日本の古典_その1 いしいひさいち

義理叔父の間違いだらけの日本語のeメールには、ごく稀に面白いことが書いてあるが、
昨日受信箱にはいっていたeメールを読むと「50代の人間に大病が多いような気がする」という。
それも、喉頭癌が多いよーだ。
保存料、とか、着色料のせいだと思うかね。
おれが子供のころは、ファンタ・グレープ、ほれぼれするような紫色だったからなー、と書いてあります。

歩く風評被害のようなひとである。
群馬大学は、こういうひとを訓告処分にしないで野放しにしていてもいーのだろーか。
第一、早川由起夫の話をしていたら、「群馬? あー、田舎の、元二期校の。まだ、あんのか、あの大学」という、おそるべき差別発言をしたひとです。
とんでもないやつだ。
わしが早川由起夫なら学長と一緒に怒るであろう。

いしいひさいちも、(そのときの義理叔父のeメールによると)ビョーキだったよーだ。
いまwikipediaを見ると、「恢復した」と書いてあるので安心だが、忌野清志郎も、そーゆえば、トーダイおじさんのKさんも、とちょっと団塊世代のすぐ下にあたるひとびとのことを考えた。

いしいひさいち、という漫画家は「がんばれ!!タブチくん!!」とか、「ぷがじゃ」とか、同世代から10年くらい下のひとにとっては世代的な秘密をわけあう味がする作家である、と夏目房之助という漱石先生の孫が選集の終わりに書いてある。
わしは実は「がんばれ!!タブチくん!!」を読んだことがありません。
選集に抄録されているものを読んだことがあるくらい。

もともと、60年代70年代の日本をベンキョーする過程で「伊賀の影丸」が大好きになったわしは、「忍者無芸帳」という名前につられて手に取った、いしいひさいちの漫画が、すっかり気に入ってしまい、B型平次捕物帖や、「にんにん物語」を、まるで朱子学者が論語を読むようにして、アホな苦労をして読んだものでした。
あのいしいひさいちの70年代や80年代世相についての膨大な知識がなければ読んでもおかしくもなんともない漫画を、網羅満載した脚注を整備して英語で出版したら、さぞかし売れるだろうと思う。
日本という国の奇想天外な文化が伝統的モンティパイソンファンを虜にすることになるのは請け合いなので、外務省が世界中でやっているバカタレのひとつおぼえの「茶道」や「生け花」の日本フェスティバルはやめて、政府の後援で出版すればよいのではないか、とマジメに思います。

いしいひさいちの漫画には、ときどき訳の判らないセリフが出てくる。
たとえば、「お前はマルトか、ばかやろ」というよーなセリフが時代物の漫画に出てくるが、この「マルト」というのは鎌倉の大船、松竹撮影所跡のイトーヨーカ堂の近くにあった輸入専門家具店です。
他にも「波乗りまんじゅうみたいなマーケティングですね」というのもあったと思うが、
これは大町の和菓子屋さんがつくっているおまんじゅうのことである。

いったい、日本の漫画人口の何%のひとが鎌倉人でもよう知らんような大船の「輸入家具のマルト」を知っているというのだろう?

山本夏彦は、「ひとりの作家が書く物をちゃんと理解してくれるのは300人くらいのものだ」と書いていたが、ぬわるほど、とこの雑誌編集長が長かったひとのいうことを読んで感心したものでした。連合王国では「100人」という。
そーだろーなあー、と思います。
英語圏全体でも1万人もいるわけねーよな、という感じがするので、そんなものだろう、という感じがする。

この「300人」の裏には、山本夏彦の「自分の信じている事を書いて10万部も売れる本を書くひと、というのはおかしいのではないか?」という気持ちがありそーな気がする。
「10万部」というような数は編集者が狙ってつくるものであって、たとえば作家が書きたい物語をおもいきり書いて、そんなに売れてしまってはダメなのではないか、という考えがあるよーだ。

鮎川信夫が「テレビは聴取者の数が多い、ということが、そもそもダメなのさ」とゆっています。
「大人数の人間を満足させる、ということは、すなわち、最大公約数をつくることだからね」
「そして、最大公約数、というのはいつも質的水準としては信じられないくらい低い」

いしいひさいちが漫画を描くときに考えていたのは、要するにそういうことで、だから、ずっと後になって朝日新聞の連載をひきうけたときに、どんなことを考えて引き受けることにしたか、余計なお世話だが、なんだか、とっても興味があります。

このブログ記事によく出てくる、日本にいるあいだ、わしが親切にしてもらいまくっていた「トーダイおじさん」たちとは別に少数民族グループとして、「キョーダイおじ」たちもいたが、このひとたちの長老は、「ぷがじゃ」つまり「プレイガイドジャーナル」が風景のなかにある、「関西学生文化」にどっぷりつかっていたひとであって、このひとの話に出てくる関西学生生活は「コミューン」という言葉が思い浮かぶほど楽しそうなものです。
わしは自分では実物を見たことがないが、この「ぷがじゃ」文化から、いしいひさいちは出発したという。
「仲野荘」的仲間意識が、いしいひさいちの健全さをささえていたのかもしれません。

日本にいるあいだに、いろいろな世代のひとに話をきいて、強くおもったことは、
1950年代後半くらいまでに生まれたひとたちには、溌剌とした知的共同体とでもいうべき強い雰囲気がある。この世代が小学生の高学年から高校生時代にかけて共有していたと思われる、ラジオの深夜放送や演歌だらけだったという流行歌への強い反発、岡林信康(バックバンドが「はっぴいえんど」なのだな)、「ぷかぷか」、吉田拓郎くらいまで、それまでの「旧世界」とくっきりと色が違う文化を共有して強く永続的になるかに見えたエネルギーの渦巻きが、「ポパイ」という雑誌や、ユーミンの音楽が爆発的に売れるに従って様変わりしてしまい、「金魂巻」のように、いまの時代のわしなどが手に取ると、こんな退屈で薄汚いへらへら笑いに満ちた本が、なんでそんなに売れたのだろう、と思うようなしょうもない本が売れる時代に至って、あっというまにエネルギーを失って墜落してしまう、そのときに何があったか、ということでした。
中進国から先進国への移行、全共闘運動を防止するための初等から高等までの教育体制の弾圧的な改変の成功、さまざまな説明があるのは知っているが、どれもピンと来ない。

あの80年代のどこかに有ったはずの分水嶺の、丘陵の両側をその持ち前の敏感さで眺めていた、いしいひさいちに、「マルトの秋田さん」の話でもしながら、どんなことが起きたのか訊いてみたい、と思う事があります。

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