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東京

このブログは、そのときどきのいろいろな理由で固有名詞にさしかかるとやたらと曖昧な書き方になっている。そういう部分は自分では将来相当頭がぼけてきても判るように書いてあるが、一方では、その場所やひとについてあらかじめ知っているひとなら、「あ、あれのことか」と別段推理しなくても判るように書いてあります。 推理できる、というようなものでなくて、簡単に露骨に判る書き方をしてある。 たとえば、もう固有名詞が判っても差し障りがなくなったものから探していうと「電気ビルの20階」と出てきたり、有楽町の駅を俯瞰する画像がついている記事で日比谷で最も高いビルのてっぺんというような書き方をしてあるのは、「外国人特派員協会」のバーで友達と会った、ということで、わし自身は会員にならないですませてしまったが、ここの会員の友達が数人いた(いまはもう彼らも日本にいない)ので、「安い」という理由でときどきここで待ち合わせた。 以前の記事を読みかえしてみると、よく出てくるように、わしは銀座で酔っ払って広尾山に帰るのがめんどくさくなって帝国ホテルで寝る、というパターンが多かったが、(大きな理由のひとつは帝国ホテルの朝ご飯は、ハーフボトルシャンペン付きのがあって、オムレツがたいへんうまかったので誘惑につい負けてしまう、ということもあった)、外国人特派員協会のバーは、あのいかにも日本式のサービスが徹底した気持のよいホテルから歩いて3分くらいであって、この3分、というのは夏には、というのは5月から9月の終わりまでは、モニとわしが日本で外で歩ける限界であったという理由もあります。 帝国ホテルなんて、ぜーたくな、というひともいるだろうが、ホテルのひとからするとあんまり外でゆわないでね、という感じがしなくもなかったが書いてしまうと、帝国ホテルには外国人に限定した会員制度(日本人がターゲットのものとは内容が別で無料)があって、安かった、ということもある。 面白がって外国人特派員協会の目の前に出来たペニンシャラホテルにも泊まったりしたが、矢鱈めったらハイテクな室内は楽しいがサービスが固くてしゃっちょこばっているのと、建物が小さすぎて設備全体が窮屈なので、すぐに泊まらなくなりました。 六本木、というようなところは用事があれば近いので出かけることもあったが、モニもわしも「全体が田舎くさくてやだ」と思っていたのであんまり行かなかった。 もうひとつ幽かな記憶を辿ると、ガキわしが日本を訪問して従兄弟と自転車で疾走していた頃に較べて、全体に新宿ぽい、というかセックス産業の臭いがぷんぷんしてやりきれないというか、カメルーン人のぽん引きおっちゃんたちがうらぶれていてわびしげである、というかで、 「すさまじい」感じのする街に毎年毎年なっていったような気がします。 だから、だいたい根津美術館の脇の坂を抜けて、青山へ行くことのほうがずっと多かった。 あの坂を通る度に、霞町の交差点から根津美術館に至るまでの左側が田宮虎彦の小説に出てくるスラム街であった、ということを思い出す。 いちどおもいついて、霞町からあまり遠くない学校に6年間かよっていた義理叔父に訊いてみると、義理叔父が中学生の頃は、まだボロイ長屋が並んでいて、ねんねこに赤ちゃんをおぶったおばちゃんが、いかにも生活に疲れた顔で手で洗濯板を使って洗濯をしていたりするのが見えたそーである。 当時は「霞町」と言えば、交差点をはさんで斜向かいのオカネモチのお屋敷町、笄町と好対照の貧乏イメージだったそうで、それがいまのようにカッコイイ町の代名詞になったのは田中康夫というひとが霞町と笄町や龍土町を混同して、ぜんぶいっしょくたにして小説に書いてからなのよ、と「オーミ茶房」という義理叔父が中学生の分際でよく行ったらしい、わしが訪問してみたらいまではとうのむかしになくなってしまったコーヒー屋の話とともによく話してくれたものだった。 ついでにいうともう一軒チューガクセイ義理叔父がよく出かけたという仙台坂の「茉莉花」というコーヒー屋は、訪問してぶっとんだことには、まだ韓国大使館の前の同じ場所にあって、なかにはいっては見なかったが、仙台坂を散歩する度に、義理叔父はいまはマジメそうなふりを装っているが、ほんとうはつくづく生まれついての不良であって、叔父がいないところでは叔父自身の母親も含めて親戚中のひとが声を潜めて話し合う、あんなに頭がわるいのではトーダイに裏口ではいったに違いないというあの噂は、やはり真実の噂だったのだなあ、としみじみと考えたものでした。 いくら日本の入試問題が杜撰だとゆっても、寿限無を「スシゲンム」と読んで、外国人であるわしに嘲笑のバカ笑いをされたことすらあるあのおっさんが筆記試験で合格したりするわけがない。 そう言えば、あの霞町の坂を高樹町へあがっていったところには、「アントニオ」というあまり人気のないレストランがあるが、そこはむかし義理叔父の気に入りのレストランであって、あとでは横浜の支店のほうにしかいかなくなったようだが、子供の頃はよくでかけたそーである。 「むかしは、もっと霞町の交差点よりにあったんだよ」という。 「木造の一軒家だった」 カレーはまったく日本式なのに、クソ辛いカレーご飯を出すので有名な麹町のアジャンタも、叔父が中学生の頃は、九段下のグランドホテルの脇の坂をあがったところの、やはり木造一軒家だったそーで、歌舞伎座の前の竹葉亭も木造の、葭簀がかかった木造一軒家、というふうに聞いていると、なんだか、どうしてもタイムスリップしてむかしの東京を眺めてみたくなってしまう。 もっと唖然としたことには、表参道は原宿駅を背にして左側の石垣の上は全部個人の住宅であったそうで、叔父はよく自転車で原宿駅のまん前にあった、これもボロイ木造の一軒家「おばあさんと猫がやっている駅前定食屋」で200円の玉子丼を食べて、「気をつけていってらっしゃいよ」というばーちゃんの声に送られながら、キディランドめざして全速力で坂を下りていったものだそーである。 その頃は「明治通りと表参道の交差点にセントラルアパートというアパートがあって、一階にレオンというコーヒー屋があってね」 近くのブリジストンの社宅に住んでいた鳥居坂にある女子中学に通っていたガールフレンドとそこでよく待ち合わせをしたのだそーだった。 なんという、ませたガキでしょう。 むかしの東京の話を聞きたいので、義理叔父によく昔話をせがんだが、自分で頼んでおきながら頭にくるのは、どう聞いてもむかしの東京のほうがわしの知っている東京よりもカッチョイイことであって、不愉快というか、なんだそれは、というか都会の癖にあっというまに巨大田舎町になりさがっていいと思っとるのか、ボケ、と腹が立ってしまう。 もっとも、日本を訪問した最後のほうであった60年代の終わりから東京に住んでいるドイツ人のばーちゃんは、「わたしは日本が好きだけど、東京が、あなたの義理の叔父さんがおっっしゃるように文明的だったことは一度もないわよ」とゆっていたので、どうも義理叔父の話には美化があるようだ。 「三丁目の夕日」みたいなものだろーか。 わしが、か、かっこいい、と思った東京の嚆矢は、(やった「嚆矢」使った)「きみの名は」という映画だったと思うが、60年代か50年代の映画のなかで岸恵子というおばちゃんが数寄屋橋から木挽町(多分)までボートでデートしてゆくところで、か、かっこええやん、と思ってコーフンした。 そうやってすっかりコーフンして調べてみると、義理叔父が日本に興味をもちだしたばかりの異国人の甥を羨ましがらせたい一心で美化に美化を重ねてビカビカにして話してきかせる東京の姿よりも、オリンピックの前の東京はもっとかっこよかったようである。 もっとも、これも、義理叔父かーちゃん、すなわち鎌倉ばーちゃんに訊ねてみると、 「ガメちゃんが、そう言ってくれるのは嬉しいけど、さあ、どうかしらねえ。 わたしが子供のときの東京でおぼえていることと言ったら、舗装されていない道の砂埃くらいかしらねえ」ということであった。 でも有楽町にジャーマンベーカリーという店があってね、という。 学校の帰りにお友達たちと、こっそり、寄ったものでした。 えっ? いやいや、みんな制服のままなのよ。 そういうおおらかなところは、あったわねえ、となつかしそうである。 上品で常識があるばーちゃんだとばかり思っていたのに、ほんとうは不良少女だったなんて、ショックである。 人間には、どんな裏の歴史があるかわからんものだと学習しました。 (ばーちゃんが、まさか、このブログに行き当たるとは思えないが、万が一、発見した場合に備えて申し上げておきます。冗談、だからね。不良、なんちて、冗談なんです。 ばーちゃんの息子さんと違って、ばーちゃんがむかしからひたすらマジメな方であるのは、よく存じ上げておりまする) むかし、モニとふたりで東京の下町をうろうろしていた頃 … Continue reading

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