幽霊だぴょん

ガキわしの頃、北半球の冬、南半球の夏を過ごした「牧場の家」はだいたい築100年で、連合王国の家に較べれば新築同様(^^)というべきだったが、それでも百年も家をやっていれば、そのなかで死ぬ人もいて、家に泊まった客のあいだでは「幽霊がでる」という噂が専らでした。
正面玄関をはいった両側とホールを突き当たって左に曲がる廻廊ぞいの4つ、合計6つの部屋が客用の部屋になっていたが、そのうち玄関をはいってすぐ右側の部屋に幽霊が出るという。
初めに「幽霊がでる」と言い出したのは連合王国から遊びに来ていたテスだかテレサだか、なんだかそういうバカげた名前のやたらおとなびた12歳くらいの娘で、ときどき開けておいたドアの陰に子供が立っている、という。

そのうちに、夜中にアメリカ人の夫婦が廻廊を背をまっすぐに伸ばして歩く老婦人が歩いている、と申告してきたり、やはり玄関の横の部屋に今度は「背の高い男」が夜更けに立っている、という。
この夫婦は廻廊をずっといった奥の左側のデカイ部屋に泊まっていて、この部屋からいちばん近いトイレは廻廊の反対側だったから、バスルームにすううっと消えた老婦人の背中を見送ったあとではトイレにいかれず、気の毒に奥さんは朝まで漏らしそうになりながら懸命にこらえていたそーである。

わしは、所もあろうに、自分が住んでいる家にお化けが出る、と聞いて、すっかり嬉しくなってしまったので、かーちゃんに頼んで、先刻のアメリカ人夫婦が滞在した部屋の向かいの部屋に自分の部屋を移して、夜中に努めて起きていることにした。

当時のガキわしの疑問は、幽霊は目撃談によると、思考しているように見えるが、大脳を器官として欠いているものが意識をもつ、というのは、どうなってるんだ、という事が最大でした。
大脳がなくても、意識がもちえて、思考ができれば、魂魄さえ宿ればポサムでも哲学書が書けてしまう。
それはそのまま、あの複雑でええ加減なニューロネットワークをこさえなければ人間に意識をもたせてやれなかった、神様の限界を示しているのであって、幽霊の存在を認めれば、神様が関与している自然の体系とは別の、しかも、もっとクールな自然体系がこの世にはあることになって、それではなんだか神様が気の毒である、と考えた。

だから、夜中に頑張って起きていて、幽霊ばーちゃんと話してみたかったが、そういう心がけだと幽霊と会えないとかで、到頭、いまに至るまで会えずに仕舞っている。

残念、というしかありません。

ランガムヒルトン、というロンドンのホテルは、成金お上りさんがよく泊まるホテルだが、このホテルは、ロンドンっ子なら皆しっている、元はBBCの宿舎であって、3XX号室は当時から誰も泊まってはいけないことになっていた。

夜中に、どーも息苦しいな、と思って目をさますと、壁から若い男が現れて、…ここから後が独創的だとわしは考えるが…まっすぐに宿泊者めがけて歩いてきてクビを絞めまくる、という。
この直截的に凶暴な幽霊の魅力には、とーちゃんがすっかり参ってしまって、自分の地位にものをいわせて、是非泊めさせろ、と交渉したがホテルに断られたよーだ、と、とーちゃん友達が述べていた。

とーちゃん自身にインタビューしてみると、「わしは、そんなことはやっておらんぞ」というが、建前として幽霊を信じていないことになっているだけで、旅行しても幽霊がでそうなホテルばかり選んで泊まる、という噂のひとであるから、そんな猟奇的父親が自分の息子にオオマジメな顔で語りかけることなど信じるに足りない。
第一、あんなマジメな顔でいうところが、そもそも怪しい、と思う。

そーゆーわけで、なぜかいつも絞めているボータイを外すと、そこには赤紫の手のひらのあとがくっきりとついている、というような非日常の味があるカッチョイイ父親を、わしはもちそこなったのでした。

合衆国で最も有名な幽霊の出没地といえば、なんとゆってもゲチスバーグ
http://www.angelfire.com/journal/wordsareair/gettysburgghostphotos.html
だが、あっちにも、こっちにも、北軍も南軍も一般人も、昼夜を問わず亡霊が出まくるので、幽霊見物に行くのに、最も外れがない、という。

外れがない、ということでいうと、むかしむかしは、鎌倉の消防署の辺りは松林で、夜にあの辺りを通ると、必ず馬のいななきや武者が敵を求めて呼ばわる声がしたそーである。
義理叔父は、ひところ、何回か死んだ戯作家の井上ひさしと横須賀線に隣同士で帰ってきたようだったが、鎌倉佐助に越してきたばかりの作家は、「原稿の締め切りが近いのに夜中に裏山から武者たちが叫ぶ声や馬のいななきが聞こえてうるさくて原稿が書けない」と、こぼしていたそうである(^^)

わしは日本の墓地や「心霊スポット」や日本式幽霊が怖くなくて困った。
夜中に妙法寺の丘を散歩しても、全然ぐっと来ないので、一緒に歩いた義理叔父を落胆させたりした。
もっとも、わしは、墓地は西洋墓地であっても怖いと思ったことはなくて、怖がるよりも石の表に刻まれた、たとえば 女の名前で1890ー1907と生きていた年が書かれていて、その隣の小さな墓には 1907ー1909と刻まれていたりすると、このひとびとの人生には何が起きたのだろうか、と考えて、しんみりしてしまったりする。
たとえばギリシャ人たちの墓には生前の写真もはめ込まれているので、墓のあいだを散歩しながら、人間の一生というようなことを考えるのは、わしの散歩の楽しみの重要な部分をなしておるよーだ。

「呪怨」のようなよく出来た恐怖映画でも、ハリウッド版が怖いのでぎゃあああ、ぐわあああ、といいながらクッションを握りつぶして見ていたが、もっと出来が良いはずの日本版は、ちっとも怖いと思わなかったので、なんだか、そういう文化的な意匠に恐怖心が反応する、という面があるような気がする。

足のない日本の幽霊に較べて、どたどたと靴音を響かせて追いかけてくる中国の幽霊であったり、壁をぬけてあらわれる西洋や日本の幽霊に比較するに、ドアをどんどんと叩いて乱入しようとするニュージーランドの幽霊や、美しい若い女を見れば寝台に忍び乗って陵辱するインドネシアの幽霊、
幽霊が文化上の違いによって形態も振る舞いも異なるのは不思議である気がする。
どこか天上で談合したわけでもないのに、「死んだ人間の魂が実像をなして、現世に現れる」というコンセプトは同じだから、具体的な顕現に差異があるのは不思議なのです。

文化的差異、とゆえば、幽霊談義への反応が最もオモロイのは若いウクライナ人やロシア人で、スペイン人たちが酔っ払って幽霊談義を始めると、「ぶっ」と失礼にもみなで吹き出して、「幽霊なんて、信じてるの? いったい何時代の迷信家かね、きみらは」なんちゃってスペイン人たちを腐らせておる。
共産主義の置き土産で、彼らは、まったく、はなから、幽霊なんちゅうものがいるわけねー、と思っている。
唯物主義が「霊」などというものを押し流してしまった津波のあとに生まれた彼らにとっては、魂魄などというものは「遅れた資本主義社会の因循な迷信」なのです。

では本当に幽霊がいるのか、と問われれば、旧ソ連領人たちではないが、「そんなもん、いねーでしょ」としか、わしには答えようがない。
自然の世界っちゅうのは、訳が判らない、ほぼ無茶苦茶な世界なので、幽霊みたいな何の役にも立たないものがいても特に不思議ではないともいえるが、
「いない」と仮定したほうが世界を説明しやすい。
幽霊みたいなものにマジで存在されると、物理学も医学も、その他さまざまな科学の分野で書き直したり初めから考えそのものをやり直さなければならない事がいっぱいあるので、真理の神様としてもメンドクサイ、というのが本音であると思われる。
特にこちらの言う事に反応して口を利く幽霊に至っては、きみは、わしの科学的知見を愚弄するために現れたのかね、とゆいたくなる体のもので、先刻も述べたように大脳のような神経中枢を器官としてもっていないのに、言葉なんか操ってはダメである。

というわけで幽霊は、生きているこちらの側の幻覚でなければ困るが、この幻覚というのがまた人間の知覚の不確かさということとあわせて考えると、ひと筋縄ではいかなくてふた筋縄や飛び縄や緊縛縄がいるもののよーである。

強制的に幻覚を生じさせた記録にはさまざまなものが残っているが、最近はやたらに大脳に針をぶすぶす刺したり
、脳の部分をちょんぎったりしてはいけないことになっているので、何かの弾みで中国の秘密研究機関かなにかの資料が外部に漏れ出てくるのを待つしかないのかもしれません。

幻覚でもいいから幽霊みたいけどね。

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2 Responses to 幽霊だぴょん

  1. wiredgalileo says:

    魂soulや霊spiritというのは何ものなんだろうね?
    生命は不思議なもので、単なる物質ではなく、物質を乗り物にしたエネルギーのようなものだよね。これまでの科学では、これが何ものであるかは理解できていない。
    意識というものも、脳神経はハードウェア的なもので、意識本体はソフトウェア的に存在する(次元が違う)ものだと思う。そして生命と同様に、意識は、今の科学が理解するよりはるかに広大で深遠なものだと思う。

    シュタイナーは、人間は4つのレベルからなると言っている。以下、私なりに整理してみると。
    まずは物理的身体。これは目に見える普通の身体で、まあ「この世」的な身体だね。地球上では鉱物と共通する部分。
    次にエーテル体。これは植物以上とも共通している部分で、「生命」の宿る体という感じかな。中国で言う「気の身体」と同じで、気功師や合気道のマスターとかは、この気の身体が「見えて」いるし操作もできるようだ。
    次にアストラル体(感情体)。動物以上とも共通している部分で、いわゆる「魂」だね。
    次に霊体。日本語の霊は幽霊という言葉に近いけど、spiritはもっと偉大な感じというか、単なるエゴを超え「本来の自己」となった精神体とでもいうべきものなのかな。私も含めて多くの人はこのレベルを獲得しているわけではないので、想像が難しいけど、知性と感情と意志のバランスがとれて成熟したときに人が獲得できる境地みたいなもんなんだろうと思う。
    んで人間は、感情体を統御し、知性と感情と意志のバランスをとることで、霊体を獲得する?過程にあると考えているみたいね。個々の人間の輪廻転生において、また、人類全体において。

    イメージ的にいうと、物理的身体は「固体」であり個体だけど、エーテル体やアストラル体は流体であり個体を超えた集合無意識的なものとも関係している。霊体は気体でありさらにエネルギーレベルが高く、集合意識への影響力も大きい。みたいな感じではないかと思う。

    幽霊というのは私も経験はないけど、いろいろな人の経験を読んだり聞いたりすると、「霊体験」はあるみたいね(たとえば作家佐藤愛子が自分の霊体験を書いた『私の遺言』は面白かったよ)。
    想像するに、ふつうの幽霊というのは残留思念みたいなもので、アストラル的に受信しやすい人が受信する現象なんじゃないかな? 多くの人は、死後も自分の意識を統一できるだけのエネルギーはなく、「意識の海」に溶けてしまうけど、強い「残念」があると、ある程度現世に影響できるんではと。

  2. 妖怪目玉 says:

    写真のおねいさんの脚、ええ脚やー。
    脚線美、めでたし。

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