怪獣王ゴジラ

机のうえにゴジラ映画のボックスセット「The Godzilla Collection」が載っておる。
「ゴジラ」(オリジナル第一作のやつね)「ゴジラの逆襲」「モスラ対ゴジラ」
「メカゴジラの逆襲」「オール怪獣大進撃」「キングギドラ対ゴジラ」「三大怪獣 地球最大の決戦」がそれぞれ日本版と英語版ではいっていて、合計14の映画が全部で
1694円(US$21.99)どした。
アメリカのアマゾンで買った。
英語版は編集も吹き替えも観ていてカッとなるくらいひどいのを過去の経験によって承知しているので日本語のほうしか観やしないが、それでも日本で同じ日本版を買うよりも圧倒的というもおろかしいくらい安いので、英語版のほうは死蔵になっても、いーんです。
(いま、ちょっと思いついて調べて見ると、 日本アマゾンでは古典「ゴジラ」一作だけで、3712円ですのい。たけー。なんじゃこりゃ)

ゴジラは生物の歴史上、ゆいいつ放射線を大量に浴びても生存できた生き物だった。
(司馬遼太郎の小説を読んで幕末の志士を気取ってしまったり明治時代に憧れてしまうタイプのひとびとのために申し述べておくと、ほんまはゴジラは架空の生き物ですねん。
そういうタイプのひとにとっては信じられないことなのは判っているし、真実を知るというのは辛いことだが、ゴジラという生き物はほんとうに生きていたわけではないのです。
ビキニのヤモリが水爆に当たってゴジラになってヤンキースと契約した、という説は歴史的にゆって誤りである)
ついでに言うと最初の襲来から30年後、昭和59年版のゴジラが襲う、あの原子力発電所は浜岡原発です。
ゴジラ考証学における基礎知識である。

生物がながいあいだ海水深くに潜んでいたのは、宇宙からの放射線を怖れてのことだった。
きっと、その頃にもシンカイアメーバモドキのダイガクキョージュがいて、「放射線っちゅうのはさ、怖がるからいけないんで、あたってみれば結構健康にいいのだぞ」なんちて、それを真に受けた気のいいシンカイアメーバモドキの若い衆が地球磁場もろくすぽ形成されてない陸上にあがって、あえない最期を遂げていたりしたに違いない。
そうこうしているうちに地球は、地球磁場を形成しオゾン層をつくりだして宇宙という放射線で埋め尽くされた死の世界から遮断されて生命が繁栄を謳歌する小世界として、広大で無慈悲で死がすべてを支配する宇宙という過酷な世界から独立した。
やがて人間の大脳という形で意識を獲得するに至る、この気が遠くなるほど美しい輝く青色の惑星は、自己を放射線から守り隔離することによって成立したのでした。

人間が直感的に放射能を危険なものとして怖れてきたのは、それが人間にコントロールできない死の世界である宇宙の象徴、言い換えれば非人間的なものの象徴だからだと思います。
かつて長い間、陸上にはいあがろうとする生物の進化を阻み続け、宇宙の法則に隷属を強いていたのは、いままさに人間の浅薄さによって穿たれたフクシマダイイチという宇宙と直結した穴から日本のひとびとを脅かし、いまはもう体内に少しづつ入り込んで、今度は内側から生命を破壊しようとしている放射線そのものだった。
波長の長さに由来して、もっとも死の力が弱い放射線である紫外線ですら人間にとっては強敵だった。
今度は、「わし、安全だかんね」と競馬の予想屋ふうな気楽さで科学印のお札を売りさばく学者たちのお墨付きをもらって、すましているだけのことで、その正体は、要するに生命の敵であったあの宇宙からの放射線、磁場が形成されるまでは生命を深海の牢獄に閉じ込めていた力そのものです。

アメリカiTunesストアにあがっているゴジラ映画とかは吹き替えがマヌケすぎて死ぬが、
ガメラ3は日本語音声英語字幕なので、モニとわしはラウンジのテレビで肩をならべたり、交互に寝転がっていちゃいちゃしたりしながら観ることにした。
すげー、おもろいんだよ、あれ。
最後のほうが、安物の学芸会脚本みたいでガックシだが、それまでは、なかなかの大迫力であって、特に2045年のリカちゃんハウスみたいな、けったいなデザインの京都駅がむちゃくちゃにぶちこわれる所なんかでは、おもわず立ち上がって、「いけ!ガメ!ち○ぽこ京都タワーもいてまえ、宮刑じゃ宮刑、チ○チンくらいなくなってもコンジョがあれば歴史家として大成するし、と司馬遷もゆっておるぞ。京阪電鉄がなんぼのもんじゃい!
陰陽道の聖地に品の悪いもんぶちたてよってからに」とゆってコーフンしてしまいます。

ところが、始まりからずっと浮かない顔で画面を眺めていたモニは映画なかばで、すっと立ち上がって「わたし、観たくない」といって自分のスタジオに行ってしまった。
ガメラが出現して、両親が死に、引き取られた奈良の町で学校中からイジメにあう子供の姿や、巨大な災厄のなかで必死に生き延びようとする日本人たちの姿が、どうしてもフクシマダイイチの事故と重なって見えて、映画が重すぎてみられないのだという。

イギリスじーちゃんの黄金おやつ、ソルトアンドビネガーのポテチをがりがり囓りながら、ガメラって、あんなにくるくるまわって飛んじって、目え回んないのかしらとか、しあわせなことを考えながら映画にコーフンしていた鈍感なわしと違って、モニはガメラ映画のなかで苦闘する日本社会を観てショックを受けてしまったもののようである。
そーゆえば、ゴジラも、マジにつくったやつは、ちょっと、そーゆー感じがすることあるよな。
バカなものをみせてしまった。
いや、映画はバカじゃないんだけどね。
これでは凄惨なドキュメンタリを観せてしまったのと同じやん。

60年代の日本の歌には、たとえば山之口漠の「鮪と鰯」を歌にした

鮪の刺身を食いたくなったと

人間みたいなことを女房が言った

言われてみるとついぼくも人間めいて

鮪の刺身を夢みかけるのだが

死んでもよければ勝手に食えと

ぼくは腹だちまぎれに言ったのだ

女房はぷいと横にむいてしまったのだが

亭主も女房も互いに鮪なのであって

地球の上はみんな鮪なのだ

鮪は原爆を憎み
水爆にはまた脅かされて

腹立まぎれに現代を生きているのだ

ある日ぼくは食膳をのぞいて

ビキニの灰をかぶっていると言った

女房は箸を逆さに持ちかえると

焦げた鰯のその頭をこづいて

火鉢の灰だとつぶやいたのだ。

…ちゅうような高田渡の歌があったりして、社会自体が放射能が危険であるという直感をもっていた。社会としての「常識」を他の国の社会と分け持っていた、といってもいいかも知れません。

昭和29年に、第五福竜丸という漁船の無線長だった久保山愛吉がそれによって殺された、アメリカによるビキニ環礁の水爆実験への怒りを胸に、当時の映画人が想像力をつくして作り上げた初代ゴジラは、宇宙を支配する死の体現者、現代の人間の手によって地上に復元された放射能の具現化、人間世界とまったく相容れない絶対暴力の象徴としての巨大生物で、たとえ、特撮で映る船舶がちゃちでも、物語がやや紙芝居風でつじつまがあわなくても、
わしは日本人が核への抗議としてゴジラという怪獣をつくりあげた、というただそれだけでもう50年代の日本人を尊敬してしまう。

その当時は、いまの状況と真逆で、日本人だけが核の絶対暴力性を見抜いていた。
わしは、たとえば「西側」欧州の知識人たちがアメリカの核は悪だがソビエトの核は人類の進歩のために許容されうる、というふうに常に核の、人間の言葉を無力化する絶対性を相対化して理解する傾向があったのに、日本人だけが知識人や支配層に限らず、国民のすべて、といいたくなるほどの広汎な層が、核が絶対の暴力であって、一度は磁場やオゾン層が締め出した宇宙の死の力をいったん地上に招き入れてしまえば、その時点で人間の文明などはそもそも成り立ちはしない、その後に生き延びる文明は、最早、核に隷属する言葉で構築された「以前には人間の文明であった何か」であって、核の存在は人間の思考を真の意味においては無力化してしまうのだ、と訴え続けたことを、日本人という民族集団の栄光であったと考えています。

ひょっとして、このひとたちは核ミサイルを「いちばん つおい ミサイル」
原子力発電所を「いちばん かっこいい 発電技術」くらいに思っているのではなかろーか、と疑いをもってしまうような最近の何人かの日本人の言説を聞いていて、
いったい、「怪獣なら、いくら水爆実験への抗議でもアメリカさんも文句ゆえねだろ」という練達の映画屋らしい深い読みで、初代ゴジラに、核戦争とそれに続く放射能が環境化された世界のなかで生きていかねばならないかも知れない未来を作り出した愚かな支配者に怒りをぶつける知恵さえもっていた、あの日本人の栄光は、どこへ行ってしまったのだろう、
結局はかつてのあの光に満ちた言辞も、少女売春を援助交際と言い換え、軍隊を自衛隊と言い換えて、そのうちには自殺をすら「転世」とかち言い換えだしかねないのと同じ言葉遊び、「建前」という「恥知らずな嘘」のひとつだったのか、と、
だんだん疑いは強まってきてしまうのでした。

ギャオオオオーン!

(「怪獣王ゴジラ」は公開当時の公式タイトルであるようです、フルっぽくてかっこいいと思われる)

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6 Responses to 怪獣王ゴジラ

  1. コマツナ says:

    ガメさん。老婆心ながら、モニさんにはもっと安心できるDVDを
    見せてあげないと、怪獣大好き二世が育っちゃう・・・・・・?
    いや、冗談です。モニさんにはどうぞ穏やかな日々でありますよう。

    • コマツナさま、

      >老婆心ながら

      西洋のばーちゃんは、無茶苦茶自分勝手で「他人のことなんか知るかよ」の不良婆になる傾向があるので、
      一瞬コマツナどんがぐれたのかと思いました。

      >モニさんにはどうぞ穏やかな日々でありますよう

      わしという召使いがつきっきりだからダイジョーブだ

  2. あきら says:

    始めまして。ツイッターからたどってこのブログを拝見し、とても共感しました。
    僕は1960年生まれで、ゴジラやウルトラマンを見ながら育ちました。
    その頃、画面の中の人達は「人ひとりの命は地球より重いんだ」って叫びながら必死になっていましたが、最近後輩たちが「原発止まったら、日本の経済はガタガタになる」などと言うのを聞いて、この数十年の間に、人の命がお金より軽くなってしまったのを悲しく思っています。
    当時の日本の社会人さん達が寝る間も惜しんで経済を発展させた結果がこの通りだとその時に知ってたら、みなさんやる気をなくして、1ドルは360円のままだったと思います。
    もういちど、命の重さを大事にするヒーローが日本の現れるのを願っています。

    • あきらさま、

      >最近後輩たちが「原発止まったら、日本の経済はガタガタになる」などと言うのを聞いて、この数十年の間に、人の命がお金より軽くなってしまったのを悲しく思っています。

      先週、鉄腕アトムとウランとコバルトがプリントされたジャケットを着ている中国人の留学生がいた。
      それをみながら、同じようなことを考えていました。
      むかしの日本のドラマには異様な頻度で「人間ひとりの生命の重さ」が出てくる。
      戦争や放射能への怒りが語られる。
      それが80年代になってぶっとんでしまうんですのい。
      そーゆーマジメなことはカッコワルイ、というふうになっていったよーだ。
      残念と思います。
      どちらかといえば、日本という国で50年代から60年代にかけて過剰なほどの「人道主義」が語られていた事のほうが歴史的には存在しなかった事になって、
      侵略戦争からまっすぐに、いまの個人軽視の社会に来たように語り継がれてゆく傾向です。
      大事にしなかったから、ですよね。

  3. 菜苦し says:

    ガ、メ、さ、ん、の、写、真、っ、て、こ、れ、で、す、ね。(休み休みならば悪ふざけしても良いという訳では無い。醜く癒着した仮面)

  4. snowpomander says:

    ガメさ手塚治虫のコミック「火の鳥」全集を読んだことあるけ。角川の映画ではありませぬ。モニさんが見ても日本語読まれなくても解ると思います。こん乱世の黙示録じゃけの。

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