太陽を待つ


嵐が来そうなので、わしは船をみな艇庫にいれるように言いにいった。
案外、明日も低い空が垂れ込めるだけで嵐は来ないかもしれないが、文句をいう奴はいません。
素人バンドのようにして始めたのに、いつのまにか、お互いに言葉が通じるようになってしまった。
いまでは、あんまり説明しなくても、考えていることを共有できるようになった。

世界中の経済が破綻の危機に瀕しているのは誰の目にももう明らかになった。
余剰の金を持つひとびとから欲望を募集して、それを「運営」して幾許かの利益を常に出し続けなければならないファンドマネージャーたちや金融家たちは別だが、わしのような零細な投資家は、(自前なので)手綱をひいて、郎党どもと家に帰るだけである。

モニさんは、まるで神が宿ったような集中力で、自分の身体のなかで育ってゆく未来を見つめている。
風が冷たいからやめておく、といって暖かい家のなかにいます。
ばかたれなわしは、相変わらずTシャツ一枚で、うろうろしているが、ゆるやかな芝生の傾斜を降りて、ガゼボのテーブルに紅茶をおいて、午後の雲のむこうの小さな太陽を眺めている。
自分は、ほんとうに、あの日本という国に行ったことがあるのかしら、と考える。

前にブログに書いた頃、あのときには場所の名前を書かなかったが、ニューオータニ・ホテルのてっぺんのバーでモニとふたりで、頬杖をつきながら、東京の夜景を観ていた。
「ガメが、この国を好きなのはなぜだろう?」
とモニが言う。
モニの目の前には、鮮やかな緑色のグラスホッパー。
「別に、好きじゃないよ」というと、
モニが、あの5歳児みたいな、無垢のなかできらきらと輝いているような笑顔を浮かべて、おもしろそうに笑っている。
前に「純粋」ということについて書いたことがあった
https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/10/01/%E3%80%8C%E7%B4%94%E7%B2%8B%E3%81%95%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/
が、モニのようなひとの純粋さは、そういうものとは、また違うもののよーである。
いや、やっぱりおんなじものかしら、と思っていると、
モニの国の言葉から英語に切り替わって、「頑固だな」という。
You’re so stubborn.

そーですか。
自分では、そう思ったことはないけどね。
チビガキのときから、そーゆわれる。
一度、心を閉ざしてしまうと、ガチガチに頑固で、中央銀行の地下の金庫の扉のよーだ。
神様の言う事だって聞きやしない。

もちろん、そーです。
この世のなかで、わしに声が聞こえているのは、モニだけである。
そのモニにまで、頑固、とゆわれる。
そーゆえば、東京のどこかで頑固寿司、っちゅう看板を見たことがあったな。

中国のひとには、自分達を遠くから見つめる能力がある。
「中国人は」とゆって、一般化する能力ももっている。
日本のひとが、「日本人」と言って批判されると、「わたしは日本人だが、わたしは違う。同じ日本人だからと言って、『日本人』と言って一緒くたにされるのは不愉快だ」と必ずいうのと、好対照をなしている。

前に住んでいたパーネルの近所に、一日中、電動鋸で自分の家の庭の木を切り倒している中国人の夫婦がいた。
この夫婦は、パジャマで、ドライブウエイを歩いておりてきて新聞をとってゆくのでも近所中で有名だった。
わしらは、というのは近所のひとびとは、バーベキューをしながら、この夫婦の話をすることがときどきあったが、この夫婦から、少し離れたところに住んでいる別の中国人夫婦が、「中国人には、どうしても、アジア的な、公共心の欠如というものがあるよーだ」などと言っていた。
こっちの夫婦は、「公共心の欠如」からほど遠いひとたちで、ある家の壁に落書きされたときにも、近所のひとびとをまとめてネイバーフッドウォッチを作って、バカガキの集団に対抗したりした。
わしは、そのとき海外にいて居合わせなかったが、もっとも緊迫したときには、銃をかまえて、遠くからやってきて近所の不良息子につけいっていたガキどもを追っ払ったりしていたそーです。

首相の家もある、あの辺りの住宅では異常なことだったので、みなが事件をおぼえていて、この夫婦に尊敬心をもっている。

中国のひと同士のあいだでは、長く国外に住んでいる中国人に対して、ほんの少し妙なアクセントで中国語を話すだけで激しい侮蔑を示したり、外国人と結婚した中国人を売春婦のように軽蔑したりするひとがいまでも多い、というようなことは、このひとたちから初めて聞いたのだった。
だから、わたしは、香港に戻ると、街では中国語で話さないことがあるの、という。
英語なら、いいんですか?
そういうと、可笑しそうに笑って、そう、英語で話した方が、ずっと待遇が良い。
中国人には、そういうところがあるんです。

日本人にはすぐれた点が多いと中国人は皆しっている、ということや、しかし、それを日本人たちには言いたくない、という事情や、さまざまな「中国人の気持ち」について話をしていて飽きる、ということがないのは、
少し遠くから自分達を眺める、という能力に恵まれているからのようでした。
気を付けていると、この夫婦だけではなくて、中国の人たちというのは、殆どの人が
「自分達を可笑しがる」能力に恵まれている。
それは当然、自分達について深刻な反省をもつ能力でもあって、中国のひとと日本のひとには似ているところがいっぱいある、とゆっても、そこは相容れなくて、中国のひとが
日本のひとにしつこくしつこく南京虐殺などをもちだして迫るのは、政治的な駆け引き、という面とは別に、全然、自分達を一般化した形で見つめ直すということをしてくれない隣人に苛立っている、という面もあるのかもしれません。
日本人の最もダメなところは現実を直視できないことです、と言い切る中国人はよくいる。
あのひとたちは、歴史を通じて、それで失敗してきた。
それから、可笑しそうな顔をして、だけどね、われわれ中国人の悪いところは、現実を直視しすぎることだね、という。
どうも、頭のなかが現実だけで、他にはなんにもありゃしない。

街や店で、わしは中国人たちの不作法に頭にくることがおおいが、しかし、それでもなお、東アジアを統率してゆくのは中国だろう、と考えるのは、中国人が自分達を一般化して思考の対象とする能力に恵まれているからです。
もうひとつは、たとえば日本が戦争にボロ負けに負けたとき、日本人が置き去りにしていった子供達を「狩り」にくる中国人たちの一団があちこちに現れた。
あるいは、おとなと一緒だと殺されるに決まっている、と考えて、万が一つの確率に賭けて、わざと子供を置き去りにした親も多かっただろう、と思います。
そういう子供が相手でもしかし、復讐の念に燃える中国人たちは容赦しなかった。
そういうときに、自分達の子供だけでも育てるのが精一杯であるのに、誰もが日本人の子であることを知っている子供を覆うように抱きかかえて、「これは自分の子供だ」といいぬいて文字通り身体をはって守り抜いた中国人たちがたくさんいた。

中国人は、あの有名な利己主義の底に、ゆるぐことのない、暖かい、人間性というものへの絶対の信頼をもっている。
中国のひとの魂は、「自分」というものを自分達が信じる普遍的な価値や文明というものに向かいあえばゼロに近いものだ、と感じることになれていて、あっというまに、びっくりするような無造作さで、自分を捨ててしまうことがある。
天安門の戦車の前に、なんだか、うんざりしたような様子で、素手で立ちふさがった中国人がいたが、ああいうことは、どうも、中国人にしかマネができないのではないかしら、と思う事があります。

嵐になるはずだったのに、意外と静かな外の暗闇を眺めながら、冷蔵庫を開けて、マスタードときゅうりとシャンピニオンハムとスプレッドで、サンドイッチをつくって食べる。
わしが偏愛する小さなプライパンで目玉焼きもつくります。
ふたつ卵をいれて、ふたをして、白身がしろくなったところで電気ストーブ(コンロ?}のスイッチを止めると、ちょうど半熟の、形がまんまるでハンサムな目玉焼きが焼ける。
なんだかヘンな組み合わせだが、トレイに載せて、テーブルに運んで、科学雑誌を読みながら食べていると、しみじみと幸せになります。
ときどきホールをひたひたと歩いていって、モニがすやすやと眠っている寝顔を見に行く。

テレビのあるラウンジへでかけて、ごろんちょと横になって、このあいだボックスセットで全エピソードを買ってきた1958年版のトワイライトゾーン、(多分、日本でミステリーゾーンと呼んでいたのと同じ番組)を観る。

飽きると、またすたすたと歩いていって、「XBOXの部屋」に行って、プロジェクタでゲームをやって遊ぶ。
区別するのにメンドクサイので「XBOXの部屋」とマイクロソフトが喜びそうな名前で呼んでいるが、ブルーレイプレーヤーとしても使っているのでテレビキャビネットに衛星テレビのチューナーやアンプリファイア、Apple_TVとMac_miniと一緒にテレビキャビネットのなかでおとなしくしているPS3以外のゲーム機とゲームPCは、この部屋にあります。
いまは「zoom」という便利なものがあるが、キネクトが出たばかりの頃は最低2.5m離れていないと使えなかったので、部屋ごとゲームにあてることになってしまった。
このあいだ、キネクトスポーツのスクリーンを見つめながら、跳んだり太ももがアゴにあたりそうなくらい、うーんと、あーゆー動作はなんというんだ、その場に静止したまま全力疾走をするという不思議なことをしていたら、窓べに座った近所の猫がバカにしきったような冷ややかな目つきで、わしを眺めている。
人間みたいに長生きしないので、身体を動かして運動するということの重要性が猫には判らないのです。

疲れると、自分の部屋に戻ってまたカウチに寝転がって本を読む。
いしいひさいちの、忍者が寝室に忍び込んで、もぬけの殻になった蒲団に手をいれて、「まだ、暖かいぞ」「敵は遠くにいってはおらん」とつぶやいてから「ちょっと寝よ」と言う、いつもの胸のすく忍者物語を読んで血湧き肉躍らせます。
この天才漫画家も病気だそーだが、どーしてあの年代のひとは長寿の国のひとびとであるのに、早くから病気になったり早死にしたりするひとが多いのだろう。

窓のそばに立って、外を見ると、どうやら明日も静かな日のようだ。
モニと一緒にモールにでも行こうか、いまはフルが流行っているというから、やめたほうがいいかな、とぼんやり考える。
いまは、モニとわしの生活のことを考えると、新しい船が建造台から水に滑り出してゆくときのようだ。
どうやら、とても新しいものが、この先にあるようです。
わしのことだから、頑張りはしないが、ぐっすり眠って太陽とともに目覚めたひとのように、柄にもあらず力がみなぎってくるのは、新しい生活がすぐそこまでやってきているからなのかもしれません。

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One Response to 太陽を待つ

  1. じゅん爺 says:

    ボロボロにこきおろされるより、こんなふうに言われる方がこたえるね。
    ツマは吉林省から義理母のふところに抱かれて帰ってきた。
    ガメ、何かええことあったんかい?気持が優しいぞ。

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