コマツナさんのコメントを読んで考えたこと


コメント欄で「コマツナ」というひとが、テンプターズを知っているなんて、いったいいくつなんでしょう、と訊いているので、一瞬、人間の年齢の数え方でいうとおよそ2015歳とちょっとになる我が実年齢がばれたのかと思ってパニクったが、よく考えてみるとテンプターズなどはたかだか50年弱むかしのバンドに過ぎないので、特に二千年に及ぶ悪行がばれたのではないことに気がついて安堵しました。

しかし、こういう驚かれかたは、考えてみると、このブログを始めてから多分8回目くらいであってチロさんとかマココトとか、そーゆーひとびとに、浅川マキやなんかの話をするたびに懐かしがられてしまう。
そうして、(予想がつくと思うが)、こういう「驚き」は日本でしか成り立たないもののよーな気がします。

たとえば、わしの歳どころか、18歳くらいのそのヘンのガキをつかまえて訊ねてもジム・モリソン
http://en.wikipedia.org/wiki/Jim_Morrison

を知らない、ということは考えられない。
仮にLight My Fire
http://en.wikipedia.org/wiki/Light_My_Fire
が歌えないガキがいるとすると、そのガキはよっぽどのマヌケだが、
ジム・モリソンが死んだのは1971年、「Light My Fire」が初めに流行ったのは、
1967年のことです。

日本人の音楽趣味を代表する、ぴんからトリオの「女のみち」が400万枚売れたのは1972年のことなので、宮史郎がこぶしをうならせていた頃には、もうジム・モリソンはとっくのむかしにくたばっていた。

なぜ、こーゆー古い音楽がいまコーコーセイをしている諸君にも馴染みのある音楽であるかというと、英語世界では、ロックのごときものは、アイヌのユーカラのごとく、口承伝承されるものであるからで、ロックでなくても、たとえば The Three Stooges (1930年代)、Tom and Jerry(1940年代)、そして就中、「Monty Python’s Flying Circus」(1970年代)のようなものは、いやしくも大学生であれば、「スパム」の歌はちゃんと歌えねばならず、「やりすぎだよ、おまえ」と止められる、スペインの宗教裁判におけるテリー・ギリアムの形態模写も「そら」で精確に再現できるのでなければならないことになっている。

わしは「異文化蒐集家」なので、むろんのこと、「てなもんや三度笠」初出演の16歳のジュディオングも知っていれば、悪魔君の口まね、ナショナルキッドが飛ぶシーンのピアノ線まで、ちゃんと知っている。
のみならず、浅川マキ、シモンサイ、丸山明宏、ジャックス、水原弘、弘田三枝子などは歌える歌がたくさんある。
奥村チヨの「恋の奴隷」だって、ちゃんと歌えれば、ぴんからのトリオの「女の操(みさお)」という恐ろしげな題名の歌だって聴いたことがある。
われながら碩学でごんす。

日本で、たとえば高校生のガキどもが、かまやつひろしと笠井紀美子がデュエットするなかなかカッチョイイ歌を歌えたりしないのは、日本では流行歌が「消費」されてしまうからだろう。
「コマツナ」さんが述べていた「グループサウンズ」のひとびとは、きゃあきゃあという歓声なような嬌声のような訳のわからん阿鼻叫喚のステージに立って演奏しながら、「こんなクソ音楽ははやくやめて、まともなロックをやりたい」とひとしく念願していたそーである。
テンプターズもタイガースもオックスも、みな同じ悩みを悩んでいたわけで、そういう悩みにファンが反応していれば、日本にも伝承に足る音楽の文化が育っただろうけれど、ぬわあーに、彼らの頼みの綱だった「ファン」のほうは、別に彼らの音楽性を支持していたわけではなくて、ただきゃあきゃあゆってみたかっただけだったのです。
鼻をかめば捨てる、ティッシュペーパーと本質的には変わらない存在だったようだ。

戦争を通してヒューマニズムを描きたかったのに「黒い零戦」に乗った坂井三郎やなんかを描かされてくさりきってしまった「紫電改のタカ」のちばてつやや、ネームを編集者が全部書き換えて自分でいれてしまった漫画を描かされて精神に変調をきたした吾妻ひでお、というような例をもちだすまでもなく、漫画でも、ドラマで、映画でも、日本人の大好きな「一流大学」を出て、なんの才能もなく、マーケティングさえ、単なる鈍感人間の「山勘」から出た思いつきなのに、なんだかエラソーに何事か新しいものをつくりだそうとしている人間にあれこれ意見して、ドタイクツなクソ作品に仕上げたあげく、文化的価値なんか隅っこをほじくりかえしてもでてこないヘンな「文化商品」をでっちあげる日本社会の官僚制至上主義の伝統は、いまに脈々と生きている。
そこでもてはやされるのは、糸井重里くらいから始まったつくられた消費主義に幼いときから飼い慣らされた感性をもつ「消費者」に受ける「消費物としての創作」であって、そのあたりから始まった悪循環は、日本の文化を80年代くらいから、すっかり皮相なものにかえて、言語的に最も深刻衝迫した前線であるべき文学などはかけらも残らないくらい粉砕されてしまった。

僅かに普遍的な切迫した表現手段をもっていた漫画も、江戸以来しぶとい伝統の戯作の道を歩くことも出来たのに、もうとっくのむかしにアカデミズムっぽいこけおどしの衣装をまとったバカ「文学」派と相変わらず部数と読者数のことしかゆわないコマーシャリズムに自分のボーナスの額がかかっている出版社の商業主義との挟み撃ちにあって、ぺしゃんこに押しつぶされてしまっているのかもしれない。

せめて義理叔父の世代がまだ保持している、漫画の歴史的理解力、彼らのあいだでは伝説であるらしい「お荷物小荷物」のような世代財産的なドラマの記憶、そういうものが若い世代ではあたりまえのことになって、毎日刻々と大量に生産されては大量消費されて忘却の闇に大量廃棄される日本語文化が、せっかく質は高いものがまだ残っているのだから、
百年後の東京の町で、「はどどぼいるどどだど」と眉をつりあげる、高校生の姿を見たい、と日本文化に興味があった、いちガイジンは念願するのであります。

(画像はイーストビレッジ名物の「壁画」。これを見ると条件反射でカクテルを飲みたくなるのが難である)

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2 Responses to コマツナさんのコメントを読んで考えたこと

  1. じゅら says:

    >英語世界では、ロックのごときものは、アイヌのユーカラのごとく、口承伝承されるものであるからで

    ちょうどこの間、英語じゃないけど英語が相当通じる世界の人から、そんな話を聞いたばかりです。テレビやラジオで、集まって飲み食いするパーティでカラオケで、普通に生きてて覚えてしまうようなものだって。
    日本でそこまで身につけるには、家族や近い親戚に好きで詳しい人がいるか、自主的にいろいろ探して大量に聞いてしまう熱心な人であるかのどちらかが必要になります。はっきり言ってマニアの領域です。なので下手すると、「俺は古い物にまでこんなに詳しいんだぜ凄いだろ偉いだろ」合戦になったりして。
    外国のコンサートで、あるバンドの人が、それこそジム・モリソンのようなクラシックを爪弾くと、老若男女のファンから大合唱が起こったとか、そんな話を聞いたことがあります。その一方、遠い国から来日したバンドの人が、コンサートで昔の名曲をカバーで演奏しても、若い女の子メインの客は全然反応しなくてぽかーんとしていた、という話をネットで読んだり。
    日本語だけで趣味分野の情報を追っていると、新しい物をチェックするだけでいっぱいいっぱいになり、かえって疲弊することが多々あるような気がします。商業ベースの発信元だと特にそうです…。

    私の母親は、家事のついでに必ずNHK第2ラジオをつける人で、日曜などはラジオ体操の時間からずっと流れっぱなしでした。あれは、昔の歌謡曲やクラシックや、狭い意味での邦楽や落語など、「古い」と敬遠されがちなものがいっぱい流れます。それとテレビで時々ある懐メロや懐かしテレビの番組が、古いものに触れるチャンスの全てだったかなあ。
    それから、小学生時代の担任の一人が、今思えばすごいんですけど、授業に関係ないお話や昔のフォークなどをやる時間を週に1コマ取る人でした。エレキじゃない方のギターを持ち込んで歌ったり教えたり。今どうしてるんだろう。

    少し前新聞に載っていた、えらかったり有名だったりする人が自分史を語る記事で、どこかの会長で団塊世代の人が語っていたことが印象に残りました。例によって大学紛争の時代で、マルキシズム全盛で、自分も友達もそういう経済学の勉強にどっぷり浸かっていたんだけど、それと同時に、卒業したら即大企業に就職して出世することを目指していて、誰もそれに疑問を持っていなかったと。そこまで綺麗にきっぱり割り切れてて、明らかな矛盾に疑問も持たないのって、ちょっとすごすぎて私には理解不能でした。
    「文化じゃなくて消費」って、この辺りからも来てるのかなと思ったりします。
    あと、最近18禁でも何でもない少年~青年向けのマンガ雑誌を見て、端々で目をむいたり絶望したり打ちひしがれた話も書こうかと思っていたんですが、長くて疲れたので省略。

  2. コマツナ says:

    疑い深い私は、もしかしたら義理叔父さまが
    ガメさんに乗り移ってあれこれを代筆したのか、
    などとも、ちょっと思ってしまいました、ゴメンナサイ!

    さて、たとえばジュリーやショーケンなら、
    そのころ生まれていなかった今の若い人でも、
    ぜんぜんきいたことない、ということはなくて、
    知っていると思います、それにまだふたりとも現役ですし。
    GSの人たちは、ほとぼりが醒めたその後は、
    作曲だの編曲だのに転身していったような記憶が。

    またおもいだしました。タイガース「花の首飾り」「銀河のロマンス」、
    遠足のバスのなかで、みんなでうたった!

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