「幸福」


ヒ。

ヒヒ。

ヒヒヒ。
ヒヒヒヒヒヒヒヒ。

よいことがあったので、わしはたいへん機嫌がよい。
なにがあったかは、まだ教えてあげません。
でも、わしは立っていても、歩いていても、座っていても、ひっひっひ、と笑いが止まらないのであります。
もしかすると、眠っているときも笑っているかもしれないが、モニはわしが眠るときにはたいていもうすやすやと眠っていて、わしが起きるときも、まだ、すやすややすやすと眠っておるので、わしが眠りながら、ひひひのひ、と笑っているかどうかは判らぬ。
今度、タイマー付きのビデオで撮影してみようよ思ってます。

オークランドという所は、遊ぶことがたくさんあるので、忙しい。
クラブ、というようなことを言っているのではありません。
クラブカルチャーは、最近はまたマンハッタンがダメで、ロンドンに中心が移動しているようだが、いずれにしろ、そーゆー不純で楽しい遊びは、28歳というようなジジイの妻帯者になると、億劫である。
オークランド、良いクラブないしな。

カヤックやサイクリング、パラシューティングにボーティング、テニスに乗馬、っちゅうようなことをゆっているのです。
夏になれば、クリケットもあるでよ。

庭の一角に野菜畑をつくる偉大な開発計画や、クルマが増えたので、(おまえのところのクルマは夜中に車庫で交尾しているのではないか、という、古色蒼然として、言われ尽くしていて、おもしろくもおかしくもなんともない、のみならず品位に甚だしくかける冗談をゆって父親が電話の向こうで喜んでいたが、どーして、あのオッサンは、ああ冗談の教養がないのであろう)、来客用のカーポートをぶち壊して新しい車庫を増築する計画をつくったり、カーペットを張り替えたり、壁紙も飽きたので張り替えをしたり、わしが最近ヲタクの面目にかけて凝りまくっているホームオートメーション(^^)、2.4GHzのマイクロ・コントロールの腕輪をして歩くと、自分の設定にあわせて照明やオーディオが変化し、選曲(ライブリごとだけどな)するのを手始めに、ニュージーランドでは一般的なウエザーステーションと連動したクライメイトコントロールをインストールしたりで、「家」というオモチャを使った遊びもたくさんやることがあるのです。

一日も一週間も、あっというまに経ってしまう。

寒さがゆるんで、春の気候になった庭に、やっとシブイ色になってきたチークのテーブルを出して、モニとふたりで、シャンパンを飲みます。
移民社会というものは強力であって、フランス人の肉屋のにーちゃんがつくったハムに、ルーマニア人たちがつくったソーセージ、スロバキア人たちのパン、チキンはハラル肉屋がスパイスにつけこんでおいてくれたタンドリです。

なはは。
なんという幸福な午後だろう。
おまけに、「あれ」。
むふふ。

ヒ。
ヒヒ。
ヒヒヒ。
ヒヒヒヒヒヒヒヒ。

幸福、なんちゅうもんは、単純なものなのではなかろうか。
空気が清浄であって、空が抜けるように青くて、夕方には目を開けていられないような強烈な濃いオレンジ色の夕日が芝生を染める町で、のんびり出来れば、それでたいていの人間は幸福であると思う。

オカネが人間を幸福にしない、というのは、どうやらほんとうであって、オカネの欠乏は人間を不幸にするが、オカネの過剰は、幸福の過剰をもたらすわけではないよーだ。
オカネというものは、不思議というよりは、嫌味なもので、人間の生活の最も重大な部分はオカネで買えないが、重大でない部分はなんでもオカネで解決がついてしまう。
ところで、人間の一生の大半の能力は重大でないことで出来ているので、オカネがないというと、重大でないことに鼻面をひきまわされて人生が終わってしまうのです。

したがって、オカネが豊富にある場合にもっともよいことは、オカネのことを考えないですむことである、というバカな結論になる。
価格札、というものを、他人に騙されて不快な思いをしないためだけにチェックするようになるためにのみ、ひとは富裕になるもののよーである。

富と幸福は、そーゆー意味合いにおいて、カンケーがないもののようでした。

イギリス人やニュージーランド人は、新しい人が近所に、たとえ、ドライブウエイを共有する家に越してきても、挨拶にいったり、挨拶にくることを期待したりしません。

放っておく。

しばらくして、ダイジョーブそうなひとたちだということになると、稀にお互いに手をあげて軽く挨拶したりするようにある。
そのうちに、スーパーマーケットで「偶然」あったりして、言葉を交わすようになります。
アメリカ人たちみたいに仰々しく「クッキー」を焼いてもってきたりしません。

これはイギリス人の「幸福な生活には友人よりも近所の隣人」という知恵である。
簡単にいうとバカ隣人と付き合うのは鬱陶しいので、隣人がバカでも、最初から最後まで知らん顔をしていようと思えばしていられる、という知恵なのです。
イギリス人が隣人と激しい諍いになる理由の第一位は多分「生け垣がどちらのものか」という争いだが、そういう場合を除いては、隣に悪魔が越してきても幸福な生活が損なわれないように工夫されている。

人間関係で最も重要なのは言うまでもなく伴侶だが、ひとりでも、悪くはないであろう。
欧州人の社会は、顔見知りでないところでは徹頭徹尾「ふたり」で行動するように出来ているが、ひとりで住んでいる人に、そうそう外食する用事があるとはおもわれぬ。
外にでかけないで、家にいればよいだけの話です。
あるいは、気のおけないレストランに出かければよい。
ひとりで住んでいる生活は同じ種でも実る果実は異なるものであるべきと思われる。

ちゃんと機能する皿洗い機なしで「幸福」な生活を送るのは難しいのではなかろーか、と大半のニュージーランド人は思っているでしょう。
「清貧」ちゅうようなのはコンジョーがいる思想なので、何事においても楽ちん好きで、楽ちんテキトーが国是のニュージーランドでは人気がない。
「幸福な生活」には、ちゃんと汚れをとってくれる皿洗い機とオーブンは必須であるだろう。
暖炉かログバーナーもないと、幸せな感じになれもはん。
そ。
わしは幸福には物質的な要素も大きい、と思っているのです。

夢中になれるもの、というものも必要である。
それをやっていると、あっというまに時間が経ってしまって、なるべくやらないように気をつけていないと、人生がそれのみで終わってしまいそうなもののことね。
わしなら、数学とゲームがそれにあたります。
数学は、さんすーで判りやすいが、ゲームには多少の解説がいる。
PCゲームであることもあります。
過去を振り返ると、
PT109 (ははは、ふるい)
エーセス・オブ・ヨーロップ
エーセス・オブ・パシフィック
ヒーローオブマイトアンドマジック
マイクロソフトベースボール
クロースコンバット
エージオブエンパイア
ディアブロ
最近では、
カンパニーオブヒーローズ
というようなゲームに狂ったものであった。
往時には、せっかくクラブで欺してアパートに連れてきた、満タンのおねーさまをベッドに残して、「でわ、わしがカクテルをつくってしんぜよう」と台所に立ったまま、つい、うっかりゲームを始めてしまい、そのままねーちんをベッドに待たせているのを忘却してもうて、吐息も熱いむっちんだったおねーさまが罵倒観音になってしまったこともあります。

しかしながらゲーム制作者の能力が低下の一途をたどって、スクリーンのなかのゲームがつまらないものがおおくなってきたので、最近は、現実のマーケットで、ビジネスプランをでっちあげて、ビジネスモデルを製作して、それにあわせて人間の集団ややりようをデザインして、いわばバトルネットの最強組み合わせプレーヤーをつくって、ゲームをすることが多くなった。
架空な「ライフ」や「マナ」の代わりに、現実の金銭が上下するのが難点だが、ゲームの次くらいにはおもしろくなくもない。

そーゆーことはコーフンするが、興奮ばかりしていては健康に悪いので、寝転がって本を読む、という穏やかな楽しみもあります。
英語の本とかは、だいぶん読み尽くしてしまった、わけはないが、同じ言語ばかり読んでいると飽きてくるので、他の言語の本を読んでいることが多い。
「翻訳本」なんちゅうのは、単純に時間の無駄なので、全然読みません。
つまらんもん。

いちばん楽しいのはモニといる時間に決まっているが、こればかりにかまけていると他のことを何もやらなくなってしまうのが経験的に判っているので、なるべくベッドから出て、モニ以外の世界を渉猟しようと努力しているのです。

もちろん、「幸福」というものはひとによって違うものであるに違いない。
わしの小説家の友達は、要するに起きている時間は全部「書いて」いて、書いていないときも、どうも自分が書いているものの他の事は考えていないよーだ。
「花のような」と形容したくなるバレリーナのガールフレンドがいるが、一緒に住み始めたら、不用意に書斎のドアを開けると、本をなげつけて怒ることすらある、とゆってびっくりしていた。
ものを書くのが楽しいか、というと、全然楽しくはないのだという。
でも、書かないと発狂すると思う、というのは、そういう「魂の乗り物」をもっているひとには判りやすいだろう。
何事かにうまれつく、というのは、そーゆーもんです。

数学という科学なんだか語学なんだかよく判らない奇妙なものの相手をしているひとにもそういう人は多くて、要するに朝から晩までそれしか考えていない。
わしは自分の大学がある町で、先生がポストにぶつかって、謝っている、という、なかなか19世紀的な麗らかな光景を目撃したことがあるが、いまだに、そういう人は多いのです。

そーゆー人間にとっての「幸福」は、公約数的な概念として発明された「幸福」とは異なるだろう。
さっき「魂の乗り物」とゆったが、彼らは、無茶苦茶な馬力のバイクにまたがっている向こう見ずなライダーに似ている、と思う。
数学や言語という乗り物に乗って、自分のコントロールの限界まで出力をあげる。
それによって日常から完全に抜け出てしまうことが彼らの「幸福」であって、この強烈な麻薬じみた幸福感を彼らは「幸福」の上位においている。

ヒ。
ヒヒ。
ヒヒヒ。
ヒヒヒヒヒヒヒヒ。

と、ここまで書いても、どうも笑いが止まらなくて困る。
自分で考えても笑いながらコンピュータに向かっている大男の像というのは不気味なので、誰かに目撃されないうちに書くのをやめようと思うが、
「こみあげてくる幸福感」というのも、世の中にはあるのを、ひさしぶりに思い出してもうた。

モニを誘って、芝生の上に寝転がって、空を見て遊ぼうか、それとも、モニさんとちゃんと着替えをしてふたりで午寝をしようかしら。

なんて、暖かな午後だろう。

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