Monthly Archives: December 2011

ツイッタだぴょん

ずっとむかし、インフルエンザで死にかけているわしを置き去りにしてモニと妹がふたりで遊びにでかけてしまったので、場所にことをかいて、春のバルセロナのガウディ大聖堂「サグラダファミリア」が見えるアパートのテーブルにノートを広げて、ひとり寂しく東京大学入試問題を解いていたことがあった。 「東京大学入試問題を解いて考えたこと」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/東京大学入試問題を解いて考えたこと/ というブログ記事に書いてあります。 どーして、わしはバルセロナくんだりまで来て、ひとりぽっちで日本の大学入試問題を解いているのだろう、と考えてしくしく泣きたくなったりしたが、一方では「結構問題がおもろいやん」と思ったりもした。 トーダイおじさんたちに訊くと、国語の第二問は最近まで受験生に短い文章を読ませて「感じたこと考えたことを誌せ」というものと決まっていたという。 何文字で書くの?と訊くと160字以上200字まで、だったそうだ。 これはかなり厳しい制約であるはずで、なにしろ読んだ文章に即して「感じたこと」と「考えたこと」の両方を書かかねばならないのだから、受験生はみな大きな消しゴムが必要だったのではなかろーか。 多分、感じたことしか書かなかったり、一生懸命考えたことを書いたら190字になって、感じたことは「えがった」だけしか書けなかった受験生もたくさんいたものだと思われる。 しかし、この何年続いたかは知らないが、ずいぶん長いあいだ続いたという「第二問」は、その200字という制約がよかったのだと思量される。 おおむかしの本を読むと、「ペラ一枚」という表現がよくでてくる。 なんだか紙がおしゃべりになったみたいな言葉だが、200字詰め原稿用紙一枚のことです。 わしは、日本語を書くのを練習したときに、「ペラ一枚」でいろいろ書く練習をした。 漢字を手書きで書くのは、必要もあるようにおもえなかったし、ややこしいので、ワープロの2バイト1文字を20字設定にして10行。 だから、すごおく頑張れば200字あればだいたいのことは表現できるのを知っている。 わしは日本語は、意図して十代の文体からもうとっくに死んだ明治人の文体までふつーに書けると思います。 十全外人だかんね。 瀬戸内寂聴、というひとが十代の人間のふりをしてケータイ小説懸賞に応募して、 見事最優秀作に選ばれた、というニュースがあったが、こーゆー悪戯は、ある程度言語感覚に恵まれた人には誰にも出来る。 フランスでも、過去には同じようなことがあったのをおぼえています。 自分がもうジジイだとゆわれてキレた有名オヤジ作家が若い新人のふりをして応募して、自分を苔むしたボロボロジジイと罵った批評家たちが「新しい風だ!すげっ」なんちゃって受賞したところで、ばーたれが、わしじゃい、をする。 英語でもMMOで会う「十代後半の女の子」の6割は40代を過ぎたおっちゃんたちである、という統計がある。 WOWやなんかに出かけてみると、なるほど、ガキのみが知るはずの隠語まで、よく研究しておる。 わしの文体は実は意図的にやや古い文体を選択してあります。 若い頃のイーブリン・ウォーが酔っ払うと自分の「加速度的にどんどんジジっぽくなってゆく文体」を礼賛して述べまくっていたのと理由は同じで、わしがずっと読んできて、美しい日本語がふつーに安定して書かれていたのは、この時代くらいまでだった。 日本文学の中心をなしていた、極めて質の高い「現代詩」が生き延びていたのが、ここまでだったからでしょう。 ツイッタは140字である。 前にもツイッタで実際に書いて、観てもらった事があるが、世論そのものがユナニマスに誤ってしまう、なあーんとなく、いまの日本に似ていなくもない社会の恐怖を述べた「狂泉」という有名な故事 http://huameizi.com/text04/kyousen.htm は、 「昔有一国,国中一水,号曰“狂泉”。国人饮此水,无不狂;唯国君穿井而汲,独得无恙。国人既并狂,反谓国 王之不狂为狂。于是聚谋,共执国主,疗其狂疾,火艾针药,莫不毕具。国主不任其苦,于是到泉所,酌水饮之,饮毕 便狂。君臣大小,其狂若一,众乃欢然。」 の120字で、物語全体が、よゆーでツイッタで書けてしまう。 ツイッタが中国において最も深刻な、時には武器を上回る破壊力のある使い方をされるのは、漢文以来の伝統を受け継いで、いまでも100文字もあれば精細で強烈な弾劾文を書けてしまう中国語にとっては140文字などは大海である、という理由もあると思う。 英語では、たとえば、 「The problem with the … Continue reading

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NEDs

1 英語で、のおんびり考えているときのわしの頭にはNEDsという語彙が出来てしまったよーだ。 「日本のひと」という意味です。 Not Even Deadという。 ネッドという言葉には英語では「ちょっと頭のたりないにーちゃん」の意味もあります。 失礼ではないか、ときみは怒るであろう。 でも必ずしも、そうではないのです。 わしは、自分達を「NEDs」と呼ぶ日本人たちの政府への反乱を母語の英語で小説にしようかと思ったことがある。 今年の5月くらいだと思う。 マンハッタンの雨のなかを歩いては、日本で雨に濡れる自由さえなくした友人たちのことを考えていた頃。 あの福島第一という悲惨を極める、としかいいようのない事故のあと、「まだ死んでもいないのに大騒ぎしすぎる」 「頭がわるいから放射能を正しく恐がれない」 「科学的な見方というものがまるで出来ないから、あの程度の放射能の漏出で危険だという」 うすら笑いを浮かべて述べる日本人秀才たちの何だか現実感がないほどの残虐性を眺めながら、周囲の「理性的な」思惑を無視して子供達の手をひいて必死に神戸に逃げた友達のナスや、ローンを組んで買ったばかりの横浜のマンションで新しい生活を始めたばかりだった中東人のSというような友達のことを考えていた。 その頃のわしをもっともくさらせたのが「誰も死んでない」「まだ死者がでていない」という「オピニオンリーダー」たちの言いぐさであって、おおげさにゆーとショックを受けてしまった。 日本の第二次世界大戦中の戦記を読んでいて不思議なのは、生きている兵士には勲章が与えられずに、勲章も賞与も死者に与えられるものであったことで、坂井三郎というひとなどは言葉にして、はっきりそれに対して不平を述べている。 こんなひどい仕打ちがあるか、とまるで涙を浮かべているのがわかるような言葉で書いている。 連合軍はもちろんナチスですら、勇敢な兵士にはどんどん勲章を与えたのであって、 死者にしか勲章を与えない日本軍という軍隊は、わしにはどう考えても理解不能でした。 日本人には「死んだ者しかほんとうの敬意に値しない」という考えがあるよーだ。 死ねば神になる文化だから、というひとがいるが、どちらかというと死んで初めて人間として扱われるように見えます。 死者に対してのみ作動するヒューマニズムという不思議な習慣は、多分、日本人だけがもっている。 わしの小説のなかでは、NEDsたちは政府に対して反乱を起こし、バララットの反乱と同じような軌跡を描くことになっていたが、マンハッタンからコモ湖に移動した途端に書く気が失せてしまった。 結局、おもいつきだけで書かれなかった小説がわしの脳髄においていったものは「NEDs」という架空な言葉だけで、しかし、その物語のなかに描かれるはずだった、 日本の文化的風土から出て、それを変えてゆくだけの深い絶望の力をもったひとびと。 あの若いひとたちが現実の世界で抗議の声をあげだすのは時間の問題だと思う。 自分達を「まだ死んですらいない未熟者」と自虐して呼ぶだけの皮肉と諧謔を思考のなかにもって、英語世界にただちに理解される「苦さ」を了解した若い日本人たち、というものが厚い層をなして存在していることを、わしは5年間に亘った断続的な滞在とインターネットを通して知っているからです。 2 今年の後半には優秀な人間というものは年齢と関係なく優秀なものだ、ということを思わせるような出来事がたまたま立て続けにあったが、村上憲郎、というひとがツイッタにやってきたのも、そのひとつでした。 ツイッタをやっていて突然話しかけてきたこの60歳を過ぎているんだかなんだかのひとは、日本では有名なひとだそーだったが、わしは名前も知らなかった。 たとえばニセガイジン騒ぎがあってやる気をなくして日本語をやめたりすると、突然やってきては、「わたしはちゃんと見ていますよ。あなたが英語人であるのは30年オーストラリアに住んでいるおばちゃんには判る。あなたが誰かは知らないががんばりなさい」という意味のことを書いてきてくれた「おばちゃん」が、なんらかの理由で「ムラカミ」ではなかったか、と思っていたわしは、おばちゃんの旦那さんかと思いました。 吉本ばななとーちゃんの話をするので、わしは「ゴールデン街」というところで見た「革命談義」に耽る「団塊じーちゃん」たちのことを思い出してびびったが、これも5分のうちに「ぼくはもとは田舎の職人のせがれで」「工学部」というので、ばななとーちゃんと共通する感情回路があるのだからとーぜんなのだ、と判った。 「政治家としてのトロツキーの大罪は、スターリンに負けたこと。「文学論」なんか書いてる暇があったら、先にスターリンのど頭にピッケルぶち込まんかい! 」 https://twitter.com/#!/noriomurakami/status/145140871740923904 というツイートを見て、すっかり好きになってしまった。 その通りだからです。 しかも、みなが「有名人村上憲郎」の模範演技を期待しているツイッタで、あっさりほんとうのことをぶちまけてしまう、ということには、このひとに本当の知性が備わっていることを示している。 そのリスクが判らないひとで、あるわけがない。 … Continue reading

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クリスマスの朝

1 ひさしぶりにモニとふたりだけで朝食を食べた。 件のブーゲンビリヤが咲き誇る花棚の下のテーブルで郵送分のクリスマスプレゼントをふたりで開けながらのんびり食べました。 ファンテール http://www.whiteherontours.co.nz/piwakawaka.html は、ひとなつこい鳥なので、生け垣にじっと隠れているブラックバードなどとは違って、 ごく近くまで寄ってきて、モニとわしをじっと見ている。 きみがニュージーランドへやってきたとして、丘から丘、入り江から入り江へと歩く「トランピング」をするというと、枝から枝へ飛び移りながら、いつまでもついてきて、可愛い声を聴かせてくれるのは、この鳥です。 しっぽの羽根を広げると、扇のようなので「Fantail」というのね。 今年は、わしのわがままでクライストチャーチではなくオークランドでクリスマスを過ごすことにした。 妹は、「なんで、おにーちゃんのために、わたしが、あんな湿気が多いところでクリスマスを過ごさなきゃいけないのよ。フコーヘイだ」とゆっておったが、性格が悪いわりに地震を怖がるので、23日のクライストチャーチ地震のあとでは沈黙しておる(^^) わしが事をよく知っておる妹なれば、わしのわがままを正当化するために、偉大な法力を乱用して地震を起こしたのかと邪推しそうなものだが、近代知性に毒されておるので、そーゆーコンジョワルが当然うたがいそーなことを疑わないものであるよーだ。 (もちろん、わしは冗談にも地震を起こしたりはしない。そーゆー悪事は神様がやることだとむかしから決まってます) 隣の家の生姜色の毛並みが美しい若い猫がやってきて、わしの足下にじゃれついてモニとわしにクリスマスの祝辞を述べておる。 遠くからクリスマスソングが聞こえている。 わしは、今年も、モニとわしにとっては良い年であって、こうしてまた静かなクリスマスを迎えられたことを神様に感謝している。 いつもは仲が悪いがな。 だいさんきゅだぞ。 神様。 2 言語は、夏の晴れた日に、高速で青空の高いところを巡航する積雲が地上に映す影に似ている。 自然が脳髄の表面に映し出す影が言語であって、シンボルの形をしたその影をとおして、人間はさまざまなことを考える。 ある人間が物事について考えるというときには、言語も彼女もしくは彼につきそって考えているのであって、よく観察していると、考えている主体も、語彙が含んでいる歴史的な意味や情緒それ自体と、脳髄の表面に射した影としての言語を機能させている個人と、半々である。 人間は言語がさししめしている方向を振り向いてみることは出来るが、その方向の遠くにあるものに目を凝らしてみることは出来ない。 人間を拘束しているものは肉体においては物理の法則だが、精神においては言語に他ならない。 言語は人間の精神の実体であるのと同時に人間の魂の牢獄でもある。 人間はときに世界の相対化を拒否して、絶対に、あるいはそういう言葉のほうが実感をもちやすければ狂信に跳躍することが出来るが、たいていの場合、そうした投企の試みは神の手ですくいとられてしまう。 ところで神にすくいとられた人間の精神の投企とは、人間性の無効化にほかならないだろう。 バネを奪われたゼンマイ仕掛けの人形、二度と箱からとびださないオモチャ。 言語に拘泥することには、そういう罠がつねにある。 3 遠くで「a king was born today」と歌っているアメリカ人の声がしている。 あれほど東洋的な考えが西洋人の世界に伝播したのは、結局は、西洋語のなかに神が内在していて、そこに「王のなかの王」が容易に屹立しえたからである。 どんな時代でも、西洋世界ではクリスマスは家庭内暴力がいちばん多い日だったし、いまでも、それは変わらない。 それは皮肉な言い方をすれば、本来は混沌でしかないこの世界に、神が過剰に存在してしまうからである。 「ガメ、踊ろうか」とモニがいう。 … Continue reading

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日本_「国家社会主義の夢の終わり」(その3)

1 民主主義がほんとうに現代でも有効なのか?と世界中でいちばん自問してきた人間のグループは他ならぬ欧州人だろう。 日本では、あんまり知られていないような印象だったが、ヒトラーが大陸欧州で擡頭しはじめた頃、連合王国でヒトラーに共感するひとは多かった。 ヒトラーがイギリス人たちは結局は自分の味方として助けてくれるだろう、と妄信していたのは、どれほどたくさんの連合王国人が自分の「新しいやりかた」を信頼しているかしっていたからでした。 公然たるナチス支持者だったCharles Lindbergh(「翼よ、あれがパリの灯だ」のひとですのい)のスピーチに対するイギリス人の熱狂はたいへんなものだったという。 子供のときにリンドバーグの演説に熱狂するケント人の姿をテレビで観たおぼろげな記憶があるが、たいていのチビガキの記憶どうよう、ほんとうの映像だかどうか判然としません。 ヒトラーを嫌悪するひとが多かったのは、いまのように恐竜化していなかった「上流階級」の人間達だったが、政治的な信条、というよりは単に「下品だから嫌い」(^^)という気持ちのほうが強かったでしょう。 スウェーデン人たちは国を挙げてヒトラーに共感する、という色彩が強かった。 オランダ人などは戦争が終わってからはナチスにずっと反対だったようなことをゆっているが、連合王国人でそういうオランダ人の言う事を信じるひとはいないでしょう。 南欧人はヒトラーが頭から嫌いだったが、それはどちらかというとドイツ人という退屈でえばりくさった人種が嫌いだっただけで、それが証拠には、スペイン人はフランコというガリシア人をイタリアはベニート・ムッソリーニというフォルリ出身の鍛冶屋のせがれを、それぞれ独裁的な国の指導者として選択している。 「民主主義」という考えは、決していつも支持されてきたわけではなかった。 わしの、あんまりたいしたことのない経験の範囲では「民主主義」というものが神から祝福されて送られてきた永遠の贈り物だと感じているのは日本のひとだけ、という不思議な印象があります。 2 ロンドンからのコンテナがまだ着かないので、本題を書き始めるのに都合がわるいが、中国のことを考えていたら、また日本語で国家社会主義経済のことを書いて考えたくなったので、少し、つきあってもらう。 どういうことかというと、わしは、結局、中国には「民主主義」などというものは起こらないだろう、と思っているからです。 中国人というひとびとの歴史を通じての特徴は「食べられるようになる」ことのみに集中して過ごしてきたひとたちである事で、中国人は「政治」という言葉で、「国民全員が食べられるようになる」こと以外を考えた事はなかった。 国家全体がそのまま皇帝の私物であった近代以前も、軍閥の長に富を簒奪された共産主義革命以前も、結局は共産主義が元来もっている経済上の機能不全をそのまま踏襲してしまった毛沢東時代も、中国人は飢えるしかなかった。 その、自分達を食べさせてくれなかった共産主義への絶望の最後の表現が(六四)天安門事件と思います。 最後の、と書いたのは、中国の国民が「もう我慢ならない」と共産党転覆を決意した六四)天安門事件の頃はすでに四五天安門事件を契機に1977年3度目の復活をはたした鄧小平の「共産主義を捨てて秘かに国家社会主義を採用する」改革が着々とすすんで成果をあらわす直前の段階に至っていたからで、中国が六四天安門事件のあと、欧州と合衆国の「経済封じ込め」を破っていまの興隆に至った直截のきっかけは、欧州と合衆国が「道義」というマヌケな理由で取引をうちきった中国の取引先を次々に掠っていった日本の抜け駆けであっても、いずれ日本の不徳義なしでも経済封鎖は成功しなかったに違いなくて、なぜかといえば、もう当時では中国が西欧由来の共産主義を捨ててしまっていたのは誰の目にも明らかで、それとは違う社会主義的ななにかを採用して爆発的な成長を目前にしているのは誰の目に明瞭になっていた。 前回も述べた通り、わしは、その共産主義を捨てた中国共産党テクノクラートが採用した「社会主義的ななにか」が何であったか、知っていると思います。 それはシンガポールの国家社会主義だった。 そして、そのシンガポールの国家社会主義は、日本の戦時官僚たちが骨組みをつくって、 日本があたかも戦勝国相手に民主主義を受け入れたような顔を取り繕いながら、アメリカの潤沢な資金を使って推し進めた戦後の「奇跡の急成長」を実現した国家社会主義経済政策の、ほとんどデッド・コピーだった。 チビガキの頃、わしはシンガポールの町を歩いていて「KOBAN」と書いてあるミニ警察署のようなものがあるのに気が付いていた。 「KOBAN」というのが日本語であることを教えてくれたのは、かーちゃんです。 かーちゃんは日本語は「おはよう」「さようなら」「ありがとう」くらいしか知らないよーだが、それでも交番という言葉は知っていた。 かーちゃんシスターか義理叔父から聞いてしっていたのだと思われる。 それを皮切りに、シンガポールという国がさまざまな日本制度をコピーして出来ていることに気が付いて驚いたものでした。 それは「社会制度」というような観念だけではなくて、たとえばシンガポールに「シムリムセンター」という有名なITタワーがあるが、長じてシンガポール人の友達に訊くと、 このビルをつくるときにリ・クアン・ユーは秋葉原に調査団を派遣している。 そして、「一階を秋葉原駅前、二階を晴海通りを渡ったところ…五階が末広町交差点の手前」というように、秋葉原の水平的な広がりをそのまま垂直に置き換えたものがシムリムセンターなのでした。 一事が万事そーであって、シムリムセンターもそうだが、警察の有無を言わさぬ強権、政治に対する無関心への誘導など、日本が熱帯に越してきてミニ国家になったのかと思うほど似ている。 一方で、シンガポールは多民族国家ではあるものの社会の主力は疑いもなく中国系人たちで、ノーティな中国人向けに特化された「ゴミ捨てたら400ドルの罰金だかんね」というような、他人に言われなくても国民性として清潔好きの日本にはない法律があるのは多分そのせいです。 外国人は知らないで暮らしているひとが多いが町内会には必ずパートタイムの政府のスパイがいて、町内で変わったことがあると公安警察に報告したりする制度があるのは、いかにも中国的である。 ところで、どうしても経済的急成長を必要とした鄧小平とそのテクノクラートたちが目をつけたのは、この「成功した中国系社会」であるシンガポールでした。 よく考えてみると、中国はシンガポール経由で、かつての仇敵、戦前日本の国家社会主義者たちの夢を買い求めたことになる。 フランスに留学した経験をもち、大陸欧州的な享楽が好きであった鄧小平の実務政治家としての勘の冴えは、この後、実際に中国を飢餓から救い出す。 中国人にとっては「民主主義などいらなかった」のを証明してしまいつつある。 3 … Continue reading

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T君への手紙

こう言うと、きみは怒るだろうが、ぼくはこの日がくるのを知っていた。 「勝ち組」という言葉のほんとうの意味は、1945年のブラジルの日系人社会で戦争に負けたのに、それがどうしても認められなくて「日本が勝った」という「事実」を信奉した人たちの呼び名だった。 きみの生きている時代の日本にも、とうとう、その日は来てしまった。 日本の社会での訓告処分、というのは言葉の強圧的な響きの割には軽い処分で、ぼくの記憶が間違っていなければ訓告3回で戒告処分、という運用のされかたなはずである。 懲戒処分のように、たとえば履歴書に必ず記載しなければならない法的な賞罰とは異なって職場内以外ではたいして意味をもたない罰則だったと思う。 群馬大学の早川由起夫というひとは、「科学者がどうやって社会と関わるか」という良い例をなした。 ぼくが5年間に何回か日本へでかけた頃、東京に人が多すぎるのに閉口して「山の家」を買ってモニとふたりでときどき息抜きをしていた、その「山の家」は、軽井沢という土地とあわないカラマツが大量に植樹されて出来た人工林のなかにある風景がちぐはぐな奇妙な町だった。 このどことなく不自然な風景の町の北西には浅間山という、姿の美しい火山があって、「つるや」という地元で人気のあるスーパーマーケットの駐車場から夕方になると「空いっぱい」といいたくなるくらいの大きさで、その雄大でなだらかな稜線を夕日のなかで輝かせて、モニとぼくの目を楽しませたりした。 そういう縁で早川由起夫という火山学者のことは、ぼくは福島第一事故の前から知っていた。 福島第一事故が起きてみると、この火山学者は「火山灰と死の灰は挙動が似ているに違いない」という面白いことに気が付いたようだった。 福島第一原子力発電所事故を謂わば背の低い火山の小噴火とみなせば大気中の分子の振る舞いは同じだろう、という推測で、ぼくはこの名案をもったこのひとの「研究者としての勘」に感心してしまった。 その後の経過を見ると、このひとの勘は正しかったように見える。 科学者が社会と関わるのは難しい。 バートランド・ラッセルは89歳のときに連合王国の核政策に抗議して行った座り込みで逮捕され懲役刑を言い渡されて、「行動する科学者の鑑」と賞賛されるが、 ラッセル卿は個人の信念に従って核を「充分にその破滅性を理解しないで」扱おうとする政府に抗議しただけであって、一方で数学者であったことと行動に直截の関連があるとはいえない。 早川由起夫という火山学者の場合は火山学という一見社会とはまったく関連がありそうもない学問が「大気中の分子のふるまい」という結節に手をひいて導かれて、彼を社会のど真ん中に連れて行ってしまった。 科学者と社会がどうやって関わってゆくか、という理想の形だったと言えると思う。 科学的方法と社会との婚姻と呼びたくなるくらいのこの火山学者と福島第一との(奇妙な言い方に聞こえるだろうが)「幸福な」関わりに較べれば、他の物理学者たちのいわば「啓蒙」をめざした活動は、そこにどうしても説教師的な曖昧がうまれて、ピンポイントで「自分が必要とされる場所」に立った早川由起夫の爆発的な活動とは較ぶべくもなかった。 傍から見ていて、彼がもたらした事故への知見は事故当初の爆発でふきあげられた放射性物質を太平洋にふきちらした風についで、日本のひとにとっての幸運であったと思う。 その早川教授の訓告処分を合図にするようにして、日本の社会は静かになっていった。 抗議や警戒の声が、すっと小さくなっていったのは因果関係というようなものはなくて 「偶然」でしょう。 ちょうど、それまで生存のために苦闘していた患者が息をひきとるように静かになってしまった。 間髪をいれず野田首相が「冷温停止状態」を宣言する。 日本の社会にはもともと腕相撲のようなところがあって、どちらかに傾き出すと、ぎりぎりと競っているのは短期間で、片方が片方に雪崩をうつように決着がついてしまう。 ほとんどの問題について、対抗した掌が空中で拮抗したまま問題を現実にそって処理してゆく西洋とはずいぶん異なる社会です。 その腕相撲の決着がついてしまった。 放射能が危険だ、という勢力は敗退したのだ、とぼくは見ています。 そして、ぼくはそれを知っていた、と書いた。 チェルノブルと福島第一事故の最も大きな違いは、前者が範囲2150k㎡に及ぶ樹木が根こそぎなぎ倒されるようなうな巨大隕石が衝突してもほとんど誰も気が付かないような広大な国土で起きたのに較べて、福島の事故は最も稠密に人口が分布している部分ではないものの、人間が大量に移動する余地のない狭い島国の200万人のひとが直截影響を受ける場所で発生し、しかも、更に困ったことには、3月15日には1500万人という人間が密集する首都圏へ放射性物質が降り注いでしまった。 ロシア、という途方もなく広大な国では、チェルノブルなどは酷い言い方をすると局所的な事故にしかすぎないのです。 実際、チェルノブル近辺の住民は政府が仕立てたバスで「遠く」へ逃げてしまえばよかった。 でも、日本という島国のどこに逃げてゆける「遠く」があるだろう。 誰が為政者でも、「ここは強引に嘘をついて乗り切らなければ国がまるごと滅びる」と思ったでしょう。 政治については党内の政局程度にしかなじみのない彼らにとっては、足が震え出すような事態であったに違いない。 あるいは明治初年の指導者たちのように野放図、と言って悪ければ、放胆な気分のなかで政治を行っていたひとびとのなかには「カネはない。いまの日本では補償はできないが、頼むから逃げて下さい。もしかすると、たいへんな被害を引き起こしたことが将来わかるかもしれない」と演説をする能力があるひとがいたかもしれないが、それはないものねだりというものだろう。 どんな社会にも「生き延びてゆかねば」という集団としての本能がある。 日本社会の閉鎖性は、ときにそれを上回る狂気を生じて集団自殺のような様相を呈することがあるのをきみもぼくも知っているが、いまのところ生じている狂気は「低放射能は安全に決まっている」という社会を生き延びさせてゆくための「方法としての狂気」とでもいうようなものにとどまっている。 大陸欧州で二年をすごしたことがあるきみは、異文化の人間がよその土地で暮らすことの難しさをよく知っていると思います。 なあーんとなく、足が地面から1センチくらい浮いているような気がする。 … Continue reading

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試験の終わりに

山手線の地図を見て、明治時代の日本の官僚の優秀さを思わないひとは、よほど鈍感なひとである。 あの土地が凸凹で線路をつくるのにカネがかかりそーな、予算が不足するに決まってるところばかり通る線路を企画するのに住人も疎らな「渋谷村」を通そうとしたんだからな。 ほとんど誇大妄想狂です。 日本の地下鉄路線図をプリントしたTシャツを着てボート遊びに行ったら、待ち合わせた友達が、なんじゃこりゃ、という顔で顔を近づけて「ぎゃっ!」とゆってのけぞっておる。 http://www.metro.tokyo.jp/SUB/SUBWAY/index.htm 「ち、地下鉄の駅じゃん、これ」とゆってジビジビしてます。 そーよ、いっぱいあんだよね東京の地下鉄、というわしの涼しい顔をみて、 なあんとなく青ざめておる。 バンコクはやけくそみたいに交通渋滞する街なので、東京っちゅうところでは昼間人口が2千万人だかを越えてるのに、なんでも噂では道路のクルマが動いているというではないか、ほんまかいな、というので、80年代のあるとき、タイのひとびとが東京に視察にやってきたことがある、というのは義理叔父の得意のひとつ話である。 山手線の建設が1885年、銀座線の開業が1927年、と聞いて、ショックを受けてうなだれて帰った、というのです。 もっとも、わしは義理叔父相手に、いかに日本社会がバカっぽいかを述べていじめてばかりいるので、反撃にでたものだと思われる。 話、半分、くらいかもしれません。 いま、もうクソミソで、いっせいカチューシャ攻撃、T34の集団突撃、B29の絨毯ナパーム攻撃にあって、頭の悪い悪魔の手先のように言われる「役人」だが、 わしは日本は結局、役人がつくって、役人とともに腐敗して、役人が滅ぼした国だと思ってます。 日本の官僚制のおおきな特徴は、田舎のビンボ人のせがれの、勉強ばかりが出来て、その競争に最適化された知性で、自分の人生を押しつぶそうとする既存社会を生き延びてきた人がもともとは多かったことで、1種国家公務員で入省して、名前は残らなかったが幹部として過ごした、というタイプのひとには、「がんばり屋」「バカと怠け者嫌い」「秀才肌」「傲岸不遜」「涙もろい」「純粋」というような形容が自分の魂のそこいらじゅうにちりばめられている人が多かった。 1980年代でもなお、バブルの高給に浮かれる友人達を横目に見ながら、マクドナルドの高校生のバイトよりも安い月給を受け取りながら、私鉄沿線の風呂もない木賃宿で、日本のエネルギー政策にそのまま採用される計画案を、汗まみれのランニング姿で書いていた若かった頃の官僚友達の話を義理叔父は酔っ払うとすぐするが、それはきっと、そのままそうだったろうと思います。 日本の教育制度のもっともすぐれた点は19世紀において、食うや食わずのビンボ人の家庭から国家を指導する人材を拾い上げる体制を組織化したことだった。 ふつう、そういう体制をもった国は、ひとの目に見えないところで、というのが判りにくければ、どうしていまでも制度的に性平等が謳われているアメリカやイギリスで、あるいは日本で、女のひとがなぜか出世が出来ず、賃金も男どもに較べて低いのかを考えてみれば判るとおもうが、不可視の力で、ビンボ人は上層に浮かび上がれないように出来ている。 ところが日本人は物理学生がロケットがもう地面にめりこんでいるのに数式だけを追いかけて猛烈な勢いで計算をすすめる、あの観念性を発揮して、絵柄に描いてある、そのまんまの社会をつくってしまった。 ビンボ人が、勉強さえすれば成功し社会の指導層になれる社会をつくってしまったのでした。 そーゆーことが、あっさりエスタブリッシュメントの「不快」も蹴散らして出来てしまったことの背景には、国民全員が「天皇陛下の赤子(せきし)」であって、てんちゃんは神様だけど、あとはみんなおんなしよ、シンミン、という天皇思想があったものと思われる。 姉や妹が売春宿に売り飛ばされてしまうような過酷な貧困の家庭でも師範学校と士官学校、兵学校ならば国家から給付をうけながら高等教育が受けられる、という、近代日本の教育制度は、日本の「観念がすべてなのよ」という特殊な文化が近代日本人のために準備した、最高のプレゼントであったと思います。 日本が社会主義国的な計画経済国家として長く君臨したことには、他にも理由がたくさんあるが、この「田舎の秀才」をたくさん集めえた教育制度に大きな理由があるように見える。 全共闘の時代に、大学生たちがヘルメットをしてタオルで顔を隠していることの理由のひとつは、大学を卒業して一流会社に就職する段になって「反体制運動」に加わっていたのでは都合が悪い、ということだったようだが、一方では当時の上級国家公務員試験合格者に対して、通産省などは、相手が中核派の幹部だろうがなんだろうが、人材としてすぐれているとみれば採用を躊躇しなかった。 民間会社よりも遙かに思想的なタブーのない採用をしていた。 財務省や通産省の、こういう採用の思想は、戦前からずっとそうであったもののよーで、ものの考え方として 「25歳よりも若くて革命思想に惹かれない人間には人間性がない。30歳を過ぎても社会主義を信奉する人間には責任感がない」という連合王国人がよく言うセリフを連想させる。 「強い公共心と正義感」というものが、ひとりの人間にどういう軌跡を描かせるか、むかしの日本人はいまの日本人よりもよく知っていたように見えます。 ここでは、これより先の議論はしないが、わしは日本の繁栄をつくり、人民戦線的な国民文化を形成したのは教育だったと思っている。 このいろいろな意味で特殊な教育体制が壊れてゆくのは、どうやら日比谷高校解体を象徴とする東京都の学校群制度導入あたりからだと観察される。 どこからどう読んでも理解できない「公立高校が大学受験のような競争において優位にたつのは好ましくない」というチョー不思議な理由によって、 学校群制度が導入されるのは1967年の事です。 どーも、この辺から日本の教育制度は崩壊していったもののよーである。 東京では、日比谷高校を中心とした都立高校から、国立教育大学付属駒場高校や開成・麻布・武蔵というような私立の学校へ東京大学入学者の分布がシフトしてゆく。 ここで見落としてならないのは、 日比谷高校が学区内の公立中学から通常の受験で入学してくる15歳の子供を引き受けて「日本式大学受験」という他の国の大学初年級に相当する詰め込みと厳しい思考訓練を行ったのに較べて、私立高校はたいてい6年一貫教育であり、厳しい選別にさらされる年齢が12歳に低下してしまったことです。 それは社会から見ると実はたいへんな変化だった。 ここを起点に日本からは「子供」がいなくなっていきます。 関西では、公立高校はずっと後まで生き残ってたとえば「北野」や「天王寺」というような公立高校から京都大学に大量に進学する。 しかし、たとえば東京大学で言えば、学生数の半分を占める東京の中学高校の公立体制の崩壊は、結局は国家の教育体制におおきな「隙」をつくってしまい。 … Continue reading

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日本の古典_その1 いしいひさいち

義理叔父の間違いだらけの日本語のeメールには、ごく稀に面白いことが書いてあるが、 昨日受信箱にはいっていたeメールを読むと「50代の人間に大病が多いような気がする」という。 それも、喉頭癌が多いよーだ。 保存料、とか、着色料のせいだと思うかね。 おれが子供のころは、ファンタ・グレープ、ほれぼれするような紫色だったからなー、と書いてあります。 歩く風評被害のようなひとである。 群馬大学は、こういうひとを訓告処分にしないで野放しにしていてもいーのだろーか。 第一、早川由起夫の話をしていたら、「群馬? あー、田舎の、元二期校の。まだ、あんのか、あの大学」という、おそるべき差別発言をしたひとです。 とんでもないやつだ。 わしが早川由起夫なら学長と一緒に怒るであろう。 いしいひさいちも、(そのときの義理叔父のeメールによると)ビョーキだったよーだ。 いまwikipediaを見ると、「恢復した」と書いてあるので安心だが、忌野清志郎も、そーゆえば、トーダイおじさんのKさんも、とちょっと団塊世代のすぐ下にあたるひとびとのことを考えた。 いしいひさいち、という漫画家は「がんばれ!!タブチくん!!」とか、「ぷがじゃ」とか、同世代から10年くらい下のひとにとっては世代的な秘密をわけあう味がする作家である、と夏目房之助という漱石先生の孫が選集の終わりに書いてある。 わしは実は「がんばれ!!タブチくん!!」を読んだことがありません。 選集に抄録されているものを読んだことがあるくらい。 もともと、60年代70年代の日本をベンキョーする過程で「伊賀の影丸」が大好きになったわしは、「忍者無芸帳」という名前につられて手に取った、いしいひさいちの漫画が、すっかり気に入ってしまい、B型平次捕物帖や、「にんにん物語」を、まるで朱子学者が論語を読むようにして、アホな苦労をして読んだものでした。 あのいしいひさいちの70年代や80年代世相についての膨大な知識がなければ読んでもおかしくもなんともない漫画を、網羅満載した脚注を整備して英語で出版したら、さぞかし売れるだろうと思う。 日本という国の奇想天外な文化が伝統的モンティパイソンファンを虜にすることになるのは請け合いなので、外務省が世界中でやっているバカタレのひとつおぼえの「茶道」や「生け花」の日本フェスティバルはやめて、政府の後援で出版すればよいのではないか、とマジメに思います。 いしいひさいちの漫画には、ときどき訳の判らないセリフが出てくる。 たとえば、「お前はマルトか、ばかやろ」というよーなセリフが時代物の漫画に出てくるが、この「マルト」というのは鎌倉の大船、松竹撮影所跡のイトーヨーカ堂の近くにあった輸入専門家具店です。 他にも「波乗りまんじゅうみたいなマーケティングですね」というのもあったと思うが、 これは大町の和菓子屋さんがつくっているおまんじゅうのことである。 いったい、日本の漫画人口の何%のひとが鎌倉人でもよう知らんような大船の「輸入家具のマルト」を知っているというのだろう? 山本夏彦は、「ひとりの作家が書く物をちゃんと理解してくれるのは300人くらいのものだ」と書いていたが、ぬわるほど、とこの雑誌編集長が長かったひとのいうことを読んで感心したものでした。連合王国では「100人」という。 そーだろーなあー、と思います。 英語圏全体でも1万人もいるわけねーよな、という感じがするので、そんなものだろう、という感じがする。 この「300人」の裏には、山本夏彦の「自分の信じている事を書いて10万部も売れる本を書くひと、というのはおかしいのではないか?」という気持ちがありそーな気がする。 「10万部」というような数は編集者が狙ってつくるものであって、たとえば作家が書きたい物語をおもいきり書いて、そんなに売れてしまってはダメなのではないか、という考えがあるよーだ。 鮎川信夫が「テレビは聴取者の数が多い、ということが、そもそもダメなのさ」とゆっています。 「大人数の人間を満足させる、ということは、すなわち、最大公約数をつくることだからね」 「そして、最大公約数、というのはいつも質的水準としては信じられないくらい低い」 いしいひさいちが漫画を描くときに考えていたのは、要するにそういうことで、だから、ずっと後になって朝日新聞の連載をひきうけたときに、どんなことを考えて引き受けることにしたか、余計なお世話だが、なんだか、とっても興味があります。 このブログ記事によく出てくる、日本にいるあいだ、わしが親切にしてもらいまくっていた「トーダイおじさん」たちとは別に少数民族グループとして、「キョーダイおじ」たちもいたが、このひとたちの長老は、「ぷがじゃ」つまり「プレイガイドジャーナル」が風景のなかにある、「関西学生文化」にどっぷりつかっていたひとであって、このひとの話に出てくる関西学生生活は「コミューン」という言葉が思い浮かぶほど楽しそうなものです。 わしは自分では実物を見たことがないが、この「ぷがじゃ」文化から、いしいひさいちは出発したという。 「仲野荘」的仲間意識が、いしいひさいちの健全さをささえていたのかもしれません。 日本にいるあいだに、いろいろな世代のひとに話をきいて、強くおもったことは、 1950年代後半くらいまでに生まれたひとたちには、溌剌とした知的共同体とでもいうべき強い雰囲気がある。この世代が小学生の高学年から高校生時代にかけて共有していたと思われる、ラジオの深夜放送や演歌だらけだったという流行歌への強い反発、岡林信康(バックバンドが「はっぴいえんど」なのだな)、「ぷかぷか」、吉田拓郎くらいまで、それまでの「旧世界」とくっきりと色が違う文化を共有して強く永続的になるかに見えたエネルギーの渦巻きが、「ポパイ」という雑誌や、ユーミンの音楽が爆発的に売れるに従って様変わりしてしまい、「金魂巻」のように、いまの時代のわしなどが手に取ると、こんな退屈で薄汚いへらへら笑いに満ちた本が、なんでそんなに売れたのだろう、と思うようなしょうもない本が売れる時代に至って、あっというまにエネルギーを失って墜落してしまう、そのときに何があったか、ということでした。 中進国から先進国への移行、全共闘運動を防止するための初等から高等までの教育体制の弾圧的な改変の成功、さまざまな説明があるのは知っているが、どれもピンと来ない。 あの80年代のどこかに有ったはずの分水嶺の、丘陵の両側をその持ち前の敏感さで眺めていた、いしいひさいちに、「マルトの秋田さん」の話でもしながら、どんなことが起きたのか訊いてみたい、と思う事があります。

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