田園

アリストテレスというひとは、科学者としては自然科学について書き残した膨大な見解がすべて間違っている、という前人未踏、空前絶後の偉業をなしとげたので有名である。
赤ん坊は月経の血が固まって出来るのだと述べ、惑星はエーテルが満ちている宇宙空間を「太陽、月、水星、金星が地球を中心として完全な円運動」をしているのであって、その完全運動を完全たらしめている現場監督が「第一動者」という人格であると決定した。
この「第一動者」がカソリック教会の神の素でごんす。

書いたことがすべて出鱈目であって、まともな人間を数多火で焚いて虐殺してみたり監獄にぶちこんだりして科学を完全に破壊しつくして二千年のあいだカソリック教会と手に手をとって人類をオバカ状態におくことに成功したという点で最も業績があったひとです。
あんまり変わらない時代に酔っぱらったローマ兵に刺し殺されなければ微分学の基礎を完成していたとおもわれるアルキメデスのような危険なキラキラした知性とは正反対である。

アリストテレスは、要するに、いまでも科学の世界にもたくさんいる「権威バカおやじ」だったが、その膨大浩瀚な書き物のなかでたったひと言だけ良いこともいっていて、それは「良い人間は田園からしか生まれない」という言葉であった。

これはほんとうは、政治上、都市への集住を批判した言葉だろーけどね。
でも、まあ、いいじゃん。
字義通りとることになってるんだからさ。

田園、という意味は「人間の手がはいった優しい自然」というほどの意味です。
大陸欧州を移動していると、「田園の分布」と「文明圏」は一致しているのだと実感される。
スペインは内陸に向かってたとえばサンチョパンサがロバの背に揺られて歩いてきそうなラマンチャやレオンのような土地では赤土の荒野に「文明」「田園」がオアシスのように点在していて。そのオアシスの中心に街がある。
それがピレネーを越えてフランスに入ると、国土の殆どが人間の手がはいった自然に覆われていて巨大な田園をなしている。
1エーカーの土地、一本の木、草花に至るまで人間の理性が選択して育てている自然です。

連合王国のように比較的野蛮な習慣がある国でも事情は同じで、早い話が、ロビンフッドが活躍する「太古の鬱蒼とした森」シャーウッドの森は太古は沼沢であったはずで、あれも一本一本人間が植えたのだと、ガキわしが尊敬するハゲが述べていた。

フランス人は「イギリス式庭園」の項の説明に「野原のこと」という大失礼な説明をつけた園芸事典をつくったことがあるが、野原にしてはやさしい緑の輝きや、なだらかなスロープに随って小川に落ちてゆく美しい芝は、やはり人間の選択によって出来たものです。

ここまで書くと、この世界には、もうひとつ西洋でいう「田園」で国土を埋め尽くして、それを歴史を通じて誇りにしてきた島国があることにきみは気がつくであろう。
そ。
日本です。

「里山」という余計なうすぺらい情緒がはりついている言葉は好きではないが、信仰に似た米への執着から来ていると思われる稲田を中心に、大量の水を配した耕作地、点在する整備された丘、流れる水、という構成要素で出来た日本の「田園」がいかに美しかったかは、いまのすさまじいまでに破壊されて醜い傷跡だらけの地方の風景のなかにも、破片となって残っている。

日本にいたときはよく長野県にでかけたが、望月や佐久穂というような山のひだにはいりこんだような耕作地に行くと、秋には一面が黄金色で、息をのむほど美しかった。
そこが、わしにとっては面白いところで、これが米以外の作物を育てている畑であると、雑草の取り方もいかにもぞんざいで、なんだかちらかった子供部屋のような印象の畑だが、米になると、まるで耕作地そのものが礼拝堂であるかのような、「敬虔」と呼びたくなるほどの手の入れ方です。

あるいは、松之山、というようなところに出かけたときには、畳にして二畳ほどしかない水田を丁寧に丁寧に手入れされていて、カンドーしたりした。

日本人が収入のためならばこの精緻な人工自然を破壊してもよい、と思い立ったのは多分60年代の中盤以降のことで、いったん、自然なんか壊れたっていいや、と気分を定めてしまえば「イナカモノめ」という表現に代表される、平安貴族が発明した田舎蔑視の思想という便利なものが日本の思想史にはころがっていた。
平安のむかしには、たとえば父親が栄進して東北の荘園の役人として任官してしまえば、一緒に田舎にゆく年頃の娘は「化外の地の空気に馴染んだ」キズモノであって、もう一流人士との婚姻は望めなかった。
日本のものの考え方の、さまざまな思潮のなかには、この平安貴族の「都会人だけが人間なのさ」という考え方が、姿を変え、音色を変えて、基底の旋律のように響いていて、
それがいかにぬけない棘として日本人の考え方に突き刺さっているかは先刻の「田舎者」という語彙ひとつを考えても十分だと思います。

その思潮を背景にして、ちょうど被差別者が同権を求めるような色合いで自然の破壊を主張したのが田中角栄というひとだったように見える。
「太陽が昇る方角に山が聳えているなら、その山を削ってしまえばよい」という日本海側の多くのひとびろに説得力をもったに違いない夢を看板に政治家になったこのひとは、簡単にいうと「土地を投機の対象にする」道をひらいた。
その遠因は、どちらかというと、農産物輸入自由化問題の当時に奇策として採用した農業補償のつじつまをあわせるための苦肉策にあるようにみえるが、ともかく、このひとは自然を徹底的に破壊することを国是にしてしまったようなものでした。

長野県を歩いていると、誰も、歩行する人すら通らない立派な橋や、廃棄された「砂防ダム」、イノシシがレースをするためにつくったようなクルマがまったく通らない、立派な、しかも整備が行き届いた稜線ぞいの舗装道路、というようなものがいっぱいある。
モニとわしは、よく晴れた初夏の日などには、望月の奥の、誰も来ない舗装道路のまんなか(^^)で、ピクニックをしたりしたものであった。

日本の社会は、オカネを儲けるかわりに、稼いだオカネで楽しむべき時間の大本の基盤となる国土を破壊してしまった。
家と田畑を売った金で、キャバレーで札束をばらまいて遊ぶ威勢を誇るようになった農家のどら息子のようなものです。

そういう悲劇的な本末転倒が、結局はフクシマの悲劇を招くことになったと思うが、
バケツで核廃棄物をタンクにぶちまけ続けて、その結果再臨界を起こしてしまう、という、ちょっと途方もない、気分が悪くなるような無知と粗暴の事件を忘れて、フクシマが「想定外」に人知を越えた、不可抗力の「天災」であったという電力会社の陳述を頷いてきく日本のひとの、愛らしいほどの権力側へ寄り添った思考と情緒を観察していると、
なまなかなことでは説得力があることを言えそうもないので、今日はこのへんでよして、またもっと時間があるときに続きを書きたいと思います。

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2 Responses to 田園

  1. wiredgalileo says:

    お久しぶり、夏は農作業やらお盆という民俗行事やら来客やらで忙しかった…というか、まだ忙しいのだけどもね。

    田んぼが宗教的なまでに美しい、という感覚は、西欧的な感覚だなあと思った。
    西欧の宗教施設は「人工の美」だけど
    日本の神社(神の社)は、建築物よりむしろ「森そのもの」なんだよね。
    それと、田んぼの美しさというのは、除草剤で成立してるんだ。
    稲以外の雑草を枯らす、すごい技術だと思うけど、まあ環境にはよろしくない。
    うちの田んぼは無農薬なんで、いまは雑草がひどいんだ。
    いろいろ工夫してみてるけど、なかなか難しい。
    しかしまあそれが自然なんだよね。
    (西欧の美しいパスチャーや米国の芝生も、除草剤の賜物だと思うよ。)

    さて、2ちゃんでときどきコピペされるラビ・バトラの予言のように、
    資本主義は近いうちに、花火のように爆発するのだろうかね?
    怪しい「信用創造の世界」がはじけて、
    人間個人が持つ「本当の信用」が重視され、
    創造されるのは(たとえば食料のような)真の意味での生産物になるような世界、
    江戸時代のような持続可能な小さな文明の時代は来るのだろうかね?
    まあ、社会全体が簡単にそうなるとは思えないけど
    自分の周りでは、そういう生き方の人は増えているようだ。
    国も企業も信用できず、怪しい食物が流通しているので、
    仲間で協力しあって食べ物を作るということに意味が出て来ている。(まあ、放射能被害が激しいところは無理だけど)
    食べ物さえ自給できれば、現金はバイトで稼ぐくらいでいいという若者たちが
    けっこういるんだよね。気のいい、良い人たちだ。
    怪しい「信用創造の世界」が崩れて、現金に意味がなくなったとしたら
    個人の信用と、食料生産等のサバイバル技術、そしてネットワーク能力が真の価値になるだろう。彼らはある意味、その先駆者的存在だと思う。
    「金持ちが天国に入ることは、らくだが針の穴を通る以上に難しい」とイエスは言ったようだが、
    今までのカネ持ち日本は、「天国には入れない存在」だった。
    菅首相もやめて原発推進総理が生まれそうだし、
    マクロ的には絶望的な状況はしばらく続くだろうが
    ミクロ的には、「貧しい状況」のなかから
    真の信用や技術を重んじ、仲間を重んじる人たち、「天国に入れる存在」が増えていってほしいと思っている。

    • 敬愛する顔ガリレオ殿、

      >日本の神社(神の社)は、建築物よりむしろ「森そのもの」なんだよね。

      新潟の小さな村で、明治時代の破壊令を生き延びた鎮守の森を見たことがあります。
      「神社に名前がない」ことと「森が主殿であるように見える」ことに驚いた。
      社を囲んでいる木が、評定にやってきた神様たちみたいに見えるのね。
      すげー、かっこいー、と思いました。

      >田んぼの美しさというのは、除草剤で成立してるんだ。

      なるほど

      >稲以外の雑草を枯らす、すごい技術だと思うけど、まあ環境にはよろしくない。

      そーゆえば、一緒に夜中の小諸(浅間スカイライン)をクルマで移動しているときに義理叔父が「ぼくが若いときは、この辺を夜クルマで走ると『ざあああー』と音がして虫がクルマめがけて飛んできたもんだけど、いまは風景は同じなのに全然虫が来ないいんだよ」とゆっておった。

      >(西欧の美しいパスチャーや米国の芝生も、除草剤の賜物だと思うよ。)

      連合王国やニュージーランドは、そーでもないみたい。
      あれ、ほうっておくと芝になるのよね。
      少なくとも、家の芝生は除草剤使いません。
      気候のせいだろうか。

      >仲間で協力しあって食べ物を作るということに意味が出て来ている。

      日本は、それだけ、そういう「生産性を下げてもまっとうな食べ物をつくる」オカネがある、ということでもありますのい。
      食料の不足は、だんだん、その怪物的な顔を見せ始めている。
      アフリカや中国では飢餓がかなり進んでいる。
      こえっす。

      >食べ物さえ自給できれば、現金はバイトで稼ぐくらいでいいという若者たちが
けっこういるんだよね。気のいい、良い人たちだ。

      伝統的なkiwiと同じですのい(^^)

      >怪しい「信用創造の世界」

      そう言い切ってしまうと、金融革命が本来めざしている「世界の人口をまるごと養うに足りる富の創造」いう面を見逃して、派生的にたかりついただけのバカ金融屋を喜ばせてしまう。
      ここは同意できないようです。

      >真の信用や技術を重んじ、仲間を重んじる人たち、「天国に入れる存在」が増えていってほしいと思っている。

      まことにそのとおりでごんす。

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