空白

毎年繰り返していた日本への遠征をやめてしまったのだから当たり前だが、わしの魂のなかの「日本」は毎日目減りしてゆく。
細部まで鮮明で豊穣な日本についての記憶は少しづつやせ細って、「日本」という一個の観念に向かって縮んでいっているのだと思います。
それはやむをえないことだし、すでにフクシマダイイチの事故が起きる前に決めていたことでもある。

後半は熱帯の国のように暑かったので、軽井沢にいることのほうが多かったが、初めの頃は広尾山の家にいることが多かった。
近くの中学に通っていた義理叔父に言わせると「むかしは、ほんとうにあそこに産院があったのよ」という産院前の交差点に立って、さーて、どこに行くかな、とよく考えたものでした。
だいたい広尾駅のほうに向かうことが多かったのは、その方向にナショナルスーパーマーケットと明治屋、というふたつのスーパーマーケットがあったせいで、そちらの方向に歩いてゆく頻度が高かったせいであると思われる。
地下鉄の駅のところで左に折れて有栖川宮公園から元麻布の坂をぬけて麻布十番のほうへ歩いていったりした。
クルマの音が大きくて騒然とした街を、 わしのたいして可笑しくもない冗談に 笑い転げるモニとふたりで腕を組んで、あるいはモニの肩を抱いて、そこから鳥居坂や芋洗い坂に向かって移動することが多かった。
東京の街の良いところのひとつは、ひとつひとつの坂に、美しい、あるいは面白い名前が付いていることで、とりわけてモニと結婚してからは、どの坂にも立っている標識の文字を読んでモニに説明して喜ばせた。
狸坂、霊南坂、仙台坂に暗闇坂。
どれもモニとわしには親しい名前であって、暗闇坂の下で、珍しく涼しい風が吹いてくる夏の夕暮れ、小さな子供のように目を輝かせて、江戸時代には明かりひとつなかった真っ暗な坂にあらわれては行商の商人や大名の御用聞きから帰る手代たちを脅かしたというむささびの化け物や狢、のっぺらぼうの娘の話に聞き入っていたモニの顔を思い出す。

箪笥町、笄町、龍土町に市兵衛町。
イサラーゴとギリシャの地名の抑揚で呼んでモニとふたりでふざけるのが常だった伊皿子。
散歩から帰ると地名の由来を調べて、こんなに森や茂みは少なくなってしまっているが、麻布のあたりには、やはりいまでも精霊やもののけがいるのではなかろうか、と考えたりした。

外国人たちがうろうろしている街は、外国人にとっては退屈なのはものの道理というべきで、洋販の本の安売りがなくなったあとではなおさら、六本木などには、ほとんど出かけることはなかったが青山にはよくでかけた。
小原会館の周りにときどきでかけるバーやレストランが点在していて、その辺りをうろうろすることが多かった。
前にも書いたのをおぼえているが、もともと昭和20年代から50年代にかけての日本の歴史に興味があったわしは、義理叔父の家からギッてきた当時の地図をにらみながら、ねわるほど、ここに「ユアーズ」があったのだな、とか、雪印がケーエーしていたというパンケーキ屋は、こんなところだったのか、とか、増田屋、まだあるやん、パチンコ「つばめホール」のあとはベルコモンズなのではないか、とか、そんなことばかりに熱中していてモニに呆れられた。
モニが青山で好きだったのは、(野球なんか全然できないのに)バッティングセンターで、180センチよりも少し背が高い、ほそっこいモニがケージのなかに立つと、後ろにひとだかりが出来たりした。
初めはなかなかボールにバットがあたらないので、くやしそうにしていたモニだが、遊びとして相性がいいのでしょう、そのうちに芯にあたるようになると、その辺りのおっちゃんたちが顔色を失う鋭いあたりで、わしも、自分のことのように鼻が高くなったものでした。

浅草に行けば「大黒」で天丼を食べ、ふたりとも大好きな町だった神保町では「いもや」の雰囲気を楽しみ、食べ物も楽しみのひとつだった。
外国人ばかりのクラブに行かないときは、なるべく日本の食べ物を食べよう、と決めていたが、なかなかそうもいかなくて、帝国ホテルに部屋をとって、レシピの日本的な部分をあれこれ説明して元の味に変えてもらって、西洋風に復元したメニューの食べ物を、シャンパンを開けて、ふたりでむさぼり食べたりした。

日本の食べ物では、わしは天ぷら、モニは焼き鳥が好きなので、天一本店や、千万にひとつ、政府が改心して、まだ日本に何年かしたら行けるかも知れないから教えてあげないモニとわしが大好きな小さな天ぷら屋の某や、焼き鳥屋のIにでかけた。
モニが、どうしても行きたいというので、有楽町のガード下の焼き鳥屋に一緒に行ったら、モニはすっかり気に入ってしまって、なにかというと「ガード下、ガード下」と縁日のお祭りに行きたがる子供のようにせがむので、往生したのをおぼえています。

初めは、ちょうどいまごろ、一週間だけ「様子を見に」東京に行くはずだったのが、「危ないから」という理由でダメになり、どうやっても来年の春は二週間くらい行きたいものだと考えていたのが、日本の社会が「放射性物質はこの程度なら安全だ」と表明しだしたせいで、この先、ずっと遠い未来まで、他のひとは知らず、モニとわしが東京に遊びに行く、ということは考えられなくなってしまった。
いままでは日本という国が冷菜凍死業の対象になったことはないが、将来、万が一対象になることがあっても、なんだかマニュアルのようなものがあって、先行して送られる8リットル入りの水や、ガイガーカウンターにシンチレーターをもった先遣隊、そこへモニはつれてはいけないので、モニさんとはぐれた寂しいわしがダッシュで行って帰ってくるそうだが、そうやって東京で要件をすませることが、あの美しい名前の町や坂のある東京に行ったということにはならないような気がする。

放射能を「正しくこわがる」ことに習熟した日本のひとが聞いたら、おおげさな、といって大笑いするだろうが、たいていのガイジンどもにとっては放射能はひたすら怖いものなので、失礼にならないように日本の人の目には見えないところで、手下(てか)に依頼して、なるべく放射性物質とでくわさないように必死の準備をする。
それであってすら、「ひと晩かんがえたが、日本に行くのは、やはり怖いから嫌です。
怖くて、どうしても行く決断が出来ないのです」といって出張を断るひとがいる。
日本の、アイドルグループを使ったらしい観光誘致キャンペーンを見て、実際に、気分が悪くなった、というアメリカ人がいたが、それは何によって嘔きたいような気持ちに襲われたかというと、日本という国の政府の「死への鈍感さ」に対してでしょう。
外国人に観光にもどって来て欲しいと思えば、少なくとも西洋諸国人に対しては、日本のこの地域は、このくらい汚染されていて、ここの農産物はこのくらい汚染されているが、
たとえば某ホテルで使っている牛肉はすべてオーストラリア産で、米は九州のもので、という詳細で正直に被害状況と安全に過ごす方法を述べた「サバイバルガイド」のような小冊子が提供されるのでなければ、わしのように放射性物質に関して臆病な人間は、どれほど「安全だ、安全だ」と連呼されても、どうやっても日本に行くことが出来ない。
なんだか、重いシャッターを思い切り閉められてしまったような気がします。

欧州とオーストラレージアを移動する途中で、東京に寄って一箇月を過ごす、というようなかつての楽しみは、もう永遠になくなってしまったように見える。
鎧摺の山を長者ヶ崎の沖合にぷかぷかと浮かびながら眺めたり、仲良しの定食屋のおばちゃんが、わしを発見するなり厨房から出てきて懐かしそうに飛びついたときの着物の匂いで、「ああ、日本にまたやってきたのだ!」と実感したり、鎌倉の友達と酒を飲み過ぎた翌日に横須賀線で食べる鰺の押し寿司や、「ガイジンさんは、ほおーんとっにおおきいわねえ」と激しく差別的な言辞を弄しながら、一年に一回しか来ないのに、年来の友達のように扱ってくれる料理屋のおばちゃん、まだまだいくらでも書いてゆける、そういうわしの生活で小さくはない領域をしめていた風景とひとは、ほんとうに永遠に失われてしまった。

いまのラミュエラの家に移る前に住んでいたパーネルという街の家の郵便箱に、日本のひとの字だとすぐにわかる宛名の封筒がはいっていた。
さっきも書いた、このブログに何回か出てきた定食屋のおばちゃんからの手紙です。
なんだか子供みたいなおおきな字で
「I miss you」と書いてある。
こういうときには、そんなふうには言わないんだよ、おばちゃん、
これじゃラブレターみたいだ、と笑いかけた途端にびっくりするほど、手のひらでぬぐってもぬぐってもたくさんの涙が流れてきて、情緒的な表現というものはくだらないので、これ以上は便せんを広げたまま手にもったわしがどんなふうにしていたか書く気がしないが、
どうしてこんなことになってしまったのだろう、
わしがさんざん腹を立ててばかりいたコンクリで固まった薄汚い川も、あちこちで恥じ入る様子もなく立ち小便をしているオトナがいる、ぐじゃぐじゃな街並みも、
何台待っても人で充満した電車がやってくる恐怖小説に出てきそうな「山手線」も、
そういうものを全部ひっくるめた「東京」という、わしの大好きだった街が、街ごと自分の人生から消えてしまった、と改めて気がついて、
いったいどんなふうに気持ちを処理したらいいのか、
いまもわからないままでいるのです。

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2 Responses to 空白

  1. じゅん爺 says:

    骨のうなぎや、尾花じゃござんせんか。なつかしいっす。

  2. wiredgalileo says:

    (このエントリへのコメとはいえないんだけど、どこに書けばいいのかわからなくなったのでいちおうここへ投稿)

    「日本教」についてだけど、前にも書いたように、もともとの日本の「宗教」は、自然のなかの共同体における「生活そのもの」だったと思う。私は小さな村で生活しているんだけど、四季折々の自然のなかでときどき共同作業をしながら各自が農業で自立しながら生きている村の生活は、それだけで「救済」でもある。自分の死は、自然の営みのひとつであり、次代の子供たちを見ながら生活し、死んだら彼らを守る祖先神になるのだ、というシンプルな信仰で、人々は十分幸せになれるんだ。

    ただ、そのシンプルな信仰は、近現代の問題には対応できないんだよね。福島も、さっき書いたような「良い村」がたくさんあるところだったのだと思うんだけど、それらの村の多くは、子供たちを放射能に閉じ込めるものになってしまった。

    より大きく見れば、近現代化に伴って、村々からは人々が去り、日本の信仰のベースとなっていたそもそもの「生活」が崩壊してしまった。かわって国家や企業が新しい共同体となったわけだけど、「全体のなかに回帰する自分」というかつての救済は、がめさんの言うようなグロテスクなものに変わってしまった。

    人間が幸せに生きるにはおそらく、村や自然に回帰することに満足するような方向性と、個として自由に生きる方向性の両方が必要で、前にも書いたように、日本には戦後の一時期、ある程度そのバランスがとれた時があったのかもしれない。(それは、敗戦後に、主にアメリカから与えられた「自由」の影響力が大きいだろう)
    しかしその後そのバランスは崩れ、原発事故以後はそれが激化している。まあ、原発事故から本当に逃げようとすれば、「村」や「国」を離れざるを得ないわけだからねえ。豊かな人や才能ある人は逃げられるが、共同体に残されたほうは、安心のために現実認知を歪め、「個を抑圧しようとする共同性」に変わって行く、という形になっていくのは仕方がないところはあるのだろうと思う。

    まあ私としては、人が幸せに生きる方向は、自由に生きる個人たちがお互いに助け合う新しい共同性みたいなものだと思う。そういうものは作りうると思っているし、実際そういう方向の動きも日本の各地にあることを知っている。全体から見れば小さな動きだとは思うけれども、大小はこの際、関係ないんだよね。自分たちの生きる方向として、これがよい未来につながるものだと思えればそれでいい。(原発や社会の状態がこれ以上悪化しないことが条件になるけどさ)

    原発についてはもうひとつ、別の記事に投稿します。

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