詩のない生活

モニが結婚してもっとも呆れたのは、わしが本ばかり読んでいることだそーである。
「本を読む」などというのは、もっとも人間の精神を不健康にする習慣なので、わしは人前では本を読んだりしません。
「人前」では何をしているかというと、人間を眺めている。
チャドルを身につけた女の人を見て、中東人は目の化粧に凝るなあー、と思っていたり、
背をすらりと伸ばして立っているおばちゃんを見て、あっ、このひとはだいぶん長いあいだバレーをやっていたひとだなあ、と考えたり、中国の人かなああー、日本の人かなああー、お洒落なのに髪を染めてないから中国の人だよな、きっと、あっ、歩き出したら日本のひとだな。日本の人でも髪を染めるのが嫌いなひとがいるのだな、とか、
そーゆーことを考えている。

ひとりでいるときは、隙さえあれば本を読んでいる、と言ってもよい。
ラミュエラの家から、いったんミッションベイというところに出て、CBDまで行くと、10キロくらいだと思うが、わしは、そのくらいの距離は走って往復する。
運動が好きだからです。
何か買う物があって、それがCBDであったりすると、走って買いに行ってしまうので、モニにはいつも監視されておる。
どーゆーことかというと、「ガメ、27インチのiMacをディスプレイとして使うには、どーするんだ?」とモニが訊く。
あっ、それはねminiDVI-miniDVIケーブルちゅうのがありまんねん、わしが買ってきて進ぜよう。
この「買ってきて進ぜよう」というところで、もう走って行こうとしているのがばれるよーだ。
クルマなら必ず「一緒に行こう」というからだそーで、なんだ、そんなことでばれていたのか。
走って行くと、途中で寄り道をしたりコーヒーも飲むので2時間くらいかかります。

あるいは、また、最近は「Steam」という凶悪なゲームダウンロードサイトがあるので、ついつい出来心でゲームをダウンロードしてしまう。
なにかの弾みで面白かったりすると、2時間くらいはまりまくっておる。
屋根裏部屋にはいりこんでLANの配線に熱中していることもあれば、当然、モニとテニスで激闘する午後や、ふたりでのんびりゴルフをしていることもある。

そーゆー忙しい毎日だが、子供のときからの習慣で一日に4冊は必ず本を読んでしまう。
習慣、と書いたが、日本語では、中毒、のほうが近いでしょう。
自分で自分を観察していると、読書というようなものは質が大事なはずだが、最近は退廃的で、一定の量を読まないと煩悶するものだから、とりあえず量を読むまでは、落ち着けないよーだ。
運動したり、CSIのエピソードを立て続けに5つ観てしまったり、いちゃいちゃもんもんしていたりして、時間が大量に消費されると、自然と「軽い」本を手にとっている。
Colin Dexterとか、地球上に残っている水の話の本だとか、そーゆーやつです。
中世やなんかの歴史の本と犯罪小説が多いよーだ。
英語という言語は読書人口が巨大なので、恐竜を探しに行ってコンゴで翼竜に襲撃された気の毒な博士の本だとか、乞食として知られていて、その実、株で儲けて大金持ちだったおばちゃんについての伝記だとか、アホな本がたくさんあります。
読むのに事欠かない。

尾籠であるが、雑誌はトイレで読む事が多い。普段はNational Geographicを読んでいる。
したがって、あの黄色い表紙をマガジンスタンドに発見すると、なんとなくトイレ臭いような気がする習慣が出来てしまったが、そういう下品な話は割愛します。

時間が潤沢に余っている場合は、算数の本を読むことが多い。
これはときどき鉛筆を探して、こちょこちょと紙に書いたりもするので矢鱈と時間がかかる。
考え込んでしまう時間が長いので、あるいは、ああいうものは「読書」とはいわないかもしれません。

退屈すると、スプレッドシートを眺めて遊んでいることもあって、読んでいるうちに、
「あっ、ここで誤魔化しておるな」とか、「あんまり仕事してへんのだな」と、表計算を送りつけてきたほうには思いもよらないところを「読んで」いて、楽しい思いをすることがある。
モニがよく不思議がっている、わしの「表計算を眺めながらくすくす笑う癖」というのは、要するにそういうことです。

一方で、このブログを太古のむかしから読んでくれているひとたちが、よく知っているように、わしは年がら年中、うろうろしている。
うろうろしている、とゆっても、落ち着いて観察すれば地球の上をブラウン運動しているわけではなくて、もともとの歴史性、「ロンドンとニュージーランドを毎年往復していた」ということから派生した移動をしているのに過ぎない。
これは実はある種類の連合王国人には、かなり普通なことなので、日本の人には珍しいかもしれないが、連合王国人にとっては、そーでもない。

ロンドンからニュージーランドに至るには、わしガキの頃は、シンガポールか日本で乗り換えるのが便利であった。
だから初めはシンガポール遠征計画を立てて、シンガポールに何十回も行った。
それが後半、というか2005年から2010年にかけては日本にルートが変更になっただけである。
わしはなにしろメンドクサイことが嫌いなので、乗り換えるのに、空港で次の飛行機を待つ、とか、そんな気が遠くなるようなくたびれそうなことはしません。
街にでかけて、一ヶ月くらいごろごろしている。
ホテルというのは、不便なので、そのうちに家を借りるようになる。
借りていると、いないあいだの家賃がもったいないので、えいこらせ、と決心して家を買う。

そうやって、あちこちにばらまかれちったのが、わしの「チェルシーの家」や「山の家」、「グラシアの家」っちゅうような、へんてこな住居になっている。
このブログを書いている期間は肝腎の(とゆっても何が「肝腎」なのか、さっぱりわからん生活だが)ロンドンにあんまり行かないのは、理由は簡単で「なんでもかんでもクソ高いから」である。
社会の性格、ということもあって、かーちゃんの家にいてさえ、快適に暮らそうと思えば一ヶ月に200万円程度の出費は避けられない。
同じ程度の満足がえられる生活をガリシアですれば30万円くらいでしょう。
アホらしいので、この頃は、あんまり行かない。
会社の中心機能は相変わらずロンドンにあるので、たとえばニュージーランドからはやや遠くて不便だが、会社のほうに行くのはメンドクサイので、会社のほうからニュージーランドにでかけてくることになっている。
クライストチャーチでもオークランドでも、わし会社には何故か宿泊施設が付随しているのは、そのせいである。

ところで、こーゆー、うろうろ生活をしていて、もっとも困るのは、どの本がどこの家にあるのか、さっぱり判らなくなることで、電子的にクラウド書棚が提供されるキンドルのようなものに買い換えてしまえた本は良いが、紙の本は、何がどこにいってるのか、さっぱり判らなくなってしまった。

いかにわしがケチであるとゆっても、たとえば、それがロンドンの書棚でえばっている「プルターク英雄伝」であれば、読みたくなれば、まだ細々と生き残っているバーンズ&ノーブルに行ってマンハッタンでも買えます。
ストランドにもあるかも知れぬ。

でもそれが「B型平次捕物帖」になるとお手上げなのですね。
英語でない本は実に困る。
家賃が安い所に引っ越した紀伊國屋書店に行っても、ない。
あの、平次とハチが。この男が流されていたのは八丈島か佐渡だろうか殺された男の腕に描かれた入れ墨を見ながら議論していると、同心の「旦那」がやってきて、ピッとバーコードリーダで読んで、「ハルマヘラ島だな」と呟く、あの悲しくも美しい物語の数々が読めないのです。

それでも、いしいひさいちならば、日本で探してもらって、もうひと揃いマンハッタンにも揃える、ということが出来なくはないだろうが、岩田宏、岡田隆彦、瀧口修造というような、わしが日本語で書かれたもののなかで最も好きな「現代詩」になると、そもそも日本の古書店のおっさんたちに頼んでも調達できないので、困りまくってしまう。

T.S.Eliot 、 W.H.Auden、 Dylan Thomas…というような英語詩人たちならば、ちょうど、義理叔父やトーダイおやじたちが李白や杜甫を中国語と日本語の両方で暗記しているように、ちゃんと暗誦(そら)でおぼえている。
ひとつの言語の文章を一定の水準以上で書こうと思えば、その言語で書かれた詩の「魂のリズム」のようなものが頭の根底にはいっていなければ書けないのは当たり前で、観察している限り、日本の小説家でも、言語感覚の悪い、すなわち日本語そのものがくだらない小説家は現代詩がまるで頭にはいっていない、どころか、読んでもいない。
(ちょっと信じがたいことだが、わしのブログに文句を言いに来た文学人のなかには、わしが現代詩の表現について触れた「定型」ということについて、五七五の事だと思った救いがたいバカまでいた)
逆に、あの猛烈な翻訳体日本語の大江健三郎の日本語を骨格として支えているのは岩田宏や「荒地」同人たちの詩であるのは明らかであると思う。

でも、そこは外国語である悲しさ、日本語の詩は、いっこうに暗誦でおぼえられないので、こうやって日本語を書くのを習慣にしているのに、手元に詩集がないといらいらしてしまう。

「定型」を思い出す手がかりがないからです。

東京はすでに東京でない
いけすかないいけずのいけすです

と、かろうじておぼえている岩田宏の詩句をつぶやきながら、はやく放射能なんとかしてくれろ、と思う。
それとも広尾のアパートのときにそうしたように、山の家も、一切合切、ゴミもまとめてコンテナにいれて送ってもらうか、と考えたり、
いろいろに煩悶している最中だが、まだ方針が決まらない。

いつかは、また、あの日本の「世界的水準」どころか、そんなものを遙かに越えてしまっていた、不思議な日本語の黄金時代の「声」が聞こえてくる日があるだろうか。

たとえば、こんなふうな。

「あなたの奪いとってきた意味をもちこみ
ぼくはふるえて跳んでいる。ヘイ ジョーンズ
すべての欲情は 弧線を引いたりせず、
可塑のうしろで
無目途な他ならぬ欲情であるべきだ。
あなたの弾む耳はあしたの音を聴くべきだ。
あなたの虚しさと怒りとのうえに
ぼくは放らつと黄金の狂気をゆだねる。
ヘイ ヘイ ジョーンズ ぼくらの疲れは
ぼくらの悪である。」
(岡田隆彦・昇っているジョーンズへのこだま)

…..ため息が出るのお。

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