まどろむ、エウクレイデス

  

ユークリッド幾何学のスタティックな、均整のとれた美しさに魅入られてしまった少年は、「微分」という動的な、始終ものごとがダイナミックに運動する体系を目にして、だいたいの場合、嫌悪感にとらわれる、という。
わしのサンスーの教育はたいへん特殊なもので、個人でサンスーを教えてくれていたおじちゃんが、ガキわしの頃にいまでは考古学に近い、あの5つの公理から始めて、定理に定理を重ねて世界全体を説明するに至る、古色蒼然とした学問を教えてくれたのでした。
わしはユークリッドの幾何学を殆ど溺愛していて、というよりも、それ以上で、おおげさに言えば「世界が確かに存在するのだ」ということを、あの静的な幾何の体系によって知ったのだとゆってもよい。

13歳のときに微分を、また違う先生が手書きで書いた自習書、というよりも手紙みたいなヘンテコな書き物、を頼りに学習しだしたときには、微分というものが、あまりに「美」を欠いているので失望してしまった。
ふりかえってみれば、要するに頭が悪かったのでものごとの動的な美ということが理解できなくて、ユークリッドの「わかりやすい」静かな美しさと時間にしがみついていただけのことだが、それでも、たいへんに失望したのを憶えています。

IT革命、というチョーカッコワルイ名前がついたパラダイムシフトが起きたあと、激しい勢いで変化しだした世界に直面している、いまの人間の気持ちを考えると、この、
ユークリッドの幾何学から微分に移行していったときの、自分の精神状態のことを思い出す。

嫌悪感に悩まされながらも、結局、ユークリッドの居心地のよい世界を捨てて、微分やベクトルの世界に移動していったのは、結局、そのほうが効率的であったからで、なんの理屈の後ろ盾もなく、勘に従って、すっ、とひいてみた補助線を使って証明するのはこの上ない快感ではあっても、同じくらいの問題なら、殆ど何の考えもなく、一定の手順に従って、すこっ、とあっけなく解決できてしまうベクトルや微分のほうが遙かに遙かに生産的だった。
人間は効率がよいものには、弱いものであって、当時の自分の気持ちに従っていえば自堕落な気持ちで、自分の数学的知性を現代化してしまったのでした。

前にもちょっと書いたが、義理叔父の祖父の頃は、日本の「サラリーマン」というのは、午後5時には下僚のために退庁あるいは退社すべきものであって、まだ陽の高いうちに風呂敷包みを抱えて家路に着く。
小腹がすくと、鰻屋に立ち寄って、ビールで白焼き、一杯機嫌で横須賀線に揺られながら岩波を読んで、家に着く頃でもまだ陽があったので、縁側に座って庭を眺めながら夕飯までのビールを飲む、という毎日の暮らしだったそーです。
年収は、30歳代の管理職で、話から受ける印象では、いまの貨幣価値でゆって3000万円くらいだったよーだ。

なんだか、とてものんびりしていて、戦前の日本人は、サラリーマンと云えども静かな様式美の世界を生きていたよーである。
その頃のサラリーマンが、いまの社会を見れば、自分が地獄に来てしまったのだ、と思うでしょう。

わしが日本にいるあいだに、人間にとっては、これはこっちのほうが英語国よりいいな、と考えたことのひとつに「競争の少なさ」があります。
日本という国は、観察していると、12歳のときと、18歳のときの二回、与えられた課題を、うまく定石を組み合わせて解決させる、というなかなか知的に出来ている問題を150分というような時間の枠組みのなかで解答してゆく、という競争に勝てば、それであとはだいたいテキトーに暮らしていればダイジョーブだ、ということになっていて、皮肉ではなくて、毎日、朝から晩まで、同じ「8時間労働」と言っても、どうやらほんとうに集中して生産性を発揮しているのは午後の二時間程度であるように見える日本のホワイトカラーと異なって、8時間びっちし集中して仕事をしなければ、あっというまに社会の敗北者にされてしまう英語世界人に較べれば、天国のようなものだとゆってもよい。
わしは、なんでかバルセロナの台所の椅子に座って東京大学の入試問題を解いてみたことがあるが、
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/東京大学入試問題を解いて考えたこと/

(いま見ると問題のリンク先は、違う年度の問題に変わってしまっているので、ここの問題についての感想は話があわなくなってしまっておる)

そういろいろなひとが言うようなほど「詰め込み」だとかというような印象ではなかった。
たとえばアメリカ人の試験問題が「バカをふりおとす」ための試験であるのに較べて、
「賢い人間を選択」するための試験だという気がしました。
(エラソーを言うと、あの試験で入ってくるのならば日本の大学に新入してくるガキどもの程度はかなり高いはずで、どうも大学教育に相当な問題があるよーだ)

ヘンなことをいうと、いわば日本のひとはいまだにユークリッド幾何学の世界で調和的な夢を見ながらまどろんでいるので、外の世界の動的で荒々しい競争の世界への嫌悪感にとらわれながら、しだいしだいに競争力を失ってきたのだと思います。

共産主義国は社会が無慈悲な競争に陥るのを嫌って人間的な環境を保とうとした結果、競争主義に官僚主義がとってかわって、その最後期には経済活動を函数にたとえると、函に入力したものの商品価値を100とすると函から出力される製品の価値が90や80に低下してしまうところまで落ちぶれていった。
しかし、ロシア人たちと話していると、共産主義時代をなつかしむ声はたくさんあります。

たとえば、きみが数学に秀でていたとする。
その場合、モスクワ大学のすぐそばに自分の住居を与えられたきみは、学費というようなものはもちろんタダで、家賃も生活費も国家が支給してくれるので、きみはただ数学に専念していればそれでいい、という夢の生活を送ることになる。

わしは台北で、自由化後のモスクワ大学で、(他に選択肢がまったくないので)売春をしながら 研究をつづけた、と、あっさりとした感じで教えてくれた、わしがいまでも尊敬している、聡明で美しいロシア人の女のひとと一緒に食事をしたことがあるが、あのひとの知性が「自分が共産主義の時代に生まれていれば」とは言わせなかったが、辛い夜のあとで、冷え切った部屋で机に向かいながら、きっと心のなかでは、何度もそれを考えたでしょう。

日常的に嵐が吹き荒んでいるような、西洋型の世界にやがては日本も移行していかざるをえないだろう、と思うのは、だから、生産性を回復するためには、動的で物事が始終変化しつづけている社会に変わってゆくしかないだろう、と思っているからです。
あらゆる「静的調和的な制度」、おもいつくままに挙げると、年金、固定給、著作権、年次制雇用、というようなものは、良い悪い、という問題とは別に、すべて消滅していくだろう。
年次制雇用、と書いたのは、終身雇用を極端な例として、たとえば30歳で入社して55歳まで会社にいる、ということが「たまたま同じ会社に25年もいることになった」という社会になるだろう、という意味です。
いまはプロジェクトチームのメンバーとしての社員、というようなイメージがわかりやすいと思うが、ひとつの事業の達成のためのチームの集合として会社がある。
自分の人生を組み立てる場所としてドッカリと存在する、旧来の「会社」というようなものは、すでに過去のものになりつつあると思います。

人間には魂の休息が必要なので、あまりに苛烈になった競争にさらされると、森のなかに週末をすごす小さな家が欲しいと考えたり、海辺で午後をすごせる家を買いたいと思ったりするようになる。
あるいは、もっと個々の成員が近しい、小さな共同体に基づいたイメージで言えばややアーミッシュ風の生活に近づけたい、と願うひとが出てくると思われるが、それが本質的な解決に至るとは到底おもえない。
人間の社会が先進国で言えば日本のような国を除いて、過酷な社会に変貌してしまったのは、「繁栄のための競争」に参加する競技者の数が増えてしまったせいで、これまでとは桁違いの生産性が求められるようになってしまった結果です。
特に中国のひとびとのような大集団が「おれも幸福になりたい」と言い出したのは将来に至るまで決定的な要素だが、これからあとも、インド、ブラジル、ロシア、南米諸国、アフリカと、いまは貧困のなかにあっても将来に繁栄を求める人間の集団は陸続とつづいて列をなしている。

むかし、アレクサンドリアの町の喧噪が遠くに聞こえる高窓の下で、横顔を夕日に照らされながら、円から少し離れたところに、そっとひいてみた補助線を使った、ため息が出るほど典雅で、神様の吐息が部屋のなかの、すぐそばで聞こえてきそうな証明に見入りながら、ユークリッドがついていた幸福のため息は、もう人間の唇からもれてくることはないに違いない。
世界のすべてが立ち上がって、さまざまな運動を起こすような世界に、新しい世界は変貌してゆくのだろう、と思います。
そこで人間に通常のスタンダードとして求められるのは、ありとあらゆる判断に確率上の有利さの裏付けがある迅速さであり、長時間にわたって途切れなくつづく集中力であり、自分が有効な参加の仕方が出来ないゲームには、まったく参加しない割り切りである。

こうやって書いていても、まったく嫌な感じがする世の中だが、しかし、世界全体が生き延びてゆこうと思えば、ひきづられるようにしてでも、生産性をあげてゆかなければ仕方がない。
文化の上でも、一片の軽やかなペイストリに載った繊細な味のケーキよりも、千人に行き渡るビスケットだけが生き残るのをわしらは目撃してきた。
静かな部屋に座って、一瞬の調和と静寂を楽しむ余裕は、もういまの世界からは失われてしまいつつある。

あるいは、それは、いまの世界からは、「失われるべきもの」であるのかも知れません。
(考えるだけでも、うんざりだが)

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One Response to まどろむ、エウクレイデス

  1. abk says:

    (考えるだけでも、泣きたいでござる)

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