試験の終わりに

山手線の地図を見て、明治時代の日本の官僚の優秀さを思わないひとは、よほど鈍感なひとである。
あの土地が凸凹で線路をつくるのにカネがかかりそーな、予算が不足するに決まってるところばかり通る線路を企画するのに住人も疎らな「渋谷村」を通そうとしたんだからな。
ほとんど誇大妄想狂です。

日本の地下鉄路線図をプリントしたTシャツを着てボート遊びに行ったら、待ち合わせた友達が、なんじゃこりゃ、という顔で顔を近づけて「ぎゃっ!」とゆってのけぞっておる。
http://www.metro.tokyo.jp/SUB/SUBWAY/index.htm
「ち、地下鉄の駅じゃん、これ」とゆってジビジビしてます。
そーよ、いっぱいあんだよね東京の地下鉄、というわしの涼しい顔をみて、
なあんとなく青ざめておる。

バンコクはやけくそみたいに交通渋滞する街なので、東京っちゅうところでは昼間人口が2千万人だかを越えてるのに、なんでも噂では道路のクルマが動いているというではないか、ほんまかいな、というので、80年代のあるとき、タイのひとびとが東京に視察にやってきたことがある、というのは義理叔父の得意のひとつ話である。
山手線の建設が1885年、銀座線の開業が1927年、と聞いて、ショックを受けてうなだれて帰った、というのです。
もっとも、わしは義理叔父相手に、いかに日本社会がバカっぽいかを述べていじめてばかりいるので、反撃にでたものだと思われる。
話、半分、くらいかもしれません。

いま、もうクソミソで、いっせいカチューシャ攻撃、T34の集団突撃、B29の絨毯ナパーム攻撃にあって、頭の悪い悪魔の手先のように言われる「役人」だが、
わしは日本は結局、役人がつくって、役人とともに腐敗して、役人が滅ぼした国だと思ってます。

日本の官僚制のおおきな特徴は、田舎のビンボ人のせがれの、勉強ばかりが出来て、その競争に最適化された知性で、自分の人生を押しつぶそうとする既存社会を生き延びてきた人がもともとは多かったことで、1種国家公務員で入省して、名前は残らなかったが幹部として過ごした、というタイプのひとには、「がんばり屋」「バカと怠け者嫌い」「秀才肌」「傲岸不遜」「涙もろい」「純粋」というような形容が自分の魂のそこいらじゅうにちりばめられている人が多かった。

1980年代でもなお、バブルの高給に浮かれる友人達を横目に見ながら、マクドナルドの高校生のバイトよりも安い月給を受け取りながら、私鉄沿線の風呂もない木賃宿で、日本のエネルギー政策にそのまま採用される計画案を、汗まみれのランニング姿で書いていた若かった頃の官僚友達の話を義理叔父は酔っ払うとすぐするが、それはきっと、そのままそうだったろうと思います。

日本の教育制度のもっともすぐれた点は19世紀において、食うや食わずのビンボ人の家庭から国家を指導する人材を拾い上げる体制を組織化したことだった。
ふつう、そういう体制をもった国は、ひとの目に見えないところで、というのが判りにくければ、どうしていまでも制度的に性平等が謳われているアメリカやイギリスで、あるいは日本で、女のひとがなぜか出世が出来ず、賃金も男どもに較べて低いのかを考えてみれば判るとおもうが、不可視の力で、ビンボ人は上層に浮かび上がれないように出来ている。

ところが日本人は物理学生がロケットがもう地面にめりこんでいるのに数式だけを追いかけて猛烈な勢いで計算をすすめる、あの観念性を発揮して、絵柄に描いてある、そのまんまの社会をつくってしまった。
ビンボ人が、勉強さえすれば成功し社会の指導層になれる社会をつくってしまったのでした。

そーゆーことが、あっさりエスタブリッシュメントの「不快」も蹴散らして出来てしまったことの背景には、国民全員が「天皇陛下の赤子(せきし)」であって、てんちゃんは神様だけど、あとはみんなおんなしよ、シンミン、という天皇思想があったものと思われる。

姉や妹が売春宿に売り飛ばされてしまうような過酷な貧困の家庭でも師範学校と士官学校、兵学校ならば国家から給付をうけながら高等教育が受けられる、という、近代日本の教育制度は、日本の「観念がすべてなのよ」という特殊な文化が近代日本人のために準備した、最高のプレゼントであったと思います。

日本が社会主義国的な計画経済国家として長く君臨したことには、他にも理由がたくさんあるが、この「田舎の秀才」をたくさん集めえた教育制度に大きな理由があるように見える。

全共闘の時代に、大学生たちがヘルメットをしてタオルで顔を隠していることの理由のひとつは、大学を卒業して一流会社に就職する段になって「反体制運動」に加わっていたのでは都合が悪い、ということだったようだが、一方では当時の上級国家公務員試験合格者に対して、通産省などは、相手が中核派の幹部だろうがなんだろうが、人材としてすぐれているとみれば採用を躊躇しなかった。
民間会社よりも遙かに思想的なタブーのない採用をしていた。
財務省や通産省の、こういう採用の思想は、戦前からずっとそうであったもののよーで、ものの考え方として
「25歳よりも若くて革命思想に惹かれない人間には人間性がない。30歳を過ぎても社会主義を信奉する人間には責任感がない」という連合王国人がよく言うセリフを連想させる。
「強い公共心と正義感」というものが、ひとりの人間にどういう軌跡を描かせるか、むかしの日本人はいまの日本人よりもよく知っていたように見えます。

ここでは、これより先の議論はしないが、わしは日本の繁栄をつくり、人民戦線的な国民文化を形成したのは教育だったと思っている。
このいろいろな意味で特殊な教育体制が壊れてゆくのは、どうやら日比谷高校解体を象徴とする東京都の学校群制度導入あたりからだと観察される。
どこからどう読んでも理解できない「公立高校が大学受験のような競争において優位にたつのは好ましくない」というチョー不思議な理由によって、
学校群制度が導入されるのは1967年の事です。

どーも、この辺から日本の教育制度は崩壊していったもののよーである。

東京では、日比谷高校を中心とした都立高校から、国立教育大学付属駒場高校や開成・麻布・武蔵というような私立の学校へ東京大学入学者の分布がシフトしてゆく。
ここで見落としてならないのは、
日比谷高校が学区内の公立中学から通常の受験で入学してくる15歳の子供を引き受けて「日本式大学受験」という他の国の大学初年級に相当する詰め込みと厳しい思考訓練を行ったのに較べて、私立高校はたいてい6年一貫教育であり、厳しい選別にさらされる年齢が12歳に低下してしまったことです。
それは社会から見ると実はたいへんな変化だった。
ここを起点に日本からは「子供」がいなくなっていきます。

関西では、公立高校はずっと後まで生き残ってたとえば「北野」や「天王寺」というような公立高校から京都大学に大量に進学する。
しかし、たとえば東京大学で言えば、学生数の半分を占める東京の中学高校の公立体制の崩壊は、結局は国家の教育体制におおきな「隙」をつくってしまい。
その壊れたすきまに殺到した予備校を含めた業者達によって全国的な教育の産業化、商業化を招いてしまった。

わしは日本にいるときに、日本の教科書や参考書を買い集めて、ときどき読んでいたが、
あの教科書で勉強して、たとえば東京大学に合格する、ということはありえない。
むかしの「田舎のビンボな秀才」が大金を使って促成栽培された「受験戦士」たちに勝てる確率は途方もなく小さくなってしまっていると思います。
もう少し具体的にいうと、カネをかけないで手に入れられる参考書を思い浮かべながら言うと、いまの日本で田舎や都会のビンボ人のせがれが教育を突破口に社会の上層に浮かび上がれるのは、数学や物理に適性のある子供が良い教師にめぐりあって、ひとりぼっちで机にしがみついて、歯を食いしばって勉強したときだけでしょう。

教育を安易にいじりまわすと、こんなにもひどい災厄を引き起こすのか、とボーゼンとした気持ちになります。

そーだ、そーだ、書き忘れたが、少なくとも昔は、上級公務員試験の一次の問題は、仕事の合間に若い役人たちが自分でつくった問題を暗箱に入れさせて、そのなかから出題していたそーである。
わしは、それを、日本の官僚が、まだ国を正しい方向にひっぱってゆくのに夢中になっていた頃の、若い先輩が、これから大志を抱いてやってくる年少の仲間に手をのばして抱きかかえるとでもいうような、暖かい習慣と感じたのをつけくわえておきます。

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