顔ガリレオ(@wiredgalileo どん)との対話

わしは、まだ、おコモさんをしている。
きみが関西人でない場合、ひょっとすると意味がわからないかもしれないので、念のために解説しておくと、「おこもさん」というのは「お乞食さん」と同じ意味です。

コモに行く、と決めてからずっと、どうやってこの駄洒落を使うのが効果的か考えていたが、うまく思いつかなかった。
夕食を前にしても、この思いつきに熱中してうわの空であって、パン皿にオリブオイルをいれるべきところをワインをいれてしまったりした。

モーターボートに乗っているときなどに、この抜群の駄洒落集中力を発揮してしまうのは極めて危険なので、効果をあきらめてここに記しておきます。

コモ湖でおコモさん。
もったいない使い方をしてしまった。

コモの家のよいところのひとつは「音」であって、少し先にある家から聞こえてくるガキ共が芝生を走り回る声、さまざまな鳥の声、湖から聞こえてくるモーターボートや水上飛行機の遠いエンジン音、近所のひとたちのイタリア語の笑い合う声、そういうものが全体となってつくる音がまるくてやわらかで、素晴らしい。
テラスで水を飲みながら、ぼんやり湖面を隔てた対岸の山(コモは湖面が大変に狭い湖です)の緑を見ていると、ゆたかな午後の音が聞こえてきて、秋までいちゃおうかなあー
という気にさせられてしまう。
先の楽しみにとっておいて、ちゃんと出発しますけどね。
こんなに穏やかでリラックスできる土地が他にあるだろうか。

閑話休題。

フィレンツエのはしっこの丘をのんびり上がって、日本人の女のひとが忙しく立ち働いている(フィレンツエは若い日本人がたくさん働いている町です。靴職人などは三分の一が日本人だそーである)Enotecaの脇をあがって、やっとこどっこいと坂をやっこらせと歩いてゆくと右側にガリレオ・ガリレイが生まれた家がある。
わしはどこかの町にでかけたからといって、有名人の家を見に行く趣味はないが、ガリレオは自覚的な「科学」という考えはもたなかったものの、数学という言葉で自然の現象を説明する遊びにとりつかれて、当時の人間としてはびっくりするくらい神に近づいたひとだった、そのことに敬意を表して見に行くことにしたのでした。
「見に行った」とゆっても、モニとふたりで下のエノテカでワインを飲んでから、坂をのぼって「ここかあー」と思って戻って、またワインを飲んでいただけのことだが。

帰りに、団体でガリレオの家を見に来ていた韓国人らしきおっちゃんが、なぜか英語でイタリア人の女びとのふたりづれに話しかけていた。
おっちゃんにとっては当然のことらしかったが、わしが後ろを歩きながら見ていて驚いたことには、ふたりのうちのひとりは、英語をちゃんと話すひとである。
韓国人のおっちゃんは、つかつかと歩速を上昇させてふたりのイタリア人女衆に近づくと、まるで拡声器がついているようなデッカイ声で、
「きみたち!きみたち!きみたちはピサの斜塔でガリレオが行った有名な実験のことをしっていますか!イタリア人にしては、たいした男だといわねばなるまい!」
突然はなしかけられたイタリアびとは、顔を見合わせていたが、
「知りません」という。
韓国人のおっちゃんは、そりゃああああー、たいへんだ、という勢いで、今度は鼻をふくらませていっそうデカイ声で、
「それは、いけません!イタリア人なのだからイタリア人のエライ人のことを勉強しないと!」
「ガリレオというひとはね!ピザの斜塔にあがって、小さくて軽いのと大きくて重いのと、一緒に落としてみたの!」
「そしたら、どうなったと思いますか?」
気の毒なイタリアびとは、なんだか申し訳なさそうに「わかりません」とこたえておる。
韓国人のおっちゃんは、ブースターがかかったデカイ声で
「一緒に落ちたのだよ!わかった!?」
「重いものも軽いものも、重力の(このへん発音不明)で一緒なの!」
イタリア女衆は、へえ、という顔で、あるいはぶっくらこいて、そそくさと挨拶すると道をそれて歩いてゆく。

わしはおもしれー、と思って眺めておった。
義理叔父がむかしむかし、ガキわしに同じ話をしたことがあって、わしの
「それじゃ、ばかじゃん」という冷厳な反応に遭遇して椅子からこけそうになったことがあった。
だって、おっちゃん、そんな鉄の玉なんかおっことして目測で「同時だ!」なんて、そんな杜撰な科学があるかよ。
「だって、きみ、教科書に書いてあるんだぜ」
「それは多分、教科書が間違っておる。日本の教科書なんじゃね?」
当時からまことににくたらしいガキであったのが忍ばれるのい。

家に帰ってから、ガキわしが調べてみると、実際のガリレオが行ったのは思考実験らしかった。
板の上に大小の鉄球をおいて2度傾ける、5度傾ける、10度、30度、45度、…と傾けてゆくと何れの場合でも2つの鉄球は同時に板の下端に到着するはずである。
だから90度のときも同時なはずで、すなわち自由落下するときも、ふたつの鉄球は同時に地面に到着するはずである。

ははは。ガリレオが杜氏でなくてよかった。
そうでなければイタリア語では「杜撰」を「ガリレオ実験」と呼ぶことになっていたであろう。

最近ツイッタやこのブログ記事で新しく言葉を交わすようになったひとのひとりに
@wiredgalileo というひとがいます。

このひとはツイッタのアイコンの顔がガリレオなので、話していると、どうしてもガリレオと話しているような気になってしまう。
このあいだコメントをつけてもらったときには、「田植えで忙しかった」というので、
わしの頭からはしばらくガリレオが難しい顔をして、すそをまくったズボンの姿で嫌そうに田植えをしている映像が消えなくて困った。

この「顔がガリレオの人」がふたつ長いコメント、というよりは意見を述べているので、
今回の記事は、これへの返答にします。

えっ?じゃ
おれはこれからただのふたりの人間のやりとりを読ませられるのかよ?って、
そーよ。
郵便箱からこっそりギッテきた他人の手紙を覗き見してると思いなさいよ。
わくわくするでしょう?
そんな、ひどいことやったことがない?
なんという退屈なやつだ。
わしなんか、そのむかし妹に恋い焦がれてビョーキになる高校生どもが続出していたころ妹に来た恋文を年がら年中あけて…あっ….。

>このまえ2ちゃんの原発スレで、「日本人は死を恐れていない!日本人は、昨日と違う生活になるのを恐れている!」という書き込みを読んで、なるほどと思った。

死、というのはいまこの瞬間に健康な人間にとっては常に観念的なものなので、恐れることが難しい。わしの考えでは死を恐怖できるほどの想像力がある健康人は見つけるのが難しいのではないでしょうか。
いっぽう、たとえば職を捨てて鹿児島に移住してしまえば、いままでに積み上げたものはほぼ灰燼に帰するわけで、わしもそういう状態になれば、まあ、ここでもいいか、と思いかねない、と思う、
広い意味での怠惰、ですのい。

>外国から日本を見ると、「もうだめだ」と見える

もう殆ど誰も日本の方角を見てはいないが、見ているひとは「ダメかな」と思っているよーです。
特に外国人にとって衝撃的だったのは福島の子供達を放射性物質が降り積もった土地に置き去りにしたことでしょう。
もうひとつ、個人の肉体が滅びるまえに日本の社会の健全性が先に崩壊してしまった、と考えた人が多いようでした。
「低放射性被曝は健康をそれほどそこねない」という日本で一般的になったと思われる意見は、誰かが広く英語に翻訳してひろめたほうが良いと思う。

>日本のなかでも入れ子構造になっているんだよね。西日本の人は東日本を見て「あそことは違う」と見る/東京の人は茨城を見て/茨城の人は福島市を見て/福島市の人は原発周辺の避難地域を見て…というグラデーションがあるんだよね。最後は「津波で突然死んだ人よりは…」という構造。

ぬわるほど、と読んでいてカンドーしました。
ほんとーだのい、と考えた。
ニューヨークで会った日本人の「あのくらいの放射生物質でおたおたするなんて日本人らしくないよね、こっちじゃ、日本に戻るなんてとんでもない、と言われているのでぼく自身はは日本に戻らないけど」という意見を思い出すと、その入れ子構造にはもうひとつ外側があって「自分は海外にいるからぜったい大丈夫」というのもあるよーだ。

ついでに書くと、東京人には「危ない危ないって騒ぐけど、福島でだって誰も死んでないいじゃない」という気持が強いように見えます。
前にブログに書いたように、放射性物質は火山灰のように可視的でなく火のように即時的でない。見えない物は、こわい、とあらためて考えました。

>そこが崩れると、露骨な差別や弱肉強食の状況になることがわかっているので、頑張ろう日本、というスローガンで、かろうじてまとまろうとしているのかもしれない。

親がもたせた昼食をたったひとり友達から隔離されて食べなければならない子供や、「あんたも放射能なの?はっきり言いなさい」とプールサイドに正座させられて女教師に怒鳴りつけられる子供達の話を読むと、顔ガリレオの言う「共同体」の成員の自分達の規範に従えない人間へのいらだちと、これから待ち受けて受けるであろう、「全体の部分になりえなかった個人」への、日本社会の有名な陰惨な制裁がどういうものであるか忍ばれますのい。わしは、あんまり、そういうことを「まとまる」というような言葉で表す考えになれていないので、ふーむ、と思いました。

>しかし全員が「個」になると弱肉強食の露骨な社会になる。

ここから、ちょっとわからん。
全員が個になると、ちょうど、わしがいまいるイタリアの田舎の村のようになるのではあるまいか?
ここの村の共同体意識の強さは強烈ですが、しかし、全員ひとりひとりが「個」であって、勝手きわまりない暮らしをしている。
「ボンジョルノ」「ボンジョルノ」と知らないひとでも挨拶するし、「こちらがイタリア人たちの言葉で「暑いですのお」とでもひと言いえば、「ほんとうに暑い!暑いのに坂をのぼるのって、ほんとうにいやよねええ」とゆっておばちゃんたちが、笑っている。
わしにも実はちゃんと判っていないのですが、実感としては欧州のほうが日本よりも「共同体意識」は遙かに強い、とわしは感じます。
規則もやることもいっぱいあるし、参加しなければならない行事に至っては無限にある。
それは参加しても参加しなくてもよい、というようなものではなくて、全員ぜったいに参加しなければならない。
だが、(あたりまえだが)参加できない理由があるひとが不参加でも誰も何もいいません。
ところが、長野の友達に訊くと、ときどき出かけるコーヒー屋さんに行かないと、それだけでも「どうして、うちに来ないの?」と電話がくるそーだ(^^)
行事も「参加できないはずはない」とゆわれる。
この差異はどこからくるのだろう?と考えます。
顔ガリレオは、その理由が判るのではないでしょうか。
>「個と共同性の根本的な矛盾」はこれまでの近代日本でも人々が抱えていた問題なんだけど、それが原発事故で一挙に凝縮してつきつけられている感じがある

日本の「ほんとうの姿」が突出して現れた、というのは世界中のひとが感じている。
主に1940年代の戦争と関連づけて話がされることが多いように感じました。
それが顔ガリレオが言う「個と共同性」の問題なのか、あるいは「共同体の質」の問題なのか、わしは後者だと思いつつありますが、まだよく判りません。

>日本人は自然や共同体にとけ込みたいという欲求があるんだと思う(共同体の負の側面はいろいろあっても、基本的な感覚としてそういう欲求が強いのだと思う。)しかし原発事故でそれが不可能になった。既存の共同体に従っていたら死ぬ、という事態を理解した人は、強制的に個の自立をせざるを得ない事態になった。

わしは「日本人が自然と親和する傾向をもつ」というのは日本人が西洋に対して自己の特異性を近代的な文脈で説明するために構築した「理論」であると感じます。
インドのひとは自然の一部として自己を考えるのに慣れている、というか、ほとんど公理のようにとらえているのがありありと判る。
日本のひとは、多分、(中華圏以外の)アジア文脈からやってきた自然への親和傾向の信奉とあわせて、極めて西洋的な個人手農場主の集団であった中世武士由来の強烈な「個人主義」がいまでも脈々とあると思う。
その個人主義が大衆化しては拙い、という考えが社会の支配層にあって、個人主義的な「将校層」とその他ヘータイに分離しているのではないか、と考えます。

>全員が同じむらびと的な感覚を持っているところは(天皇も、儀式として農作業をするんだよね。)

そー。それをとらえて横光利一は「人民戦線的な国」と言った。
天皇の赤子、というが、わしには60年代くらいまでは完全に天皇制に依存した擬似家族的国民感情のほうが、戦後、ひどい誤訳として登場した「日本型戦後民主主義」よりも実際には支配力が強かった、と見えます。
それが、田中角栄の登場くらいから、「政治という仕組みを使って、カネを濡れてで粟にすくいとる」という巧妙な「くれくれ技術」を身につけてから擬似家族感情が逆に単なる見せかけになっていった。
そこのところから、というのは、「現場がたいせつ。現場で「汗を流す」ひとを大切にしなければ」という一見美しい理屈をダシにして、現実はその対極である不労所得を極大化していった構造が完成したところから、日本は崩壊の種をつくっていった。
それだけ「ピンハネ」をされてしまえば、生産性がどんどん落ちていくのは当然で経済の生産性は旧ソ連の生産物の価値の減価に近づき、一方で将校達の不努力と傲慢は極に達して、いまの事態を招いているのだと感じます。

わしは、顔ガリレオがいうように、「村」的な感覚が生産のあしかせになっているのだとすれば、共産主義がいつもそれで失敗してきた「人間の心の弱さ」のほうに原因がある、と感じました。

>日本は今後、表の国際世界からさらに「隠れた」国になっていくのだろうと思う

まさか(わしを例外として(^^) )日本のひとにはゆわないが、「ひどすぎて見ていられない」という感覚だと思います。
7月くらいから、アメリカ合衆国を皮切りに、「cover up」という言葉をキーワードにした報道が現れると思います。
皮肉な言い方をすれば、その特別番組の視聴率が高ければ、シリーズのようなものが生まれるでしょう。
しかし、普段の生活を通しての感触でいうと、フクシマ、というようなものは皆目をそむけるだけで、自分達の問題として考えるのは嫌でたまらない、というところだと思う。
なかったことにしたい、というのがわれわれの社会の正直な気持ちのように伺われます。

>古い村の人たちが逃げたがらない気持ちはわかるんだよ。

たとえばフランスの「古い村」で同じことが起これば、みながまずいっせいに遠くへ逃げて、その逃げた先で、村のひとびとが皆で話し合って「死んでもいいから戻ろう」という決心になるかもしれません。確率は高い。
初めの反応が違うだけで、顔ガリレオの言うことと共通点がありますね。
でもそのときでも年よりだけが戻るだろう、と考えます。
若い人間には厳しく「戻るな」と言い含めるに違いない。

連合王国人は、初めの「全員がまず逃げられるところまでダッシュで逃げる」というのは同じだが、もしかするとアシュレー村の衆が全員で話し合ってニュージーランドの南島かどこかに集団移住して、「アシュレー村」というのをでっちあげそうな気がします。
建物もレプリカのようなものをつくりそうである。
(半分はジョーダンだが)

> 表の国際世界から離脱するわれわれ
ニュージーランドの道路で、たとえば酔っ払って暴走して事故を起こすと、まず周りのひとが集まってきて「ダイジョーブですか?」「助けられることはありませんか?」とみなで心配して、必要があれば救急車やレッカー車をあっというまに手配してくれるに違いない。
しかし、無謀運転のドライバーが大丈夫な状態になったと見極めがつくと、一転して、
「おまえのようなキチガイがいるから、道路は危険なんだ。必ずこの責任はとらせるから覚悟しろ」と同じひとたちが、厳しく苛烈に責任を追及するほうにまわります。
そーゆーことを考えると、日本という国を、表から静かに離脱させてくれる、と考えるのは、ちょっと不思議な気がします。

>われわれは、彼らは不幸だがあそこにいたのは自分かもしれない、という共同体的な感覚を、世界に対しても持つようになっていけるだろうか。

そう。それは大事な感覚ですのい。

>「政府が安全と決めた」のは今回事故になってからではなく、チェルノブイリ事故以後から、すごいお金を費やしてマスコミや学者等を籠絡してきたんだよね。チェルノブイリのときはさすがに社会的反応が大きかったんだけど、それに危機感を持った推進勢力が猛攻撃をかけて、新聞とかに原発の宣伝や政府公報が大きく載るようになっていった。学校でも、「チェルノブイリの死者は数十人」という内容の副読本を作って原発を宣伝していた(これについては昨年くらいに知ったんだが)。

知りませんでした。

>いまの現状は、そういう20年の成果なんだよね

ほんとうに、知らなかった。

こちらのコメントについて、自分で調べてみて、いつかまた顔ガリレイに話したいと思う事がありそうに思いました。

さて、顔ガリレオのおっちゃんに返事を書いたら、くたびれてもうた。
もう午後6時だし、そろそろあの狭い坂道をくだって、ボート乗り場に近い、湖面に貼り出したテラスのある、あの料理屋に夕食を食べに行く時間である
今日は涼しくて、気持のいい日です。
隣のおっちゃんは息子がわざわざ寄宿先の学校から飛行機で飛んできて参加したサッカーに負けたので不機嫌だが、他の村人はみなニコニコしておる。
また料理屋のおっちゃんがワインをいっぱいおまけしてくれるかもしれません。

顔ガリレオのコメントは記事の下に見えているはずだが、なにしろ断りなくいきなりアカウントが閉鎖になったりするブログなのでコメントや写真がそのたびにあちこちにぶっとんだりする。

そうなると本人がいちばん何を書いたか判らなくなるので、以下、顔ガリレオのコメントをふたつ全文掲げておきます。

Submitted on 2011/06/29 at 5:53 pm
やあ久しぶり。(しばらくがめさんのツイッターやブログを見ていなかったんで。で、書いたら長文になってしまったしどこに投稿すればいいのかわからないんだけど、とりあえずここに入れておこう)
このまえ2ちゃんの原発スレで、「日本人は死を恐れていない!日本人は、昨日と違う生活になるのを恐れている!」という書き込みを読んで、なるほどと思った。
たんに、近づく死が実感できないだけで、実際に迫ってくれば全然違うとは思うけどね。
外国から日本を見ると、「もうだめだ」と見えるんだろうけど、日本のなかでも入れ子構造になっているんだよね。西日本の人は東日本を見て「あそことは違う」と見る/東京の人は茨城を見て/茨城の人は福島市を見て/福島市の人は原発周辺の避難地域を見て…というグラデーションがあるんだよね。最後は「津波で突然死んだ人よりは…」という構造。
それは微妙な差別構造でもあるけど、しかし日本は前にも書いたけどコミュニティ感覚があるから、あそこは不幸だけど、あそこにいたのは自分かもしれない…という感覚はかなり保たれていると思う。…というか、そこが崩れると、露骨な差別や弱肉強食の状況になることがわかっているので、頑張ろう日本、というスローガンで、かろうじてまとまろうとしているのかもしれない。
放射能から逃げるには、共同体から自立した「個」にならないと無理だ。しかし全員が「個」になると弱肉強食の露骨な社会になる。その「個と共同性の根本的な矛盾」はこれまでの近代日本でも人々が抱えていた問題なんだけど、それが原発事故で一挙に凝縮してつきつけられている感じがあるね。
たぶんがめさんは、前者はよくわかるだろうけど、後者は感覚としてはわからないのかもしれない。自分をふりかえってみても思うけど、日本人は自然や共同体にとけ込みたいという欲求があるんだと思う(共同体の負の側面はいろいろあっても、基本的な感覚としてそういう欲求が強いのだと思う。)しかし原発事故でそれが不可能になった。既存の共同体に従っていたら死ぬ、という事態を理解した人は、強制的に個の自立をせざるを得ない事態になった。
けれども「共同性」は、日本の宝なんだよね。欧州の階級制や米国的な露骨な貧富の差のある社会とは違う、全員が同じむらびと的な感覚を持っているところは(天皇も、儀式として農作業をするんだよね。)
たぶん方向性としては、新しい「個」たちによる新しい共同性を作っていくしかないんだろうと思う。放射能を恐れ、関東圏でもこどもに給食をたべさせまいとお弁当をつくるような熱心な人たちはたぶん人口の5%以下だろう。95%は「昨日と違う生活」を拒否した共同性のなかにあるが、5%くらいは、「昨日と違う生活」を志向する共同性を求めていくだろう。
がめさんも書いていたけど、日本は今後、表の国際世界からさらに「隠れた」国になっていくのだろうと思う。そして自分としては、(わずかながらも被爆したひとりとして、)傷ついた日本の人たちと一緒に生活し、助け合っていきたいと思う。また大事故があれば逃げるしかなくなるかもしれないが、古い村の人たちが逃げたがらない気持ちはわかるんだよ。
表の国際世界から離脱するわれわれは、今後は、チェルノブイリやイラクの被害者等に共感するようになっていくのだろう。われわれは、彼らは不幸だがあそこにいたのは自分かもしれない、という共同体的な感覚を、世界に対しても持つようになっていけるだろうか。

るような熱心な人たちはたぶん人口の5%以下だろう。95%は「昨日と違う生活」を拒否した共同性のなかにあるが、5%くらいは、「昨日と違う生活」を志向する共同性を求めていくだろう。
がめさんも書いていたけど、日本は今後、表の国際世界からさらに「隠れた」国になっていくのだろうと思う。そして自分としては、(わずかながらも被爆したひとりとして、)傷ついた日本の人たちと一緒に生活し、助け合っていきたいと思う。また大事故があれば逃げるしかなくなるかもしれないが、古い村の人たちが逃げたがらない気持ちはわかるんだよ。
表の国際世界から離脱するわれわれは、今後は、チェルノブイリやイラクの被害者等に共感するようになっていくのだろう。われわれは、彼らは不幸だがあそこにいたのは自分かもしれない、という共同体的な感覚を、世界に対しても持つようになっていけるだろうか。

コメント2

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/19/放射能鎖国/#comment-948
のほうにもコメント書いておきましたが、こちらにも。
「政府が安全と決めた」のは今回事故になってからではなく、チェルノブイリ事故以後から、すごいお金を費やしてマスコミや学者等を籠絡してきたんだよね。チェルノブイリのときはさすがに社会的反応が大きかったんだけど、それに危機感を持った推進勢力が猛攻撃をかけて、新聞とかに原発の宣伝や政府公報が大きく載るようになっていった。学校でも、「チェルノブイリの死者は数十人」という内容の副読本を作って原発を宣伝していた(これについては昨年くらいに知ったんだが)。
私自身はテレビや新聞もほとんど見ないネット人間だし、その影響力を過小評価してきたんだけど、事故が起こって、彼らの戦略が完璧だったことがわかった。やっぱり、政府やマスコミや偉い学者や学校が束になって宣伝してくれば、しかもそれを20年続けていれば、その洗脳は十分効いていたんだなあ。現在の若者に至っては、チェルノブイリ自体を知らない人も多かったらしい。
カネで籠絡するだけでなく、汚いやり方で反対派をつぶしてもきた。マスコミ等でのパージもそうだけど、市民の反対運動でも、私の知人は、そのころ小さかった自分の娘を撮影した写真を匿名で郵送してくるという嫌がらせを受けた。それから、その知人が出かけていたときに通った駅の切符を全部郵送してくるとか。ヤクザだかなんだか知らないが、かなり組織的にカネをかけた嫌がらせをしていたようなんだ。(米国映画でも、内部告発者にプルトニウムを飲まされるシーンがある映画があったね)
いまの現状は、そういう20年の成果なんだよね。

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2 Responses to 顔ガリレオ(@wiredgalileo どん)との対話

  1. wiredgalileo says:

    ども、あまり時間がとれないけど
    書けるところまで書いていこうと思う。

    ガリレオが田植えしてる図はいいねえ。
    たんに仕事関連の言葉を並べて出来た名前なんだけど
    けっこう気にいってるんだよね。特に絵柄が渋くていい。
    われながら、数百年昔から現代に向けて通信してるような気がして来る。
    返事が遅れてしまうのは、数百年前のモードだと思ってくだされ。

    >「おまえのようなキチガイがいるから、道路は危険なんだ。必ずこの責任はとらせるから覚悟しろ」

    そうなったほうが日本にとってはいい。しかしおそらくそうはならないだろう。
    欧州の一部を除いて、まだ世界中で推進しようとしてるからね(アホなことに日本も含めて)。
    国際的な推進派は、それほど汚染は大きくなかった、ということで話をまとめようとするだろうし、日本の政府の現在の方針も、その大方針に沿って行われているはずだろうと。
    被害が出てきても表だっては報道されないだろう。チェルノとかイラクとかでひどい被害が実際に出ていても、表には出ないし、公式に「被害は存在しない」とされているわけだから。

    そういう大状況をどれくらい変えていけるかが勝負なわけだけど、
    前のコメでも書いたけど、日本の原発をめぐる状況は、
    ふんだんにカネを費やしてできた北朝鮮みたいなもので
    しかも多くの人はそのこと自体に気がついていない、という厄介な状態だなあ。

    >死、というのはいまこの瞬間に健康な人間にとっては常に観念的なものなので、恐れることが難しい。わしの考えでは死を恐怖できるほどの想像力がある健康人は見つけるのが難しいのではないでしょうか。

    そうだね。で、原発事故は、日本の多くの人に、突然「死」を突きつけた。
    しかし原発の問題は、その死が観念的な情報でしかわからないところだよね。
    奇形の写真や医療データも、大きくいえば情報なわけで
    反対派も賛成派も、情報を人々にどう見させるか、という情報戦となる。
    情報の迷宮にとらわれず、信じられる自然に依拠したい、と思ったとしても、
    その自然自体が信じられない(見えないレベルで反生命に汚染されている)(らしい)。
    ほんと、『マトリックス』やら『インセプション』やらのSF映画にでも入り込んだような状態だよ。

    「目に見える物は何一つ破壊されていない、この明るく美しい放射能地獄」という表現が心に残った文章があった。

    http://blog.goo.ne.jp/daizusensei/e/7d92d7ca72768a62c9eafb7cf66449fb

    情報の迷宮にとらわれまいとしても、信じられる感覚自体が怪しくなった状況で
    人が依って立つ根拠は何になるのだろうね?
    (わたし自身は、その根拠はあると感じているんだけどね。)

    共同体と個についてはまた書きます。

  2. wiredgalileo says:

     遅れましたが、個と共同性についてのお返事です。
     Rudorf Steinerという思想家の本を読んでいたときがあるんだけど(米国ではWardorf Schoolとよばれる彼の教育法に関心があってそれがきっかけ)、彼は神秘思想家なので根拠レスにいろいろ妙なことを言っていて、イミフなものも多いんだけど、面白いことも言っているんだよね。
     そのひとつは、今の文明は、大きくいえば人類史にとっては「個」を析出させる文明だけど、その主役は西欧文明であって、アジア文明は主役ではない、と。つまりアジア文明では基本的に個というのはなくて、その前にあった集団性が強力に維持されている、と。まあ時代遅れな文明なわけだけど、それにも意味があって、それは、個を析出させる文明は(エゴイズムが貫徹するため)社会としては荒れ、自然も破壊されるというマイナス面もあるのだと。そのなかで、アジア文明には、それらが破壊されきらないよう、大事なものを護るという役目がある、というのだね。それでそのふたつを統合するのが、次世代の文明の課題になるのだ、と。
     まあ私はだいたいその見方は適切なのではないかと思っている。
     日本はもちろんアジア文明に属するけど、そのなかでは西欧文明も理解しやすい立ち位置にいるのだろうとは思う。しかし、特に原発事故で、日本には西欧文明の粋みたいな「原発」は文明的にまったく向いていない(科学者もマスコミも官僚も、無駄な知識のある「土人」のようなもので、安全神話を信仰しているだけであり、自然統御を行おうとする客観性とか屹立する個の意志とかに欠けている)ということが明確になった。
     それと、がめさんがよく批判している日本共同体のネガティブな面(異質な個を攻撃しやすい病的な共同性)も、放射能問題で明瞭に出てきてしまった。これについては「非常有事に権力は”不幸を公平に分かち合う”というレトリックを使ったプロパガンダを流す。その途端に不思議なように民衆はそれを受け入れ、権力に対してではなく、その苦痛 を少しでも免れようとする同胞に怒りを向けるようになる」http://p.tl/IED_というような面もあるけど、もともと同質性を求め、異質なものを排斥しやすい日本的共同性の気質的な問題もあり、それが原発と結びついてまずい方向に行っている。
     つまり、まったく自らの本質に合っていない、原発に象徴される西欧のサルマネ社会を作り上げ、この時代に護るはずだった宝をも破壊しているのがいまの日本社会なのだよね。だから私としては、向いてないものはもうやめて、土人のリアルな健全性と共同性を取り戻すべきだと思っているのだが、しかしまあその道も簡単ではない、とそんな感じだと思う。
     ちなみにシュタイナーは、アングロサクソンは政治というものができる(ロジックと感情を全く切り離すことができる)が、ドイツ人はそれができなくて、アングロサクソン的な政治をしようとすると病気になるし、アジア人が政治をしようとすると発狂しだす、みたいなことを言ってたけど、どんなもんでしょうね?(アジア人についてはそうだろうと思うが、ドイツ系とアングロサクソンってかなり違うもんでしょうか)

     さて、話は飛びますが、仏教の葬式は暗いけど、神道の葬式はシンプルで明るい葬式なので私は好きなんですが、基本的に神道は人は死ねば祖霊神のひとりになるのであり、葬式はそのためのお祭りなので基調が明るいんだよね。
     仏教だと人の生は苦であるというのがベースですが、神道では普通の生活自体が良いもので、まじめに生活して死後は祖霊神になって子孫を護るという循環があるのだという感じで、まあ、アメリカインディアンたちの信仰みたいな、共同体と自然が調和していることが前提の幸福な宗教なのだね。(天皇制神道の問題はとりあえず置いておくとして、ベースは、ということ)
     これに対して、仏教やキリスト教だと、個の苦しみをどう救うかというコンセプトが入って来るんだよね。両方とも、紀元前1000年から0年あたりの、大きな文明が出来始めて個が析出し、その苦しみも析出した、その時代に対応した思想だと思うんだ。(仏教よりさらに、キリスト教が扱う苦しみは深い気はするけど…つまり、仏教はまだ、世界に自我が溶けることが悟りだというような思想が成立する段階であり、世界への基本的信頼はまだあるけど、キリスト教は世界への信頼がもっと少なくなってしまった絶望的な世界で、どこに希望を見いだすかといえばそれは個の意志と愛である、みたいな思想だと思うんだよね。)
     つまりなにがいいたいかといえば、神道→仏教→キリスト教の段階は、世界から個が析出し、その苦しみも深化していくのに対応していると思うのだね。
     日本は、その良いところを見ようとするならば、神道の能天気でシンプルな世界観が理解できるベース部分があるというところが宝だと思うのだね。もちろんそれだけでは、原発のような現代の西欧文明には対応できないし、共同性が破壊されきったかに見える日本社会がそのベースに戻れるかは疑問という面もあるけれども、しかし、日本が立ち直るベースがあるとしたら、それはそういう方向にあると思うのだな。

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