ニッポンカケタカ

人間がとってもケーハクなので、わしはとっくのむかしにガイガーカウンタを買ってもっておる。RD1706っちゅう奴です。
そ、ガイガーミューラ計数管が2本あるやつね。
買うときに日本の「放射能サイト」を眺めていたら、「あんな安物で測っても仕方がない」という憎まれ口を利いているひとびとがいたが、その「ダメ」というひとびとの言葉が薄汚くて唇の形の下品さまで思い浮かぶようなクソ日本語だったので、かえって製品が良く見えて、これでいーや、ということになった。
シンチレータも買っちゃったもんね。
こっちは日本製です。

ところが、このブログを読んでくれていたり、不明な理由で年中発言が消されているツイッタ(とゆっても犯人だけははっきりしていてスラッシュやスペクターの工作員などではなくてわしだが)を読んで、「あ、あのバカ、また消しよった」とぶつぶつゆっているひとびとは良く知っているハナマルな理由で、今年及び来年はニュージーランドから出ないことになったので、測るものが何もない。
もう行けないと決まったのに置いておくともったいないというケチぶりを発揮して日本から送ってもらったクルマは、着いた途端に、呆れかえっている検査おじさんたちを尻目に、ワイパーの根元やドアの角、窓のゴム部分、と欣喜雀躍、あっ、いや厳粛に測りまくったが、全然ダメどした。
多分、ずっと車庫にいれっぱなしだったせいで2台とも健全だった。
シンチレータも、海苔やなんかを使う食べ物のテイクアウェイを買ったときに使おうと思うが、ここのところアジア系の食べ物はカレーとタンドリ料理くらいしか食べてないので、まだ使い途がない。
前にオーストラリア人友達が香港製「出前一丁」を箱で買ったら、スープの袋に日本語が書いてあって、いきなりひと箱ぶち捨ててしまったことがあったが、あのときシンチレータがあれば、うまくすればラーメンが1箱ただだったのに、と思います。
それとも、豪州ラーメン男の過剰な恐怖心が過剰ではなくて、真実であったりすることがあるだろうか。

日本語サイトを見ていたら世田谷で高放射線騒ぎがあったというが、記事を読んだだけで、「こりゃフクシマとカンケーがねーな」と直ぐ判る手のもので、実際、日本の放射性物質について警告を出し続けているひとびとも「これはフクシマと関係なさそうだ」と述べていたが、随分、奇妙な報道で、ゲンパツ反対のひとのなかには、「仕組まれた報道ではないか」と疑ったひとまでいたよーです。
「仕組まれた報道だ」とは思わないが、日本の「一般紙」新聞の超人的ケーハクさには、感銘をうけてしまった。
フクシマのせいでないと判り切っている「路地で発見された高放射能」を仰々しく報道することに、どんな意味があるのだろう?
東京にいる頃にも自分に興味がある事件や当事者の「プレスランチ」には、(あのクラブは食べ物がおいしいせいもあって)ときどき出かけたので、日本の新聞記者たちの不勉強と厚顔をつくしたバカっぷりは熟知しているつもりだったが、日本のNHKや読売というような新聞に較べればテレグラフ紙など初めから「真実を報道しない」という報道姿勢を明瞭にしているだけ知的である。
人間の生活の場では「賢げにふるまいたがるバカ」というのは、それよりももっと頭の悪い賢げな口ぶりをまねる能力すらないバカが崇拝してぞろぞろついて歩くだけで、普通の人間にとっては最も軽蔑されるべき対象だが、日本の新聞やテレビ報道は、口調だけがまともで中身は「いかれている」としかいいようのないそれら「張り子賢者」にとても似ている。
日本にいるとき、「どーして、あんなヘンな報道するんすか?」と訊くと、
「だって観ている人達は質が悪くて、程度をちょっとでもあげると、うけないんだよ」と答えるマスメディア人がいたが、相手の程度にあわせてバカ番組をつくっているうちに、自分がバカたれになってしまったのではなかろーか。

計測してみた砂場の砂がなんとかシーベルトであって、それが危ないとか危なくない、とか甚だしきに至っては、危ないというのは風評を広める準犯罪行為だとか、額に汗して農作業をしたことがない人間が、自分でやっていることの意味が判らない程度にものを考えることになれていないだけで純粋無垢で天使みたいなお百姓さんたちの、綺麗な心を踏みにじるのか、とか喧喧諤諤学研で福武書店な論議が繰り広げられているが、落ち着いて考えてみれば、これだけ拡散して放射性物質が環境化してしまった社会で、柏の砂場や三郷の校庭で「高い放射線」が検出された話をすることにどのくらいの意味があるだろう。
リチャード・ファインマンを殺したのではないかと疑われているデーモン・コアのようなものが対象で、実験室や教室の閉ざされた空間で放射線の高い低いを述べるのにシーベルトやグレイ、という単位は有効だが、見渡す限り放射性物質がうっすらと積もっている東京のような場所でシーベルトのような単位をもちだして、それが「基準以下」か「基準以上」かというようなクソ議論に誘導するのは、それ自体一種の詐術である。
放射能が「論理的な帰結としての予想」としてそれほど危険でない、と述べている物理学者たちは、それ以前で、その空想的なほどの軽薄さを、ただ「学者」だからという理由で野放しにしている日本という社会の正気が疑われるほどのことだが、それよりは程度がマシだとしても、やはり、間違っているものは間違っている。

つい、コーフンしてほんとうのことをゆってしまった。
最近の日本の様子を遠くから眺めていると、怒り、というような感情は起きなくて、失望というか失笑というか、日本のひとにはとても見せたり述べたりできない感情が起きてきてしまう。
一瞬だけだけど、ね。

東電幹部が福島県に「お詫び行脚」に現れて、そのクソ会社のクソ幹部に対して、
福島県のひとびとが「土下座しろ」とゆって土下座させている。
日本のひとびとが大好きな「美人すぎる」20代の東電社長だったら、会場の男たちみんなで「おわびにイッパツやらせろ」と迫るのではなかろーか。
原子力発電のようなイモ技術を見込みがなくなったあとでも、続けようとすることは社会の「卑しさ」だが、このゲンパツに反対のひとびとは、自分達がゲンパツを推進しているひとびととまったく質的に同じ卑しさを共有していることを全身で表現している。
やりきれない、という言葉以外に、こういう事象を表現できる日本語があるのだろうか。

自分がいかに日本文明というものに過大な期待をもっていたかを、これでもかこれでもかと毎日思い知らされて、げんなりしてしまいます。
日本て、ほんとうに、こんな国だったのだろうか、と日本語サイトを見る度に思う。
わしの友達のすべりひゆの訳では、
Non m’importa più. だが、
英語では、 No longer I care という。
日本語の訳は、きっと、
もう、どうだっていいのさ、
という訳がいちばんあっていると思います。
岡田隆彦は奥さんにふられて離婚したとき、勤め先の学校も休んで、
ニューオータニの部屋にサントリーの「角瓶」の木箱と一緒にこもって、ひたすらのんだくれて何日も精神の闇を墜落していたそーだが、
日本のことを考えると、その安ウイスキーの饐えたにおいがしてきそうな闇に触れてしまったような気になります。

たまらん。

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