春の芝生の上で


暖かくなった春の庭に出て、太陽の光が反射してまぶしいような芝生に腰を下ろして、紅茶を飲みながらきゅうりのサンドイッチを食べていると、日本に旅行したりしたことがなんだか夢のように思えてくる。
モニの強い反対で、日本での滞在の延長をやめてニュージーランドの家に戻ってきたあと、あの現実感というものをまったく欠いたツナミが起こり、フクシマダイイチが文字通り崩壊して長期にわたって放射性物質を垂れ流すに至る、一続きの時間の経過も、そのあとに続いた、ただもうびっくりする、としかいいようがない一連の出来事、放射能は無害であると日本人の学者たちが唱えだしたことや、その軽薄な「学者」達の後をぞろぞろついて歩いて、学者の口調をまねて、大威張りで「無知なひとびとを笑」って、日頃の鬱憤を晴らしている、日本という社会ではお馴染みの愚か者たちの大群、そういう、たいへん日本的で非現実的な光景も、作り話のようで、同じ地球の上で起こっている出来事のようには思えない。

欧州にいるあいだ、大陸ではあちこちに散在する原子力発電所のせいで、「フクシマ」に関心のある欧州人たちとは、何度か日本の事故について話すことになった。
ただのサンプル数の少ない印象にすぎない、というべきだろうが、ドイツ人たちは殊更に厳しい意見をもっていて、一部の日本人科学者の無責任な意見を憤るあまり、憎悪が日本人全般に及んでしまうようで、「日本人など金輪際民族として信用できない」という人もあれば、「あんな非科学的な人間たちに原子力みたいなものを教え込んだのは誰だ」というおばちゃんがいて、こちらは逆に「ドイツ人だなあ−」という偏見的な感想をもったりした。
コモ湖のスイス国境に近い村では、フクシマの子供達は大丈夫だろうか、というおばちゃんがいたので、日本の政府や学者たちはあの程度の放射能なら大丈夫だと言っているみたいよ、と述べると、「たとえ偉い人達が大丈夫だと言っていても、わたしはやっぱり心配でたまらない.
仮に放射能が安全なものだとしても、わたしはやっぱり心配なのよ」といって涙ぐむので、イタリア人たちというひとびとの圧倒的な文明度の高さにカンドーしてしまったりしたのでした。

たいていのひとにとってはフクシマは、「もうすんでしまったこと」「起きてしまってはいけなかったが、起きてしまったのだから日本人は気の毒だが、もう仕方がない」ことで、いまは話題にものぼらない。
たまに初対面のひとと話をして遊んでいるときに、日本に行った事がある、というと、
相手によっては、そーいえば、あの国は放射能でひどく汚染されているのだったねえ、と思い出して、下を向いて、ちょっと陰った表情で報道されたことを思い返しているふうをしてから慌てて話題を変えるひとがいるくらいのものです。

すべりひゆやナス、というような日本語インターネットを通して出来た友達がいなければ、わしも、もうフクシマの事は考えなかっただろう。
このブログ記事の右側にある「福島第一原子力発電所事故」カテゴリにはいっている記事程度のことでも、日本語を使って考えられたのは、まったくふたりの友達のおかげで、
フクシマを考える事によって、原子力というものが人間が積み上げてきた文明にとっては相変わらず絶対の暴力であって知性の破壊者であることや、合理的知性、特に科学のようなツールとしての言語体系を手にした合理的知性というものがいかに愚かな行動に走りやすいか、というようなことについて考えることになった。

記事や、すべりひゆやナスに教わったブログを読んでいると、わしですら、言いたいことはたくさん出てくる。
たとえば、「放射能は非科学的人間が考えるほど有害ではなくて、放射能を気にすることによるストレスの方が遙かに身体に悪い」というが、(いわゆる)ストレスが健康に悪い、ということを物理学者たちは、いつのまに確定的に証明したのだろう。
(頼むから「コルチゾール」とかゆわないでね)
ストレス学説は直感的には正しいと思われるが、彼らが言う意味で「科学的に証明されている」とは到底いいがたい。
そして直感というものは、何かちょっと言っただけで顔を輝かせて「あなたO型でしょう!?違う?」と確信に満ちて断言するひとがたくさんいる日本に行けば、どれほど当然に見えても時に虚しいものか、誰でもが知っていることです。
彼らが(あれだけとくとくと中世の異端審問官よろしく似非科学弾劾の説教を垂れて歩いているのだから、そんなことはありえないが)似非科学と同じ文法でストレス学説を信奉しているのでなければ、物理の教科書を教える傍ら、密かに偉大な医学的業績を達成していたわけで、日本の物理学者たちの全能ぶりには神様もひれ伏してしまうに違いない。
第一、どこからどーみても、神様なんかより、ずっとエラソーである。

いいたいことがいろいろ出てきても、水責めにあったり三角木馬に乗せられてはたまらないので、彼らが嬉々として鞭をふるう相手は彼らの同胞である日本のひとに限ってもらうとして、ひとつだけ、それでも、言いたいことはある。

遙か遠くの日本で続いているらしい「放射性物質は危険か安全か」という、くだらなくて涙が出そうな…あっ、いや、真剣な議論を聞いていて不思議に思うのは、なぜ放射能が危険であることを、その放射性物質で将来死ぬかも知れない側が証明しろ、根拠を述べよ、と言われているのか、ということです。
初め、この不思議な日本の様相が西洋世界に伝わったときに、何がどう起こっているかなかなか誰にも理解できなかったのは、どうも、そこに最大の理由があると思われる。
構図そのものが理不尽な上に倒錯的で、頭の悪い西洋人の理解を絶していたからです。

少なくとも、日本人が普段、「おれさま理屈」とか「ジャイアン理屈」と嘲笑する西洋人の理屈に順えば、この場合、「放射能が安全である」ことを科学者のがわが証明するのでなければならないはずで、原子力そのものを、しかも途方もなく閉鎖的なやりかたで運営しているのが科学技術の専門集団であることひとつを考えても、被曝させられつづけている人間たちを積極的に救済しなくてよい、と主張している以上、彼らには「放射能が低被曝量においては安全である」という自分達の主張を「科学的に」証明する義務があるはずである。
一方で、「正しく」なんて恐がれるか、放射能でおれが死んだらどーしてくれる、と言っているほうに「放射能が危険であると思う合理的根拠」を要求するバカな社会がどこにあるだろう。
簡単に言えば、銃を突きつけている狂人が「ぼくが、きみに撃ち込む銃弾は心臓に当たらない限り無害だからね。もし、この銃弾がきみを殺すと主張するんだったら、ほら、ここに紙と鉛筆があるから、銃弾がきみを確かに殺すと証明してみせてくれなくちゃ」と言っているのと同じです。
で、きみは死にたくない一心で、やおらBasic and Clinical Pharmacologyの第1ページ目から勉強し始める。
やくり、やっくり、やっくーり。
狂人が引き金をひくまでの2分間に医学の、せめて基礎を学び終えることを祈りながら。

これが、このフクシマという話題の欠点で、書いているだけで不愉快になってしまう。
外国社会の問題というのは本質的にそういうものなのかもしれないが、日本語でものを考えると自然と日本社会の問題に頭がでかけてしまうが、そこで出会う問題の殆どは、あんまり付き合いたくない、しかも、付き合っても時間のムダなだけの日本でだけ通用するタイプの論議が多いような気がすることがあります。
ひどく特殊で、英語世界なら苦笑してゴミ箱に捨てて終わるような、信じがたいほど愚かで理屈だけが巧妙なバカ議論が至るところでヒマを持て余して待ち受けている。
ここまででも、もう「なあああにおおおー、この野郎、ふさけたことをぬかしやがって、どうやって陥れてやろうか」と暗いバカ情熱に燃えるひとがたくさんいるのを経験上わしはよく知っているが、わしのいるところは春なので、のんびりヘーキで言いつのると、どうも、日本では個々の人間は賢いのに集団としては、どうしようもない、というか、議論ばかり多くて何も出来ないまま集団自殺行為に直行するあの日本近代の有名で強力な伝統は「常識」というものが見事なくらい欠けているからではなかろーか。

人間には、判ることが、ものすごくちょっとしかないので、たいていのことは「常識」というものに順って「とりあえず」処理する。
証明とか、日本のひとが熱狂的に好きな「出典」とかはいらないんです。
放射性物質が万が一にも有害であったとすると、死んじゃうから。
死人に口なし。
口だけでなくて、頭も動きを停止する。
放射能が無害だと言葉遊びをする、きみのその「へらずぐち」も利けなくなってしまう。
放射能が無害だと信じた男、ここに眠る。
死因は肺上皮癌である。
20年後のきみの墓の前を通りかかった医学生たちが、きみの墓におしっこをひっかけながら、このバカ、放射能が無害だってさんざん主張して、自分が内部被曝の上皮癌で死んだんだってよ、と嘲っておる。
きみは墓のうしろに立って、違う、おれは放射能の影響でなくて、おれの言う事に反して子供が放射性物質で死んだと信じた母親達の憎悪で呪い殺されただけだ、と必死に訴えるが、聞こえません。
口がないんだもん。
第一、幽霊なんて非科学的なものになってはダメではないか。

放射性物質を取り除いてから、あるいは、放射性物質がないところまで逃げてから、
どうしてもやりたければ、放射性物質が有害かどうか、ヒマにまかせてゆっくりと議論すればよい。
わしなら「放射性物質」みたいなダッサイ知識は、知りたくもないので、そんなくだらない議論に加わろうとは思わないが。

「常識」を失った社会からは知的生産性は完全に失われてしまう。
何を議論してもムダ、という状況が生じると、その社会は急速に破滅に向かい出す。
だいたい常識を失うきっかけとなるのは過剰な情緒や社会全体から個人に対して加えられる圧力が人間の精神の耐性を越えてしまったときで、日本で言えば、昭和初年から昭和二十年八月十五日までの期間に、そういう「錐揉みに陥った社会」の見事な例がある。
典型的になってしまったのは、一億人、というかなり大きなサイズの人口が言語的に孤立しているからでしょう。

常識が形成されるには社会が成熟しなくてはならず、社会が成熟するためには自己像が客体化されねばならないが、日本では客体化の手がかりになるはずのマスメディアが機能していないので、自己の思い込みに都合がいいように「外側の視点」をつくりあげてしまう。
翻訳文化、というものがいかに危険なものか、わしは日本語世界をのぞきだすまで気がつかなかったが、翻訳というものの最も危険な点は、(生物学での意味で)相似でしかないものを相同と思わせることにあるよーです。

数は随分すくなくなってしまったが、日本にも、まだ放射能は危険である、と思い詰めて、この恐怖を自分の生活から取り除いてくれ、と諦めずに何事か行動しているひとたち、発言しているひとたちがいる。
わしはそろそろ、英語や他の欧州語でも日本で何が起きているか伝えようかなあー、と思っています。
どうせ、みんな経済危機で頭がいっぱいで、誰も聴いてくれやしないだろうけど。

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