肩越しに見た2011年_バックグラウンドミュージック篇

今年の始まり頃は何を聞いていたかというと、去年の続きでAna torroja (^^)
http://www.youtube.com/watch?v=DPf0uOMIulE

とか、Aventura
http://www.youtube.com/watch?v=WivMb-s_UHI
のよーなラブソングばっかし聴いていたよーな気がする。
そんなケーハクな、とゆってはいけません。
ほんとうのことを言うと閻魔さまに舌をぬかれてしまう、と仏教説話にも述べられている。
ついでに川の畔で訳のわかんねーバーチャンに服をむしりとられてストリップ・ティーズをさせられると言うではないか。

Concha Buika
http://www.youtube.com/watch?v=xYHvkZnMIMM&feature=related
のごとき、シブイ歌手も聴いていたが、頭は、どっちかとゆーと、風がふくと、ひらひらと踊り出してしまいかねないくらいケーハクだったのだとゆわれている。
わしは、クラブ中が痺れるくらいステップが軽いのでユーメイだからな。

音楽は、本来は、「歌詞」がついてはダメである。
人声を楽器がわりに使うオペラも、ゆっておる言葉が頭にはいり始めると、邪魔なので、
ほんとうは「オペラ語」をつくって、なんだか訳がわかんねー言葉で歌ったほうが遙かによい。
わしは、オペラはイタリア人達が作ったものが最も好きだが、歌詞のほうに頭がいきはじめると、「トスカ」みたいに普段気がふれてでもいるかのように大好きなオペラでもギャグでやってんのか、おめーは、と思ってしまうことがあります。
性格が悪いんだよ、おれは。
ほうっておいてくれたまえ。

音楽は音楽の「定型」だけで完成していなくてはいけないだろーが、流行り歌、というのは、そーもゆかない。
音楽の基本的訓練が出来ていない場合には、チューンをつくる天才でも、それを一曲に渡って持続させる、ということが出来ない。
息切れ、しちゃうのね。
「4小節の天才」とゆわれたビートルズが、これの典型だと思います。
「A Day in the Life」などは、歌い出しのあまりのかっこよさに、ぞぞぞぞっとしてしまう。

「You Never Give Me Your Money」の、音楽を正面から教わった人間なら、金輪際おもいつくはずがない単純で気絶しそうなほど美しい旋律も、そー。

この分野が20世紀に異常な発達を遂げたのは、まず初めに「ドーナツ盤」の3分何十秒だかの制約があったからで、その次にはこのEPのクソ商業主義に嫌気がさした、ビートルズやピンクフロイドたちの25分X2を目一杯使った「音楽」への試みがあった。

一方では、どこの国でも「詩」が廃れまくっていった。
詩があちこちで廃れてしまった理由は、簡単で、詩を読むにはかなり高度な訓練が必要なのに、それを組織的に教える学校が少ないからです。
「詩の解釈はひとそれぞれですから」なんて、「8X8+5は、ひとによって69とも104とも言えます」とまったく等価な恐ろしいことを言うひとがいるが、それは「自分にはまったく詩が読めません」と告白しているのと同じでごんす。
詩の主要な目的は言語を使って「精神の定型」(五七五のような形式上の定型ではありません)を探り当てることであって、この定型に届かない詩は、読めない。

ボブ・ディランという人は、詩のすぐれた読み手だったが自分では詩が書けない人でした。このディラン・トマスから名前を借用するほど詩ばかり読んでいた十代のクソガキは、そこで「チューンを定型の代用にすれば、ちゃんと詩として相手に伝わるではないか」「詩の定型を理解するひとよりも、音楽の旋律に感動できるひとのほうが多いし」と考えた。
ボブ・ディランの、ぶっとぶくらいすぐれた「音楽詩」は、そうやって生まれた。
このひと以後、詩を書く人は、旋律にのせて自分の詩を相手の脳髄に投影しようとするようになる。
「音楽詩人」は、いまは普通の形態なので、日本の私小説の伝統を連合王国で復活したのだとゆわれている言葉寄りのLily Allenから、音楽寄りのArno Elias
http://www.youtube.com/watch?v=Z5QBtQXe4LY
まで、何百万という歌い手やバンドがある。

3月の福島第一事故のあとでは、わしは、マンハッタンの街をモニとふたりで歩きまわりながら、James MorrisonとNelly Furtadoの「Broken Strings」

http://www.youtube.com/watch?v=26PAgklYYvo

をよく聴いていた。
聴いていた、というよりも歌が頭のなかで鳴り続けていたので、歩きながらよく鼻歌で歌うのでモニにからかわれた。
理由は簡単です。

When I love you
It’s so untrue
I can’t even convince myself
When I’m speaking
It’s the voice of someone else

Oh it tears me up
I tried to hold on but it hurts too much
I tried to forgive but it’s not enough
To make it all okay

You can’t play on broken strings
You can’t feel anything
That your heart don’t want to feel
I can’t tell you something that ain’t real

Oh the truth hurts
A lie is worse
I can’t like it anymore
And I love you a little less than before

という、この歌の歌詞が、まるで日本を愛していた日本のひとたちの自分の祖国への気持ちのように思えたからである。

「ほんとうのことを聞かされるのは辛いけど
 嘘をつかれるのは もっと酷い」
笑われてしまうだろうが、わしはこの歌を口ずさみながら、放射能の雨が降り注ぐ日本で暮らすひとびとのことを何度も考えた。

大陸欧州に帰る日が近付いてくると、「ブロークンストリングス」でも充分わかるよーに、チョー単純なわしは、マンハッタンのモニのアパートのクッソ高い巨大なステレオセットをがんがんに鳴らして、
Grace Potterの「Paris」
http://www.youtube.com/watch?v=oHlhOgQ36m8

Natasha St-Pier Tant Que C’Est Toi
http://www.youtube.com/watch?v=h5cVH3Hmp0Y

とかを聴いて喜んでいて、またしてもモニに爆笑されました。
でかい音でこの曲をかけながらテーブルの上でビデオの踊り子さんたちの踊りのまねをしてモニを喜ばせたのは、ゆーまでもないことである。
そのくらいの芸がなければダンちゃんとゆーものは務まらない。

5月と6月は英語アタマでは、曖昧な理由によって中国の事を考える事が多かったので、
Sa Ding Dingを聴いていることが多かった。
http://www.youtube.com/watch?v=Cccp-VRd720
おかげで、いまではサ・ディンX2の曲を聴くとレオン王国の赤い荒野が思い浮かぶよーになってもうた(^^)
しかし、たとえばバチャータはスペイン語なのにスペインには全然あわなくてスペインのなああーんにもない田舎道を運転しながら聴けたものではなかったが、サ・ディンディンは、意外や、ぴったりだったのでごんす。
音楽に国境がない、というのは、嘘であるな、としみじみ考えました。

わしはひとりで散歩するときには16Gいっぱいぎゅうぎゅうにはいった音楽をシャッフルにして聴いているが、考えてみると、なつかしい高校生ガキの頃は、ひとつのCDを何度も何度も聴いて、ギターを手に取ればいきなり細部までそっくり表現できるくらい何千回も聴いたものであった。
だから、ある音楽を聴くと、そのときの感情がたちまち蘇る、ということがよくある。
散歩の途中で急に涙がでてきたりして困るが、22歳くらいの頃から音楽を「消費」してもいいや、と思うようになってきた。
消費されない一握りの音楽は、こちらがどんなに使い捨てにしようとしても出来ないということが判ったので安心して聴けるようになった。

ブログで書いたGotyeやGin Wigmore、
http://www.youtube.com/watch?v=_mGVr4uCMCQ

あるいはSmash Proofのような人達は時間のなかでゴミ箱行きになるのか、何十年も経ったあとで、ふと思い出して、ああ、あの歌はあんなにいい歌だったんだな、と思うのかはいまはまだ判らない。

くるまで旅行にでかけるとよく聴くカントリーミュージックには
Lady AntebellumのNeed You Now
http://www.youtube.com/watch?v=1OfsZyYPLoI&ob=av2e
みたいな、なんということはないのに歌詞が頭にこびりついて離れなくなるものもある。

たしかなのは、今年聴いた歌のいくつかは、ずっと後になっても、あのとき福島のひとたちのことを考えながらプラザホテルの前の広場に立っていたのだった、というようなことを、そのときの街の匂いや色彩と一緒に細部まで思い出させてしまうに違いないことで、そういう力をもった魂の「定型」をこれほどたくさんの人間が作れるような形式に辿り着いた「流行り歌」というものは、その辺でえばっているゲージツよりも案外と芸術的なものなのかもしれません。

聴いている時間にすればいちばん長いに決まっているアフリカやインド、中東の音楽は、この記事ではふれません。また別のときに話したい、と思います。

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4 Responses to 肩越しに見た2011年_バックグラウンドミュージック篇

  1. SD says:

    ガメさん、

    曲じゃないけど、Leap Before You Lookをぜんぶ暗唱できるようになった。

    ポーランド語の文章は、暗唱できるの、聖書の一節だけ^^;
    詩には今日、挑戦してみる。

  2. わが友SDどん、

    >Leap Before You Lookをぜんぶ暗唱できるようになった。

    すげー

    >ポーランド語の文章は、暗唱できるの、聖書の一節だけ^^;

    すげー(^^)

    わしのロンドンの家から近いポーランド料理屋いきてえ、小さい定食屋みてーなとことだけど、うめーんだよ。
    ずっと、行ってねえ。
    まだ、あるかな。

  3. SD says:

    Leap Before You Lookは、なんだか自分に向けてアドバイスをされているようだった。Rudyard KiplingのIf…も、Elizabeth BishopのOne Artも。
    (詩をつまみ食いしているのがバレるな^^;)

    聖書は、学校で、聖書を学ぶ機会が何度もあって、それ以来たまに聖書を読んでた。クリスチャンではないけど、たまに礼拝で聞いた聖句を思い出すんだ。
    教育というのは「思い出」のようなものだね。

    ポーランド料理、おいしいよね。
    食事、はベンキョーするうえでもめちゃくちゃ大事なので、これからは料理もベンキョーすることにした。

    • SDどん、

      >Rudyard KiplingのIf…も、Elizabeth BishopのOne Artも。

      そんなふるいもんばっかりって、どんだけえええー。
      (すまん。いちど、「どんだけえー」を使ってみたかったんです)

      >聖書を学ぶ機会が何度もあって、それ以来たまに聖書を読んでた

      あんな辛気くさい本、よお、読みますな。

      >ポーランド料理、おいしいよね。

      うん。うまい。

      >これからは料理もベンキョーすることにした。

      ポーランド人のはくいねーちんにお願いして料理とポーランド語と両方おしえてもらう、というのはどーであろー。

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