なんてったってアイドル


むかしからこのブログを読んでいてくれる人々は熟知しておるように、わしにとっては「アイドル」とゆえば、なんとゆってもAlizéeでごんす。
そ。このブログに何でも出てきた、あのひと。

「ロリータ」

で大ヒットをとばして、登場したアリゼに青春を捧げて自爆した高校生は多かったと思う。

わし自身もアリゼの曲なら殆どフリ付きで歌って踊れるのだとゆわれている。
のみならず、わしのお友達になろうと思えば、モンティパイソンのすべてにエピソードに通暁していることと、アリゼの歌がすべて歌えることが一次試験であった。
モニのほうがずっと綺麗なひとだが、アリゼはいかにもアイドル顔であって、バカタレな高校生たちにとっては、尊崇しやすかったのであります。

男ガキどもには、みな青春の日々にきゃあきゃあゆったアイドルがいるのであって、義理叔父に訊いてみると、このひとの頃は「キャンディーズ」ちゅうグループだったようである。もっとも、Uさん(このひとは日本人・30代前半です)のように十代のときのアイドルが「京マチ子」だったひともいるので、必ずしも同時代のひとが好きであるとは限らない。

この「アイドル」というのは、要するにバカガキのバカさにつけこんだマーケティングだが、そもそもその淵源はどこにあるのだ、と考えて歴史を遡って尋ねてゆくと、日本では
フランス・ギャル

が、嚆矢であるようだ。
輸入モノなのね。
このFrance Gallという人が演じさせられた役割は、多分、アリゼのマネージャーがマーケティングを模倣した役割で、子供の雰囲気を保つように言い渡しながら、一方では性的な暗喩を豊富に身にまとわせた。
ずっと後になって、Gallは、妙ななめかたでアイスクリームをなめさせられたり、キャンディをしゃぶらされたり、バナナを口にふくまされたりしたことの意味を、何年かそういうことをさせられてから知って、怒りと恥ずかしさで身が震えた、とゆっている。
いまとは異なる60年代前半の社会において、まだ18歳になるかならないかだったGallは自分が性的な譬喩を演じていたことにまったく気がついていなかった。
しばらくは鬱病のようになって家の外に出るのも嫌だった本人がインタビューで述べている。

アイドルというものの特徴は、男の側から一方的に押しつけられた殆ど妄想の領域だけで存在が可能な性的役割を公衆の面前で演じてみせねばならないことだが、これがいかに男のアイドルにも女のアイドルにも負担が大きい仕事かは、日本でも、所属事務所の前の舗道に立って、自分と同じくらいの年齢だと見れば、喧嘩をふっかけていたという郷ひろみであるとか、ビブロスというクラブで、ちょっと見栄えの良い男の子と見れば手当たり次第に押し倒していたというSなどの、東京人に伝わる話を聞いているだけでも判るような気がする。
本質が性的な商品なので、スポンサーと性的関係を強要される、というようなことも実際にあるようだが、日本の芸能ビジネスのひとに聞くと完全に強要される、ということはないそーで、どちらかというと、本人がチャンスを求めて性的な関係と引き換えに仕事を手にしようとすることが多いという。
そういうことでまで「わたし、がんばります」な世界なんだよねえ、と、このまた違う機会にブログの記事にしたい、とても興味深い複雑な人間性の人は、自分の業界の事であるのに、半ばうんざりしたような投げやりな調子で笑って話したりしていたものだった。

こういう裏側の体液の臭いがするような話のありかたは、実は、合衆国の「子役」の世界、14歳から16歳くらいの、アメリカという国では需要が多い年齢層のガキどもが役をとろうとして、あるいは自分で手を挙げ、あるいは母親に説得されて、スポンサーのデブおやじたちのホテルの部屋に向かう世界と瓜二つ、というくらい類似していて、日本のアイドルが担っている社会のなかでの性的な役割が合衆国ではどういう形で機能しているかが判る。
それはそれで悉に検討してみると、オモロイもんであるな、という気がします。

忘れないうちに述べておくと、フランス・ギャルが日本にもってきた「アイドル」というマーケティングは、コメットさんの九重佑三子にひきつがれ、麻丘めぐみや天知真理、キャンディーズという頃に大興隆を見て、ピンクレディで年齢層の低下が極限まで進んで(わしが買った本には、最後期にはファンの中心の年齢が10歳だった(^^)と書いてある)、多分、いまは、同じマーケットは日本では部分的にアダルトビデオへいってしまったのではないかと思う事があるが、それはともかく、日本での「モーニング娘。」のような男の側からの一方的な性の押しつけマーケティングを観て、そういう手があったか、と考えたのが、フランスではアリゼ、ロシアではt.A.T.uだったのではないかと思います。
丁度、大陸欧州から東のはてまで行った「アイドル」というマーケティングが40年という時間を経て一周して戻ってきたようにも見えて、わしは、そういうことをオモロイと
感じる。

ついでに下らないことを言うと、ニュージーランドでは、「アイドル」が流行るということがない。女の社会的立場が強い社会では、男たちに「さっさと成熟しろ、ばかもん」という強大な圧力が絶えずかかっているからであって、アイドルのコンサートにおしかける男なんちゅうのは、トングでつままれてゴミ箱に捨てられるのがおちである。
「アイドル」マーケティングにはもっとも向かないタイプの「女が強い社会」なのです。
連合王国においてアリゼが一部バカ男子校のバカクラブで流行っただけで終わったのも同様の理由であるに違いない。

オモロイのは、スペイン語世界では、アイドルが流行りそうなものなのに、同じマーケットセグメントがPaulina Rubio

のような人に支配されてしまうことで、他にもたくさんある
「スペイン語世界の謎」のひとつであると思います。

(記事のタイトルは、小泉今日子という人の歌だそーだ。歌も聴いたことがないし、小泉今日子という人も名前は聞いたことがあるが、どのひとだかよくわかんね でもタイトルの「音」から80年代バブルの浮かれた空気が伝わってくるようで面白いとおもう )

(画像は軍靴の響きも高らかに、韓流優遇に抗議してフジテレビに向かう日本一般市民の方々。嘘です。ごめん。浅草でなくてもセンソー寺、ですのい)

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2 Responses to なんてったってアイドル

  1. SD says:

     今回の話を踏まえて、今の秋葉原や大阪でいえば日本橋にある二次元の「美少女」についても合わせて考えてみると、日本の特殊性がより一層分かるようになるかもしれない、と思いました。
     ササキバラ・ゴウという人の分析を踏まえると、空想の産物である美少女は、男の側の妄想を押し付ける格好のターゲットだったようで、「性的な肉体+幼児的な容貌(征服しやすさ)」という、「キメラ」のようなデフォルメは、そうした妄想を、うしろめたさやら流行り廃りやらで発展・後退しながら具現化してきたもののようです。
     べつに秋葉原にゆかずとも、大○書店くらいの店にだって、こうした「キメラ」が表紙をかざる本はマンガコーナーにゆけばいくらも置かれていて、その程度にこうした表現物が「ありふれた」ものになっている日本は、そうした表現を知らない人間から見れば奇異に映るだろうなと思います(そしてそれらを気味悪く思う人は、それが、上記著者の喝破したような性的な暗喩の凝縮であることを察知するのだと思います)。

    • SDどん、

      >二次元の「美少女」

      現実世界の人間関係で楽しいことが少ないように出来ている日本という社会の反映だんべな。

      >「性的な肉体+幼児的な容貌(征服しやすさ)

      わし、あーゆーの、気色悪いだけで、よーわからん。

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