散歩やねん

ポプラの長い影が射しているカンタベリーの道を歩くと、人間が小さな存在であるというしょーもない事実が実感される。
自然と人間の物理的な縮尺比って、こんなんだったんだなあー、とマヌケなことを考えます。
間尺に合わない、と日本語でいうが、こんなだだっぴろい、歩いても歩いてもすすまないようなところにおっぽりだされてしまうと、人間の文明というものの心細さが実感されてしまう。
人間は、長い歴史のあいだ、ずっとたいへんだったんだ、と妙なことを考えます。

カンタベリーの田舎道を歩く、というのは(あたりまえだが)町を歩くというのとは随分勝手が違う。
ちょっと油断していると曲がる角を間違える。
間違えても、もうよく判っている近所であるはずなのに、しばらく気がつかないのは、簡単に言って右も左も後ろも前もパドックで、何の変哲もなくて、区別がつかないからです。
そのうちに、ありー、黒と白の斑でなくて、茶色い牛さんなんていたっけ?
と牛の種類の相違で、いつもと様子が違うことに気がつく。

気がつくと、ですね、そこから10キロくらい余計に歩かないと家に戻れないのですね。
「行き倒れ」という言葉が頭を掠めます。
龍馬は死んでも仰向けのままだった。
木口小平は死んでもラッパを話しませんでした。
三河の侍は、ことごとく敵のほうに頭を向けて討たれていたぞよ。
どれも、ほんとうではないそーだが。

大きな、まったいらな草原に、たったひとりで立っていると、世界がおおきいことよりも自分の存在の小ささが胸に迫ってきて、神がいなかったりすると、ひとりでやってけるわけがねーだろ、という気持ちになります。

カンタベリーというのは、変わった気象で有名な土地柄で、連合王国もところどころ、たとえば丘の上に立つと、立っているところはよく晴れた夏なのに、少し向こうでは雪が降っていて、そのまたもうちょっとむこうかしでは、土砂降りになっている、というようなヘンタイみたいな天気が散見されるが、カンタベリーは、もっとヘンテコな天気がある。

パドックで馬の世話をしていて、ふと上を見ると積雲が手がとどきそうなほど近くまで、というのは低いところに降りてきている。
「積雲が低かったら、層雲でしょーがね。きみは定義というものを知らないのか」ときみは言うであろうし、まことにもっともなご発言でありますが、でも積雲なんです。
あの、夏の空高く、白く輝きながら巡航する、ほれぼれするような美しい雲。
それが、なんだかはしごで届きそうなところに、ぼおおおーんと浮いている。
お手、もめんどうくさいとやらないバカ犬のJが、ぶっくらこいて吠えまくっておる。
馬さんのEも、悲しげに雲をみつめている。
馬は草食動物で顔の両側面に目がついているので「見つめる」ということは出来ないが、
表現上、みつめているのね。

あるいはむかしどっかのなまけものの技師が定規でまっすぐの線をひいてつくったに違いない、どこまでもどこまでもまっすぐでスピードを出しすぎて死んだバカガキどもを記念して立てた白い十字架がいっぱい並んでいるオープンロードをクルマで走っていると、突然、雲につつまれてしまう。
そうすると、きみはまた、地上にあるなら、それは雲でなくて霧というのだぞ、というだろうが、そんなことはわしも判っておる。
しかし、「雲」という質感と量感を備えた霧なので、目撃すれば、みな「雲」と証言したくなる霧なのです。
しかもそれが丁度腰までの高さしかない。

ところがそれが薔薇色の、光に包まれた、どう言えば少しは表現できるのか、この世界にはあるはずがない、と言いたくなるほど美しい色彩の光に満ちた雲であって、そのときは、霧のなかの運転に慣れているワイマカリリ・ドライバーたちも、みな路肩にクルマを駐めて、あるひとは肩をだきあって、うっとり、というよりは呆然と、その、この世界のものとは思われない輝きをみつめていた、というか、もう少し精確にいうと、輝きのなかに包まれてたちつくしていた。
ああいうところに住んでいると、神を信じる、なんて、へっへ、旦那、ぞうさもねえことでごぜーやすよ、という気がします。
十字をきって、思わず、祈っているひともいたが、特にカスタードプリンに祈っているとも思われなかったので、多分、神を感じたのであると思われる。

都会を歩く、というのは、同じうろうろするのでも、田舎道を歩くのとは、形態は似ているが本質的に異なる行為です。
チェルシーのアパートを出て、階段を、どどどどどと、ブローニングM2のような勢いで降りる。
ホールのおばちゃんに、おおおーし、と挨拶して、通りにでます。

チェルシー、といってもわしのアパートはヴィレッジとの境界にあるので、ストランド書店
http://en.wikipedia.org/wiki/Strand_Bookstore
まで、歩いて30分もかからない。
途中、ユニオンスクエアの雑踏のなかを通っていきます。
スクエアでは、もちろん、いろいろなひとびとが、いろいろなことを試みていて、
世界が終わる、という日にはイエス・キリストが十字架に打ち付けられてコーラを飲んでいた
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/23/世界が終わった次の日に/
し、福島第一のあとでは、日本の若いひとびとが、細い声をふりしぼって、募金をよびかけたりしていた。

広場の反対側の、B&Nの数少ない生き残りの店にも行くが、わしはたいていはストランドに行きます。
なにしろ神保町を小規模にしてひとつの建物にまとめたような店なので、一時間くらいは飽きないで、探偵にあまりに魅力がないので誰も買わなかったミステリや、たくさんの人に読まれすぎたせいで、読まなくても読んだことがあるような気がしてやはり誰も買わなかった、過去の名作を渉猟して歩くことも可なり。

ストランドを出て、だらだらと東へ移動する。
ミシュランガイドブックでべた褒めされていて、年柄年中大行列が形成されている(行列がないように見えるときでも、本来バーのところに人間がたくさん充満しているよーだ。店内にはいったことがないので判らないが)「一風堂」ラーメンショップの前を通って、ウクライナ人たちが経営しているカフェへ向かう。
http://www.yelp.com/biz/veselka-new-york
(次のリンクはPDFでがす)
http://www.veselka.com/veselka_restaurant_menu.pdf
そこの表に出ているテーブルの前に腰掛けて、Blintzesを食べながら買ったばかりの10ページくらい読むといきなり犯人がわかってしまいそうな推理小説を読むためです。

それから。、ぶらぶらと歩いて行って、たとえばZinc Bar
http://zincbar.com/homepage

でジャズを聴いて帰るだろう。

マンハッタンと並んで散歩に都合がよく出来ている町は、なんとゆっても東京で、一年の大半は気候が暑すぎて歩くと文字通り死亡するが、涼しいときなら、銀座や神保町、青山、というような通りを歩いてうろうろするのが好きでした。

銀座は文盲の人が多いのか、むかしから本屋が少ない街だが、いまはなくなっていても、最近まで旭屋書店、という本屋があって、近くのホテルに泊まると、その本屋まで歩いてでかけて日本語本を渉猟するのが楽しみだった。
道を渡って、天ぷらやにでかけたり、交詢社ビルのてっぺんで中華料理を食べたり、あるいは特派員協会のバーで友達と待ち合わせて、(あのクラブは会員でないと払えないので)死ぬほどおごらせたりした。

ブログに全然書いたことがないことをつけくわえると、そこからお堀端を歩いて麹町にでかけることが多かったが、なんだか、まだ差し障りだか差し込みだかがあるそーなので、東京の散歩のなかでは出色のおもろさであった、ある場所のことがまだ書けない。

歩いて移動できる都会は楽しい。
ロンドンやパリのように、それぞれの事情で、歩いて移動できそうなちっこさなのに、歩いてもあんまり楽しいとは言えない都会や、いくらいったん散歩に出ると10キロは歩かないとおさまりがつかないわしでも、歩いてどこかに行く気がしないロスアンジェルスや、土地の値段があがりすぎて散歩できる街としては大崩壊を遂げたサンフランシスコのような街もあるが、マンハッタンや東京のような、のんびり出来るクラブやレストランがあって、あちこちに本屋や、ギャラリー、わしの特殊な好みからいうとパーツ屋がある街での散歩は人間が発明した娯楽のうちでも、かなり良く出来た娯楽で、数少ないそういう街のうちでもおもろい街だった東京が原始的な技術の運営に失敗して放射能まみれになって、もう誰かが散歩を出来る街でなくなってしまったのは、とても残念なことだと思う。

カタロニアの幹がごつごつしたコルクの林を抜けて、村から村に歩いたり、ポーのような小さな、造作のよい町を歩いたり、むかしのトンブリッジウエルの木の枝が風に揺れるざわめきが聞こえる裏道や、カモメの声が響く、オンダリビアの海岸へ続く石畳の道、あちこち歩いて考えると、人間が考える宇宙の大きさは、「歩いて行ける範囲」がいまだに基礎をなしていて、言葉が間尺にあわないので、ついに数学の言葉でも、感覚がいきつけない「時間も空間も同一の語彙で説明するしかない途方もない大きさ」が把握できない、というところに人間の思考の欠点があるよーだ。

人間が「神」というようなけったいな概念を発明したのは、もともと人間という個体の大きさが生まれ落ちた自然の大きさと釣り合いがとれないほど小さかったことに加えて、その割には採集と狩猟が混淆した移動の感覚をもっていたせいで、小さく縄張りをつくることがなく、長大な距離を歩いて移動できた、という人間の生物としての特徴によっているのかもしれません。
宇宙の大きさ(あるいは極小さ)と人間が宇宙を説明するときにすがらねばならない、成立した当初にはまだずっと小さかった宇宙を神の無限の大きさであると誤認した言葉の大きさへの感覚の違いが引き起こす問題は、通常、人間がまさに縮尺のあわない当の言葉で意識しているより、ずっと深刻であるような気がします。

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3 Responses to 散歩やねん

  1. 妖怪目玉 says:

    散歩に行ってこんなでかい魚買ってきたんですか。
    これどうやって焼くんですか?

  2. 妖怪目玉さま、

    >散歩に行ってこんなでかい魚買ってきたんですか。
    これどうやって焼くんですか?

    これ、わしの3倍くらいありますねんで。
    そんなもん、どうやって焼くねん。

  3. wiredgalileo says:

    >大きな、まったいらな草原に、たったひとりで立っていると、世界がおおきいことよりも自分の存在の小ささが旨に迫ってきて、神がいなかったりすると、ひとりでやってけるわけがねーだろ、という気持ちになります。

    そうそう、ユダヤ/キリスト/イスラム教系の?神というのは
    そういった風景から生まれてきた感じがする。
    アジアの風景はそうではなくて、
    ジャングルや森林、もしくは自然農の田んぼでもいいが
    さまざまな生物がそこかしこにいる、生命の密度の高さがデフォなんだよね。
    前にも書いたけど、水木しげるや宮崎はやおの作品は
    そういった世界を伝えていると思う。
    さまざまに異様な魑魅魍魎たちが、当たり前にのそのそ歩く世界。
    アジアの神は「生命」であり
    ユダヤ/キリスト/イスラム教系の神は(切迫した虚無を背景にした)「意味」のような感じがする。

    ところで、ツイッタで知ったんだけど、水木しげるはこう言っていたそうだ。

    我々は夢の世界(無意識)からやってきて夢の世界に還る存在にすぎない。夢の世界が故郷であり実在なのだ。いまは人間の世界に生き、また故郷にかえっていく。

    ここで「霊界」の話にすると
    「霊界のほうが現実」というのは、スウェーデンボルクだけではなく
    この業界(?)からすると常識なんだよね。
    身体はハードウェアにすぎず、意識というソフトウェアのほうが本体という見方。
    シュタイナもそういう意見。
    で、彼は、意識の階層を分析しようとしているわけ。
    もう少し現代心理学的な言葉でいえば、
    われわれの表層的意識は実は小さなもので
    われわれは実は「無意識」の世界によって動かされている部分が大きい。
    無意識というのには、個人的な無意識世界のほかにも、
    集合意識・集合無意識のようなものがあるよね。
    で、「気」的な身体、感情、意志といったものが
    実は個人的なものではなく、集合的な面があり
    物理的なエネルギーとは別次元の、しかし実際のエネルギーを持つ
    というようなことを彼は言いたいのだろうと思う。
    現代的な言葉で整理し直したほうがいいと思うけどね。
    (ホログラフィック宇宙論とかきっと面白いんだろうけど読んでない。)

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