エキスパートのつくった牢獄

しあわせだなああああー、ころころころころころ(ベッドの上をモニから遠ざかりながら反対側のへりっこに転がっていって遊んでいる音)
たのしーのおおおおおー、ろころころころころこ(ベッドの端っこからモニのほうへ転がって戻ってきた音)

良い匂いのする奥さんと結婚すると、朝がたいへん楽しいのだとゆわれておる。
眠っているモニの背中からそおおおーとひっついて顔をくっつけて、(ひゃああー、いいにおい。たのしい)とこっそりとつぶやく。
そのままジッとしていると「しあわせ」が体内に充満して爆発してしまうので、そおおおーと離れてベッドの端っこで手足をばたばたさせて喜びを発散させます。
大きく深呼吸してから、また、そおおおーと近付いて、声をださずに、きゃっきゃっきゃっ、をしてから、また戻ってきてバタバタする。

シーツの上下にはさまったまま、寝転がって足がNe-Yoステップになってしまう。
シーツの足下に隙間ができて、慌てて足でなおします。
あとで起きたら、ちゃんと修復しなければならぬ。
そうしないと、モニが夢の中で雪女になってしまうであろう。(註1)

(閑話休題)

皆の衆。
元気でしか。
わしはとっても元気です。

夏になったので、遊んでばかりいる。
他の季節も遊んでばっかりじゃん、とゆってはいけません。
ちゃんと、それぞれの国が夏なときに出かけて遊んでるではないか。

裏庭のレモンの木からレモンをぶちもいで、苦い良い味のするマーマレードをつくったり、バターがぶわっっとはいった不健康極まりないビスケットを焼いて、モニとふたりでCSIマイアミを観たり、最近はお酒をやめて水ばかり飲んでいるモニさんと一緒に庭のテーブルに出て、風も緑色に染まりそうな芝と生け垣の緑が太陽の光に反射するのを見ながら白ワインを飲んで話をしたり、そーやって遊んでおる。

今年の後半は旅行はクライストチャーチだけで、来年も9月まではニュージーランドにいるので、時間がいっぱいあります。
だから、いつもはやらないことをやる。
シルクスクリーンでTシャツをつくったり、カーポートを改造して第二車庫をつくったり、そーゆーこともして遊ぶ。

無論、モニさんと広大な公園や静かな砂浜を散歩する。
ニュージーランドではヘリコプターが日本の十分の一以下のコストで貸し切り出来るので、いつもと違う趣の場所を散歩したいときはヘリコプターで、バリバリバリバリバリと飛んでゆけば、あっというまに人間が住まない小さな孤島の散歩も出来る。

そうやって、毎日のんびり暮らしています。
たのしーじゃん、と思う。
夜になると、ピノを飲みながら銀色に輝きまくっておる月を、わしの大好きな「手ぶれ防止機能付き」双眼鏡で眺める。
月という衛星の特徴は隕石に痛めつけられた傷跡が文字通り輝くばかりに美しいことであって、「豊穣の海」と名前が付けられた荒涼とした表面に魅入られた小説家が、物語の題名にしたわけである、と思わせる。

顔ガリレオどん @galileinagano  が
”「本質的には「分配の公正」要求のほうが大きいと思うよ。「病気しただけでホームレス」状態とかだし。がめさんは微妙にズラすよな。まあ超・恵まれた位置にいるから仕方ないんだろうが”
とツイッタで書いて寄越している。
https://twitter.com/#!/galileinagano/status/140566311813136384

ツイッタで返事をするのは無理だからブログ記事で返事をするけんね、とゆっておきながら、シルクスクリーンでゴジラのTシャツを作ったりしているのに忙しかったわしは、反省して、ここにマジメにこたえよーと思っている。
いっぺんに答えるのは全然無理なので、そもそも専門化してゆく世界で何が起きているかを考える事から始めようとしている。
始めただけで、いきなりばったり倒れて、そのままねむってしまうかもしれないが、大庭亀夫のやることだから、それはそれでやむをえない、と思ってもらわねば困ります。

こうやって根はまじめな人間なので、ジュラさんSDさん、待っててね。
読んでいる人は、いよいよ何のこっちゃと思うだろうが。

専門家、テクノクラート・ビューロクラート的な人間の在り方は、もともと軍人の行動様式を原形にしている。
大日本帝国海軍の将校教育のひとつに、階下に行くときには階上から階下に移すものを必ず手にもっていけ、というものがある。
つまり、階下のライブリから従卒がもってきた雑誌が階上のテーブルにあったとして、用事で厨房のある階下に行くときには、手ぶらで行かずに雑誌をもって階下に行け、行動のムダを少しでも省け、ということです。
「無駄を省いて生産性を高める」というのは軍隊将校に必須な感覚だった。
ここでエキスパートという言葉で述べようとしているのは、テクノクラート・ビューロクラートに専門的な知識を身につけて訓練された経営者というようなものも含む、「専門家集団」というようなもののことだと思ってつかあさい。

色キチガイ爺のバートランドラッセルが書いた教育論を読んで以来、「日本の教育」というものに興味をもってあれこれ調べた時期があったのは、これまでもこのブログ記事で何度も書いたが、そのなかで「試験に出る英単語」という本を発見して、ぶっくらこいてしまったことがある。
その本は、丁度、「Wikipedia」程度、科学的な文章でいえば、それよりも少しやさしい、ニューズウイークの科学記事程度の文章に頻出する単語に的をしぼって、しかも個々の単語の印象が強くなるようにアルファベット順でなく頻度順に並べ替える、という「ムダをなくして受験英語で高得点をとる」ことに特化した本であって、なんだか、わしの感覚では、その考え方の品の悪さが、しみじみと恥ずかしくて他人にゆえないほどの下品な本だったが、それがむかしの日本ではベストセラーどころではなくて、1500万部売れた、と書いてある。

この英単語集は、日本のひとの「勉強」にまことに象徴的、というか、なあーんとなく、悪魔に魂を売り渡して、死ねなくなったまま刑務所に無期懲役でぶちこまれる、あの有名なトワイライトゾーンの挿話を思い出させるよーなお話であって、理屈で考えてみて、なるほど日本の受験問題を「解く」ためにはムダもなく有効な考え方が、これに手をだせば一生英語が理解できることはないであろう。

言葉はムダで出来ている。
言葉は本来自然情報であるこの世界をシンボルで表現する、という難しいことをやっているので、必然的にムダが大量に生じる。
それを実際に現実性があるかどうか言語中枢が判断するのは、どうやら「音」によっている。
音の抑揚からうまれる「起承転結」や安定や、あるいは逆に不安定に中断された調子や、バランスが壊れたようすによって、人間の大脳は起きている事態の現実性や真実性、方向性や情緒までを理解する手がかりにしている。

そういう構造を持っている言語の意味性だけをとりだして、観念の機能にだけ焦点をあてて、しかもそれに一対一に対応する日本語を照応させてしまえば、いわば言葉を「死語化」させて理解することになる。

しかし、そうやって本質が脳髄のなかで破壊されたことは検出できないような試験なので、(というのは、この受験生が英語をほんとうに「できる」かどうかは、外国語としての英語の知識をもった試験官が10分も話をすれば明らかだが)、本質的でないほうの能力に磨きをかけただけの人間が日本では綿綿と大学に入り続けてきたことになる。

こういう考えの在り方は実は数学や物理では中級程度まではかなり有効で、たとえば日本の数学の参考書は、まず定石を学習し、それから複数の定石の組み合わせ方を練習させる点でチェスの教本そっくりだが、これは実際に科学的な訓練になりうる。
実際にはこの訓練の化け物で科学的な発想をもてないまま「教科書学派」とでも呼びたくなるような権威付けを施した「科学的正しさ」をふりまわして異端審問官のような振る舞いに及ぶアンポンタンな自称科学者が、たとえばスペインのような国に行くと数の子に集結した卵の数ほどいるが、だからとゆって訓練そのものが悪いわけではない。
頭の悪いひと、というのは知的訓練を受けてもやっぱり頭がわるいのだ、というどちらかというと文学的な真理に立ち至るだけです。

そうやって「効率」に特化した「ハウツー国家」をつくった日本には、欧州人や合衆国人がいまだに喜んで話すオモロイ逸話がたくさんある。
日本のひとは忘れてしまっているが、欧州人や合衆国人は人間がひつこいので、もう5、600年はおぼえているに違いない。

日本が経済的に擡頭してきたとき、西洋の国が発見したのは自分達の社会の生産性が「試験に出る英単語」な生産性で武装した日本社会に較べると、問題にならないくらい低い、ということでした。
のどか、というか、バカというか、いま考えるとちょっと信じられないことだが、むかしは新しい技術上の発見を学会で(意見を交換して検討するために)無防備に発表していた。たとえば情報学会のようなところでも、研究者がインテルの新しいCPUの要諦を学会で発表すると、決して自分達は発言したりしない最前列に陣取った日本人研究者たちが、必死に発表内容を書きとめる。
話の要諦が終わると発表が終わるのをまたずに、ダッシュで席を蹴って、書きとめた原稿をファックスで日本の本社に送る。
そうすると、あな不思議、大金と大人数の研究員を動員して何年もかけて研究したCPUがインテルとほぼ同時にオリジナルCPUとして生産される、というようなことがあったよーだ。
しかもインテルのオリジナルより、日本のパチモンのほうがやや速かったのもいうまでもありません。
アメリカ市場におけるパテント固めはこの頃から始まるが、それはまた別のときに話したい。

エキスパート的「試験に出る英単語」式考え方の真の問題は、このエキスパートたちが行政を司るときに顕れたので、それはなぜかというと、現代の経済世界においては経済生産性の上からは人口の9割はオーバーヘッド、つまり「ムダ」だからです。
1億人の人口があれば、たかだか1000万人が生産性を担っていて、残りの9000万人は「消費の力」としてしか経済に貢献しない、という現実がある。
例はメンドクサイから挙げない。
挙げないが、この記事を読んでいるひとのなかでも会社の役員というようなことをやっているひとびとは、特に例を探して歩かなくても、会社にでかけて、あちこちの部署のフロアを歩き回るだけで、実感していることでしょう。
会社というのは通常、いてもいなくてもあんまり変わらない仕事熱心でも熱心でなくても、どっちでもおんなじなんちゃう?な人だけで出来ている。

もう少し目を離して言うと、アメリカ合衆国の生産性はグーグルやアップル、マイクロソフト、フェースブックというようなIT産業に集中している。
どれもハードウエアの生産に依存しない会社です。
アップルはハードウエアやん、というひとがいるだろーし、尤もだが、あれは経済上はソフトウエアのパッケージみたいなハードウエアなんですのい。
なんのこっちゃ、と思う人は、たとえばむかしのトールボーイを開けてみるとよい。

むかしのアップルはソフトウエアとそのおまけの、ソフトウエアを動かすためのハードウエアの会社であって、いまは、ソフトウエアとマーケティングの会社である、というのがふつーの定義と思う。
ところが、政治的な重要性は一貫して自動車や航空機産業、農業の側にある。
何故かというと、合衆国の構造というのは、それを一個の会社とみなすと、
株主は、中国や日本、欧州、中東という社外のひとびとであって、それなのに大統領というCEOは従業員が選ぶことになっている。
本来生産性をもっていない旧産業にはしかし給料をうけとるために(社会全体を効率化したい側からみれば)「巣くっているひとびと」がたくさんいて、その生産性に寄与していないひとびとが国の経営方針を決める権限をにぎっている。

本来、会社の経営や問題点、あるいはもっというと要点が判らない従業員が選択したCEOや役員が会社の経営をやっていくのは無理だが、その矛盾をエキスパートたちが解決することを求められている。

ムダを減らすと、有能なものに富が流れ、(経済から見て)無能なものは干上がり、競争は激化して、世の中はいちじるしく住みにくくなるが、「良い悪いの問題ではなくて、こうやんねーと、社会自体おしまいでっせ」というのがエキスパートの立場である。
金融、厚生、通商、農業、あるいは福祉においてすら、専門知識と定石を駆使してより効率的なシステムを構築して運営することを求められるエキスパートたちにとっては、世界そのものがムダである、という倒立した価値観のなかで生活し思考するのはふつーの事である。

その結果、どうなったかというと、11月5日版のエコノミストの表紙は上下のバンだけがあって、まんなかのハンバーグやなんかが、まるごと消えたハンバーガーの絵
http://www.economist.com/node/21536596

だった。
その通りの社会になってしまったからです。

マンハッタンでは26歳で、旦那は情報の修士号、奥さんは一流大学の経済学部を出てジャーマネ、というカップルでも、結婚した理由が「ひとりじゃ食えないから」であったりする。
大きな会社の社長秘書なのに給料日が近付くと、スーパーのデリでスープとパンを買って食べるのがやっとのオカネしか残らない、なんというのはふつーもいいところである。

中間層というものが消滅してウエイターやウエイトレスたちが必死で生活のために奮闘しているのと同じ経済的階層にのみこまれつつある。

それは結局は「ムダを排して生産性が高いことに集中する」というエキスパートに求められる思考が人間性を排せざるをえないところまで来てしまっているからで、競争というものが勝者にしか有利でないことを人間の社会に思い起こさせるのに充分な結果になってしまった。

もう、時間がない、というか、このへんでブーストをかけて考えないと、「専門化」した世界は、結局人間を食い殺して終わりになるのは見えてしまっている。
皮肉にも、人間をエキスパートによる「生産のための生産」から守ってきたのは「社会主義が提示していた数々の幻影」だった。
組合も年金も福祉も、ああいうものはすべて社会主義が理想として掲げた現実化不能の諸観念が資本主義社会のメインプレーヤーたちを脅かすことによって現実の制度になった。
いまエキスパートが企画した締め付けとして顕れているのは、とどのつまりは(古典的な絵柄のなかで眺めると)キャピタリズムの、歯止めをうしなった暴走だが、では、どんな歯止めが有効なのか、ということになると、みなが途方にくれてしまっている。
カール・マルクスの人間性への誤解に淵源をもつ、あの巨大な思想を受け継ぐものが見つからないのです。

教育から美徳から思想まで、いま、われわれを取り囲んでいるすべてがエキスパート世界のなかで再生産されてきたものだからであると思います。

(画像は、わしの午飯だがや。これにミントソースやグレービーソースをぶちかけて食べます。テーブルの上にとびあがってポルカを踊り出したくなるくらいうめっす)

(註1:夏とはゆえど、まだ朝はさみーんだよ)

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5 Responses to エキスパートのつくった牢獄

  1. wiredgalileo says:

    やあ久しぶり。なかなか忙しくて投稿内容読めてないしツイットも見てないんだけど、業務連絡す。昨日Togetterで大炎上を起こした結果、Twitterのユーザー名変えました。galileinagano
    ですが、これまでのツイットやフォロワーは引き継げたみたい。読んでもらえば何が起きたかだいたいわかるかも。

    「公正な配分」については5分割くらいでTwitterに書くべくメモ書きしてみてたけど、完成させる余裕がしばらくとれそうもないな。最初の段落はこれ。

    @gameover1001: ①「公正な分配」がなぜできないかといえば、究極的には、人間が進化していないからだと思う。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」社会が成立するには、各々が聖人レベルでないと無理じゃないかな。

  2. 顔ガリレオさま、

    >昨日Togetterで大炎上を起こした結果、Twitterのユーザー名変えました。

    いま読んできた。こーゆーの読むと、日本ではわしが考えていたよりも遙かに事情が悪化している、というか、なあーんか戦時中みたいになってるのね。

    原発事故は深刻なのでは無いか、という人は、ちょっとでも躓いて転ぶと、わああああっと下品族が集まって石ぶつけにくる感じですのい。

    >完成させる余裕がしばらくとれそうもないな

    わしは顔ガリレオと話してみたいだけなので、もちろん、いつでもいいですよ。のんびりでよいのだ。

    バカというものは、実際その正体はほんとにバカなだけなのだから、あんまりまともに相手にしないほうがいいのです。
    顔ガリレオの長いあいだの発言をずっと読んでいて、顔ガリレオのひととなりを理解して敬意をもっている友人がたくさんいるのを忘れないでね。

  3. Rayさま、

    >日本でも、鶏鳴狗盗の話は清少納言の和歌で有名やし、民話にもちゃんと三年寝太郎って逸話があるし、勤勉の象徴みたいな二宮尊徳はんも、あくせく働くふりする若者より、木の根の掘り方しか知らん人をほめたりしはったらしいけどなあ。

    わ、わしの記事のどこを読むと、そーゆー反応になるのだ。
    Rayは、おっちょこちょいだったのだな。オッチョコチョイ、
    なんておもろい響きの言葉だろう。

    > 一度オークランドのどっかで飲みましょう。メールください。

    共通の知人がいるかどうか訊いてみまし。
    医療のひとでしたのい。

  4. wiredgalileo (galileinagano) says:

     どもお久しぶりです。がめさんの投稿を読んで思うのはさ(ごめん、ざざざっとしか読んでないけど)、まるで効率化が自動的に進んでいるかのように書いてるけど、効率化が進むのは仕事が「カネ」とつながってるからで、だから人のクビ切りも進んでるわけじゃない?
     思考実験として、仕事内容と「カネの分配」を切り離して、平等にカネが分配される社会だったとしたらどうかと考えてみるとさ、効率化はそれほど進まないよね。(以前の社会主義国家は、まあ分配が完全に平等だったとはいえないだろうけど、効率化は進まなかったよね)
     ちょっと病気になったらホームレスに転落するような状態になってるという、いまの米国とかの問題は、やはりカネの「分配」の問題だと思う。「進みすぎた効率化」の問題も、基本的には、カネをどう分配するかという問題だと思う。競争に勝つために不要な人件費等々を削り、その一方で、ごく一部の「勝ち組」だけが莫大にカネを得られる構造になってるわけじゃない?
     Occupyの人たちはその構造をなんとかすべきだと言ってるんだと思う。まあ私としては、カネの分配や都市にこだわらずに、自分たちでカネを介さずに食べて行ける仕組み、農業共同体とか地域通貨とかを作ったほうがいいのではと思うけど。

     ちょっと書きかけた「公正な分配」の件だけど。「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことは人間が進化しないと無理だ、というのが第一段落だったんだけど、第二段落としては、しかし、かつての日本の共同体というのはそれに近かったと思うんだよね。他の国についてはよく知らないけど、まあ、ベーシックな人間の「村」というのは、おそらくはどこでも、それぞれが自立しつつ、共生もする仕組みがあっただろうと思う。(人間が進化していなくても、仕組みとして存在していたと)
     で、前も書いたけど、かつての日本経済の強みというのは、この共同性が生きていたことで、「全体のために」一生懸命働きつつ、特に名声を求めず、おおきな対価も求めない、みたいな人はけっこうそこらじゅうに居たんだよ(いまでも、例えば勤務医なんか、すごい激務なのに薄給で、使命感でやってくれている先生とか多い)。
     しかし日本の近現代化自体が、この共同性を崩して行った。「村の秀才」を吸い上げる教育体制は、日本の強みでもあったけど(「共同性を残したエリート」が社会を構成していた)、この教育体制自体が、日本の共同性を崩すものでもあった。で、近代化と共同性がうまくバランスした時代は「黄金時代」的に存在したけど、共同性は次第に崩壊し、いまは悲惨なものになってしまった。

     ちょっと「民主主義」について考えてみたいんだけど、自由平等博愛が民主主義の原則だとして、その3つの原則のうち、個の自由を強調している国が米国だとすると、日本は全体の平等が強調されている国といえそうだよね。んで、日本ではその「国家社会主義」が、時代にもうまく乗って経済的成功につながったわけだけど、うまく行ってた時代には、平等だけでなく、個の自由も、共同性も、それなりに確保されつつ廻ってたんだよね。
     前も書いたけど、「民主主義」は、戦後日本にとっては自分たちを解放してくれた「よい理想」として受け入れられたし、それなりに実体的にも存在していた時期があったと思う。
     しかし次第にそのバランスは崩れ、貧富の差が拡大。共同性の分解に伴い、「少数の勝ち組→自由主義信奉」と「大多数の負け組→全体主義信奉」構造になってきていた。(これは戦前日本でもそうだったんだけど。)
     特に原発事故以後は、日本的な「国家社会主義」が、断末魔的に、「食べて応援」「放射能全体主義」のように不気味なものになっている。図式的に言えば、個も、共同性も、破壊するような全体主義になりつつある。(つうか、原発事故で物理的に共同性が破壊されてるし、個も破壊されつつあるけど)

     原理的な話に戻れば、本来、自由と平等は矛盾するもので、それを止揚するのは博愛(共同性)なのかもね。
     シュタイナーは、人間の社会を文化・経済・法の3領域に分けてるんだけど、自由というのは文化領域の原則であるべきであり、経済領域の原則として自由を持ち込むのは間違っていて、経済領域の原則となるべきは友愛だと言ってる(法的領域の原則は平等)。「自由主義経済」というのは人間社会を分解させるものであり、「友愛の経済」が生まれるべきだという意見。
     図式的にいえば、個が共同性を分解する「自由主義経済」でも、共同性を個が抑圧する「放射能全体主義」でもない、「友愛の経済」が必要だ、ということが、世界的に見えてきたところなのではないだろうか。
     
     とはいえ、「友愛の経済」は難しい。特に、原発以後の日本では特に。これについては、今回の「炎上」事件で考えることがあったので、別の項目へ移動します。

    • 顔ガリレオwiredgalileo (galileinagano) さま、

      >どもお久しぶりです

      しばらく見ないうちミドルネームが付いておるな。
      そのうち、顔ガリレオ・ワイアードガリレオ・ガリレイナガノ14世なんちゃって、上田公国の首長になったりして。

      >仕事内容と「カネの分配」を切り離して、平等にカネが分配される社会だったとしたらどうか

      そんな仮定、意味ないんちゃう? 堯舜の世を夢見ても経済原則に敗北するのではないだろーか。

      >カネの「分配」の問題だと思う。

      そーね。税制、だよね。

      >Occupyの人たちはその構造をなんとかすべきだと言ってる

      いや、これじゃ食えねえ、ともっと直截に切羽詰まってるんですのい。

      >「能力に応じて働き、必要に応じて取る」ことは人間が進化しないと無理だ、というのが第一段落だったんだけど、第二段落としては、しかし、かつての日本の共同体というのはそれに近かったと思うんだよね。他の国についてはよく知らないけど、まあ、ベーシックな人間の「村」というのは、おそらくはどこでも、それぞれが自立しつつ、共生もする仕組みがあっただろうと思う。(人間が進化していなくても、仕組みとして存在していたと)

      そーなのかな? どういうものを読むといいか、おせーてくれ。
      昨日、大キャパシティの本棚を4つこさえたので、また少し余裕があると思われる。

      >例えば勤務医なんか、すごい激務なのに薄給で、使命感でやってくれている先生とか多い)。

      20年殆ど給料変わらないからな。わしの知っているおっちゃんは長年の激闘に疲れ果てて、遂に産科医から不妊症医者に転業しました。

      >この教育体制自体が、日本の共同性を崩すものでもあった。

      そーでもないんちゃう? 本質的に腐敗したというよりも、制度いじくってあそんだせいで壊れたという印象があります。

      >平等だけでなく、個の自由も、共同性も、それなりに確保されつつ廻ってたんだよね。

      個の自由、があったのは選良だけと思う。

      > 「民主主義」は、戦後日本にとっては自分たちを解放してくれた「よい理想」として受け入れられたし、それなりに実体的にも存在していた時期があったと思う。


      ふむふむ。(ふざけてるわけじゃないよ)

      >日本的な「国家社会主義」が、断末魔的に、「食べて応援」「放射能全体主義」のように不気味なものになっている

      遠くから観ててもこえーよ。

      >原発事故で物理的に共同性が破壊されてるし、個も破壊されつつあるけど)

      みんなの身体のなかに「緩慢な死」がはいりこみつつあるよね。

      > 原理的な話に戻れば、本来、自由と平等は矛盾するもので、それを止揚するのは博愛(共同性)なのかもね。

      顔ガリレオ理論の中核だな。その「博愛」「共同性」をもっとうまく説明できなければいけない。
      いまのだけじゃ、ピンとこない。

      >経済領域の原則として自由を持ち込むのは間違っていて、経済領域の原則となるべきは友愛だと言ってる

      ふむふむ。

      >「自由主義経済」というのは人間社会を分解させるものであり、「友愛の経済」が生まれるべきだという意見。

      ところが、どう規制しようと「自由主義」が結局は競争への強さから蘇って、「夢見るマヌケな競争者」を必ず出し抜いてしまう、というところに顔ガリレオ理論の弱さがある。
      もうちょっと具体的に説明してくれないと困る。

      >今回の「炎上」事件で考えることがあったので、別の項目へ移動します。

      はいはい。でわ、一緒に別室に移動しよう。

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