語彙、ごいごい、ゲンゴー


日本の「ランチ定食」はスペインからの社会習慣の輸入であるはずだが、宗家スペインの「ランチ定食」は独裁者のフランコが低所得層国民に受けるために苦心してひねりだした「安い価格でおいしいお昼ご飯を腹一杯食べてもらう」ための制度だった。政府がレストランに直截働きかけて、このメニューを一種類か二種類に限定するかわりに、ものすごく安い価格でおいしいものをたくさん出すための仕組みを確立した。
独裁者というものはビンボニンがおいしいものを食べられない恨みというものの怖さを古今よく知っているものであって、シンガポールのリ・クアンユーもだからホーカーズの屋台に補助金を出しまくって、そのせいでシンガポールの有名な天天海南鶏飯は20年前と同じ3ドル80セント(250円)であることは前にも書いた。

サンタマリアの裏小路にある料理屋で、わしは、それだけで満腹になってしまいそうな、どひゃっな量のマルミタコ(バスク郷土料理で鰹とジャガイモの煮込みでがす)と、次に出てくるでっかいヴィールの牛かつ、それに500ミリリットルのワインと水がついて、最後にはデザートの滅法うまいチョコレートがどろどろなチョコレートケーキがついて11ユーロ(1300円)のランチを食べた。
モニはサラダとヴィール。

スペインという国は食べ物が特別においしい国なので、どうしても毎日たべすぎてしまう。
三食、合計9時間くらいかけて食べていて、食事が終われば、一杯150円くらいのビノ・ティント・デラ・カサを一杯か二杯ずつ飲みながら、あっちのバールからこっちのバールへとふらふらして、カウンタごしにおっちゃんと話したり、カウンタに頬杖をついている隣り合わせになった仕事帰りの女のひとや家事が終わって息抜きに来た主婦おばちゃんと話して遊ぶ。

今日はどこのバールの壁にもあるテレビのトップニュースはフクシマの汚染牛肉であって(これは世界中でひさしぶりに大きく報道されたフクシマのなりゆきだった)、テレビを見上げて日本にいたことがある、と話すのももう飽きてきたので、日本にいた、というようなことはしらばっくれて、日本を多少でも見た事がある、というようなことは「おくびにも」ださずに、日本はてーへんだなあー、とゆっていると、一緒にテレビをときどき見上げながらカウンタの向こうでハモンをせっせせっせと切っていたおっちゃんが、いったいどうなるんだろうな、スペインであんなことが起きたら、おれはどうしたらいいか判らないよ。
考えてみたことがあるんだが、やっぱりわからなかった、という。
わしも、わからん、と呟きながらテレビを見上げるわし。

隣のおばちゃんが、「あなたはイギリス人なの?」と、いきなり英語で話しかけてくる。
この頃は、英語ができやがるとつかいたくてしょーがない奴が大陸欧州にも繁殖しておるので、わしはときどきメーワクである、と思わなくもなし。
英語で話しかけられてちょっと気持ちが意地悪になったのかもしれません、いーや、わしはニュージーランド人だがもし、というと、全面笑顔になって、実はわたしは去年の11月にニュージーランドに行って、それはそれは楽しくて、…としばらく演説をこかれてしまった。
わしの心の動きなどいつもお見通しのモニが隣で必死に笑いをこらえておる。

ビルバオの用事は終わったので、いつフランスに戻ってもよいが、わしはまだバスクでのんびりしてます。
チャコリというバスクの白ワインや赤リオハで酔っ払って川沿いを散歩したり、全然ものにならないバスク語をケンキューしたり、どう考えてもこのキリストの像は大きすぎるだろうと考えながら、あの初代ヒッピーおっさんの姿を眺めたり、サンダとガイラなら「まここと」が好きであるらしい「グッゲンハイムのパピーちゃん」にお手をしてもらえるかしら、とスケールを訝ったり、ピンチョス屋の味較べをしてカンドーしたりしながらビルバオビルバオして暮らしておる。
バスク人はスーパー・モダンが好きなので、思い切ってものすごいものをいっぱい作るが、このひとたちは、もともと頭がいいので、たいていの場合、その(世界的には)うまくいくことが少ない冒険的な試みがうまくいっている。
偉いひとたちだなあ、と思います。

スペインにはわしが好きな場所がいっぱいある。
カタロニアの陰影。
カステラの赤土の荒野やガリシアの深い色の緑。
細いガムトゥリーが並んだバスクの稜線。
スペイン人は地方色はあってもみなはにかみ屋で、それなのに相手にうけいれてもらったのだと判ると、パッと明るい顔になる、その表情の大きな変化の美しさや、たかがわしが微笑んだというくらいのことで、今度は身振り手振りもたくさんついた興奮で、たくさんたくさん話をする、その(わしが育った世界の基準からいうと)無防備なところがたまらん。
大好きである。

フランスのほうが、土地の質が高い、っちゅうか、楽しいものが密度が高くて、フランスはどんなド田舎に行っても必ず良いものがあって良い宿があって良い料理屋がある。
イタリアも、イタリア式な違いはあってもやっぱり文明が至るところに行き届いていて、次から次にあらわれる楽しみに息もつけないところがある。

スペインの魅力は、そういうロマンス語兄弟国とはずいぶん違っていて、フランス人たちはスペインのことをさして「アフリカ」だとゆって揶揄するが、それは必ずしも揶揄ではなくて、こんなふうな言い方をすると、またショーセツカとかに率いられたヘンなひとびとが集団であらわれて「人種差別だ!」と怒鳴り込みに来そうであるが、街と街のあいだが300キロがとこは離れていて、あいだには荒野みたいなヘンな土地が横たわっているスペインという国を旅していると、カタロニアやバスクくらいに戻ってきたところで「おー、文明の世界に戻ってきた」とごく自然な感情の反応として思ってしまう。

しかしスペイン人には、そういう「荒野」を抱えている国のひと特有の言葉にするのが難しいひとなつこさというか人間らしい暖かみというか、そういうものが溢れるようにあるのです。

だから、つい居心地がよくて居てしまう。
7月の終わりにはパリにいないといけないのに、こんなことでいーのか、と自分でも思うしモニにもダイジョーブか、とゆわれるが、なんだか、きっとダイジョーブだろー、くらいのええかげんな気持ちの心地よさに負けてしまう。

ラマチェンゴ、ラマチェンゴ。
ウエイ。ラマチェンゴ。

いまから振り返って考えてみると当たり前のことにしか過ぎないが、実は人間のアイデンティティというか人格そのもの、そのひとが何を考えて、世界をどう感じるか、というようなことは9割方はどの言語を母国語あるいは母語とするかで決まってしまう。
その言語を獲得したあとに、本人がその言語の思考集合のなかで組み立てられる独自性などは感覚的に数字でゆってみれば3%もなさそうです。

わしはずっと日本の人が考える欧州が、この宇宙のどこにもない欧州で、いわばそれは「誤訳された欧州」のようなものであって、教会も神も美術ですらも、すべて「欧州」というよりは、誤訳の結果立ち現れた何か見た事のない新しいもので、そうであることのほうがただの「欧州」なんかであるより、ずっと面白かったが、それが日本語で考えられた欧州であることに、去年くらいになって、このブログやツイッタに攻撃者として現れた奇妙なひとたちのせいで、気が付いた。
「すべりひゆ」という人が感じる神だけが不思議なほど通常の「神」に近いのも、だんだんわかってみれば、このひとのイタリア語能力の結果ということにすぎないもののようであった。

すると、人間は自分が属する言語の奴隷なのだろうか、と思う。
この疑問は、まだ答えのない疑問だが、たとえば数学というような言語を比較の対象にして検討してみると、いまのところは無限に正しく思える。

もっとくだらないことをいうと、では何語を母語にして育てば人間として最も思考するのに楽か、あるいは感情がもつれなくて楽か、というと、それはイタリア語かスペイン語であるようだ。
どこの国の社会にもいるスペイン語かぶれのバカにーちゃんやバカねーちゃんを見れば判るとおり、これが母語でない場合にはビミョーな罠になるが、(話をいつものごとく端折ると)、なぜ楽か、というと、このふたつの言語はローマ人の思考と直截つながっていて、しかもフランス語のように世界一激しく個人を抑圧する社会的な仕組み、というものも歴史上もたなかったからであると思われる。

ローマ人の健全そのものの多神的世界に言語を通じて直截ふれられるからです。
イタリア人やスペイン人をつい最近まであれほど現実社会において恥知らずに抑圧してきたキリスト教も、キリスト教という本質的にオリエンタルな思想、いわば「誤訳された東洋思想」から自由でありうるからだと思う。

舗道に出したテーブルで緑色のリキュールを飲みながら、わしは耳に心地のよいゆっくり発音されるスペイン語を聴いている。
会話の内容からすると3人の大学人が、色彩について論じているのです。
わしは、ふと、自分がローマ時代のスペインに迷い込んだような錯覚にとらわれる。
語彙のひとつひとつが堆積した意味の歴史で輝いているような、この不思議な言葉。
まるでひとつひとつのセンテンスが夏の青空を移動する積雲でもあるかのように白色に輝いて、論理が透明になるほど悲しみの感情をまといつけてゆく。
感情と論理が合一であるこの言語にとって、世界は(不動産屋が発明したような)英語という言語が見ている世界とは本質的に異なっている。

もうちょっと、いるべ、とわしがのたのたしているのは、必ずしも怠惰ではないのです。
(ほんとよ)

画像は、まったいらな大平原あるいは赤土の荒野以外にはなあーんもないカステラの大地。
これを延々4時間はドライブしないと、どこにもいけねーんだよ。
スタッフビンダビリリ、ちゅうようなカッコイイ音楽ないと眠くなって危ねっす。

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