Monthly Archives: July 2011

Ooh La La!

1 わしはビルバオにいる。 ビルバオのホテルの部屋で日本人の友達からきたe-mailを読んでいる。 結局、日本語では正しく何事かを考えるということはできないのではないだろうか? ガメ、どう思う? われわれの言語はこの世界にたったひとつの神様が関与しない言語で、ぼくもぼくの友人達も、それをたいそう誇りにしていたものだった。 きみが、日本語に興味をもったのも、そういう理由だった。 長野の山のなかの、あのレストランで、闇のなかに聳え立つ木々の影をながめながら、神と人間の言語の関わりを、われわれが声帯をけいれんさせ舌をふるわせてわずかな語彙で神を考える事の意味を、議論したときの興奮をおぼえている。 だが、結局、神が関与しない言語など悪魔の言語にしか過ぎないのではないだろうか? われわれは、ほんとうのところ悪魔的な民族で、いわば世界のなかで悪魔的な文明を繁殖させているだけなのではなかろうか。 Kさんのメールを何度も読み返してみるが、そうしてわしは、なぜKさんがそう考え出したかも知っているが、 答えなんて判らねーよ。 判りたくないのかも知れない。 それとも、もう人間の言葉で考えるのがめんどくさくなったのかもしれません。 Ooh La La! Ooh La La! 人間の文法で出来たこの息がつまりそうなシンタクスと語彙で考えるくらいなら、意味のない声を挙げて、踊り狂ったほうがいいのではないだろうか。 Ooh La La! Ooh La La! この知能には、この知恵には、この羨望や、この洞察には、 なんの意味もない。 どんな建設性もありやしない。 2 わしはチェルノブイリの結果だという、一つ目の胎児や双頭の幼児、手足が四方八方に生えた不思議な形の人体の標本を見ている。 日本人の若い医学者たちの意見に反駁するアメリカ人やUK人の友人達のメールを読んでいる。 標本の扱い方について初歩的な知識に欠ける、ある種類の日本人たちの統計の取り方を冷笑するドイツ人たちの手紙を読んでいる。 なぜ日本人は、こういうバカどもを訴えないのか? それとも国民ごとバカなのか? ガメは、なぜ日本人たちのために意見を述べてやらないのか? それともきみが日本語が出来るという噂は嘘なのか? Ooh La La!  Ooh … Continue reading

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食物図鑑 その7 ガリシア篇

午後2時。ガリシアとカステラの国境を通るときに140キロで滑るように走っているシトロンの外気温度計を見たら12度でごんした。 晴れた真夏の午後だっちゅうのに、どーゆー気温なんだこれは、と思っているうちに、ガリシアの濃い緑色の森が消えて、カステラの赤土の台地になる。 くるときに泊まったレオンのホテルが気にいったので、まだ一泊して遊んでゆく気になったんでがす。 ガリシアは食べ物がおいしいので、なんだか食べてばかりいた。 大聖堂の裏参道をずんずん歩いて行って、そこから分かれる脇道にわけいってゆくと、むかしからの(小さな寝室がついた)料理屋も現代風なレストランもある。 英語なんか全然ひと言も通じないが、だから横柄なバカ英語人がいないからいっそうよいともゆえる。 「新市街」にもおいしい店はあるが、わしは伝統料理を食べるのに忙しかったので、現代風な料理屋には三軒、五回しか行かなんだ。 グラシアのような町とは違って、ガリシアでは伝統料理のほうが深みがあるように思いました。 スペインの友達に「ガリシアにいるのだ」というと、ガリシアに夏行くバカがいるものか、と笑われてしまった。 モニも、ガリシアはほんとうは冬がいいんだぞ、という。 初め友達に言われたときには、わしのいるガリシアが涼しいからってひがむんじゃねーよ、と考えたが、モニまで冬がいいというので、(モニがいうことは全部ほんとうであるに決まっておる)、そーなのか、と考えました。 ガリシアの料理屋に行くと理由がのみこめた。 じゅん爺の住む富山と同じなのね。 食べ物が冬においしいものが揃っておるのであった。 夏に特別においしいのは鰯だけであって、他は、ガリシアン・スープも牡蠣も他のほとんどの海鮮料理も冬のものばかりなのでした。 でもいまの季節のものもあって、たとえば、この鰹のタタキはおいしかった。 いーやいーや今度は冬来るからいーや、とふて腐れたが、でも夏たべてもどれもこれもおいしいのよ。 たとえば、これはガスパチョである。 バルサミコで模様が描いてあんのね。 ちべたい白ワインを飲みながら、食べると、野菜のあまみが利いた冷たい滋養が魂にしみてうめっす。 焼いたカタクチ鰯をやはり焼いたイチジクの実に載せて食べる料理 これは無茶苦茶うめっす。 焼いたイチジクとカタクチイワシがこんなに合うなんて考えたひとは天才であると思う。 鰯はもちろん天ぷらもフリッタもある。塩だけ、あるいはレモン、あるいはオリーブオイルで食べます。 オリーブピルをタップリかけると、甘くて、まるで違う食べ物になります。 ナポリタンスパゲティが大好きであって、家でつくるたびにナポリタンスパゲティの臭いが大嫌いなかーちゃんシスターとの結婚生活に亀裂が深まる一方の義理叔父に写真を見せたら悶絶していたタコのスパゲティ。 大量のニンニクとオリーブオイルを炒めてトマトとオイルの甘みだけでつくったソースにタコをいれてスパゲッティとからませた食べ物だったが、これもうめかったす。 シェフのおっちゃんにレシピを訊いたのでニュージーランドでもつくるのだ。 ガリシアとゆえばタコと決まっているが、やはり炭焼きがうまいかしれん。 たまねぎやレッドペッパーやなんかをラタトゥイユ風にまとめたのに目玉焼きをのっけた前菜 やコックル貝をお米と一緒に炊いた雑炊、 シーフードを炊き詰めてつくったシーフードのブロスの「ガリシアスープ」 イモと野菜のガリシア野菜スープ。 スズキの炭焼き 魚に飽きたら、チョリソ界の帝王とゆわれるガリシア風チョリソがまるごとごろんとついたウエボス・コン・パタタスもおます。 毎日毎日3人前くらい食べていたのに、食べるものがつきないほどガリシア料理は豊富であって、わしはあごが疲れた。 ガリシアにだけ特別の料理というわけではないがフランスはサンドイッチが世界一でいちばん程度が高い国だと思うが、スペインもサンドイッチがおいしい国です。 カタロニア人はやらないが、ガリシア人はサンドイッチの片方のパンにまるく穴を開けて目玉焼きをそこに埋め込んで食べる。 これは、子供の時かーちゃんに教えてもらって実はわしもよく家でつくって食べるが、ニュージーランドやロンドンではいちいちシェフのひとに説明しなければならなくてメンドクサイがスペインでは、初めからメニューに載っておるので楽である。 (50セント増し) … Continue reading

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低い空の下で

1 「足下を凝っと見つめている少年」を見たことがある。 いまさら隠す必要もない。 わしはもともとが甘やかされた金持ちのバカガキであって、異国の日本でも地下鉄なんちゅうものには(外の景色が見えねーだろ、という理由で)乗らなかったが、その日は急いでいたので広尾から日比谷までやむをえず地下鉄に乗った。 たしか、「日比谷線」とかっちゅうんだよな、あれ。 魚臭くて、吐きそうな匂いがするクソ地下鉄で、わしはあんまり好きでなかった。 わしは、特に日本では我ながら巨大な肉体のひとであって、浮かれているときにはよくデコを地下鉄の出入り口でぶつけるので、注意に注意を重ねて、まるでベトコンを警戒しながらベトナムの沼沢をすすむ麻薬中毒のアメリカ人の兵隊のように地下鉄にのりこんで、安物の浅い座り方しか出来ない営団のクソベンチに腰掛ける。 気色の悪い蛍光灯色に照らされた車両のなかには数えるほどしかひとがいなかった。 緑色のシャツを着たアメリカ人のおばちゃんと、暗い色のダッサイ背広を着た日本人の若いサラリーマン。 間抜けな制服を着たぶっといくだらない不格好な豚足足をスカートからこれみよがしに突き出した女子高校生たち。 それから、「きみ」。 足下をジッとみつめて、必死に歯をくいしばって、身体が向かい側から見ていても小刻みに震えているのが判る。 拳をにぎりしめて、真っ青な顔をして。 アメリカ人のおばちゃんが耐えられなくなって失笑したのをおぼえている。 わしに目配せをした。 わしは、クソババアの目配せに気が付かないふりをした。 きみは絶対にこの世界を許さないとでも言うように、自分の足下を奇妙な力をこめて眺めていて、まるで、この足だけは絶対におれのものだ、と主張しているひとのようだった。 わしは、うっとりしてしまった。 いま思い返しても、きみの狂気はどれほど、あの狂気の社会で正常であっただろう。 わしは、多分自分の育った社会で、きみのようになりたかった。 きみのようでありたかった。 きみでいるべきだったのに。 2 ガリシアの低い空の下を歩いて、何度も考えてはやめたSt.Jamesの棺を観に行った。 神のいないがらんとした教会には観光客とクソ信者たちの悪い息だけが充満していて、わしは、もういちど、あの日本の「日比谷線」で見たキチガイガキのことを考えた。 まるで純粋培養した憎悪のようなあのキチガイガキは、歯をくいしばって、この世界のありとあらゆる偽善に耐えていた。 わしは、彼の唇からもれてくる「殺してやる。殺してやる」という低いつぶやきを音楽のように聴いた。 それは、まぎれもなく、日本にいるあいだに聞いた、もっとも「神に近い言葉」だった。 人間はなんと愚かでなんと偉大なのだろう。 あの少年の低いつぶやきは、神を怯えさせる「音」をもっていた。 にやにやしながら、ふやけた言葉で神を「学習」して神の噂話をしたがる、あのクソ「信者」どもよりも、遙かに神の近くに立っていた。 匕首をもって。 「殺してやる」という言葉を、わしはどれほど彼と共有したいと願っただろう。 3 午後のあいだじゅう仕事のメールを書くのに追われていた。 欧州も合衆国もおおげさに言えば破滅の淵にいて、わしは、イタリア人やスペイン人やフランス人や合衆国人、UK人の悲鳴を聞いている。 ガメは、なぜまだ絶叫しないでいるのか、この状況が怖くはないのか。 なぜ、動かないのか?なぜ金融屋たちをのさばらせておくのか?なぜ?なぜ?なぜ? きみたちには全然読めやしない言葉で、ぼくはここに答えを書いている。 どうでもいいから、なんだよ。 … Continue reading

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日本を忘れるための努力_第一歩

砂埃が立つ田舎道の道ばたで会社の昼間の休憩を利用してイッパツやってきたおっちゃんが相手の売春婦を商談をまとめた場所にまでプジョー307を運転して戻ってきて下ろしている。 売春婦のねーちゃんはくるまから降りてキャミソールとストッキングを直している。 太陽が照りつけて、乾いた風がおっちゃんとねーちんを等しくねめつけて通り過ぎてゆきます。 猫たちはわびしげで犬たちはエラソーである。 午後1時のショッピングセンターのサンドイッチ屋でエメンタールとハムのサンドイッチを買っていると、身なりのよいおばちゃんが横から、わたしにはハイネケンを一杯とゆってビールを買ってのんでゆく。 近くのテーブルでは土建屋風のおっちゃんたちがふたり、所在なげに赤ワインを飲んでおる。 レオンに行く途中の赤土のホテルで、外に出したプラスティックのテーブルの赤い土のほこりをぬぐって白ワインでタコとイカとイモを食べる。 うめっす。 濃いコーヒーに砂糖をいっぱいいれてかきまぜて、飲み干すと底にこびりついた砂糖がゆっくりカップの底から喉に移動して流れおちてゆく。 コモの湖の西側の丘を、月明かりを頼りに歩いて、石畳の道をたどって、かーちゃんととーちゃんの夏の家からモニとふたりで買い求めた新しい家へ歩いて行く。 コモのどんな小さな村落にもある鐘楼が、広場に影を落としている。 流れ星が湖の上空をいくつも横切って、空の低いところを人工衛星が、なんだか間の抜けた等速で移動してゆきます。 欧州に帰ってきた。 モニもわしも新世界住民を僭称しているが、はっはっは、ほんとうはインチキだからな。 ときどき欧州人にもどってしまうよーだ。 人間は結局生まれて育ったところしか好きになれないのだ、という、あの悪意に満ちた確信が、もしほんとうだったらどうしよう。 もう戻れなくなってしまったが、わしは日本が好きだった。 このブログに何度も書いた定食屋のおばちゃんが好きだったし、このブログには殆ど出てこない、若い科学者たちや法律家、大学の人文系教師たち、あるいはちょっとだけ書いたことがある官僚や研究者である元トーダイおやじたちが好きであった。 一緒にネット上でいろいろな実験もやって、びっくりしたり、感心したりもした。 フクシマが起こって、海外に住むことにしたひともいたし、日本に残ることに決めたひともいた。 フランスで原発がぶっとんでも、結局、自分の故郷に帰る人は帰るだろう、とゆったら元トーダイおやじのひとりが驚いていたが、人間とはそーゆーものではなかろーか。 日本の内閣構成ジジイたちが根拠もなにもなく闇雲に安全だ安全だと言い募るのは、自分なら安全でなければ逃げるに決まっている、命あっての次回選挙議席、と下品な考え以外の考えをもっていないからで、この世界は、ああいうくだらない人間ばかりとは言えないだろう。 孫娘に、どうしてこの事態が安全でないかじっくり言い含めてから、自分だけは死を覚悟して住み慣れた鎌倉の大町に戻る、というのは文明的態度であるというものである。 死ぬまでに、描きかけたツツジの安養院の絵を終わることが出来るだろうか、というのは人間にとって正当な自問でありうると思います。 安全であるわけがないものを安全と言い募る政府は、そういう個人の尊厳さえひとりひとりの人間から奪い取ってしまう。 それがぼくには耐えられないのだ、とYさんは(嫌味にも英語で)書いてきたのでした。 いまの日本と来たら「何が得になるか」という話ばかりで、ぼくが静かに死にたいだけだとゆっても騒音にかきけされて誰も聞いてくれやしない。 ガメは、外国人で、おまけにバカだから、ぼくの声があるいは聞こえるのではないだろうか。 ぼくはハウツーものや、貯金通帳や、土地権利台帳みたいなものと関係がないところで静かに落ち着いて死にたいだけなんだよ。 いままでもあまり良い父親ではなかったし、良い夫でもなかったのは判っているが、死ぬときくらいはもっとうんと生まれてからいちばんわがままでもいいだろう。 ぼくは無害な放射能を「賢くおそれる」町なんかではなくて、有害なのが判りきっている放射能が降り積もる町にもどって死にたいのさ。 ああ、おれが信じてきたこの国はここで終わりなんだな。 でも頑張ったじゃないか。 (ガメが好きな言い回しばかりまねるようだが)悪意に満ちた西洋に押しまくられ、ないものねだりばかりのアジアの諸国には要求を突きつけられて、民主主義を実現しようとして、あの貪欲な田舎者どもや、無関心な都会のバカガキの言いたい放題のラビッシイアイデアにも耐えて、おれたちは、「日本」という世界にひとつだけしかない場所をつくろうと頑張ってきた。 でも、無理に無理を重ねた、そういう努力も、とうとうここで終わりなのだ。 そう納得して死んでゆきたいのです。 ぼくが生まれた新潟の町はとんでもない田舎でね。 自動車がくると、おれたち子供は「それっ」と道路に飛び出していって、思い切り排気ガスを吸い込むんだよ。 そうして、お互いの顔を見合わせて、「おおっ、これこそ都会の香りだな」と言い合ったものでした。 ガメには信じられるわけもないが。 … Continue reading

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カストロなケルト人集落で考えた事

Castro de Barona http://www.galiciaguide.com/Barona.html に行った。 サンティアゴからは60キロくらい。 新しい道路が出来たのですぐに着いてしまう。 2000年前のケルト人達の夢が海辺に射している姿は、奇妙な形をしていて、鄙びて、ケルト人らしく歪んでいて、わしはすっかり気に入ってしまいました。 岩の上に座って大西洋を眺めてしばらくのんびりした。 アルプスの山を越えてコモ湖にあらわれたり、ガリシアにたどりついてタコを食べて顔をしかめてみたり、ケルト人たちというのはオモロイひとびとであって、とにかくあちこちに旅行して、自分の気に入った土地に定住してみるべ、と考えるタイプの生活をしていた、という点でいまの欧州人の生活様式を初めに実践したひとびとだと思われる。 「えー、だって同じひとじゃない」ときみはいうであろうが、 そんなこと何も判ってないのよ。 ブリテン島と大陸とのケルトが総称として文化的な総称なのか多少でも民族的な総称かも判っていないはずである。 わしが日本にいていちばんうんざりしたのは、自分の無礼な態度や非常識なふるまいが引き起こしたとおぼしき相手の反応から、戦争中の日本の集団強姦や大量虐殺まで「日本人に対する人種差別」ですませてしまうひとびとであったが、人種についての話が偏執的に大好きなわりに日本のひとは人種問題の根本的な勘にすでにかけている。 なんでこんなヘンな考えが常識化しているのだろう、と思って考えても判らないことが多かったが、あるときこのブログを読んでくれているひとのメールを読んで、へえと思って調べてみると、80年代に日本が盛んに行った、たとえばロー○リークラブというような組織が後援していた受け入れ側の 大学にとっては迷惑極まりなかったらしい(わしらの側で言う)「観光留学」で欧州にやってきたひとびとが、欧州の閉鎖的な大学世界でまともに相手にされず、フラストレーションを募らせて、「欧州人の人種差別」を唱えだしたという面もあるようでした。 「あの頃はカネがなかったから仕方がない」というが、これはもともと相手にする気もない、本来留学生としての資質に欠けた日本の若い人を受け入れたほうが悪いので日本人のほうが悪いわけではない。 事情は、丁度、いまの英語圏諸国の「語学留学生」と似ているようでした。 あの金持ちの息子や娘達も自分達をそれまでの恵まれた環境であったように遇さない失敬極まる英語諸国の「人種差別」に対して中国語世界で憤懣をぶちまけている。 このひとたちが書いたものをあらためて読むと、フランスに留学してもフランス語が身につかなかったのはもちろん、欧州というものをまるで誤解していて、そうやって誤解された欧州が大量生産されて日本の「誤訳された欧州社会」が出来ていったようにも見える。 人種、という問題を考えるのが苦手なもうひとつの理由は、日本のひとたちが他文化から孤立して生活するのを好むからであって、1億3千万という凄まじい数の国民が太平洋プレートがぎゅうぎゅうと押してくる地震の多い小さな島に住んでいて、資金の面からも、社会の自由度の面からも、あるいはビザの優遇の度合いからも、まるで外国に移住するのを奨励しているような社会制度であるにも関わらず、「外にいけば人種差別が待っている」「外国に行けば女はみんな強姦されて男は性器を切り取られるそーだ」と言い合って、女は顔に墨をぬってガングロになり、男は襲われても襲撃者が慌てて鼻をつまんで逃げる悪臭のポマード(!)を髪に護身用に塗って、小さな島に逼塞して暮らしている。 これは余程根が深いビョーキであって、たとえばフクシマの原発がぶっとんじったときにも、あるひとたちは「ドイツの空港で強制的に放射線チェックをさせられているようだ」とツイッタで大量にRTしていた。 「これでいったん日本に帰ると移住先の国に帰れなくなるかもしれなくて在外日本人は気の毒だ」といいだすひとまでいた。 わしは、それはいかんだろう、と考えて、名指しされていた航空会社の友人に電話して、そんなことをやったらいかんだろーが、ボケ、というと、 「日本から乗り継ぎの乗客のための乗客サービスとして希望者に放射線チェックをやっただけと思う」という。 話していて電話の向こうとこっちでふきだしてしまった。 その日本人のお客さんは、ドイツ語も英語もわからなかったのではないか、悪い事をした、というのでした。 これも、そんなドイツ人らしいマヌケなサービスを思いつくのが悪いとゆえるだろうが。 いまの欧州では現実にアジア人に対する人種差別があるのは誰でも知っていることだが、それは西洋社会に日常の基礎をおいてはじめて判る体のものであって、日本で盛んに「人種差別」と喚き立てるひとびとは、全然そこまでいっていなくて、「お客さん」の段階のひとが殆どであるのが日本人の「人種差別論」の特徴だと思いました。 なんだか根本的にずれている。 たとえばアングロサクソンからの激しい差別意識によって長年苦しみぬいてきたオランダ人などとは根本から話が異なるもののようでした。 ケルト人たちは、もう3000年も他人種と共存したり混交したりしながらこの欧州大陸で暮らしてきた。 そのケルト人たちがもっている「人種」というアイデアは日本のひとが考えるよりも遙かに個々の具体的な事柄に基づいた複雑なものです。 わしがいるこの町でも冗談のつもりで「あんたたちはムーア人に支配されたひとたちだから」とゆって、病院に救急車で送られることになった「欧州通」の日本人がいたそうだが、文字通り世界のあちこちで聞く、その手の話を聞く度に、どうして「判らないことはだまっている」ということが出来ないのだろう、と考える。 日本の人が頭のなかにもっている「人種論」のありかたは、初めから問答無用の喧嘩を売っている形でしかないのを、なぜ気が付かないのだろう。 マンハッタンのユダヤ菓子屋でお茶を飲みながら、「日本では、いまの経済危機はユダヤ人の陰謀だというひとがいるんだぞ」とわしがゆったら、一瞬眼をみはって、怒るより先にお茶をふきこぼして笑い出してしまったユダヤ人の友達のことを思い出す。 自分達ユダヤ人と日本人というものの距離の遠さを思って、自分の宿題ができなかったのは火星人のせいだとゆっている小学生でもあるかのような日本人の「議論」に気が遠くなるようなおかしみを感じたのであるからに違いない。 もっとも20代30代の日本人が、所謂「日本人」とは別の生き物である、というのもほぼ常識になっていて、ミチやケイ、やヤッシは日本人であるよりも先に頼りになるスタイリストで、センスがよくて冗談もうまいヘアドレッサーで、ピンチになればやってきて助けてくれるプログラマーである。 日本人としての強い誇りももっていて、日本人だって誰もが放射能が安全だ、と言っているわけではない、食品だって危険な食品を海外に出すまいとして頑張っているひとたちもいるのだ、と力説する。 そこが日本人らしい、というか、そう言いながらマンハッタンのバーで感極まって泣き出してしまったりするが、泣き出してしまって何も言えなくなってしまった彼の肩をたたいているひとびとのほうは、ただヤッシが人間だと思っているだけで、日本のひとだな、と思うのは、ただ彼の繊細な心がどこから来たかを考えるときだけです。 … Continue reading

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Santiago de Compostela

1 フクシマ以来、さまざまなことが起こって、さまざまなことが忘れられていった。 放射性物質は相変わらず空中から地下と海中へと場所を変えて当初と変わらない流出が続いているが日本人たちは「放射性物質は危険ではない」という「事実」を「発見する」という奇想天外で独創的な方法によって事態を解決してしまった。 20年というような時間が経って、事実の無残な手で日本人たちの「科学」の化けの皮がはがされ、いま行われている日本人の「言論」の悪魔性が明るみに出され、フクシマの子供達が、30歳になるかならないかで、ちょうど彼らが胸から線量計をぶらさげて軍事教練もどきの「朝礼」をやらされた校庭に似た墓地に、安物の墓石として整列させられる頃には、ナチよりも残虐な民族として名を残すだろうが、しかし、とにもかくにも日本人達は自分達が他人を愛しているようなふりをしながら、あるいは自分が信じていることをほんとうに述べているようなふりをしながら、言葉を偽り自分を偽って、今日一日の安逸を貪る「20年」という時間を買ったのである。 忘れようと思えば忘れられるフクシマの子供達の生命を根絶やしにして、残りのおおぜいの日本人の20年が購えるなら安い買い物ですよ。 わたしの静かな日常は変わりません。 わたしにはやさしい友達がいまでもたくさんいるし、日曜日には教会にも行く。 神様もきっとフクシマの子供を見殺しにするくらいのことなら許して下さるでしょう。 なんといってもやさしい方だから。 以前に言葉を交わしたことのある、あの日本人の「カソリック信徒」だという心底くさりきったクソババアなら、そういうだろう。 あるひとは、わしにメールを寄越して、放射線がフクシマの子供をどの程度、殺すかどうかについてきみとぼくには意見の違いがあるが、と書いてくる。 そう。 あなたとわしには意見の違いがある。 ガス室のなかで、苦しむこともなく、この収容所の外にも「世界」があったのだろうかと訝りながら、静かに「人道的に」死んでいったユダヤ人の子供達と、残酷だし、子供を殺すのは嫌だが「世界」のためには仕方がないのだ、でも、あの子供の身体から石鹸をつくってひとりあたりの処分の単価を更に安くするという所長の案はなんだか嫌だな、でも仕方がないのか、と自分に言い聞かせて家路につくナチの看守のあいだほどの「意見の違い」がある。 現場で戦う兵士たちのために、いまはたかがユダヤ人の命のことをあげつらって彼ら兵士や兵士の母親の苦しみを増やすわけにはいかない、と懸命におもいつめる若いベルリン大学の学生と、棒杭のようになった収容所のユダヤ人の死体の山の下から、突き出されている枯れ枝のような腕がかすかに動いたのを見て、バカ声をあげて、「生きている、この子供は生きているぞ!手を貸してくれ! 畜生、ドイツ人の野郎、皆殺しにしてやる!」と悪魔そのままの表情で叫んだブルックリン生まれの兵士ほどの「意見の違い」がある。 神は悪魔にどこまでも似ている。 悪魔が神とうりふたつなように。 冷静でいたまえ。 冷静に、 世界は静かになっていって、 やがて死んで行くフクシマの子供達の魂を慰めてゆくだろう。 冷静に、 日本人たちは、黙祷をささげ、 まるで、そうなることを知らなかったかのように泣くだろう。 ふくしまの こどもたち やすらかに ねむってください。 あやまちは もう にどと くりかえしませんから 2 ガリシアに、もう一週間ほどいることにした。 Santiago de Compostelaはいればいるほど居心地のよい町であって、どうしていままで来てみたことがない(正確にはチビチビなときに来たことがあるらしいが、おぼえておらん)のか不思議なほどです。 モニが「ガメは、きっと好きだから行ってみよう。ひと晩どまりでもいいではないか」というので来てみたのだが、夫をみること妻にしくはなし、とても良い町です。 むかし、旅先で親切にされるなんて凡庸でくだらない、行き先ざきで土地の人間と尖鋭に対立してこそ真の旅行者である、あなたのように土地の人間と仲良くなってしまうぬるま湯のような旅など軽蔑されるべきである、とこのブログにわざわざ言いに来た面白いひとがいたが、わしは親切なひとびとと酒をのみながら、くだらない話をながながとして、けっけっけ、と笑いながらすごす夜の凡庸さが好きなので、くだらなくても、土地のひとが親切なほうが楽でよろしい。 耳に心地の良いガリシア訛で、ただ「オラ!」というかわりに、「オラ!ブエノス・タルデス」と挨拶する。 窓から首を出して通りを眺めているおばちゃんに、帽子をとって、「ブエノス・タルデス」と挨拶すると、腕を広げて、「ブエノス・タルデス」、今日は風が暖かくて心地よくてとても良い日だわねえ、とゆって挨拶します。(ガリシアは最高気温23度くらいで、クソあつい町からやってきたフランス人たちは寒がってふるえている。わしは快適だが) わしも、ほんとうです、なんという穏やかな午後でしょう、とゆって返答する。 おばちゃんの話し方には、人間の会話が音楽であったころの名残が残っている。 去年は「聖なる年」でさぞかし巡礼が多かっただろうが、今年も、たくさん杖をもった巡礼者がいる。 … Continue reading

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Hondarribia

1 昨日は築1130年のホテルのてっぺんの部屋で夜中にモニと「ふたりパーティ」をやっているあいだじゅうSa Dingding http://t.co/7nhqrMv を聴いていたので今日は頭のなかでチベット僧たちがマントラを唱える声が消えない。 ついでに自分でもシャワーを浴びながらマントラを唱えていたらモニに怒られてもうた。 ひさしぶりにジョニー・ウインターの顔を見ようとおもって立ち寄った Hondarribiaがすっかり楽しくなってしまって結局週末をここで過ごすことになってしまった。 夜の12時に始まったジョニー・ウインターの野外コンサートは、どこでもここでも灼熱のクソ夏であるというのに、この町だけは気温が12度くらいに下がって、寒いのが苦手なバスク人やスペイン人には寒すぎたようであった。 北海体質のわしはショーツとフリップフロップでへらへらしてたんだけどね。 テキサン・ブルースなのに素面で聴くわけにはいかないので、ちゃんとバーボンをもっていった。 瓶からラッパ飲みしながら、踊り狂っていても、スペインですもん、全然、怒られません。 兄ウインターおやじは、長年の不健康な生活が祟ったのか、もっと深刻な理由があるのか、67歳なのに腰が抜けてしまっておって、座ったきりだったが、ギターの腕は衰えておらなかった。声は、むかしに較べても声量が落ちた。 大画面に顔のアップが写ると、焦点が全然あってない眼は相変わらずであって、その上に年よりになってしまったので、なんだかビートたけしがふざけてジョニー・ウインターを演じているように見えなくもなかったが、でも、わしはこのブログにも何回か書いたように「夜更けのキチガイ兄弟」ウインター・ブラザースが大好きなので、ジョニー・ウインターがくたばっちまう前にもう一回みられただけでダイシアワセでした。 昼間に仲良くなったピンチョスバーのにーちゃんたちカップルと4人で思い切り盛り上がって遊びました。 ははは。楽しい。 次の日、すなわち金曜日の夜は、バカラオさんのピルピルソース(bacalao al pil-pil)(塩だらのピルピルソース)、アサリの雑炊(arros con almejas)を食べに下町におりていった。 カバの選択を誤って、がまんしきれなくて途中でぶち捨てて、モニさんに白ワインをえらびなおしてもらってガメはわがままだとゆって怒られたが、バカラオさんにありつくのはひさしぶりだったので、途方もなく機嫌がよくなりました。 観光客が大半宿に引き揚げたあとの夜中の通りにはバスク人たちがあふれかえって、カボチャにもならずに舗道をスクーターでぶっとばして歩くチビガキどもや、樽を囲んで大声で笑っている男達が絵として非現実的である。 まるで長いあいだ戦場で有り続けたこの町の石畳の隙間から湧きだした亡霊達がいっせいに立ち現れてつかのまの休息を楽しんでいるようである。 大陸欧州の町は、ひしめきあうように人があふれて、皆が酔っ払う時間になっても、「音」が悪くならない。 マンハッタンのような金属的なような安っぽい嫌な声が聞こえてこない。 男も女も、太いが低い声で、まるで共同して週末の夜の広場のための音の建築に参加しているかのようで素晴らしい。 初めの夜、午前3時だかにホテルに帰ってきたらホテルの正面鉄扉が閉まっていたので、ノッカーを叩いてホテルのひとに開けてもらった。 そのときに女の受付のひとが怯えた顔をしているように見えたので、「ぬはは、ダイジョーブ。この城の主人の騎士が帰ってきたわけではない」と冗談をゆったら、微笑もうとしている顔がひきつっていて、あまつさえ、隣に控えおる、おっちゃんもヒキツケを起こしそうな顔をしているので、もしかしたら、客がくるはずのない時刻であるのをよいことに、 鉛筆でゆえば2Hなことをしていたのだろーか、と思ったが、 次の朝、モニがフランス人向けのガイドブックを読んで、この城ホテルには中世の騎士の亡霊が出るという根強い噂があるのを発見したのでした。 そーだったのか。 悪いことをしてしまった。 鎧戸を開けて、窓の桟に腰掛けて、城のてっぺんの部屋から湾の向こうに広がる大西洋を眺めると、おおきな波も色もうねり方も地中海とは全然別で、オークランドの家が懐かしくなってしまう。 2 この町は、もしかすると日本では何かで有名なのか、中国の人やインドの人、あるいは韓国の人もアジアの人はまったく見かけないのに、日本のひとだけは二日に渉ってみかけた。日本のひとはマジメなので、夜ふけの下町などではもちろん大通りにも出かけてはこないが、城ホテルにも≈ロビーに√グループがたむろしていたし、次ぎの日にも、坂道をかけおりてゆくふたり連れの若い女びとの話している言葉が日本語であった。 日本語をずっと聞いていないので、何をゆっているのか、もう瞬間的であると聞き取れなくなってしまったが、確かに日本語で、あんなに楽しそうにしているんだから、もう日本に帰らなくてもいいのに、と考えてもうた。 スペインらしい、というべきか、この町は実は町の後背にあたる高台に住宅地があって、そこに3つの連続したエスカレータで上がるようになっている。 モニとわしは、煙草を喫いくるっている5人組のバスクおやじを避けて、しばらく待ってやりすごしてから、エスカレータに乗って高台の公園に行った。 大西洋はモニにもわしにも見慣れた海なので、眺めていると、なんとなく寂しい気持がしてくる。 … Continue reading

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