「食べ物の写真が出ているレストランは不味いに決まっておる」 「外国語が4カ国語も並んだメニューの店で、おいしいかもしれない、と思うのは頭がどうかしている」 という常識にオーサカ人やトーキョー人は馴染んでいるが、テキサス人は、 「まあー、この写真、綺麗でおいしそう。おまけに英語も通じるんだわ」とかっちゅうんで、いきなりはまりまくる。 スペインちゆえば、どこでも「ハモン」に決まっておる。 ハモンは、いちばん高いハモン・イベリコを奮発することに決めてしまえば、相当ええ加減なところにはいっても、おいしいす。 たとえば「Mas」のようなチェーン店でもよいと思われる。 (しかし、マスの数ある支店のなかでもディアグノルのモールの地下にあるやつがいちばんおいしいけどな) 切り方がおおざっぱにゆって、うすううううく、うすううううく切る切り方と、小判状に切る切り方がある。 わしはうすうううういオカモト式のほうが好きです。 装着感がない。 (嘘。ほんとうはデュプレックスですけど) わしは、人間が質実剛健簡素剛勇に出来ているので、普段たべるものは、ウエボス・コン・パタタス(イモの卵焼きのせ)とかです。 わし、この食べ物、好きなんだよ。 1€のテーブルワインと、これがあれば、手もなく幸せになってしまうので、いつもモニに「なんという安上がりのダンちゃんだろう」と笑われておる。 あるいはクロケタス。 イタリアのは日本と同じでイモだが、スペインではコロッケは中身はクリームとチキンやハムです。 わしはむかしはクロケタスがほぼ病的に好きであって、朝ご飯の蜂蜜を表面に塗ったクロワサンと一緒に必ずクロケタスを3つつけてもらったりしていたが、最近は、モニと一緒にいるときには「臭いから注文してはいけません」と厳命されている、アトゥン(ツナ)のパイに変えるときもある。 ガイドブックを見ると、バルセロナは、タパスがおいしい、なんちておるが、カタロニア人にゆわせれば、そーゆー表現はただしくない。 タパスて、ただ「小さい皿」て意味だからな、と力説します。 そんなの意味ないよ。 … Continue reading

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パンと水と長距離走者の孤独

自分でもやらないことなので、実際にやってはいけないが、このブログを遡ってゆくと、初期の頃のブログには「生きてゆくのに必要なものほど高い」東京の生活にぶっくらこいている文章がたくさんあります。 日本にやってきたばかりのときは、そもそも物価全体がダントツで世界一だったが、わしがどひゃあああ、と思ったのは、それよりもその高い物価の構成のなかでも「必要なもの」ほど高い事だった。 いまでは日本の20年に及ぶド低迷のせいで、欧州のほうが物価が高くなってしまった、どころか、公表される数字に目をつぶった実感としてはたとえばシドニーでの生活は東京よりもオカネがかかるようになってしまったが、それでも、「ああーカネがねー。 今日の昼飯はパンとワインで過ごすべ」と考えたビルバオのスパニッシュ・バージョン大庭亀夫2号は、パン屋にふらっとはいって「おばちゃん、そこにある丸パン一個ね」というであろう。 「この怠け者が、あんたモニさんのすねばかりかじってないで、たまには仕事しなさいよ」とお説教をたれながらパン屋おばちゃんは人間の頭と同じくらいのパンを剥きだしのまま、ドンッとカウンタの上に置くだろう。 紙袋なんて上等なものはありませぬ。 なんで? なんでって、スペインちゅうのは、そーゆー国なんです。 そういう所で狂人の集まりであるアメリカ人みたいに「衛生」とかゆいださないから、かっこええんやん。 でも、1€(117円)だぜ。 ついでに書くと、ビルバオのこういうパン屋さんは、なんも書いてなくても、店の奥にある石窯で薪です。 あたりまえだからな。 わしは鎌倉の義理叔父かーちゃんに頼まれて、寺の境内に出来た「石窯パン」を買いに行ったら、そもそもパン屋に行くのに拝観料を払わなければいけないのだとゆわれて、ぶちきれたことがあったが、ビルバオでは石窯などはあたりまえなので能書きにならん。 ワインは棚の隅っこにある、地元のひとがつくったラベルのない瓶のワインから店のおじちゃんにおいしいのを選んでもらう。 75clで1€です。 これで一日食える。 1994年、わしが子供の頃のニュージーランドでは、牛肉の挽肉が2キロで150円だった。 義理叔父が、あんまり安いので買い込んで、10キロ200円のたまねぎと一緒に毎日毎日ハンバーグをつくって、かーちゃんシスターに馬鹿にされていたのをいまでも如実におぼえておる。 牛乳は、その頃は2リットル瓶しか売っておらなくて、100円ちょっとだったと思います。 いまはバブルで、物価はその頃の丁度二倍になったが、いまでも2か月に一回その辺りの家に、こそ泥にはいって、2万円くらいちょろまかしてくれば食えそうである。 欧州人が、いま、もうすぐおとーさん(倒産)、という状態になりながら、悠々と暮らしているのは、要するにそういう社会の「必要なものほど安い」という仕組みに依っている。 ええええー、ぼくのおねーさん、ロンドンに住んでいるけど、全然それと反対の事言っていたよ、ときみは言うであろう。 ところが、それこそが、日本の人が欧州の経済というものをなかなか理解できない大きな理由であって、お話が田舎に行くと、全然ちがうのだよ。 そうして欧州という存在の豊穣な肉体はその「田舎」なのね。 都会なんて、いくらいても欧州なんてちょっともわかりまひん。 たとえばポーという町がある。 そ、このひとつの前の記事の写真になっているフニキュラが駅から町の高台までフニクリフニクリと静かにあがってゆく、あの町です。 この町は、実はイギリス人が保養地としてつくった町であって、美しくて、食べ物が滅法うまい町である。 フランス空挺部隊の本拠地、とかでも有名だけどね。 そっちは軍事オタク板とかで話すべし。 ともかく、この町の不動産屋の前に立って、アパートの値段を眺めると1000万円くらいから「結構ええんちゃうの」という部屋があります。 手にべたべたする、ものすげえーうまいマカロン2個と合衆国では金輪際飲めないおいしいコーヒーに熱いミルクをいれて飲んでも、500円である。 なんだか書いていてめんどくさくなってしまったので、端折るが、欧州人の大半にとっては、国家的「おとーさん」は、クレジットカードが停止されて、ホームローンが払えなくなる、という意味です。 でもね。 ボルドーのホテルで、4家族が連れ立っての旅行の途中でホテルをチェックアウトするところ。 ところが、3家族の都合5枚のクレジットカードがどれも認証されないのでごんす。 やべえー、と言い合いながら、もめにもめておる。 モニとわしは、後ろで、観察している。 さんざん、なんでダメなんだ、なんだかこのクレジットカード支払いが遅れて停止になってるってクレジット会社のひとが言っているので、もうしわけありませんが電話口に出て直截はなしてもらえなませんか。 あーだこーだ。 … Continue reading

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パリ

1 まだ、おパリにいる。 おパリ、はヘンだというひともいるだろうが「おフランス」があるのだから、おパリでも日本語として成立しているものと思われる。 おパリにいる、とゆっても、アイフルタワーをクルマからちらと見て、おーすげー、相変わらずおったってるのおー、と感心した一瞬だけがパリであって、あとはモニのおかーさまのお供をしたり、おかーさまの巨大な城塞に似た住居のなかをうろうろして、トイレがどこにあるか判らなくなって迷子になってケーベツされたりしているだけで、やはりヒルトンに泊まって「パリス・ヒルトン」をしたほうがずっと良かったものと思料されておる。 社交界の最も肝腎な部分から、例のビデオの一件でしめだされてしまった(気の毒に泣き狂っておったそーだ)あのひとの名前は日本語の表記習慣にのっとれば「パリ・ヒルトン」であるはずだが、なぜ「パリス・ヒルトン」なのだろう。 ロンパリという言葉は「ロンドンとパリ」をいっぺんに見るほどふたつの目が向いている方向が正反対である、という意味だそーだが、日本から見ればロンドンとパリは誤差の範囲で同じ向きにあるのではないか。 夜になればモニとクラブにでかけるが、パリのクラブははなはだしく性的で下品な場所なので、わしの荘重な日本語のせいで高年齢層も多いと思われる日本語ブログには刺激が強すぎて書けやしない。 きみが16歳なら強刺激に遭遇しても、乾坤一擲修行して、環境にまけないくらい下品に磨きをかけて、綺麗なねーちんと見れば(ちゃんと相和した合意でなければダメよ)押し倒して、下品でパリのクラブを制圧するということも可能だが、60歳の場合、第4コーナーを回っても一向に減退しない性欲をもてあまして、さびしく自瀆する以外なくなってしまうやも知れぬ。 えー、そんなジジイいねーよ、と思ったきみ、あまい。 自瀆ジジイも自慰ババアもいっぱいいるではないか。 医学的事実です。 息子の大岡越前に「女人はいくつくらいまで性欲があるものですか?」と訊かれた越前かーちゃんババは、黙って火鉢の灰を火箸でかきまわせてみせたという。 「灰になるまで」という意味です。 フロリダあたりの老人ホームは、乱交クラブ化しているところもたくさんあって、じーちゃんとばーちゃんたちが、やりまくっている。 わしの友達は奇妙な経緯からマイアミの老人ホームの一室に一晩泊まることになったが、夜のあいだじゅう、隣の部屋から、ヒキガエルが踏みつぶされるような、しかし明らかに女びとが性交のときに挙げる声が聞こえ続けて眠れなかった。 本人たちは楽しい時間を過ごしているのだろうが人間の人生の悲惨や辛さ、というようなことがしきりに頭のなかに去来して、それから「人生」というものへの考えが更新されて、もう一段人生に対する殺伐とした気持ちがました、と述べていた。 人間でいるのが、いてもたってもいられないくらい不安になった、という。 以上のような現実に鑑みて、パリの夜のことを書くのは、日本という制限の多い社会ではためらわれるべきだと考える。 おパリは、あんまり人間に夢を見させてくれない街である。 マンハッタンに似ている。 そういう意味では、ずいぶん田舎じみてきたとゆっても、いまでも都会なのかもしれません。 2 ここからカリフォルニアにいって、用事をすませたら、ニュージーランドにいちど帰る。 ブラフ・オイスターの季節だからね。 マールボローの白ワインとオイスターの天ぷら、うめーんだよ。 白酢で食べる。 郎党のひとびとも待っているはずである。 日本のたとえば的矢の牡蠣に較べるとずっとずっと小さいブラフオイスター(モニはニュージーランドはフランスとは牡蠣とマッスルの大きさが逆だな、と笑う)2ダースくらい食べるととても幸福になります。 二週間くらいいたら、マレーシアかカタールに行くであろう。 ええええええええええー、イスラムの国になんか行ったら、うまい酒がねーじゃん、トルコ除く、と口を尖らせたら、モニにきっぱりと 「だから行くんです」とゆわれてしまった。 ええええええー、やだあああああー、となおも抵抗したが、 「それならサウディアラビアに行こう」とマジメにゆわれたので、イチジクのお菓子はおいしくても通りにおいしい酒もまずい酒もないあんなアル中更正施設みたいな国につれてゆかれると困るので、あっ、ぼく、それでいーです。 ラクサ、たのしみだのお、ということにした。 モニはマジメなひとなので、ときどき酒を飲まない月やなんかをつくるのは良いことだ、と思っているよーだ。 先祖代々、朝から晩まで飲んだくれていて、酔っ払って夜中に馬を乗り回して、湖におっこっておっちんだりしていた我が家(いえ)のひとびととはえらい違いです。 そんなんマジメで退屈だのい、と思うが、モニさんのほうが偉いので、従わないわけにはいかないであろう。 そのあとはオーストラリアに行かなければならないはずだが、まだ決めておらん。 メルボルンに行けば、いつかブログに書いたむちゃむちゃうまいギリシャ人家族のハンバーガーがまた食べられる。 ドックランズの、バーベキュー型ステーキでは世界でいちばんうまいと思われるステーキレストランにも通える。 … Continue reading

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イタリア・フランス・スペイン

1 高速道路 一日400キロ、というような移動距離になると、高速道路が大嫌いなわしでも高速を使います。田舎道は景色はいいが危ないからな、景色がいいと前をあんまり見ないモニが運転しているときはもっと危ない。 うっかり、あっ、牛さんだ、とかゆってしまうと、モニは前を見るのをきっぱりやめて、「ガメ、どこに牛がいるの?あっ、ほんとうだ、かわいい」とジッと見ている。 とっても、怖いです。 だって、クルマ、狭い対向車線の道を100キロとかで走ってるんだからな。 そこへいくと高速道路は安全である。 大陸欧州人は、方向指示器なんてめんどくさいものは使いません。 無論法律では車線を変更するときにはインディケーターを点滅させることになっているが、誰も使わん。 方向指示器を使うのは、自分が移動したい先に相手がいる場合、「どいてどいてどいて」という意味で使う。 イタリアからスペインまで似たようなものだが、微妙に違うところもある。 フランス人は歴史を通じて凝りすぎて破滅する、というオモロイ特徴をもった民族だが、高速道路でも凝っていて交通量が多い区間になると下り坂の制限時速が90キロで上りの制限時速が100キロ、というようなところがたくさんある。 上り坂のはじまりで渋滞が始まることが多いからです。 芸が細かい。 それがイタリアにはいると、トンネルの入り口も登坂のはじまりもおかまいなしに110キロ、とかであって、イタリアだのおー、と感心する。 むかしは大陸の高速道路をクルマで移動するたびに、車線をまたいだまま、ずううううっと走っておるやつや、車線と車線のあいだを、ゆーらゆら、ゆらゆーら、渡り歩きながら運転しているやつがいるのはなんでだ、と思っていたが、モニさんが運転する順番のときに、追い抜きざまにどういうひとが運転しているのか観察することにしたことがあった。 フィアットのちっこいのが、3車線のあいだを右から左、左から右に、大胆にふらふらしながら走行している。左から右に移動しだしたタイミングをみはからって、モニさんが、ぶおおおおおーんと加速して、びゅんと追い抜きます。 追い抜きざま、わしはこのフィアットを運転している若いねーちんが、何をしているのか見てしまった。 何をしていたか、というとだね、聞いて驚いてはいかむ。 スパゲッティ食べてんだよ。 時速130キロでクルマを運転しながら、スパゲッティ。 わしは、スパゲッティを食べながらクルマを運転するひと、というのを初めて見ました。 それですっかりオモロクなってしまって、次から次に「ふらふら運転」をしているひとを観察してみると、携帯でテキスティングをしているひとが最も多い。 次は携帯で話しているひと。 なんか食べてる人、というのもその次くらい。 要するに大陸欧州人たちは高速が退屈なので、いろんなことをやりながら高速道路を運転する。 だから、ふらふらしておるやつが多いのだ、というフィールドリサーチどした。 フランスはやたらカネを取りたがるが、スペインはただの高速道路が多い、とか他にもいろいろ違いはあるが、最も異なるのは運転者気質で、印象としては、 イタリア人:スピード狂 フランス人:運転が悪辣 スペイン人:なんも考えてない ついでにコモ湖のような一定の観光地域に行くと、いっぱいうろうろしているアメリカ人観光客についても述べておくと アメリカ人:運転がドヘタ というところであろーか。 アメリカ人はすれちがうのがやっとの道でセンターラインからはみだしたまま、へーきで走ってくるような、 免許、もってるのか、ボケ、と思う人が多かった。 多分、マニュアル車の運転に慣れていないからではなかろーか。 モニとわしのクルマはフランスナンバーなので、スペインの高速道路では、なああーんとなく恐れて側に寄ってこない。 町の悪党って、こんな感じかしら、と思ったりして、ちょっとしたやくざ気分を味わうのであります。 2 ハウス・ワイン 日本にいるときに、料理屋でもっとも嫌であったのは、「ハウスワインが不味くて飲めない」ことでした。 … Continue reading

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Cueva de El Castillo

モニがクロマニヨン人たちの洞窟の壁画を見に行こう、というのでカンタブリア州にでかけた。 アルタミラは人間の悪い息と湿気で絵が消えかかっているので非公開になっている。 特殊なルートを通じてお願いすれば見られるそうだったが、割と簡単に出来るたとえばルーヴル美術館の時間外絵をみながら散歩(わしは「鑑賞」ちゅうようなダッサイ言葉きらいでんねん)と異なって、えらいたいへんなので、やる気が起こらない。 いま見ると有名でないどころか日本語では何の記事もないみたいでぶっくらこいてしまったが、Cueva de  El Cstillo の洞窟画を観に行くことにした。 アルタミラやラスコーがレプリカの公開だけになってからは、クロマニヨン人たちが残した洞窟壁画が観られるのは、この洞窟だけのはずである。(他にもあったら教えてね。観に行くから) ラスコーやアルタミラの壁画と似たよーなのが、というのはつまり炭で描いたバイソンだとか牛さんだとか馬さんの顔だとか、鹿さんだとかの絵がいっぱいあります。 しかし、酸化鉄を吹き付けて印象した手のひらの陰影画が最も有名である。 欧州でもあんまり有名でないのは、多分、発掘が新しくて、まだどんどん発掘している最中だからでしょう。 カンタブリアの洞窟の発掘で(スペインでは)有名な Hermilio Alcalde Rio がこの洞窟をめっけたのは1903年だったが、それからなかなか発掘は進まず、というかやらず、いまのような一般の人間がアクセスできるようになったのは2008年です。 行ってみると判るが、1940年代、他の国が戦争をしているあいだじゅう戦争をしていないスペイン人はひまをこいていたので掘りまくっていたのにまだ半分も発掘が終わってない(^^;) わしは初めアルタミラのレプリカ博物館でごまかしちまうべ、と思ったが、モニさんが、そんなんじゃ嫌だ、というので、結局、これに出かけた。 ビルバオからクルマで二時間くらいです。 バスクとの国境(くにざかい)を越えてカンタブリアの美しい海岸線を見ながら、しばらく海辺をドライブして、80キロくらい行ったところから内陸に向かって田舎道を走ります。 正午を40分くらいまわってしまったので、 途中でド田舎の町の、牛さんのかぐわしい糞の臭いのする(冗談でゆってるのではなくて、わしもモニもほんとうに牧場のマニュアの少し酸味がかった匂いが好きなのです。あんなに良い匂いて、世の中にあんまりないと思う)コーヒー屋で、件の巨大源氏パイとカフェ・コン・レチェで遅い朝食を食べた。 えっ、午後一時前なら昼飯じゃん、ばっかみてえー、と呟いた、そこのきみ、甘い。 この近在のスペイン人が午後1時前なんて殊勝な時間に昼飯たべるかよ。 この辺りでは昼ご飯は午後3時くらいに食べるものなのね。 夕飯は10時でごんす。 スペイン人は並の文明人とは根性が違うのだとゆわれている。 ガイドのスペイン青年と待ち合わせたのは午後1時だったので、その時間にはまだコーヒー屋でわしはでかい源氏パイをぱくついておってモニはパン・オ・ショコラを食べていたのは内緒で待ち合わせの時間に遅れちった遅れちったと考えながら洞窟の前にやってきてみると、スペイン青年はかっこよく探検ルックで決めて洞窟の前で待っているのであった。 洞窟画は、素晴らしかった。 どうしてあんな何も考えていない線がひけるのだろう。 というようなこともさることながら、(ははは、「さることながら」使ったぞ) バイソンを描いては手のひらを(ガイドにーちゃんによれば)こちらに向けて酸化鉄を吹き付けて印象していったこのゲージツカたちは、何を意図していたのだろう? あちこちに描かれたバイソンや雄牛や鹿の絵には、すべて、それに被せるように手のひらのネガティブがある。 もっとよくわかんねーなのは、何十と描かれたディスクで、ガイドにーちゃんは、「洞窟の案内システム」ではないか、とゆっていたが、しかし、ここで重要なことは入り口の研究員にーちゃんに確かめてもやはりクロマニヨン人は「数を数える」ということをしなかったはずで、数を数えない人間が、「ディスク」というような抽象的で単一な図柄をたくさん壁に描き込んでゆく、というのは極めて異常なことであると思われる。 わしはずっとクロマニヨン人たちはラスコーやアルタミラやカンタブリアの洞窟のなかで遊びとして絵を描いていたのに違いなくて、なあーにが「呪術」だよ、と思っていたが、呪術はセンスがなさすぎるにしても、遊び、というような言葉が代表あるいは指示できるものではなくて、あのひとたちは、もっとものすごく真剣な作業として絵を描いているのが洞窟の謂わば環境ごと絵を見ていると、どんなアホにも判るのであって、そのことにいちばん驚きました。 人間の宗教を求める心や芸術を求める気持ちというのは、どうも、われわれが教わったようなものではないようだ。 いまは、まだもっと時間がないとうまく表現できないが、どうも人間がもっている宗教や芸術というものの姿は根本的に間違っているように思います。 そんなことではなかったのだ、と考えました。 「あんなにめんどくさがっていたくせに、ガメのほうがコーフンしているではないか」とモニにからかわれながら、わしはもと来た海岸線をまたクルマをとばしてビルバオに戻ったが、帰りは、モニとクロマニヨン人たちの魂の不思議について話し合ったり、普遍や抽象という世界に人間が踏み出した理由をわれわれが誤解していたに違いないことについて考えたりして、あっというまについてしまった。 … Continue reading

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語彙、ごいごい、ゲンゴー

日本の「ランチ定食」はスペインからの社会習慣の輸入であるはずだが、宗家スペインの「ランチ定食」は独裁者のフランコが低所得層国民に受けるために苦心してひねりだした「安い価格でおいしいお昼ご飯を腹一杯食べてもらう」ための制度だった。政府がレストランに直截働きかけて、このメニューを一種類か二種類に限定するかわりに、ものすごく安い価格でおいしいものをたくさん出すための仕組みを確立した。 独裁者というものはビンボニンがおいしいものを食べられない恨みというものの怖さを古今よく知っているものであって、シンガポールのリ・クアンユーもだからホーカーズの屋台に補助金を出しまくって、そのせいでシンガポールの有名な天天海南鶏飯は20年前と同じ3ドル80セント(250円)であることは前にも書いた。 サンタマリアの裏小路にある料理屋で、わしは、それだけで満腹になってしまいそうな、どひゃっな量のマルミタコ(バスク郷土料理で鰹とジャガイモの煮込みでがす)と、次に出てくるでっかいヴィールの牛かつ、それに500ミリリットルのワインと水がついて、最後にはデザートの滅法うまいチョコレートがどろどろなチョコレートケーキがついて11ユーロ(1300円)のランチを食べた。 モニはサラダとヴィール。 スペインという国は食べ物が特別においしい国なので、どうしても毎日たべすぎてしまう。 三食、合計9時間くらいかけて食べていて、食事が終われば、一杯150円くらいのビノ・ティント・デラ・カサを一杯か二杯ずつ飲みながら、あっちのバールからこっちのバールへとふらふらして、カウンタごしにおっちゃんと話したり、カウンタに頬杖をついている隣り合わせになった仕事帰りの女のひとや家事が終わって息抜きに来た主婦おばちゃんと話して遊ぶ。 今日はどこのバールの壁にもあるテレビのトップニュースはフクシマの汚染牛肉であって(これは世界中でひさしぶりに大きく報道されたフクシマのなりゆきだった)、テレビを見上げて日本にいたことがある、と話すのももう飽きてきたので、日本にいた、というようなことはしらばっくれて、日本を多少でも見た事がある、というようなことは「おくびにも」ださずに、日本はてーへんだなあー、とゆっていると、一緒にテレビをときどき見上げながらカウンタの向こうでハモンをせっせせっせと切っていたおっちゃんが、いったいどうなるんだろうな、スペインであんなことが起きたら、おれはどうしたらいいか判らないよ。 考えてみたことがあるんだが、やっぱりわからなかった、という。 わしも、わからん、と呟きながらテレビを見上げるわし。 隣のおばちゃんが、「あなたはイギリス人なの?」と、いきなり英語で話しかけてくる。 この頃は、英語ができやがるとつかいたくてしょーがない奴が大陸欧州にも繁殖しておるので、わしはときどきメーワクである、と思わなくもなし。 英語で話しかけられてちょっと気持ちが意地悪になったのかもしれません、いーや、わしはニュージーランド人だがもし、というと、全面笑顔になって、実はわたしは去年の11月にニュージーランドに行って、それはそれは楽しくて、…としばらく演説をこかれてしまった。 わしの心の動きなどいつもお見通しのモニが隣で必死に笑いをこらえておる。 ビルバオの用事は終わったので、いつフランスに戻ってもよいが、わしはまだバスクでのんびりしてます。 チャコリというバスクの白ワインや赤リオハで酔っ払って川沿いを散歩したり、全然ものにならないバスク語をケンキューしたり、どう考えてもこのキリストの像は大きすぎるだろうと考えながら、あの初代ヒッピーおっさんの姿を眺めたり、サンダとガイラなら「まここと」が好きであるらしい「グッゲンハイムのパピーちゃん」にお手をしてもらえるかしら、とスケールを訝ったり、ピンチョス屋の味較べをしてカンドーしたりしながらビルバオビルバオして暮らしておる。 バスク人はスーパー・モダンが好きなので、思い切ってものすごいものをいっぱい作るが、このひとたちは、もともと頭がいいので、たいていの場合、その(世界的には)うまくいくことが少ない冒険的な試みがうまくいっている。 偉いひとたちだなあ、と思います。 スペインにはわしが好きな場所がいっぱいある。 カタロニアの陰影。 カステラの赤土の荒野やガリシアの深い色の緑。 細いガムトゥリーが並んだバスクの稜線。 スペイン人は地方色はあってもみなはにかみ屋で、それなのに相手にうけいれてもらったのだと判ると、パッと明るい顔になる、その表情の大きな変化の美しさや、たかがわしが微笑んだというくらいのことで、今度は身振り手振りもたくさんついた興奮で、たくさんたくさん話をする、その(わしが育った世界の基準からいうと)無防備なところがたまらん。 大好きである。 フランスのほうが、土地の質が高い、っちゅうか、楽しいものが密度が高くて、フランスはどんなド田舎に行っても必ず良いものがあって良い宿があって良い料理屋がある。 イタリアも、イタリア式な違いはあってもやっぱり文明が至るところに行き届いていて、次から次にあらわれる楽しみに息もつけないところがある。 スペインの魅力は、そういうロマンス語兄弟国とはずいぶん違っていて、フランス人たちはスペインのことをさして「アフリカ」だとゆって揶揄するが、それは必ずしも揶揄ではなくて、こんなふうな言い方をすると、またショーセツカとかに率いられたヘンなひとびとが集団であらわれて「人種差別だ!」と怒鳴り込みに来そうであるが、街と街のあいだが300キロがとこは離れていて、あいだには荒野みたいなヘンな土地が横たわっているスペインという国を旅していると、カタロニアやバスクくらいに戻ってきたところで「おー、文明の世界に戻ってきた」とごく自然な感情の反応として思ってしまう。 しかしスペイン人には、そういう「荒野」を抱えている国のひと特有の言葉にするのが難しいひとなつこさというか人間らしい暖かみというか、そういうものが溢れるようにあるのです。 だから、つい居心地がよくて居てしまう。 7月の終わりにはパリにいないといけないのに、こんなことでいーのか、と自分でも思うしモニにもダイジョーブか、とゆわれるが、なんだか、きっとダイジョーブだろー、くらいのええかげんな気持ちの心地よさに負けてしまう。 ラマチェンゴ、ラマチェンゴ。 ウエイ。ラマチェンゴ。 いまから振り返って考えてみると当たり前のことにしか過ぎないが、実は人間のアイデンティティというか人格そのもの、そのひとが何を考えて、世界をどう感じるか、というようなことは9割方はどの言語を母国語あるいは母語とするかで決まってしまう。 その言語を獲得したあとに、本人がその言語の思考集合のなかで組み立てられる独自性などは感覚的に数字でゆってみれば3%もなさそうです。 わしはずっと日本の人が考える欧州が、この宇宙のどこにもない欧州で、いわばそれは「誤訳された欧州」のようなものであって、教会も神も美術ですらも、すべて「欧州」というよりは、誤訳の結果立ち現れた何か見た事のない新しいもので、そうであることのほうがただの「欧州」なんかであるより、ずっと面白かったが、それが日本語で考えられた欧州であることに、去年くらいになって、このブログやツイッタに攻撃者として現れた奇妙なひとたちのせいで、気が付いた。 「すべりひゆ」という人が感じる神だけが不思議なほど通常の「神」に近いのも、だんだんわかってみれば、このひとのイタリア語能力の結果ということにすぎないもののようであった。 すると、人間は自分が属する言語の奴隷なのだろうか、と思う。 この疑問は、まだ答えのない疑問だが、たとえば数学というような言語を比較の対象にして検討してみると、いまのところは無限に正しく思える。 もっとくだらないことをいうと、では何語を母語にして育てば人間として最も思考するのに楽か、あるいは感情がもつれなくて楽か、というと、それはイタリア語かスペイン語であるようだ。 どこの国の社会にもいるスペイン語かぶれのバカにーちゃんやバカねーちゃんを見れば判るとおり、これが母語でない場合にはビミョーな罠になるが、(話をいつものごとく端折ると)、なぜ楽か、というと、このふたつの言語はローマ人の思考と直截つながっていて、しかもフランス語のように世界一激しく個人を抑圧する社会的な仕組み、というものも歴史上もたなかったからであると思われる。 ローマ人の健全そのものの多神的世界に言語を通じて直截ふれられるからです。 … Continue reading

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Ooh La La!

1 わしはビルバオにいる。 ビルバオのホテルの部屋で日本人の友達からきたe-mailを読んでいる。 結局、日本語では正しく何事かを考えるということはできないのではないだろうか? ガメ、どう思う? われわれの言語はこの世界にたったひとつの神様が関与しない言語で、ぼくもぼくの友人達も、それをたいそう誇りにしていたものだった。 きみが、日本語に興味をもったのも、そういう理由だった。 長野の山のなかの、あのレストランで、闇のなかに聳え立つ木々の影をながめながら、神と人間の言語の関わりを、われわれが声帯をけいれんさせ舌をふるわせてわずかな語彙で神を考える事の意味を、議論したときの興奮をおぼえている。 だが、結局、神が関与しない言語など悪魔の言語にしか過ぎないのではないだろうか? われわれは、ほんとうのところ悪魔的な民族で、いわば世界のなかで悪魔的な文明を繁殖させているだけなのではなかろうか。 Kさんのメールを何度も読み返してみるが、そうしてわしは、なぜKさんがそう考え出したかも知っているが、 答えなんて判らねーよ。 判りたくないのかも知れない。 それとも、もう人間の言葉で考えるのがめんどくさくなったのかもしれません。 Ooh La La! Ooh La La! 人間の文法で出来たこの息がつまりそうなシンタクスと語彙で考えるくらいなら、意味のない声を挙げて、踊り狂ったほうがいいのではないだろうか。 Ooh La La! Ooh La La! この知能には、この知恵には、この羨望や、この洞察には、 なんの意味もない。 どんな建設性もありやしない。 2 わしはチェルノブイリの結果だという、一つ目の胎児や双頭の幼児、手足が四方八方に生えた不思議な形の人体の標本を見ている。 日本人の若い医学者たちの意見に反駁するアメリカ人やUK人の友人達のメールを読んでいる。 標本の扱い方について初歩的な知識に欠ける、ある種類の日本人たちの統計の取り方を冷笑するドイツ人たちの手紙を読んでいる。 なぜ日本人は、こういうバカどもを訴えないのか? それとも国民ごとバカなのか? ガメは、なぜ日本人たちのために意見を述べてやらないのか? それともきみが日本語が出来るという噂は嘘なのか? Ooh La La!  Ooh … Continue reading

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食物図鑑 その7 ガリシア篇

午後2時。ガリシアとカステラの国境を通るときに140キロで滑るように走っているシトロンの外気温度計を見たら12度でごんした。 晴れた真夏の午後だっちゅうのに、どーゆー気温なんだこれは、と思っているうちに、ガリシアの濃い緑色の森が消えて、カステラの赤土の台地になる。 くるときに泊まったレオンのホテルが気にいったので、まだ一泊して遊んでゆく気になったんでがす。 ガリシアは食べ物がおいしいので、なんだか食べてばかりいた。 大聖堂の裏参道をずんずん歩いて行って、そこから分かれる脇道にわけいってゆくと、むかしからの(小さな寝室がついた)料理屋も現代風なレストランもある。 英語なんか全然ひと言も通じないが、だから横柄なバカ英語人がいないからいっそうよいともゆえる。 「新市街」にもおいしい店はあるが、わしは伝統料理を食べるのに忙しかったので、現代風な料理屋には三軒、五回しか行かなんだ。 グラシアのような町とは違って、ガリシアでは伝統料理のほうが深みがあるように思いました。 スペインの友達に「ガリシアにいるのだ」というと、ガリシアに夏行くバカがいるものか、と笑われてしまった。 モニも、ガリシアはほんとうは冬がいいんだぞ、という。 初め友達に言われたときには、わしのいるガリシアが涼しいからってひがむんじゃねーよ、と考えたが、モニまで冬がいいというので、(モニがいうことは全部ほんとうであるに決まっておる)、そーなのか、と考えました。 ガリシアの料理屋に行くと理由がのみこめた。 じゅん爺の住む富山と同じなのね。 食べ物が冬においしいものが揃っておるのであった。 夏に特別においしいのは鰯だけであって、他は、ガリシアン・スープも牡蠣も他のほとんどの海鮮料理も冬のものばかりなのでした。 でもいまの季節のものもあって、たとえば、この鰹のタタキはおいしかった。 いーやいーや今度は冬来るからいーや、とふて腐れたが、でも夏たべてもどれもこれもおいしいのよ。 たとえば、これはガスパチョである。 バルサミコで模様が描いてあんのね。 ちべたい白ワインを飲みながら、食べると、野菜のあまみが利いた冷たい滋養が魂にしみてうめっす。 焼いたカタクチ鰯をやはり焼いたイチジクの実に載せて食べる料理 これは無茶苦茶うめっす。 焼いたイチジクとカタクチイワシがこんなに合うなんて考えたひとは天才であると思う。 鰯はもちろん天ぷらもフリッタもある。塩だけ、あるいはレモン、あるいはオリーブオイルで食べます。 オリーブピルをタップリかけると、甘くて、まるで違う食べ物になります。 ナポリタンスパゲティが大好きであって、家でつくるたびにナポリタンスパゲティの臭いが大嫌いなかーちゃんシスターとの結婚生活に亀裂が深まる一方の義理叔父に写真を見せたら悶絶していたタコのスパゲティ。 大量のニンニクとオリーブオイルを炒めてトマトとオイルの甘みだけでつくったソースにタコをいれてスパゲッティとからませた食べ物だったが、これもうめかったす。 シェフのおっちゃんにレシピを訊いたのでニュージーランドでもつくるのだ。 ガリシアとゆえばタコと決まっているが、やはり炭焼きがうまいかしれん。 たまねぎやレッドペッパーやなんかをラタトゥイユ風にまとめたのに目玉焼きをのっけた前菜 やコックル貝をお米と一緒に炊いた雑炊、 シーフードを炊き詰めてつくったシーフードのブロスの「ガリシアスープ」 イモと野菜のガリシア野菜スープ。 スズキの炭焼き 魚に飽きたら、チョリソ界の帝王とゆわれるガリシア風チョリソがまるごとごろんとついたウエボス・コン・パタタスもおます。 毎日毎日3人前くらい食べていたのに、食べるものがつきないほどガリシア料理は豊富であって、わしはあごが疲れた。 ガリシアにだけ特別の料理というわけではないがフランスはサンドイッチが世界一でいちばん程度が高い国だと思うが、スペインもサンドイッチがおいしい国です。 カタロニア人はやらないが、ガリシア人はサンドイッチの片方のパンにまるく穴を開けて目玉焼きをそこに埋め込んで食べる。 これは、子供の時かーちゃんに教えてもらって実はわしもよく家でつくって食べるが、ニュージーランドやロンドンではいちいちシェフのひとに説明しなければならなくてメンドクサイがスペインでは、初めからメニューに載っておるので楽である。 (50セント増し) … Continue reading

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低い空の下で

1 「足下を凝っと見つめている少年」を見たことがある。 いまさら隠す必要もない。 わしはもともとが甘やかされた金持ちのバカガキであって、異国の日本でも地下鉄なんちゅうものには(外の景色が見えねーだろ、という理由で)乗らなかったが、その日は急いでいたので広尾から日比谷までやむをえず地下鉄に乗った。 たしか、「日比谷線」とかっちゅうんだよな、あれ。 魚臭くて、吐きそうな匂いがするクソ地下鉄で、わしはあんまり好きでなかった。 わしは、特に日本では我ながら巨大な肉体のひとであって、浮かれているときにはよくデコを地下鉄の出入り口でぶつけるので、注意に注意を重ねて、まるでベトコンを警戒しながらベトナムの沼沢をすすむ麻薬中毒のアメリカ人の兵隊のように地下鉄にのりこんで、安物の浅い座り方しか出来ない営団のクソベンチに腰掛ける。 気色の悪い蛍光灯色に照らされた車両のなかには数えるほどしかひとがいなかった。 緑色のシャツを着たアメリカ人のおばちゃんと、暗い色のダッサイ背広を着た日本人の若いサラリーマン。 間抜けな制服を着たぶっといくだらない不格好な豚足足をスカートからこれみよがしに突き出した女子高校生たち。 それから、「きみ」。 足下をジッとみつめて、必死に歯をくいしばって、身体が向かい側から見ていても小刻みに震えているのが判る。 拳をにぎりしめて、真っ青な顔をして。 アメリカ人のおばちゃんが耐えられなくなって失笑したのをおぼえている。 わしに目配せをした。 わしは、クソババアの目配せに気が付かないふりをした。 きみは絶対にこの世界を許さないとでも言うように、自分の足下を奇妙な力をこめて眺めていて、まるで、この足だけは絶対におれのものだ、と主張しているひとのようだった。 わしは、うっとりしてしまった。 いま思い返しても、きみの狂気はどれほど、あの狂気の社会で正常であっただろう。 わしは、多分自分の育った社会で、きみのようになりたかった。 きみのようでありたかった。 きみでいるべきだったのに。 2 ガリシアの低い空の下を歩いて、何度も考えてはやめたSt.Jamesの棺を観に行った。 神のいないがらんとした教会には観光客とクソ信者たちの悪い息だけが充満していて、わしは、もういちど、あの日本の「日比谷線」で見たキチガイガキのことを考えた。 まるで純粋培養した憎悪のようなあのキチガイガキは、歯をくいしばって、この世界のありとあらゆる偽善に耐えていた。 わしは、彼の唇からもれてくる「殺してやる。殺してやる」という低いつぶやきを音楽のように聴いた。 それは、まぎれもなく、日本にいるあいだに聞いた、もっとも「神に近い言葉」だった。 人間はなんと愚かでなんと偉大なのだろう。 あの少年の低いつぶやきは、神を怯えさせる「音」をもっていた。 にやにやしながら、ふやけた言葉で神を「学習」して神の噂話をしたがる、あのクソ「信者」どもよりも、遙かに神の近くに立っていた。 匕首をもって。 「殺してやる」という言葉を、わしはどれほど彼と共有したいと願っただろう。 3 午後のあいだじゅう仕事のメールを書くのに追われていた。 欧州も合衆国もおおげさに言えば破滅の淵にいて、わしは、イタリア人やスペイン人やフランス人や合衆国人、UK人の悲鳴を聞いている。 ガメは、なぜまだ絶叫しないでいるのか、この状況が怖くはないのか。 なぜ、動かないのか?なぜ金融屋たちをのさばらせておくのか?なぜ?なぜ?なぜ? きみたちには全然読めやしない言葉で、ぼくはここに答えを書いている。 どうでもいいから、なんだよ。 … Continue reading

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日本を忘れるための努力_第一歩

砂埃が立つ田舎道の道ばたで会社の昼間の休憩を利用してイッパツやってきたおっちゃんが相手の売春婦を商談をまとめた場所にまでプジョー307を運転して戻ってきて下ろしている。 売春婦のねーちゃんはくるまから降りてキャミソールとストッキングを直している。 太陽が照りつけて、乾いた風がおっちゃんとねーちんを等しくねめつけて通り過ぎてゆきます。 猫たちはわびしげで犬たちはエラソーである。 午後1時のショッピングセンターのサンドイッチ屋でエメンタールとハムのサンドイッチを買っていると、身なりのよいおばちゃんが横から、わたしにはハイネケンを一杯とゆってビールを買ってのんでゆく。 近くのテーブルでは土建屋風のおっちゃんたちがふたり、所在なげに赤ワインを飲んでおる。 レオンに行く途中の赤土のホテルで、外に出したプラスティックのテーブルの赤い土のほこりをぬぐって白ワインでタコとイカとイモを食べる。 うめっす。 濃いコーヒーに砂糖をいっぱいいれてかきまぜて、飲み干すと底にこびりついた砂糖がゆっくりカップの底から喉に移動して流れおちてゆく。 コモの湖の西側の丘を、月明かりを頼りに歩いて、石畳の道をたどって、かーちゃんととーちゃんの夏の家からモニとふたりで買い求めた新しい家へ歩いて行く。 コモのどんな小さな村落にもある鐘楼が、広場に影を落としている。 流れ星が湖の上空をいくつも横切って、空の低いところを人工衛星が、なんだか間の抜けた等速で移動してゆきます。 欧州に帰ってきた。 モニもわしも新世界住民を僭称しているが、はっはっは、ほんとうはインチキだからな。 ときどき欧州人にもどってしまうよーだ。 人間は結局生まれて育ったところしか好きになれないのだ、という、あの悪意に満ちた確信が、もしほんとうだったらどうしよう。 もう戻れなくなってしまったが、わしは日本が好きだった。 このブログに何度も書いた定食屋のおばちゃんが好きだったし、このブログには殆ど出てこない、若い科学者たちや法律家、大学の人文系教師たち、あるいはちょっとだけ書いたことがある官僚や研究者である元トーダイおやじたちが好きであった。 一緒にネット上でいろいろな実験もやって、びっくりしたり、感心したりもした。 フクシマが起こって、海外に住むことにしたひともいたし、日本に残ることに決めたひともいた。 フランスで原発がぶっとんでも、結局、自分の故郷に帰る人は帰るだろう、とゆったら元トーダイおやじのひとりが驚いていたが、人間とはそーゆーものではなかろーか。 日本の内閣構成ジジイたちが根拠もなにもなく闇雲に安全だ安全だと言い募るのは、自分なら安全でなければ逃げるに決まっている、命あっての次回選挙議席、と下品な考え以外の考えをもっていないからで、この世界は、ああいうくだらない人間ばかりとは言えないだろう。 孫娘に、どうしてこの事態が安全でないかじっくり言い含めてから、自分だけは死を覚悟して住み慣れた鎌倉の大町に戻る、というのは文明的態度であるというものである。 死ぬまでに、描きかけたツツジの安養院の絵を終わることが出来るだろうか、というのは人間にとって正当な自問でありうると思います。 安全であるわけがないものを安全と言い募る政府は、そういう個人の尊厳さえひとりひとりの人間から奪い取ってしまう。 それがぼくには耐えられないのだ、とYさんは(嫌味にも英語で)書いてきたのでした。 いまの日本と来たら「何が得になるか」という話ばかりで、ぼくが静かに死にたいだけだとゆっても騒音にかきけされて誰も聞いてくれやしない。 ガメは、外国人で、おまけにバカだから、ぼくの声があるいは聞こえるのではないだろうか。 ぼくはハウツーものや、貯金通帳や、土地権利台帳みたいなものと関係がないところで静かに落ち着いて死にたいだけなんだよ。 いままでもあまり良い父親ではなかったし、良い夫でもなかったのは判っているが、死ぬときくらいはもっとうんと生まれてからいちばんわがままでもいいだろう。 ぼくは無害な放射能を「賢くおそれる」町なんかではなくて、有害なのが判りきっている放射能が降り積もる町にもどって死にたいのさ。 ああ、おれが信じてきたこの国はここで終わりなんだな。 でも頑張ったじゃないか。 (ガメが好きな言い回しばかりまねるようだが)悪意に満ちた西洋に押しまくられ、ないものねだりばかりのアジアの諸国には要求を突きつけられて、民主主義を実現しようとして、あの貪欲な田舎者どもや、無関心な都会のバカガキの言いたい放題のラビッシイアイデアにも耐えて、おれたちは、「日本」という世界にひとつだけしかない場所をつくろうと頑張ってきた。 でも、無理に無理を重ねた、そういう努力も、とうとうここで終わりなのだ。 そう納得して死んでゆきたいのです。 ぼくが生まれた新潟の町はとんでもない田舎でね。 自動車がくると、おれたち子供は「それっ」と道路に飛び出していって、思い切り排気ガスを吸い込むんだよ。 そうして、お互いの顔を見合わせて、「おおっ、これこそ都会の香りだな」と言い合ったものでした。 ガメには信じられるわけもないが。 … Continue reading

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カストロなケルト人集落で考えた事

Castro de Barona http://www.galiciaguide.com/Barona.html に行った。 サンティアゴからは60キロくらい。 新しい道路が出来たのですぐに着いてしまう。 2000年前のケルト人達の夢が海辺に射している姿は、奇妙な形をしていて、鄙びて、ケルト人らしく歪んでいて、わしはすっかり気に入ってしまいました。 岩の上に座って大西洋を眺めてしばらくのんびりした。 アルプスの山を越えてコモ湖にあらわれたり、ガリシアにたどりついてタコを食べて顔をしかめてみたり、ケルト人たちというのはオモロイひとびとであって、とにかくあちこちに旅行して、自分の気に入った土地に定住してみるべ、と考えるタイプの生活をしていた、という点でいまの欧州人の生活様式を初めに実践したひとびとだと思われる。 「えー、だって同じひとじゃない」ときみはいうであろうが、 そんなこと何も判ってないのよ。 ブリテン島と大陸とのケルトが総称として文化的な総称なのか多少でも民族的な総称かも判っていないはずである。 わしが日本にいていちばんうんざりしたのは、自分の無礼な態度や非常識なふるまいが引き起こしたとおぼしき相手の反応から、戦争中の日本の集団強姦や大量虐殺まで「日本人に対する人種差別」ですませてしまうひとびとであったが、人種についての話が偏執的に大好きなわりに日本のひとは人種問題の根本的な勘にすでにかけている。 なんでこんなヘンな考えが常識化しているのだろう、と思って考えても判らないことが多かったが、あるときこのブログを読んでくれているひとのメールを読んで、へえと思って調べてみると、80年代に日本が盛んに行った、たとえばロー○リークラブというような組織が後援していた受け入れ側の 大学にとっては迷惑極まりなかったらしい(わしらの側で言う)「観光留学」で欧州にやってきたひとびとが、欧州の閉鎖的な大学世界でまともに相手にされず、フラストレーションを募らせて、「欧州人の人種差別」を唱えだしたという面もあるようでした。 「あの頃はカネがなかったから仕方がない」というが、これはもともと相手にする気もない、本来留学生としての資質に欠けた日本の若い人を受け入れたほうが悪いので日本人のほうが悪いわけではない。 事情は、丁度、いまの英語圏諸国の「語学留学生」と似ているようでした。 あの金持ちの息子や娘達も自分達をそれまでの恵まれた環境であったように遇さない失敬極まる英語諸国の「人種差別」に対して中国語世界で憤懣をぶちまけている。 このひとたちが書いたものをあらためて読むと、フランスに留学してもフランス語が身につかなかったのはもちろん、欧州というものをまるで誤解していて、そうやって誤解された欧州が大量生産されて日本の「誤訳された欧州社会」が出来ていったようにも見える。 人種、という問題を考えるのが苦手なもうひとつの理由は、日本のひとたちが他文化から孤立して生活するのを好むからであって、1億3千万という凄まじい数の国民が太平洋プレートがぎゅうぎゅうと押してくる地震の多い小さな島に住んでいて、資金の面からも、社会の自由度の面からも、あるいはビザの優遇の度合いからも、まるで外国に移住するのを奨励しているような社会制度であるにも関わらず、「外にいけば人種差別が待っている」「外国に行けば女はみんな強姦されて男は性器を切り取られるそーだ」と言い合って、女は顔に墨をぬってガングロになり、男は襲われても襲撃者が慌てて鼻をつまんで逃げる悪臭のポマード(!)を髪に護身用に塗って、小さな島に逼塞して暮らしている。 これは余程根が深いビョーキであって、たとえばフクシマの原発がぶっとんじったときにも、あるひとたちは「ドイツの空港で強制的に放射線チェックをさせられているようだ」とツイッタで大量にRTしていた。 「これでいったん日本に帰ると移住先の国に帰れなくなるかもしれなくて在外日本人は気の毒だ」といいだすひとまでいた。 わしは、それはいかんだろう、と考えて、名指しされていた航空会社の友人に電話して、そんなことをやったらいかんだろーが、ボケ、というと、 「日本から乗り継ぎの乗客のための乗客サービスとして希望者に放射線チェックをやっただけと思う」という。 話していて電話の向こうとこっちでふきだしてしまった。 その日本人のお客さんは、ドイツ語も英語もわからなかったのではないか、悪い事をした、というのでした。 これも、そんなドイツ人らしいマヌケなサービスを思いつくのが悪いとゆえるだろうが。 いまの欧州では現実にアジア人に対する人種差別があるのは誰でも知っていることだが、それは西洋社会に日常の基礎をおいてはじめて判る体のものであって、日本で盛んに「人種差別」と喚き立てるひとびとは、全然そこまでいっていなくて、「お客さん」の段階のひとが殆どであるのが日本人の「人種差別論」の特徴だと思いました。 なんだか根本的にずれている。 たとえばアングロサクソンからの激しい差別意識によって長年苦しみぬいてきたオランダ人などとは根本から話が異なるもののようでした。 ケルト人たちは、もう3000年も他人種と共存したり混交したりしながらこの欧州大陸で暮らしてきた。 そのケルト人たちがもっている「人種」というアイデアは日本のひとが考えるよりも遙かに個々の具体的な事柄に基づいた複雑なものです。 わしがいるこの町でも冗談のつもりで「あんたたちはムーア人に支配されたひとたちだから」とゆって、病院に救急車で送られることになった「欧州通」の日本人がいたそうだが、文字通り世界のあちこちで聞く、その手の話を聞く度に、どうして「判らないことはだまっている」ということが出来ないのだろう、と考える。 日本の人が頭のなかにもっている「人種論」のありかたは、初めから問答無用の喧嘩を売っている形でしかないのを、なぜ気が付かないのだろう。 マンハッタンのユダヤ菓子屋でお茶を飲みながら、「日本では、いまの経済危機はユダヤ人の陰謀だというひとがいるんだぞ」とわしがゆったら、一瞬眼をみはって、怒るより先にお茶をふきこぼして笑い出してしまったユダヤ人の友達のことを思い出す。 自分達ユダヤ人と日本人というものの距離の遠さを思って、自分の宿題ができなかったのは火星人のせいだとゆっている小学生でもあるかのような日本人の「議論」に気が遠くなるようなおかしみを感じたのであるからに違いない。 もっとも20代30代の日本人が、所謂「日本人」とは別の生き物である、というのもほぼ常識になっていて、ミチやケイ、やヤッシは日本人であるよりも先に頼りになるスタイリストで、センスがよくて冗談もうまいヘアドレッサーで、ピンチになればやってきて助けてくれるプログラマーである。 日本人としての強い誇りももっていて、日本人だって誰もが放射能が安全だ、と言っているわけではない、食品だって危険な食品を海外に出すまいとして頑張っているひとたちもいるのだ、と力説する。 そこが日本人らしい、というか、そう言いながらマンハッタンのバーで感極まって泣き出してしまったりするが、泣き出してしまって何も言えなくなってしまった彼の肩をたたいているひとびとのほうは、ただヤッシが人間だと思っているだけで、日本のひとだな、と思うのは、ただ彼の繊細な心がどこから来たかを考えるときだけです。 … Continue reading

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Santiago de Compostela

1 フクシマ以来、さまざまなことが起こって、さまざまなことが忘れられていった。 放射性物質は相変わらず空中から地下と海中へと場所を変えて当初と変わらない流出が続いているが日本人たちは「放射性物質は危険ではない」という「事実」を「発見する」という奇想天外で独創的な方法によって事態を解決してしまった。 20年というような時間が経って、事実の無残な手で日本人たちの「科学」の化けの皮がはがされ、いま行われている日本人の「言論」の悪魔性が明るみに出され、フクシマの子供達が、30歳になるかならないかで、ちょうど彼らが胸から線量計をぶらさげて軍事教練もどきの「朝礼」をやらされた校庭に似た墓地に、安物の墓石として整列させられる頃には、ナチよりも残虐な民族として名を残すだろうが、しかし、とにもかくにも日本人達は自分達が他人を愛しているようなふりをしながら、あるいは自分が信じていることをほんとうに述べているようなふりをしながら、言葉を偽り自分を偽って、今日一日の安逸を貪る「20年」という時間を買ったのである。 忘れようと思えば忘れられるフクシマの子供達の生命を根絶やしにして、残りのおおぜいの日本人の20年が購えるなら安い買い物ですよ。 わたしの静かな日常は変わりません。 わたしにはやさしい友達がいまでもたくさんいるし、日曜日には教会にも行く。 神様もきっとフクシマの子供を見殺しにするくらいのことなら許して下さるでしょう。 なんといってもやさしい方だから。 以前に言葉を交わしたことのある、あの日本人の「カソリック信徒」だという心底くさりきったクソババアなら、そういうだろう。 あるひとは、わしにメールを寄越して、放射線がフクシマの子供をどの程度、殺すかどうかについてきみとぼくには意見の違いがあるが、と書いてくる。 そう。 あなたとわしには意見の違いがある。 ガス室のなかで、苦しむこともなく、この収容所の外にも「世界」があったのだろうかと訝りながら、静かに「人道的に」死んでいったユダヤ人の子供達と、残酷だし、子供を殺すのは嫌だが「世界」のためには仕方がないのだ、でも、あの子供の身体から石鹸をつくってひとりあたりの処分の単価を更に安くするという所長の案はなんだか嫌だな、でも仕方がないのか、と自分に言い聞かせて家路につくナチの看守のあいだほどの「意見の違い」がある。 現場で戦う兵士たちのために、いまはたかがユダヤ人の命のことをあげつらって彼ら兵士や兵士の母親の苦しみを増やすわけにはいかない、と懸命におもいつめる若いベルリン大学の学生と、棒杭のようになった収容所のユダヤ人の死体の山の下から、突き出されている枯れ枝のような腕がかすかに動いたのを見て、バカ声をあげて、「生きている、この子供は生きているぞ!手を貸してくれ! 畜生、ドイツ人の野郎、皆殺しにしてやる!」と悪魔そのままの表情で叫んだブルックリン生まれの兵士ほどの「意見の違い」がある。 神は悪魔にどこまでも似ている。 悪魔が神とうりふたつなように。 冷静でいたまえ。 冷静に、 世界は静かになっていって、 やがて死んで行くフクシマの子供達の魂を慰めてゆくだろう。 冷静に、 日本人たちは、黙祷をささげ、 まるで、そうなることを知らなかったかのように泣くだろう。 ふくしまの こどもたち やすらかに ねむってください。 あやまちは もう にどと くりかえしませんから 2 ガリシアに、もう一週間ほどいることにした。 Santiago de Compostelaはいればいるほど居心地のよい町であって、どうしていままで来てみたことがない(正確にはチビチビなときに来たことがあるらしいが、おぼえておらん)のか不思議なほどです。 モニが「ガメは、きっと好きだから行ってみよう。ひと晩どまりでもいいではないか」というので来てみたのだが、夫をみること妻にしくはなし、とても良い町です。 むかし、旅先で親切にされるなんて凡庸でくだらない、行き先ざきで土地の人間と尖鋭に対立してこそ真の旅行者である、あなたのように土地の人間と仲良くなってしまうぬるま湯のような旅など軽蔑されるべきである、とこのブログにわざわざ言いに来た面白いひとがいたが、わしは親切なひとびとと酒をのみながら、くだらない話をながながとして、けっけっけ、と笑いながらすごす夜の凡庸さが好きなので、くだらなくても、土地のひとが親切なほうが楽でよろしい。 耳に心地の良いガリシア訛で、ただ「オラ!」というかわりに、「オラ!ブエノス・タルデス」と挨拶する。 窓から首を出して通りを眺めているおばちゃんに、帽子をとって、「ブエノス・タルデス」と挨拶すると、腕を広げて、「ブエノス・タルデス」、今日は風が暖かくて心地よくてとても良い日だわねえ、とゆって挨拶します。(ガリシアは最高気温23度くらいで、クソあつい町からやってきたフランス人たちは寒がってふるえている。わしは快適だが) わしも、ほんとうです、なんという穏やかな午後でしょう、とゆって返答する。 おばちゃんの話し方には、人間の会話が音楽であったころの名残が残っている。 去年は「聖なる年」でさぞかし巡礼が多かっただろうが、今年も、たくさん杖をもった巡礼者がいる。 … Continue reading

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Hondarribia

1 昨日は築1130年のホテルのてっぺんの部屋で夜中にモニと「ふたりパーティ」をやっているあいだじゅうSa Dingding http://t.co/7nhqrMv を聴いていたので今日は頭のなかでチベット僧たちがマントラを唱える声が消えない。 ついでに自分でもシャワーを浴びながらマントラを唱えていたらモニに怒られてもうた。 ひさしぶりにジョニー・ウインターの顔を見ようとおもって立ち寄った Hondarribiaがすっかり楽しくなってしまって結局週末をここで過ごすことになってしまった。 夜の12時に始まったジョニー・ウインターの野外コンサートは、どこでもここでも灼熱のクソ夏であるというのに、この町だけは気温が12度くらいに下がって、寒いのが苦手なバスク人やスペイン人には寒すぎたようであった。 北海体質のわしはショーツとフリップフロップでへらへらしてたんだけどね。 テキサン・ブルースなのに素面で聴くわけにはいかないので、ちゃんとバーボンをもっていった。 瓶からラッパ飲みしながら、踊り狂っていても、スペインですもん、全然、怒られません。 兄ウインターおやじは、長年の不健康な生活が祟ったのか、もっと深刻な理由があるのか、67歳なのに腰が抜けてしまっておって、座ったきりだったが、ギターの腕は衰えておらなかった。声は、むかしに較べても声量が落ちた。 大画面に顔のアップが写ると、焦点が全然あってない眼は相変わらずであって、その上に年よりになってしまったので、なんだかビートたけしがふざけてジョニー・ウインターを演じているように見えなくもなかったが、でも、わしはこのブログにも何回か書いたように「夜更けのキチガイ兄弟」ウインター・ブラザースが大好きなので、ジョニー・ウインターがくたばっちまう前にもう一回みられただけでダイシアワセでした。 昼間に仲良くなったピンチョスバーのにーちゃんたちカップルと4人で思い切り盛り上がって遊びました。 ははは。楽しい。 次の日、すなわち金曜日の夜は、バカラオさんのピルピルソース(bacalao al pil-pil)(塩だらのピルピルソース)、アサリの雑炊(arros con almejas)を食べに下町におりていった。 カバの選択を誤って、がまんしきれなくて途中でぶち捨てて、モニさんに白ワインをえらびなおしてもらってガメはわがままだとゆって怒られたが、バカラオさんにありつくのはひさしぶりだったので、途方もなく機嫌がよくなりました。 観光客が大半宿に引き揚げたあとの夜中の通りにはバスク人たちがあふれかえって、カボチャにもならずに舗道をスクーターでぶっとばして歩くチビガキどもや、樽を囲んで大声で笑っている男達が絵として非現実的である。 まるで長いあいだ戦場で有り続けたこの町の石畳の隙間から湧きだした亡霊達がいっせいに立ち現れてつかのまの休息を楽しんでいるようである。 大陸欧州の町は、ひしめきあうように人があふれて、皆が酔っ払う時間になっても、「音」が悪くならない。 マンハッタンのような金属的なような安っぽい嫌な声が聞こえてこない。 男も女も、太いが低い声で、まるで共同して週末の夜の広場のための音の建築に参加しているかのようで素晴らしい。 初めの夜、午前3時だかにホテルに帰ってきたらホテルの正面鉄扉が閉まっていたので、ノッカーを叩いてホテルのひとに開けてもらった。 そのときに女の受付のひとが怯えた顔をしているように見えたので、「ぬはは、ダイジョーブ。この城の主人の騎士が帰ってきたわけではない」と冗談をゆったら、微笑もうとしている顔がひきつっていて、あまつさえ、隣に控えおる、おっちゃんもヒキツケを起こしそうな顔をしているので、もしかしたら、客がくるはずのない時刻であるのをよいことに、 鉛筆でゆえば2Hなことをしていたのだろーか、と思ったが、 次の朝、モニがフランス人向けのガイドブックを読んで、この城ホテルには中世の騎士の亡霊が出るという根強い噂があるのを発見したのでした。 そーだったのか。 悪いことをしてしまった。 鎧戸を開けて、窓の桟に腰掛けて、城のてっぺんの部屋から湾の向こうに広がる大西洋を眺めると、おおきな波も色もうねり方も地中海とは全然別で、オークランドの家が懐かしくなってしまう。 2 この町は、もしかすると日本では何かで有名なのか、中国の人やインドの人、あるいは韓国の人もアジアの人はまったく見かけないのに、日本のひとだけは二日に渉ってみかけた。日本のひとはマジメなので、夜ふけの下町などではもちろん大通りにも出かけてはこないが、城ホテルにも≈ロビーに√グループがたむろしていたし、次ぎの日にも、坂道をかけおりてゆくふたり連れの若い女びとの話している言葉が日本語であった。 日本語をずっと聞いていないので、何をゆっているのか、もう瞬間的であると聞き取れなくなってしまったが、確かに日本語で、あんなに楽しそうにしているんだから、もう日本に帰らなくてもいいのに、と考えてもうた。 スペインらしい、というべきか、この町は実は町の後背にあたる高台に住宅地があって、そこに3つの連続したエスカレータで上がるようになっている。 モニとわしは、煙草を喫いくるっている5人組のバスクおやじを避けて、しばらく待ってやりすごしてから、エスカレータに乗って高台の公園に行った。 大西洋はモニにもわしにも見慣れた海なので、眺めていると、なんとなく寂しい気持がしてくる。 … Continue reading

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ビルバオへの道

バスクのフランス国境から歩いても行けるくらい近い町にいる。 コモ湖から1500キロだが、神速はわしの特徴である、なんちて。 窓から見ているとダムバスターみたいな飛び方で双発ジェット機が海面をなめるような低空を飛んで突っ込んでくるが、それは空港がそばにあるからです。 空港といえば、ピレネーの山の中をエメンタールとハムのサンドイッチをかじりながら追い越し車線を内緒な速度で神速していたらモニが「ガメ、あの飛行機、あんなにゆっくり飛んで何しているのだろう?」というので、指さす方を見ながらトラックを追い抜いていたら、もう少しで激突するところだった。 フランス人たちは干し草を移動するのにカバーをしないままトラックで移動するので、激突したら干し草が飛び散ってさぞかしかっこよかったと思うが、シトロンの接近センサーがピーーーーーとひきつけでも起こしたようになっただけですみました。 失速寸前の速度で、ゆっくりゆっくり高度200メートルくらいの低空を旋回するC4からは、人間が次々に飛び降りてあっというまに6個の落下傘がひらいて、低空からの標的降下練習をしているもののようであった。 スウェーデンに行くつもりだったが、やめた。 フルが流行っているちゅうので、あんなクソ退屈なところで風邪をひいて寝込んだらやだもんね、と考えました。 お菓子がおいしい国なので、いいかなああーと思ったが、また今度にすることにした。 コモ湖の外れの村から700キロ。昨日はニームの郊外にあるむかしの農園主の家を改造したホテルに一泊して、サーモンのテリーヌから始まってフランス人の料理らしい複雑な構成のソースがかかったフランス式の焼き鳥(シェフが日本に行ってベンキョーしたきたそーだ)を食べた。赤ワインを一本とロゼを半分飲んでモニとふたりでちべたい水が気持いいプールで泳ぎました。 天気が34度で湿気付きだったからな。 娘が大阪に用事があって出かけるので放射能が心配な受付のおばちゃんも、こんなクソ天気は早く終わってもらいたい、と嘆いておった。 フランスは、前にも述べたようにクルマでフーコーがメイビーな、風光明媚の、田舎道をクルマで神速しながら移動してまわるために出来ている。 「ミシュラン」というタイヤの会社がつくったガイドブックは、フランス人が世界一の休暇ドライブ国民だから存在するのです。 そこいらじゅうで妍を競っている三つ星から三つ星へ渡り歩いて、食事がおいしかった料理屋や見るからにカッチョイイ建物と庭のたたずまいの門のなかへクルマを乗り入れて、宿はあるかのお、と訊いて歩くのが最も安全だが、英語なんか金輪際話さない、と顔に書いてある頑固ばーちゃんがやっている、蒸し暑い空気を天井の扇風機がぶんぶんかきまわいているようなバーがある、二つ星のホテルにも途方もなくカッチョイイホテルがあります。 そーゆーホテルのおばちゃんやねーちんは著しくプロ意識に欠けておるので、 あーあぢーと思いながらシャンパンを飲んでおると、一緒に飲むべ、とゆってカウンタに肘をついて飲みながら相手をしてくれる。 客が来ても、酔っ払ってくると、めんどくさそーに追い返したりする。 フランス語を話さないよーなメンドーな客はお断りである。 なまっているフランス語の客はもっとカンに触るよーである。 どーしよーもない、というべきだが、わしはいつでもどーしよーもない人が好きなのです。 客室はボロイが広い。 中庭には、ホテル全体と釣り合いがとれない、(花に囲まれた)豪勢なデカイプールがあったりする。 夕食のメニューないの?と訊くと、 はっはっは、と笑って、ラムのカバブなら、わたしが作ってあげるよ、といったりする。 本来四つ星のホテルなのに、経営者、すなわちおばちゃんがやる気が全然ないので二つ星なのが判ります。 二つ星ホテル、というのは、このアンバランスな所が魅力である。 それ以下でももちろん良いホテルはあるが、もとから知っているホテルであるか、僥倖というものが必要であると思う。 むかしは、そういう大陸のホテルのバーの昼下がりに、冷房くらい買ってつけろよクソジジイと思いながら、酒を飲んでいると、そのクソジジイが突然おもいついてかけたモロッコの曲がかかって、その見知らぬ強烈にもの悲しい旋律に涙がこぼれたりしたものだった。 閑話休題。 町外れのピンチョスバーで、(ピンチョスという食べ物はバスク人の発明なので、あたりまえだが)この世で最もうまいと思われるピンチョスを6個大皿に載っけて、ビノ・ティント・デラ・カサを一杯、「もうちょっと多めにいれてね」とゆっていっぱいついでもらったのを、おっとっとと思いながらテーブルにもっていて食べる。 きみ、バスクでピンチョス食べたことありますか? あれば、判るはずである。 なければ、はっはっは、けっけっけ、ぷいぷいぷいのぷい、この上なく気の毒である。 パンにペーストやハムやチーズを載っけただけなのに、なんでこんなにうまいんだ?と いろいろなひとが悩むが、あんまりうまいので、すぐ悩むのをやめて、うっとりするほうに専念します。 ピンチョスのつけあわせの、オリーブ油にどっぷりつかって、白アンチョビさんが悩ましい身を横たえているのはバルセロナと同じだが、なにしろ、社交クラブで、いーとしこいたおっちゃんたちが毎週末には、一週間考え抜いたレシピで料理をつくって、「どーだ、うまいだろ。意外な味だろ−。驚いたか」と料理の腕比べをするというアンポンタンな(あ、失礼しました。モニさんのゆいかたに変更すると「かわゆい」)土地柄である。 そのアンチョビさんの白いなめらかな肌に、生ニンニクやみじん切りのペッパー、白タマネギ、ちゅうようなもんがどっちゃり載っておる。 マオリ人たちのボートによく似た伝統的スタイルボートを漕ぐガキどもが夏の空によくひびく声で、これも伝統にしたがった歌のようなかけ声をかけあっておる。 石畳の坂道では、赤ちゃんのバギーを手で押さえた若い母親がものうげに煙草をふかしている。 … Continue reading

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ばらばらな頭が考えたこと

1 夜中の北イタリアの田舎道(というよりもスイスとイタリアの国境地帯)を歩くと、まるで現実も夢も古代も中世も現代も区別がなくなってゆくようである。 両親の友人のアイルランド人のジョンさんが、コモ湖の夏の別荘に到着してモニとわしに会いたがっているというので、めんどくせー、なんでとーちゃんとかーちゃんの友達にわしが敬意を表さねばならんのだ、自分で行け自分で、とぶつくさ悪態をつきながら出かけました。 (いつものことだが)さんざん文句をゆっておきながら最も楽しむのはわしであって、ジョンさんとモニとわしはジョンさんの中世の穀物倉を改造した母屋を中心とした別荘での楽しい夜を過ごした。 アイルランド特有の、あの無茶苦茶カッチョイイ「顔ガーゴイル」を、気味が悪いから、という理由で取り外したらひと夏のあいだに家族6人が皆死んでしまった気の毒なアメリカ人たちの話や、「黒い豹」、デッドパン。 わしらがもっていったロゼ、わし同様モニに教えてもらうまでは知らなかったケーベツしていたロゼがいつのまにか新しいワインメーカー達によって改良されて、おいしい飲み物に生まれ変わったことにぶっくらこいちまったジョンさん(妹とわしは、むかしジョンさんを顔が教科書の聖王ジョンに似ているので、よくふざけて「聖王ジョン」と呼んだものだった)が、すっかり舞い上がって次から次に開けるおいしいワインに酔っ払って、アイルランドの歌を歌い狂って遊び終わる頃には、とっくに午前2時になっていた。 わしが目の前で広げて見せた両手の指が20本に見えているくせに、クルマで送って行くという聖王ジョンの申し出を遮ってモニとわしはボート着き場でゆってふたつ先のわしらの家まで歩いて帰りました。 シンと静まりかえった径。わしがあの懐かしい深夜の野辺山を思い出して涙ぐんでしまったり、ふたりとも空一面の星に見とれて動けなくなってしまったり、中世からそこにある蛇口の水をかぶってフラッシュダンスのマネをしたらモニが笑い死にしそうになって笑いがとまらない病気の人のようになってしまったり、開いている訳のない教会の扉が開いていて、なかをふたりで覘きこんだら、例の十字架に釘止めされたマヌケな格好でキリストが磔になった姿が蠟燭(?)の光に浮き出すように照らし出されていて、ふたりで慌てて跪いて祈ったりしながら帰ってきた。 石を敷き詰めた(両側を壁に挟まれた)細い径を、そんな時間に帰ってくると、まるで異次元を通って帰ってきたひとのように気持になります。 まるで、モニとわしも(もののけ)になったようだ。 こんなことばかり毎日続けていれば、モニもわしもマジで精霊に変化(へんげ)して、暗闇坂やアッシジ坂の妖怪たちと呼応して、人間達に「不完全な知性」というものの儚さを伝えることができるだろうか。 2 湖畔のレストランで、南イタリア人の家族が夕食を食べている。 子供がボロネーゼを食べているのを見て、わしはぶっくらこいてしまいます。 アングロサクソンの家族ではありえない、とゆったらモニがびっくりしていたから、フランス人もあるいは、子供に甘いのかも知れないが、子供が、スパゲティボロネーズなんてテーブルを汚しそうな食べ物を食べさせてもらえるなんて、ありえねーよ。 それはともかく、しばらくしたら、綺麗な姿のひとであって、子供が物心ついたら誇りに思いそうな若いおかーさんが、子供の耳に口をつけて何事かささやいている。 子供がおかーさんに、耳元に口をつけて囁き返しておる。 ところが、今度はおかーさんが浅黒い肌の眉の濃いハンサムとーちゃんの耳に唇を寄せて何事か囁いてる。 3人で、いつまでたっても、囁きを伝達してます。 なんだか、見ていて、うっとりしてしまった。 他人が見ているだけでも楽しくなってしまう。 イタリアガキは幸せだのお、と思いました。 いや、もちろん、ガキわしの頃はわしらもわしらのやり方で幸せだったが、 イタリアガキは、かーちゃんとの結びつきがダントツで強いようである。 まるで存在がかーちゃんの部分であるかのよーである。 アメリカ心理学のスタンダードに照らせば完全に強度のマザコンである。 だから、良いとか悪い、とかゆっているのではないのです。 アメリカ科学の基準ではフランス人とスペイン人は大半アル中である。 同じ基準に照らしてイタリア人が大半マザコンであっても、それはただアメリカ人のつくった文明がキチガイの文明であることを証明しているのに過ぎないかもしれないでしょう? 少なくともわしら西洋世界の住人のすべての文明の母親であって父親であるイタリア人たちは、わしら北海の野蛮な太陽の母上の光の下で育った文明の受容者とは違う、もっと、なんちゆえば良いか、「実質的」な文明の継承者たちである。 わしは、正直に告白すると、わしらの同類であるとかアメリカ人たちや、あるいはドイツ人や日本人が、イタリア人について軽口を利いているのをみると、カッとすることがある。 何をエラソーに、と思ってしまう。 わしの頭の中ではイタリア人がつくった文明こそが真の文明であって、それに匹敵するものがあるとすれば、チグリスとユーフラテスにはぐくまれて、いまだに世界の中心の原子炉の火のように燃えさかっている中東人たちの文明と、ナイルに生じて滅び去った文明、あるいはもっと暖かだった頃の黄河流域に発生した文明だけであって、それ以外の地域の「自称文明」など小賢しいだけで一顧だに価しないのではないか、あるいは、そう思って緊張していなければいけないに決まっているのに、まるで、自分達が、たかだかケーハクな「生産性」のアホ理屈を盲信して、イタリア人を冷笑するような意見を述べるなどは笑止としかいいようがない。 いまはイタリア人についておもいあがりもはなはだしい冗談を述べているあなた方自身の文明は、この先どこまでもつだろうかと、つい嫌味のひとつも述べたくなります。 コモ湖の周りなどは、「イタリア」と呼んでいいかどうか判らないほど「汎欧州的」な土地柄であって、あのデザインの洪水のようなインテリアも過剰の極に平衡点があるのだとバイロン卿に教えた狂気に最も近い美の感覚もない。 いわばイタリアのなかで最もイタリアから遠い土地柄だが、それでもここもやはりイタリアの文明圏の内なのだと思う事がたくさんある。 英語では書いたが、そのうち日本語でも書くかも知れまへん。 3 ボートが行き来する湖面が遠くに見えるこの新しく手に入れた「山の家」は多分、去年までの軽井沢の「山の家」の役割を引き継ぐことになると思うが、明日は出立しなければならない。 ここからスイスをつっきって、ドイツ、オランダ、スウェーデンという「ど退屈3兄弟国」に向かうつもりだったが、ドイツは食中毒スウェーデンはフル、オランダは二重人格病というそれぞれ恐ろしい流行病が流行っているので、リヨンに方角を変えて、モニかーちゃんゆかりの荘園を訊ねながら、バスクにでもいくべ、と考えました。 … Continue reading

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東京

このブログは、そのときどきのいろいろな理由で固有名詞にさしかかるとやたらと曖昧な書き方になっている。そういう部分は自分では将来相当頭がぼけてきても判るように書いてあるが、一方では、その場所やひとについてあらかじめ知っているひとなら、「あ、あれのことか」と別段推理しなくても判るように書いてあります。 推理できる、というようなものでなくて、簡単に露骨に判る書き方をしてある。 たとえば、もう固有名詞が判っても差し障りがなくなったものから探していうと「電気ビルの20階」と出てきたり、有楽町の駅を俯瞰する画像がついている記事で日比谷で最も高いビルのてっぺんというような書き方をしてあるのは、「外国人特派員協会」のバーで友達と会った、ということで、わし自身は会員にならないですませてしまったが、ここの会員の友達が数人いた(いまはもう彼らも日本にいない)ので、「安い」という理由でときどきここで待ち合わせた。 以前の記事を読みかえしてみると、よく出てくるように、わしは銀座で酔っ払って広尾山に帰るのがめんどくさくなって帝国ホテルで寝る、というパターンが多かったが、(大きな理由のひとつは帝国ホテルの朝ご飯は、ハーフボトルシャンペン付きのがあって、オムレツがたいへんうまかったので誘惑につい負けてしまう、ということもあった)、外国人特派員協会のバーは、あのいかにも日本式のサービスが徹底した気持のよいホテルから歩いて3分くらいであって、この3分、というのは夏には、というのは5月から9月の終わりまでは、モニとわしが日本で外で歩ける限界であったという理由もあります。 帝国ホテルなんて、ぜーたくな、というひともいるだろうが、ホテルのひとからするとあんまり外でゆわないでね、という感じがしなくもなかったが書いてしまうと、帝国ホテルには外国人に限定した会員制度(日本人がターゲットのものとは内容が別で無料)があって、安かった、ということもある。 面白がって外国人特派員協会の目の前に出来たペニンシャラホテルにも泊まったりしたが、矢鱈めったらハイテクな室内は楽しいがサービスが固くてしゃっちょこばっているのと、建物が小さすぎて設備全体が窮屈なので、すぐに泊まらなくなりました。 六本木、というようなところは用事があれば近いので出かけることもあったが、モニもわしも「全体が田舎くさくてやだ」と思っていたのであんまり行かなかった。 もうひとつ幽かな記憶を辿ると、ガキわしが日本を訪問して従兄弟と自転車で疾走していた頃に較べて、全体に新宿ぽい、というかセックス産業の臭いがぷんぷんしてやりきれないというか、カメルーン人のぽん引きおっちゃんたちがうらぶれていてわびしげである、というかで、 「すさまじい」感じのする街に毎年毎年なっていったような気がします。 だから、だいたい根津美術館の脇の坂を抜けて、青山へ行くことのほうがずっと多かった。 あの坂を通る度に、霞町の交差点から根津美術館に至るまでの左側が田宮虎彦の小説に出てくるスラム街であった、ということを思い出す。 いちどおもいついて、霞町からあまり遠くない学校に6年間かよっていた義理叔父に訊いてみると、義理叔父が中学生の頃は、まだボロイ長屋が並んでいて、ねんねこに赤ちゃんをおぶったおばちゃんが、いかにも生活に疲れた顔で手で洗濯板を使って洗濯をしていたりするのが見えたそーである。 当時は「霞町」と言えば、交差点をはさんで斜向かいのオカネモチのお屋敷町、笄町と好対照の貧乏イメージだったそうで、それがいまのようにカッコイイ町の代名詞になったのは田中康夫というひとが霞町と笄町や龍土町を混同して、ぜんぶいっしょくたにして小説に書いてからなのよ、と「オーミ茶房」という義理叔父が中学生の分際でよく行ったらしい、わしが訪問してみたらいまではとうのむかしになくなってしまったコーヒー屋の話とともによく話してくれたものだった。 ついでにいうともう一軒チューガクセイ義理叔父がよく出かけたという仙台坂の「茉莉花」というコーヒー屋は、訪問してぶっとんだことには、まだ韓国大使館の前の同じ場所にあって、なかにはいっては見なかったが、仙台坂を散歩する度に、義理叔父はいまはマジメそうなふりを装っているが、ほんとうはつくづく生まれついての不良であって、叔父がいないところでは叔父自身の母親も含めて親戚中のひとが声を潜めて話し合う、あんなに頭がわるいのではトーダイに裏口ではいったに違いないというあの噂は、やはり真実の噂だったのだなあ、としみじみと考えたものでした。 いくら日本の入試問題が杜撰だとゆっても、寿限無を「スシゲンム」と読んで、外国人であるわしに嘲笑のバカ笑いをされたことすらあるあのおっさんが筆記試験で合格したりするわけがない。 そう言えば、あの霞町の坂を高樹町へあがっていったところには、「アントニオ」というあまり人気のないレストランがあるが、そこはむかし義理叔父の気に入りのレストランであって、あとでは横浜の支店のほうにしかいかなくなったようだが、子供の頃はよくでかけたそーである。 「むかしは、もっと霞町の交差点よりにあったんだよ」という。 「木造の一軒家だった」 カレーはまったく日本式なのに、クソ辛いカレーご飯を出すので有名な麹町のアジャンタも、叔父が中学生の頃は、九段下のグランドホテルの脇の坂をあがったところの、やはり木造一軒家だったそーで、歌舞伎座の前の竹葉亭も木造の、葭簀がかかった木造一軒家、というふうに聞いていると、なんだか、どうしてもタイムスリップしてむかしの東京を眺めてみたくなってしまう。 もっと唖然としたことには、表参道は原宿駅を背にして左側の石垣の上は全部個人の住宅であったそうで、叔父はよく自転車で原宿駅のまん前にあった、これもボロイ木造の一軒家「おばあさんと猫がやっている駅前定食屋」で200円の玉子丼を食べて、「気をつけていってらっしゃいよ」というばーちゃんの声に送られながら、キディランドめざして全速力で坂を下りていったものだそーである。 その頃は「明治通りと表参道の交差点にセントラルアパートというアパートがあって、一階にレオンというコーヒー屋があってね」 近くのブリジストンの社宅に住んでいた鳥居坂にある女子中学に通っていたガールフレンドとそこでよく待ち合わせをしたのだそーだった。 なんという、ませたガキでしょう。 むかしの東京の話を聞きたいので、義理叔父によく昔話をせがんだが、自分で頼んでおきながら頭にくるのは、どう聞いてもむかしの東京のほうがわしの知っている東京よりもカッチョイイことであって、不愉快というか、なんだそれは、というか都会の癖にあっというまに巨大田舎町になりさがっていいと思っとるのか、ボケ、と腹が立ってしまう。 もっとも、日本を訪問した最後のほうであった60年代の終わりから東京に住んでいるドイツ人のばーちゃんは、「わたしは日本が好きだけど、東京が、あなたの義理の叔父さんがおっっしゃるように文明的だったことは一度もないわよ」とゆっていたので、どうも義理叔父の話には美化があるようだ。 「三丁目の夕日」みたいなものだろーか。 わしが、か、かっこいい、と思った東京の嚆矢は、(やった「嚆矢」使った)「きみの名は」という映画だったと思うが、60年代か50年代の映画のなかで岸恵子というおばちゃんが数寄屋橋から木挽町(多分)までボートでデートしてゆくところで、か、かっこええやん、と思ってコーフンした。 そうやってすっかりコーフンして調べてみると、義理叔父が日本に興味をもちだしたばかりの異国人の甥を羨ましがらせたい一心で美化に美化を重ねてビカビカにして話してきかせる東京の姿よりも、オリンピックの前の東京はもっとかっこよかったようである。 もっとも、これも、義理叔父かーちゃん、すなわち鎌倉ばーちゃんに訊ねてみると、 「ガメちゃんが、そう言ってくれるのは嬉しいけど、さあ、どうかしらねえ。 わたしが子供のときの東京でおぼえていることと言ったら、舗装されていない道の砂埃くらいかしらねえ」ということであった。 でも有楽町にジャーマンベーカリーという店があってね、という。 学校の帰りにお友達たちと、こっそり、寄ったものでした。 えっ? いやいや、みんな制服のままなのよ。 そういうおおらかなところは、あったわねえ、となつかしそうである。 上品で常識があるばーちゃんだとばかり思っていたのに、ほんとうは不良少女だったなんて、ショックである。 人間には、どんな裏の歴史があるかわからんものだと学習しました。 (ばーちゃんが、まさか、このブログに行き当たるとは思えないが、万が一、発見した場合に備えて申し上げておきます。冗談、だからね。不良、なんちて、冗談なんです。 ばーちゃんの息子さんと違って、ばーちゃんがむかしからひたすらマジメな方であるのは、よく存じ上げておりまする) むかし、モニとふたりで東京の下町をうろうろしていた頃 … Continue reading

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コモ、こもごも

おコモさん暮らし三日目。 むかし、かーちゃんとーちゃんと一緒に来たときは、こんなクソ退屈なところに連れてきやがって、ば、ばかやろー、マクドがねーじゃねーかマクドが、第一なんでガキ妹のイタリア語がわしより遙かにうまいんじゃ、ばかたれめが、と思ったものであったが、自分が成熟して穏和で立派な非の打ち所のないよき夫であるオトナになってみると、コモ湖はよいところである。 見直しました。 このあいだ来たのは、えーと、と思ってこのブログをひっくり返してみると、モニとわしの結婚式の直前である。 自分にしかわからねーように書いてあるんだけどね。 今日は湖をわたる風が涼しくて、空気もさらさらしておって、たいへんよろしい。 このくらいなら途中で挫折しないで夕方までやっているマーケットにまで歩いてたどり着けるのではあるまいか。 涼しいとゆっても日差しは強烈なので、ニューヨークで買ったコロンビア人の作った麦わら帽子をかぶってゆこう。 コモで今頃うろうろしているひとびとはどういうひとびとであるかというと、たとえば、知り合いの、もう少し正確にいうとかーちゃんととーちゃんの知り合いのホテルに朝食を食べにいくと、隣のテーブルはフランス人のカップルです。 そのまた隣はアメリカ人の若夫婦。 チビ子供がむずかって、すまんすまんとゆっているおっちゃんと育児疲れでコモに来た、と顔に書いてある若いおかーさんと、なんとも表現できないほど透明な美しい色の強い青い色の眼をした12歳くらいの娘の一家はスイス人、 筋肉マンでサングラスをデコにずりあげる仕草が口を開くまえからもう、「おれはオーストラリア人だぜ」とゆっているにーちゃんと、キャノンの一眼レフで湖の写真を撮りまくっているねーちゃんのふたり連れはオーストラリア人である。 テラスで食事をしているひとがみな違う国のひとであって見事なくらいです。 ひと組だけいるイタリア人夫婦のほうが、気の毒に、なんだか小さくなっておる(注) もともとは欧州人ばかりの避暑地だったが、 ジョージ・クルーニーが別荘をもつようになってから、ハリウッド・スターたちが続々夏の家をもつようになって、それにつられてアメリカ人が増えた。 イタリアはレンタカーがクソ高いので、小さなクルマしか借りられない上に、マニュアル車しかねーので、アメリカ人は坂の多い町で、くろーしておる。 「や、では、またこのヘンのどこかで会いましょう」とゆってさっそうとクルマに乗り込み、エンジンをかけて駐車場の坂をのぼって出て行く途中で「グギャッ、ギッ」とかギアが歯ぎしりするような音を立てて止まってエンジンをかけ直したりする。 「か、かっこわるい」と思って照れ隠しにモニとわしに手をふった途端に今度はクルマが後退を始めてパニクってておる(^^) これは、どの国のひとかなあー、と思うのは、こういう土地での楽しみのひとつでもあって、いま述べたレンタカーで恐慌状態に陥っていたひとは、もう初めの30秒でテネシー辺りのひとだ、と判った。 話してみると、案の定、ナッシュビルの夫婦だった。 英語人は情けないもので、連合王国人は「あっ、このカップルは女の子は上流階級だが男の子はそうでないのだな」とかくだらないことまで一瞬で気づかされる。 余計なことを考えてしまう。 アジアのひとはひと組だけインド人の家族を見かけたのと、日本人の団体客をみかけただけだったが、しかし、どう記憶をたぐってみてもガキわしの頃はアジアのひとはまったく見る可能性も感じられないところだったので、それだけ国際的になった、ということだろうか。 イタリア人とスペイン人は水辺の開発がたいへん上手である。 フランス人とは雲泥の差がある。 湖尻のコモという町自体は、たしかジュリアス・シーザーが一帯の防衛のために湖畔に散在する集落を統合して城塞都市をつくったのが起源だったはずで、コモに行けばちゃんと広場にドゥオモもあります。 モニとわしは、わしがベルトを力をいれて締めたらバックルがちぎれてもうた、というアホな用事で、というのは、たしかベラージオにベルトを売ってるところがあったはずである、という用事でベラージオにはやむなく出かけたが、普段は店がたくさんあるようなところにはいきません。 湖畔いったいに網の目のように広がる、ところどころにカッチョイイ公共水道がある、両側の高い建物の壁にはさまれた細い狭い道をとおって、あちこちに歩いてでかける。 少し遠くまでいくときはボートで行きます。 クルマは、ゲートからはいったところに置き去りになっている。 「ミカド」という名前で売っているポッキーをクルマのシートに置き忘れていたのを酔っ払った弾みに思い出して、甘い物がつきたのであれを食べよう、と考えてクルマからもってきたら、置きっぱなしの車内にこもった熱でミカドさまは儚くなっておられた。 帝王(ミカド)の宿命、というものをしみじみ考えました。 コモのよいところは、小さな村の食堂に至るまで、何もかもがどこか上品なことであって、イタリアの家ならどこでもある野菜畑も、 とここまで書いて思いだしたがすべりひゆどんに、あのトマトを育てる、なんちゅうの? 棒か?苗をからませるために立ててあるもののてっぺんに緑色の瓶を逆さにさしてあるのはなぜだ? モニは、ああすると雨が棒の根元に集中して倒れてしまうのがふせげるのであろう、とゆいう。 わしの推測は、太陽が瓶にあたると、緑色の光は意外に遠くまで反射して、コモ湖の上空に現れるので有名なUFOの外銀河聖人たちが、どこにトマトがあるか判りやすいのだろう、というものですが、正しいのはどっちか教えて下さい。 すべりひゆ以外のみなさん、失礼しました。本文に戻ると、 イタリアの家ならどこでもある野菜畑も、なんとなくタイディであって、なっているカボチャまで上品です、というのは冗談だが、 … Continue reading

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顔ガリレオ(@wiredgalileo どん)との対話

わしは、まだ、おコモさんをしている。 きみが関西人でない場合、ひょっとすると意味がわからないかもしれないので、念のために解説しておくと、「おこもさん」というのは「お乞食さん」と同じ意味です。 コモに行く、と決めてからずっと、どうやってこの駄洒落を使うのが効果的か考えていたが、うまく思いつかなかった。 夕食を前にしても、この思いつきに熱中してうわの空であって、パン皿にオリブオイルをいれるべきところをワインをいれてしまったりした。 モーターボートに乗っているときなどに、この抜群の駄洒落集中力を発揮してしまうのは極めて危険なので、効果をあきらめてここに記しておきます。 コモ湖でおコモさん。 もったいない使い方をしてしまった。 コモの家のよいところのひとつは「音」であって、少し先にある家から聞こえてくるガキ共が芝生を走り回る声、さまざまな鳥の声、湖から聞こえてくるモーターボートや水上飛行機の遠いエンジン音、近所のひとたちのイタリア語の笑い合う声、そういうものが全体となってつくる音がまるくてやわらかで、素晴らしい。 テラスで水を飲みながら、ぼんやり湖面を隔てた対岸の山(コモは湖面が大変に狭い湖です)の緑を見ていると、ゆたかな午後の音が聞こえてきて、秋までいちゃおうかなあー という気にさせられてしまう。 先の楽しみにとっておいて、ちゃんと出発しますけどね。 こんなに穏やかでリラックスできる土地が他にあるだろうか。 閑話休題。 フィレンツエのはしっこの丘をのんびり上がって、日本人の女のひとが忙しく立ち働いている(フィレンツエは若い日本人がたくさん働いている町です。靴職人などは三分の一が日本人だそーである)Enotecaの脇をあがって、やっとこどっこいと坂をやっこらせと歩いてゆくと右側にガリレオ・ガリレイが生まれた家がある。 わしはどこかの町にでかけたからといって、有名人の家を見に行く趣味はないが、ガリレオは自覚的な「科学」という考えはもたなかったものの、数学という言葉で自然の現象を説明する遊びにとりつかれて、当時の人間としてはびっくりするくらい神に近づいたひとだった、そのことに敬意を表して見に行くことにしたのでした。 「見に行った」とゆっても、モニとふたりで下のエノテカでワインを飲んでから、坂をのぼって「ここかあー」と思って戻って、またワインを飲んでいただけのことだが。 帰りに、団体でガリレオの家を見に来ていた韓国人らしきおっちゃんが、なぜか英語でイタリア人の女びとのふたりづれに話しかけていた。 おっちゃんにとっては当然のことらしかったが、わしが後ろを歩きながら見ていて驚いたことには、ふたりのうちのひとりは、英語をちゃんと話すひとである。 韓国人のおっちゃんは、つかつかと歩速を上昇させてふたりのイタリア人女衆に近づくと、まるで拡声器がついているようなデッカイ声で、 「きみたち!きみたち!きみたちはピサの斜塔でガリレオが行った有名な実験のことをしっていますか!イタリア人にしては、たいした男だといわねばなるまい!」 突然はなしかけられたイタリアびとは、顔を見合わせていたが、 「知りません」という。 韓国人のおっちゃんは、そりゃああああー、たいへんだ、という勢いで、今度は鼻をふくらませていっそうデカイ声で、 「それは、いけません!イタリア人なのだからイタリア人のエライ人のことを勉強しないと!」 「ガリレオというひとはね!ピザの斜塔にあがって、小さくて軽いのと大きくて重いのと、一緒に落としてみたの!」 「そしたら、どうなったと思いますか?」 気の毒なイタリアびとは、なんだか申し訳なさそうに「わかりません」とこたえておる。 韓国人のおっちゃんは、ブースターがかかったデカイ声で 「一緒に落ちたのだよ!わかった!?」 「重いものも軽いものも、重力の(このへん発音不明)で一緒なの!」 イタリア女衆は、へえ、という顔で、あるいはぶっくらこいて、そそくさと挨拶すると道をそれて歩いてゆく。 わしはおもしれー、と思って眺めておった。 義理叔父がむかしむかし、ガキわしに同じ話をしたことがあって、わしの 「それじゃ、ばかじゃん」という冷厳な反応に遭遇して椅子からこけそうになったことがあった。 だって、おっちゃん、そんな鉄の玉なんかおっことして目測で「同時だ!」なんて、そんな杜撰な科学があるかよ。 「だって、きみ、教科書に書いてあるんだぜ」 「それは多分、教科書が間違っておる。日本の教科書なんじゃね?」 当時からまことににくたらしいガキであったのが忍ばれるのい。 家に帰ってから、ガキわしが調べてみると、実際のガリレオが行ったのは思考実験らしかった。 板の上に大小の鉄球をおいて2度傾ける、5度傾ける、10度、30度、45度、…と傾けてゆくと何れの場合でも2つの鉄球は同時に板の下端に到着するはずである。 … Continue reading

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遠い国に住んでいるふたりの友達への手紙

日本はとても遠い国になってしまった、ということから書き出さないとこの手紙は書いてしまえないように思います。 わしにとって、日本との関わりはいまでは多分「日本語」という言語の機能に限られていて、しかもそれすら「荒地」の同人達から「ドラムカン」の同人達に至る、時間にしていえばたかだか40年に満たない時間に表現された日本語に集中されている、ということを先に述べておかないと、手紙そのものを書き始められないように思いました。 今日の午後は湖の木陰にボートを出して、モニとふたりで寝転んで過ごした。 モニが、あんまり穏やかな天気にうとうとしだして眠ってしまったので、そのあいだを利用して、こっそり、おふたりのメールを読みました。 むかしのひとならラベンダーの香水の匂いがする便せんをひらいて読むところだが、味気のない時代に生きているわしはマンハッタンで買った、iPad2 (^^;) おふたりの手紙を読んで、「暗然」という日本語のクリシェを思い出してしまいました。 日本の社会は放射性物質が安全であると決めてしまったようにみえること、いまはもう「放射性物質は危険だ」というひとのほうが「ヒステリックな人」になっていて、あまつさえ、 「いまの日本で原発事故や放射能が怖いと声を上げることは、こういう「思慮深さ」や「冷静さ」「“前線”で頑張っている人々への気遣い」に対して、ヒステリックで利己的で愚かな行為と見なされる」というところに来ては、 なんだか非現実的な夢を見ているような気がする、という間の抜けた意見を言うのを許してもらわなければなりません。 「放射線の被害よりも放射線を恐れるストレスのほうが有害だ」ということを「証明」したひともいるのだ、そしてそれを信用するひとが実際にいるのだ、と書いてあって、リンクがあっても、まさかそんなバカバカしいものを読む気はしないし、そんな根本的に狂っているとしか思えない記事自体まさか現実に存在するとは思えないが、仮にそれがほんとうにあるのだとすれば、わしに言えることは「日本の社会は、とうとうそこまで来たのか」とうことだけです。 狂気、というものは現実にたくさんのひとびとを手の込んだ痴呆的状態に連れて行けるのだ、という蘇軾の言葉を思い出すしかない。 どんなにいまの日本人が現実でないことを「証明」する手の込んだ方法を思いついても、本当でないことは本当でないし、ちょうど北朝鮮のひとびとに、どんなにあなたがたの生活が悲惨であると言ってみても虚しいのと同じことで、彼らは北朝鮮のひとびとがそうであるように、彼らがいかに正しいか完全無欠な理論で次々に「証明」するに決まっている。 われわれに出来ることは時間の神様が気が遠くなるような彼女のタイミングで、気まぐれに、「本当のこと」を明示してくれる、そのときを待つことだけであると思います。 軽井沢に逼塞していたひとびとが1941年から1945年までをそうして過ごしたように。 反論、というようなことはこの場合意味をもちえないので、どうしても奇論の主を許せないのならば、せめて彼あるいは彼女の行った事を記録しておいて、やがて訪れる「常識が明らかになるとき」を待って彼らにあなたがたが望むやりかたで責任をとらせるしかないと思う。 (フクシマの事では、まず15年はかかるだろうが、わしの知見によれば、今度はチェルノブイリのときと違って因果関係を明らかにする科学的方法自体は確立されるので、そのときになって彼らに言い逃れの道があるとは思っていません) 実際、そのときになって、彼らの賢げな「思いつき」のせいで子供を殺された母親たちが黙っているとは、わしには考えにくいのではあります。 (そう言えば、いま現在の時点の日本でかろうじて正気を保っているのは母親たちだけなのだろうか?わしは「理性」の信奉者なので考えたくないことだが、イタリア人の友人達がいうように母親だけが非常の時には正気を保てるものなのかもしれません。このことはまた時をあらためて考えてみなければ判らない) 日本の政治家が「原発に反対のひとのヒステリックな気持もわかる」と言ったという。 日本語の「ヒステリック」が英語のひどい誤訳であるのを知っていてもなお、(日本語の意味においても)ヒステリック、というような単語が口をついて出るのでは、要するにそのひとは架空な「職業政治家」に人間を捨ててなりきってしまったひとであって、もっと言ってしまえば彼がもっていた人間性などは、観念的に政治家と自己を見なすことによって消しゴムで消すように消してしまえる程度の人間性しかもちあわせていなかったわけで、要するにただそれだけのことなのだと思います。 いま、わしに確実に判っていることは、日本人が「放射性物質は危険でない」と決めた以上、「無害な放射性物質」がディストリビューターが全国に流通させる汚泥や野菜や魚を通じて北海道から沖縄まで流通し、どこをどうつながっているかは何のデータもないので判らない地下水脈をたどって蔓延し、あるいは近海を無害に汚染し、あげくのはてには「無害な放射性物質」は完全に日本を無害に汚染して、日本人全体を無害に内部被曝して、無能で無知で迷信的なガイジンどもは、日本という国を放射性物質や低放射線被曝を世界で初めて無害であると「発見」した歴史的な民族として永遠に記憶するだろう、ということだけである。 むかしからのこのブログの読者であるひとは皆しっている「シャチョー」がこのあいだ電話をかけてきて、「日本人は放射能は危なくないということにしたんだって。ぼくには息子と娘がいるんだ」というなり、まるで獣が咆哮するような声で泣き出して、わしをびっくりさせたが、わしはあくまで迷信家なので、 シャチョーは、えーかげんなことばかりゆっているが、人間としては意外とまともではないか、と考えました。 最後にじゅん爺やむかしはインターネット上の友達だと思っていたこともある、あんとに庵やブブリキが放射性物質が安全だというのをどうおもうか、ということだったが、後者ふたりは、いまはあのふたりのひとに興味もなくて、ツイッタもブログも読まないので、どういう発言をしているのかも、わしには判りません。 何かのときに前にもゆったことがある記憶があるが、わしは、頭のなかのゴミ箱にいれてしまうと、それをひっくり返してみたりはしない。 なんだか日本の人には判りにくいようだが、わしにとっては興味がなくなったものには興味がないわけで、その心持をどんなふうに説明すればよいのかは、わしにはようわからん。 答えようがない。 じゅん爺については、これからじゅん爺の言葉の家に行ってみて、ほんとーだ、ということになれば、残念でも、あの「アミアブル」という言葉がいちばんぴったりくるじゅん爺とも付き合えなくなるでしょう。 そうなら寂しいが、一面、人間の一生というものは付き合ってはいけないものとは付き合ってはいけなくて、遠ざけて、近づけるべきでないのは当然のことであると思う。 邪なものを敵とすることをためらってはいけないのは、どちらかといえば人間の常識に属することなので、寂しくはあってもそれほど悲しむべきこととは思いません。 世の中に敵としなければならないものと「仲良く」することくらい悲惨なことはない。 今日は陽にあたりすぎて疲れてしまった。 顔がサンブロックを塗りたくったのに陽に焼けて酔っ払ってしまったひとのように盛大に真っ赤でカッコワルイ。 家の様子を見て友達に会うだけで北へ向かおうと思っていたが、やはりコモは居心地がいいところで、もう少しここにいることにしました。 この美しい湖を眺めていると、日本のこともやさしい気持で思い出せるのです。 「20年たてば女房とゆっても母親みたいなものだから」とゆって欠けた前歯を剥きだしにして笑うおっちゃんや、「わたしも赤ん坊が欲しいなああー」といいながらお客さんの子供といつまでも「バイバイ、バイバイ」とゆって遊んでいる店員、きゃあきゃあ言いながら桟橋から水に飛び込んでは慌てて、といいたくなるような様子で泳ぎ戻るイタリア人の女の子たち、コモではバスがわりのボートのなかで、「すげえええー、なんて綺麗なところなんだろー。すげー」とゆって窓から窓へ走り回って母親にたしなめられているアメリカ人の子供達。 湖畔にテラスを貼り出したピッツエリアで声を潜めてひそひそと自然の偉大さについて話し合うイギリス人の夫婦。 英語混じりのイタリア語で、いかに料理がおいしかったか伝えようとしているドイツ人のカップル。 イレズミだらけの腕をみせてアメリカ人の野球帽を少し斜めにかぶっているボーイフレンドとテーブルを囲む上流階級のアクセントの女の子。 あの小さなボートにどうやったらこんなにたくさん乗っていたのだろう、と思うくらいバラージオの桟橋に次から次に出てくる日本人グループツーリストのじーちゃんやばーちゃんたち。 … Continue reading

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