肩越しに見た2011年 -近況報告概観篇

わしは毎年クリスマスから新年にかけてはクライストチャーチにいる。
チビガキのときから、ずっとそーです。
だいたい12月の初め頃になると、欧州からじったらたじったらたと移動してシンガポールでぐーたらしたりしてからクライストチャーチにやってくる。

安岡章太郎というひとが戦争直後の食料不足の頃に飼っていた犬は、火曜日になると、ふい、といなくなって金曜日には帰ってくる。
ある日、散歩の途中で少し離れた町内の家を通りかかったら、その犬が、まるで違う名前で他家の軒先に座っているのを見つけたそーである。
「飼い主が食べ物に困っているのを察して、負担を少なくするために一週間の半分を他の家で飼われていたんだよ。泣かせる犬だった」と章太郎先生はゆっておる。

ブリストルという所でタクシーに乗ったら、クライストチャーチで乗ったのと同じタクシーの運転手であった。
「引っ越したんでっか?」と訊いたら、ニュージーランドの夏はニュージーランドで、連合王国の夏は連合王国でタクシーの運転手をやっているのだそーであって、理由を訊くとこともなげに「冬が嫌いなんだよ」というので、クールだのおー、と思ってカンドーしたことがあった。

章太郎犬も常夏(とこなつ)運転手も、理由は違うが、共通した「味」というものがあって、わしが北半球と南半球を往復して暮らすようになったのは、かーちゃんととーちゃんの差し金だが、自分でも、長じても途中うろうろしながら北と南を往復するのが好きだったところを見ると、犬さんであったりタクシーの運転手であったりする才能があったのかもしれぬ。

 2011年も、だから新年はニュージーランドにいました。
英語国では新年は「二日酔いの日」なので、特に感想はない。
丁度日本と逆で、クリスマスは家族の日で新年はガールフレンドやなんかとすごす日である。
モニとふたりでいちゃいちゃもんもんしたりして一日が過ぎたのではなかろーか。
もうおぼえてないけど。

2月。
クライストチャーチの地震の被害は、あの煉瓦や石積みの多い街でM7だったわりにはたいしたことなかったよーだ。見た目より内部はひどいし構造も補強しなければならない建物がたくさんあるよーだが、と話していたら、クライストチャーチから電話があって二度目の地震があった、という。
今度の地震は9月のよりずっと小さいがスポットオンなので、CBDは全滅なよーだ、というのでした。
自分がクライストチャーチにいるときに使う事務所を、いつものただの気まぐれでフォーアベニューのなかから、西の郊外に移してあったわしはどうということはなかったが、友人達は自分の会社へのアクセスを失って、その経済的打撃は酷いものだった。
ひとりの友達などは、地震で被害のなかった、誰でも自由に通行できる通りに面した建物を借りているのにコードンオフされている通りに面した側にしか玄関がないので、カウンシルに「入ってはいけない」とゆわれた。
で、どのくらい立ち入りできなかったかというと、コードンオフされた初めの地震から一年たって、やっと「中のものを取りに行っても良い」ということになっただけでした。
ニュージーランド人はテキトーなくせに、連合王国人じみて、念には念をいれて、いれまくって、これでもかこれでもかこれでもかになって、偏執狂のように念念してしまうところがあるが、その悪い癖が出てしまった。

わしはクライストチャーチまでヒコーキでぶっと飛んでいったり、ヘリコプターでうろうろしたりしていたが、3月11日には、もっと酷いことが起きた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/03/13/1885/  (「水の映像」です)

カウチに並んで腰掛けてテレビを観ていたモニとわしには、初めは何が起きているのか判らなかった。
現実の日本の東北の海岸線があって、その上をまるで安物の特撮のような水が、自分の意志をもった生き物でもあるように、するすると走ってゆく。
まったく現実感のない映像にしかみえなかったが、 目は信じていなくても心の底で、それが現実に起きた大惨事であることを知っていたのは、多分、やはり安っぽい作りの映画のトレーラーの繰り返しのようにしか見えなかった9.11の映像の記憶があるからでしょう。

モニの目にみるみるうちに涙がたまっていって、ふたりで声もなくテレビを眺めていた、あの日の、強い、美しい夏の午後の陽射しが忘れられない。

3月の終わりには、モニとわしはカリフォルニアへ旅立っていた。
そこからマンハッタンのアパートに戻って、ふたりでしばらく(ひさしぶりに)マンハッタンでのんびりしたが、初めの頃には「日本を救え」と、あちこちのスクエアで募金活動をやっていたのが、福島第一の事故と、それに対する奇妙としかいいようがない日本社会の反応が伝えられるうちに、なんだか善意が力尽きてしまうようなやりかたで、声が小さくなっていって、そのうちに聞こえなくなってしまった。
わしには、もう「日本」というものが判らなくなってしまっていた。
もっと精確にいうと、「日本人」という特別な言語をもった人間の集団がなにをしたいのか、どんな幸福をめざしているのかが判らなくなってしまっていた。
天皇が椅子を蹴って逃げ出して「わしも人間だかんね」とゆった以上、もう存在しなくなっているはずの「国体」みたいなものを、彼らはいまだに信じているのだろーか。
自分達の体の外にも内にも放射性物質を蔓延させて、それを「安全に決まっている」と自分に言い聞かせて、そのくせ、少しの雨に濡れてさえ後悔するような生活をしながら、あのひとたちは、どこを目指そうというのだろう?

普段は、日本のことを考えはしなかったが、ときどき妙な弾みで日本を考えることがあった。
たとえば、アイ・ウエイウエイ
http://es.wikipedia.org/wiki/Ai_Weiwei
の十二支の彫刻をプラザホテルの前で見た時も、人間の脳髄に特有な奇妙な思考のめぐりかたで、福島のことを思い出したりした。
アイ・ウエイウエイの彫刻を冒頭に掲げた記事を書いた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/18/「フクシマ」のあと/

日本について少しは判ったと思っていたのが、ぜんぜんそうでなかったことが判って、さびしいような、あほらしかったような、索然とした気持ちだったのをおぼえている。

なんとか気を取り直してみると、その「異貌のひとびと」の群れの中には必ず自分が知っている「日本人」が混じっているはずで、(ただ自分のためだが)その日本人たちに手紙を書こうと考えて、モニが眠っているすきをみつけては書いたりしていた。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その1/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/20/個人のための後退戦マニュアル・その2/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/05/22/個人のための後退戦マニュアル・その3/

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/17/個人のための後退戦マニュアル・その4/

それは不思議な経験で、書いているうちに、わしのバカ文章を明かりを消した夜中の台所や、電車の中、やっと寝付いた子供の横で読んでいる日本のひとの姿が頭のなかに浮かび上がってくるような気がした。
わしは、そのひとたちに話しかけたかった。

わしのこのバカブログは、わしのあまりの言語的天才ぶりに圧倒されて、そう思わないひともいるのは知っているが(^^) わしがめんどくさくてたまらなかった「日本語を書く」とい作業を自分に強制するために、なにがどーでも書かなければならないような仕組みにしたのが始まりだった。
ナスやjosicoはんやネナガラというような友達は、その頃からずっと読んでいるので、初めは、ほんの数行を書くのに何度も似た文を探してきて間違いがないか参照したりするのに手間取って半日かけて、ちょぼっとだけ書いたバカ文章をおぼえているはずである。

日本そのものに特別の興味があったかというと、そーでもなくて、子供のときに日本にいたことがあるのと、わしの最大のマブダチである従兄弟と、そのアンポンタンな父親である義理叔父とが自称日本人なので、やってみてもいいかあー、と思った、という程度だった。
これもむかしからブログを読んでくれているひとは知っているが、わしはチョーケーハクな性格なんです。
やることが軽はずみである。

だから、なんだか集団でやってきて罵りにきたりするひとを見ても、どーでもいいや、という反応しか起きなかった。
なにしろ、「日本に住めなくしてやる」とかゆいにくるひとも多かったが、もともと住む気がない相手にそんなことをゆってもムダなんちゃうの?と不思議だったりした。
向こうは、嫌がらせの意味だけでなくてマジでわしが日本人だと思っていたのかも知れないが。

でも福島第一のあとでは、わしには自分が誰に向かって書いているかわかってきたような気がしてきたのです。
そして、それは正しい感覚だった。
いまは、わしは、誰に向かって書いているかはっきり知っている。

6月になるとマンハッタンを出たモニとわしは、わしが大陸における根拠地バルセロナに投錨した。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/10/零細な夜についてのメモ/

そこから、シトロンC6だったはずのC5で、アビニョンやウーゼスやニームや広大なフランスの南部をクルマであちこちうろうろして行き当たりばったりに星ふたつやみっつの、全然やる気のない、しかしフランスの田舎特有の無茶苦茶なかっこよさのホテルに泊まりながら、コモ湖に行った。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/06/30/北イタリア某村/

日本の軽井沢というところにあった「山の家」の代替地にはコモ湖がよかんべ、ということになったからです。
ブログに出てくる「ジョン王」との面会をはたして、フランスを斜めに横断したモニとわしは、7月の初めにはもうバスクにいた。
https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/09/hondarribia/

ガリシアに行って、帰りにビルバオに寄った。
ポーというわしが大好きな町に寄ってモニのかーちゃんがてぐすねひいて待ち構えていたパリに戻る頃には、7月も終わりになっていた。
でも、ひさしぶりに大陸欧州をうろうろしてまわってオモロイと思いました。
そのうろうろしていたあいだの、いつもと変わらぬバカっぽい感想は、だからこのブログの6月から7月のあいだに集中している。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/22/イタリア・フランス・スペイン/

8月になると、わしは季節外れのニュージーランドに帰ってきた。

モニとわしは結局マンハッタンにいついてしまうかもしれないし、予定をはやめてモニの故郷に定住するかもしれない。
それでも大好きなニュージーランドに戻ってこないわけはない、と考えているところです。

(続くんだぞ、これ)

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