Monthly Archives: January 2012

ヒロシマ

2005 年に製作されたBBCの「ヒロシマ」 http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima:_BBC_History_of_World_War_II は、恐ろしい番組だった。 描写がリアルすぎて、夢に出てきそうです。 なかでも、一家がそろって朝食を食べているときに原爆が爆発して家が瓦礫と化してしまう家族の話は、爆風で両親が家屋の外に吹き飛ばされ、子供だけが崩壊した家の下敷きに なってしまう。 意識をとりもどして家屋のほうへ這い戻った母親に瓦礫の下の子供が「おかあさん、助けて、はやく助けて」と叫ぶ。 母親は瓦礫をどけようと必死になるが炎があたり一面から襲ってくる。 「息が出来ない。おかあさん、熱い。はやく出して。おかあさん 足が痛い」 「おかあさん、足が燃えてる 足が燃えてる。熱い。助けて、行かないで、おかあさん、行かないで。足が痛い」 結局、母親は、あきらめて、炎のなかを、昏倒した夫をひきずって川へ逃げてゆく。 どうして一緒に焼け死んであげられなかったのだろうという悔恨のなかで戦後の長い時間を生きてゆきます。 書いてしまうと、怖さがぬけおちてしまうが、わしはこんなに恐ろしいドキュメンタリを初めてみました。 戦後カナダ人の配偶者をもったせいでカナダに移住し、被爆者健康手帳をもらうために訪問した日本で海外に在住するヒロシマ被爆者にはがんとして手当を払おうとしない日本政府の冷淡な態度に衝撃を受けて、人前で話をすることに最後まで抵抗を感じながらそれでも「ヒロシマ」を講演しつづけた絹子ラスキーや、急病の子供の往診で夜中に揺り起こされて爆心地から6キロ離れた村まででかけていたせいで助かった、福島第一事故後ヒロシマを経験した医師として発言している肥田舜太郞も証言者として出てきます。 この番組のなかで最も恐ろしいシーンは、多分、海軍の艦船でおおぜいの若い士官たちと談笑しながら食事を摂っていた合衆国大統領ハリー・トルーマンが「ヒロシマ原爆投下成功」の電報をうけとって、「諸君、広島は一瞬で破壊された」と立ち上がって読み上げると、部屋いっぱいの若い士官たちが歓声を挙げ、抱き合って喜びあうところで、36万人の広島市人口のうち14万人を殺したウラニウム235の爆発とそれが引き起こした殺戮の報告を聞いて、みなが底抜けの歓喜に包まれてしまう。 集団的サディズムはそれによって引き起こされたより大きな集団的サディズムによって復讐される、というのは、歴史の常識であって、それをよく知っていたから、ローマ人たちは、完膚無きまでに破壊したカルタゴの瓦礫をどけて更地にして、その上に耕作ができないように大量の塩をまいて、カルタゴ人がどんなにあがいても復讐できないようにした。 トルーマンと若い海軍士官たちが「サディスト集団」日本人の大殺戮の成功を祝っているころ、16歳の志願看護婦絹子ラスキーは、動かなくなった下半身をひきずって、匍匐して病院の階段にたどりつく、そこで幸運にも知り合いの医師の手術で体中に埋め込まれてしまった大小のガラスの破片を取り除いてもらうと、立ち上がれない身体のまま這って(とすら言えない腕でにじりすすむやりかたで)駅へ行く。 そこで「隣の駅からでなければ電車は出ない」と聞かされると、この驚くべきひとは、数キロ離れた次の駅まで線路上を腕だけで匍匐していきます。 「ときどき気絶してしまうんです」と絹子ラスキーは言っている。 意識が戻って空をみると、青い明るい空が見えたり、真っ暗な空が見えたり、そのときどきで違う空が見えた。 何度も気絶しながら、線路のあいだをはって、隣の駅まで行きました。 そうやって這いながら、絹子ラスキーは親の家にたどりつく。 6ヶ月、病床につくが、両親の必死の看病で、恢復していきます。 原爆を投下したエノラ・ゲイの機長Paul Tibbets http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Tibbets は、大佐でありながらこの重大なミッションを自分の手で行うべく機長として飛ぶことを志願した。 死ぬまで自分が命令を遂行したことによって、たくさんの日本人とアメリカ人の生命を救ったことに誇りをもっていました。 原爆投下の決定をくだしたスタッフルームの最後の生き残りだった中尉も、「ヒロシマの責任は最終通告をうけいれなかった日本人にある」と明快に述べている。 日本では違うニュアンスになっているのにわしは気が付いたが、アメリカ側では、アメリカの最後通告が日本軍の解体を条件にして日本全体の解体を述べていなかったことをもって、「アメリカが日本側の勇戦で瓦解寸前になり弱気になっている」と誤解した傲慢に原爆投下の直接の責任を求めるのが普通の解釈になっている。 だから、やむをえず、原爆を投下した。 このBBCの番組のなかで、この見解に異議を唱えるのは肥田舜太郞医師ただひとりで、柔和な眼で微笑しながら、「アメリカは人体実験のために原爆を落としたんです。われわれには戦闘能力などもうないのは明らかだったことをアメリカは知っていたはずです。アメリカは原爆が人体に対して放射性物質がどういう影響をもつか、どうしても知りたかった。だから、広島に爆弾を落としたんですよ」と臆することなく述べている。 いま日本語wikiを見ると、 「広島に検査だけして治療はしない病院(原爆傷害調査委員会:ABCC)がつくられるとの噂から、依頼を受けて、治療もするようにと厚生大臣や連合国軍総司令部と交渉。結局断られ、理不尽な占領軍の傲慢さに憤って、アメリカの無法と闘うため占領権力に真正面から立ち向っていた日本共産党に入ろう、と決心し入党した」 と書いてあります。 若い医師だった肥田舜太郞は、村からキノコ雲を見て広島市内に自転車で急ぐ途中、 「真っ黒焦げに炭化した人間の形をしたもの」が自分に向かって歩いてくるのを目撃した瞬間から、66年という長い時間を放射線被害と格闘する人生を生きてきたことになる。 記録フィルムのなかで、もうひとつ示唆的なのは、関係する人間がみな緊張に包まれて、しかも離陸滑走中の爆発をおそれて飛行中の空中で最終組み立てを行うという慎重さで行われた緊迫した広島への原爆投下に較べて長崎への投下は緊張感がなくなっていたことが判ることで、プルトニウム239爆弾である「ファットマン」に、みなが笑いながら日本人に対する落書をするところがフィルムに残っている。 京都や東京に原爆を落としていって、日本全体を更地にするのだろう、と憶測していた爆撃隊員たちの、原爆投下が早くもルーティン化した、やや気楽な気持ちが見てとれる。 … Continue reading

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True Colour

現代科学では「人種」はすでに否定された概念である。 大量のサンプルから取ったDNAを解析することでいま地球の地表を覆っている現生人類は、たった6万年前の大乾燥期に、それまで44万年あまりを過ごした東アフリカにあった「科学のイブ」の集落の炉辺から立ち上がって東を目指した一団のひとびとの後裔にすぎないことが判っている。 どうしても「人種」という概念を使いたければ、われわれの人種は単一で、みなアフリカ人なのね。 いまでも稀にはいる人種差別の話が好きなひとびとに言って聞かせると、ふつーの反応は 「そんなバカな」です。 異「人種」間の遺伝子構成がほぼ完全に同じであることを告げると、なんだか、ショックをうけたような、神様に裏切られたような表情になる(^^) 実際には自分の愚かさに裏切られただけだが、それでも直感的に信じこんでいた「事実」に反した真実を告げられるとなんだか世界が横倒しになったような気分になるらしい。 でも色が全然違うじゃないか、とか、鼻の形も違う、とつぶやいて呻いている。 見ていて気の毒な感じがする。 群れをなして社会生活をする生物は個体の識別というか、小さな差異に鋭敏である。 犬に関心がないひとはラブラドールならラブラドールで全部おなじに見え、三毛猫なら三毛猫でクローンのようにしか見えないというが、その逆に恋に狂えば双子の相手でも見分けが付くようになるという。 自分のことを考えてもカタクチイワシが全部どれも個性的に見えて食べる前に一応ぜんぶ名前をつけたくなる、というようなことはないので、差異と意識の関連はわからなくもない感じがする。 むかし「人種」というものを(科学的な意味において)当然の前提だと考えたひとびとは、環境に適応するための形質発現に遺伝子構成の変更など必要がない、ということを知らなかった。 その可能性すら思い及ばなかったことに、かえって、20世紀には大流行りだった「人種差別」というようなバカタレな観念の原因があったのでしょう。 どの「人種」においても遺伝子構成が同じであるという容赦なしに突きつけられた「現実」のほうを前提にむかしから知られている人類学的に知られていた事実を眺めなおしてみると、まるで逆のみえかたをすることになったので、たとえば長いあいだ謎とされていた、フィリピン人のあるグループでは、まったくアフリカ人としか見えない外貌のひとびとが半数を占めている、というような事実は、実は移動してきたアフリカ人がやってきた地方と同じ熱帯の、殆ど変わらない気候のフィリピンのこの島に定着したせいで、形質を変化させる必要が無かっただけのことであることで説明されることになった。 あるいは遺伝子マーカーの追跡によってアジア人であることが判ったごく最近(たしか10年くらい前)まで当然のようにアフリカ人だと見なされていたアボリジニが、真の意味ではアフリカ人であることに変わりはなくても、旧来の「人種」分類に従えばアジア人であることがわかって、いかに短いあいだに環境にあわせて(遺伝子構成の変化なしに)形質が変化するものであるかが判って皆をびっくりさせた。 アボリジニはジャワがマレー半島と地続きだった頃に、そこまで歩いてきて、なんらかの理由でジャワ島から(多分)筏でオーストラリアに到達したひとびとであることが判ったからです。 メキシコ人はいまでも日本人は遠い時代に袂を分かった兄弟だという美しい物語を愛しているが、残念なことに、メキシコ人の祖先は中央アジアからユーラシア大陸の北辺に出て厳寒の氷雪を歩いてベーリング海峡をわたり北米に到達して、具体的な年数を忘れてしまって、そのうえに調べ直す気もしないが、北米のてっぺんから2千年だかそこいらのチョー高速で南米大陸の南端に到達したグループの末裔である。 アジア大陸の遙か南方のルートを通って日本という最終端に到達した日本人は、まったく別のグループに属している。 むかし見た映画にメキシコ人の女の子と恋に落ちて結婚することに決めた息子に「おまえのようなケーハクな奴がいるから、南米では白人は『有色人種の大洋』に呑み込まれてしまったんだ、バカモノ!」と思わず叫んで、自分の一家からバカにされてエンガチョされてしまう気の毒なおとーさんが出てきたことがあったが、生物学の神様がこのおとーさんの叫びを聞いたら、よいこらせ、と祭壇をおりてきて、「それは間違っておる」と諭したことでしょう。 異人種間で結婚したところで数世代のわたって形質発現が優性劣性の法則に従って起きるのは当然だが、別に遺伝子レベルの構成が変わってしまうわけではないので、よく考えてみれば、6万年前近所同士であったもの同士が故郷から1万数千キロを隔てた土地で、また邂逅したというだけのことです。 自分と異なるものを恐れ憎むのは未開人の特徴で、アフリカの田舎に住みにでかける研究者がいきなり石つぶての嵐で迎えられたりするのは、その未開な畏れのせいである。 あるいはヒトラーのナチは、「アーリア人」という「北欧系人種」をでっちあげて、自分達の狭量な文化に説得力をもたせようとしたが、アーリア人を「金髪碧眼」と定義してしまったために「ヒトラー同志は一見黒髪で褐色の眼に見えるが、注意深い者の眼には、ほんとうは金髪で碧眼であることが見て取れる」というような裸の王様もチ○チンをふりまわして踊り出したくなるようなオモロイ主張を行ったりした。 戦後、その「アーリア人」という人種概念の非科学性をあばきだして、さんざん笑いものにした英語系アングロサクソンやユダヤ人の研究者たちも、ほんとうは同じ穴の狢であって、現実が暴露されてみれば、白人が人間だとは思えなくて苦しんだ黒人も、その黒人の下におかれて喘いでいたアジア人も、実は全部アフリカ人で、粗放な言い方をあえてすると、日やけしていないものが日やけしたものを笑っていただけなのが真相なのでした。 ツイッタの友達の生物学者泉さんは、わしが天気の良さにつられて朝から遊びほうけていた頃、「この50年で人種間の交配がすすんだ」と書いていたよーだったが、わしの実感では、この10年でひとびとの意識から「人種」というものは加速度がついておおきく後退した。 いま人種意識が「20世紀的な迷妄」とふつうに感じられるのは、実際には、遺伝子解析の成果が、科学には関心がないひとにとっても見えないところから考えに影響してきたものだと思われる。 ツイッタにも書いたが、日本人であるきみが色の白い人びとに会ったら、 「しばらく見ないあいだに随分白くなっちゃったんだね」とゆっていればいいだけのことであって、きみの隣で、ぼおおーと見あげるような大きな白い身体を揺らせている、どことなくとぼけてマヌケな外見のにーちゃんは、6万年前には、きみと同じ村に住んでいた。 世界中に散らばって、それぞれにえらいめにあい、お互いが親族であると気づかずに激しく抗争すらして、傷つけあい殺しあったが、判ってみれば実は友人であるどころか親族だったわけである。 くだらないことをつけくわえると、インドネシアのトバという火山は74000年前に、この200万年では地球上の噴火のなかで最大だったと判っている大噴火 http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory を起こしている。 ところが、Michael Petragliaたちのインドの採掘場から、そのとき降下した火山灰で区切られた、この噴火以前と以後の地層から石器にしかみえない石片がいくつも見つかっているので、もっとわかりやすい証拠(いちばんいいのはウンコでんねん)が見あたらないせいでコントラバーシャルになってしまっている(現生人類ではないだろう、という研究者もいる)が、どうも6万年前の大乾燥期以前にもアフリカを出て、ほぼ同様の移動ルートを通ってインド大陸に到達していたグループもあるよーです。 しかし、このグループは、あの大爆発を生き延びたのに、歴史のどこかで消滅してしまったもののよーである。 あるいは、そうやって希望をもとめて「緑のハイウェイ」を移動していった現世人類には途中で力尽きて絶滅してしまったグループが他にもあったかもしれません。 欧州では「人種」というものが言葉に厳正な意味でも存在していた時期があって、中央アジアから西に向かったグループが遭遇したはずのネアンデルタール人がそうであったことになる。 このひとたちは、現世人類の美の基準からするとたいへんな醜さ、というか、容貌魁偉なひとびとであったが、知能は現世人類と変わるところがなかった。 現世人類と同じく、自分達の身体的構造にあわせた武器をつくり、巧妙な刃先も使い方も現世人類と似たようなものでした。 ふたつ、主要な点で彼らは現世人類と異なっていた。 … Continue reading

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砕かれた敬神

日本人が無宗教だというのはオオウソである。 葬式仏教だと自嘲するが、あの日本人が無宗教なら 「神様?はっはっは、神様だってさ!友よ、疲れているのか?頭はダイジョーブか?」 なニュージーランド人や連合王国人などはどう呼べばいいか判らなくなる。 もともと日本人の宗教的なアイデンティティを破壊したのは明治政府だった。 明治3年に起こった、廃仏毀釈がそうであると思う。 日本人の信仰の基盤であった仏教寺院はこのとき破壊されたものが多かった。 「仏教寺院の破壊をめざしたものではなく、政府の指示を誤解した民衆が勝手に寺院を破壊してまわっただけである」というが、それは日本の政府が常習する詭弁だろう。 国家の部品となってよろこんではたらくバカタレ国民に「空気」をつくっておいて、残りはバカタレ国民に政府の代行をさせ、「ぼくは、そーゆーつもりじゃなかったもんね」というのは日本政府が歴史を通じてバカのひとつおぼえ(ごめん)のように繰り返し用いてきた手口です。 標的になったのは誤魔化してもらうカネも人縁もない田舎の小寺が多かった (鹿児島県一県で1616寺、という)が、天理の内山永久寺 http://www.d1.dion.ne.jp/%7Es_minaga/sos_eikyuji.htm のような巨大な寺院も、このときに更地になってしまった。 理屈は国学の「からごころ排斥大和心礼賛」だったが、実際には当時、新興宗教に近かった近代神道の原理主義的運動の嚆矢と見えなくもない。 そう思って見た場合は、1941年12月8日に宣戦布告した戦争は、この原理主義運動の集大成で、大規模なタリバン・アルカイーダみたいなものなんちゃうか、と考えることも出来るでしょう。 ところで、ここで推奨されるに至った神道は、やがて国家神道に統合されることによって、かえって宗教であるよりは国家のイデオロギーになってしまい、1945年の国家崩壊によって元来の宗教としては一気に消滅してしまう。 そういう表層の記憶によって戦後日本人は「自分達は無宗教なのだ」と考えるに至ったと思われる。 つい最近おおきな地震で破壊された長野県の栄村から津南を通って、起伏の激しい山間の村へはいってゆくと、途中に鬱蒼と茂った密度の高い森がある。 ひとつではなくて、いくつかあります。 どの森にも社があって、神社の体裁をなしているが、どこをみまわしても「○x神社」という名前が掲げられていない。 数段の階段をあがっていっただけで、木々のあいだから精霊が囁きあう声が聞こえてくるような不思議な場所です。 鎮守の森、は、ややケーハクな学問であった国学がイデオロギーとしてでっちあげた新興宗教としての神道とは、まったく別の、言わば自然発生した神道だった。 実はこの言わば「本物」の神道のほうは、1906年に出された神社合祀の勅令によって破壊されてしまう。 特殊な事情があった京都や栄村や十日町のような政治的中心から遠い場所には生き残っているが、日本全国で13万以上、という数の鎮守の森が破壊されてしまった。 これも広く見れば神道タリバンの運動の一環とゆえると思う。 南方熊楠などは、ものごとの本質しか見えないあのひとらしく、猛烈な勢いで反対したが、地方に住む日本人は自分達の宗教心を発現する方法を奪われてしまう。 知性のはたらきのうち最高のものは「盲信への飛躍」であると、わしは思っている。 そういう言い方でわかりにくければ「狂信」と言い直しても、言葉の響きにとまどうひとはいるかもしれないが意味することの本質は同じであると思う。 日本語の機能の不思議さは、この大飛躍に向いていると思われることで、  「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候。」というようなことを、あっさりと言ってのけられる言葉というものは、さまざまな言語のなかでも、そうたくさんはない。 日本人は主に神道タリバンであった国家神道によって、自分達の宗教心発現の場を破壊されてきたが、それはもと破壊されるに足りうる強烈で根の深い信仰心があったからである。 社会の病弊の側からオウム真理教を眺めてゆくことが流行っているが、もう一方の観点からは「行き場を失った宗教心がパチモンでもなんでもいいから破壊されていない形のある宗教に向かったのだ」とも言えるだろう。 バカタレなこの「宗教」の性格と引き起こした惨禍のせいで、自然にも、オウム真理教に多少でも宗教の性格を認めるのはタブーになっているよーだが、(怒っちゃダメよ)あれはあれで宗教としての骨格は満たしている。 わしはむかし韓国人は、殆ど何の疑いもなくキリスト教を受け容れる人が多かったのに、日本人はほぼ本能的生理的と呼びたくなるような反発をもつひとが多かった、という日本でのキリスト教布教の歴史に興味をもったことがある。 調べてみる、というほどもなく、事情はすぐに判明して、日本人には宗教心をもつ資質が乏しいからキリスト教が普及しなかったという西洋人側の報告はオオウソであって、実際はすでに高度な宗教心を日本人が形成していたのではいりこめなかったのであると思われる。 それは「絶対」を必要としないばかりか、神の名前さえも必要としない宗教であって、全体の名前すら与えられず、「日本語」として日本人の心を満たしている。 国家権力と結びついて全能の権力を帯びていた神道タリバンたる国家神道がいったん蹉跌をみるや、あっというまに雨散霧消したのも、西洋のサルマネで絶対一神教の体裁をとったからでしょう。 西洋的な視点から見えない日本人の宗教は、まるで異なる角度から見直さなければ可視化されないのではないだろうか。 そうして、その浮きだしのように「日本人の神」が見えて、姿をあらわす角度を発見するには日本語そのものに拘泥しなければだめそーだ、と考えます。 (画像は、ほんちゃん「トルコライス」 無茶苦茶辛い新鮮なトマトのソースをかけて食べます 一口たべるとオイオイ、オイモイと泣きたくなるほどうまいんだぞ、これ。イスタンブルに行くと食べられます)

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浮草

今年はヨーロッパに戻るのは秋にしようと思うが、存在が予測される手間がかかるものの面倒を見る人びとなどが必要で、思ったように減らなくて、どさ回りの旅一座みたいである。 小津安二郎の「浮草」 http://www.kadokawa-pictures.jp/official/ukigusa/ みたいだのお。 そしたら、わしは二代目中村雁治郎だったのか。 玉緒のやつめ、しょーもない男と結婚しくさって。 どこにでもひとりでふらふらと出かけて、メキシコの道ばたでおにーちゃんから自転車を買ってぎっちらおっちら乗っていたりした頃がなつかしいが、人間も築29年ともなると、そーゆーわけにはいかないよーだ。 なんとなく寂しい気がする。 9月にコモへ行って、そこでのんびりしようと思ったが、バルセロナに9月にいなければいけないのが判明したので、それが出来なくなってしまった。 10月以降でないと無理です。 わしも友達もコモは夏しかいたことがないので、すべりひゆどんが知ってるかなー、と思ってツイッタで訊いてみたらセシウム入りのどんぐりをとって遊べるが雨が多いんちゃうか、という。 トスカナへ行けば? トスカナへ行きたしと思えど、トスカナはあまりに高し。 せめては新しき暖炉を買いて 雨の降る旅にいでてみん なんちて。 トスカナには家がねーんです。 ずっとむかしフロレンスでころころしていたアパートは、わしのものちゃいまんねん。 https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/dolce-vita/ でも、ゆわれてみれば、「山の家」という名前につられてコモなんかにボロ家を買うよりトスカナやウンブリアのほうがえがったかのお。 ぐだぐだぐだ。 仕方がないので、なけなしの法力をはたいて、ゴマをたいて、いまから清明で雨雲のないコモの湖を実現せなばならぬだろう。 ひとりで、ぶらぶらしてるときはよかった。 まったく何も考えないですんだ。 「ひとりで旅する気軽さ」ということには、外から見てわかる気軽さだけではなくて、たとえば3日くらい同じおパンツをはいていて臭くなってもダイジョーブである。 耐えがたくなると、シャワーで洗って、乾くまでベッドで仰向けになってチ○ポコ潜水艦の練習をする。 畳の上の水練、というがな。 ときどきチン○ンを左右に振ってみたりして、水のなかで出来ない事もできます。 サンフランシスコのベストウエスタンはベッドとテレビの関係が非常にうまく出来ていて、チ○チンを機関銃の照準のように使って、画面のなかのひとを狙撃することができる。 うまく当たるとカンドーします。 きみもやってみられるがよい。 メンドクサイと公園のベンチで寝る。 駅でも空港でも寝る。 日本でやったら東郷神社のベンチでお巡りさんに怒られたが、やさしいものであって、 「もしもし、こんなところで寝ていたら風邪をひきますよ。日本語がわかりますか?」という丁寧さであった。 いいひとだったな、あのひと。 このあいだ新宿の反原発デモの映像のなかで、歯をくいしばって、必死に無表情をつくっていたお巡りさんがいたが、わしをベンチで起こしたお巡りさんは、動員されないですんだろうか。 むかしを振り返ると、バラバラで脈絡のない映像があちこちに視えている。 真冬のシカゴからメンフィスに行く途中で寄った小さな小さな町の暖かいステーキハウスでは棚から好みの肉の塊をとりだして、勝手にグリルで焼くが、いちばん小さい塊が1キロある。 近くのテーブルで宴会をしている一団が「きみ、こっちに来いよ」というのでコミューナルテーブルの端っこに座った。 みんなでチョーくだらない話をして楽しかったが、わしが2キロ近い肉(ただし骨ふくむ)を平らげたのを見て、50歳くらいのおっちゃんが、タメイキをついている。 … Continue reading

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ステルス税

わしは初めのオカネのかたまりをチョーくだらない発明でつくった。 中松博士みたいである。 あの溜池にあった看板は、よく見ると眼が動くところが天才中松です。 看板の文句。 えーと、なんだっけ、「世界の天才、中松博士」だったっけ。 ほんとうは発明なんかしてないんだよ、あのひと、と耳打ちする日本人友達がいたが、いーじゃないそれでも、それも、こころごころやさかい、と綾倉聡子もゆーておる。 義理叔父がガキのとき義理叔父学校にやってきて、 「きみたちはいくら頑張っても秀才にしかなれないから、天才のわたしになるのは無理ですが..」と話し始めたそーです。 延々と延々と自分がいかに天才か絶賛してから、最後は自分が「発明」したスプリングがついたパチモンのバッタの足みたいなやつに乗ってステージの端から端まで、汗まみれでぴょんぴょん跳びくるってみせたそうである。 偉人であると思う。 本人からすると宝くじにあたったのと何も変わるところがなかったが、わしはカシコイので、それまでにかなりの額になっていた妹からの借金を返すようなバカなことはせずに、踏み倒して、凍死することにした。 なにしろ、もとが賭博好きの、朝までブラックジャックテーブルに貼り付いているクソガキだったので、賭博にあてようかと思ったが、あれは「金を稼ごう」と考えると必ず敗北する遊びなので、怠けるための殖財には向いておらん、と考えて、銀行に預けてほうっぽらかしにして暫く忘れることにした。 へろへろと地球の表面を徘徊しながら、あーでもないこーでもない、と凍死方法を考えました。 なんでも、のんびりやるのが習慣なんですのい。 わしが凍死というと株の売買をすると思うひとがいるよーだが、そんな下品なことはしません。 ときどき、するけど。 ファンドグループみたいに投資家をつのったりもしない。 ひとりでできるもん(註)の世界を生きてきたんですのい。 たいへんコンサーバティブな凍死をする。 ときどきサンスー上、かっこいいと思われる曲芸的なアグレッシブ路線をとります。 それが職業上のささやかな楽しみなのだと思われる。 オカネというものは、得体のしれないものであって、あっても幸福にならないのは、よく知られている。 数量であらわすのはバカっぽいが、だいたいひとの一生における5%くらいだろーか。 でも、この5%は嫌な5%であって、ないとはなはだしく苦労することになる。 ニュージーランドは、もとはオカネの神様が罪滅ぼしに作ったような国で、オカネというものがいらなかった。 ちょうど、20世紀の終わりまでそうだった。 前世紀の終わり、わしが小学校の頃、南半球の夏に欧州からやってくると、何もかもぶちとぶくらい安いので、いったいこの国はどーなってるんだ、と考えた。 おぼえているもので言うと、ケンタッキーフライドチキンのいまもあるクオーターパックの鶏さん3個入り http://www.kfc.co.nz/menu/boxed-meals/quarter-pack が、5ドル。当時の日本円で280円だった。 クライストチャーチのパパヌイという中流程度の家庭が多くある住宅地の、日本式に言えば3LDKの一戸建てが15万ドルから19万ドルで、これは日本円で言うと830万円から1000万円ちょっとです。 クライストチャーチは伝統的にオークランドの住宅価格の7ー8割くらいなので、クライストチャーチに較べて変動が激しいオークランドでも1200万ちょこっとで家が買えたでしょう。 大学を卒業したばかりのカップルは、いちゃいちゃもんもんしてみたり、朝まで、きゃっきゃっとゆって笑い転げて話したり、いろいろふたりでやってみて、こいつでいいや、ということになると、まず初めにホームローンを組んで一戸建ての家を買った。 ホームローンの利率は、当時で9%くらいではなかろーか。 いまは、ずっと低くなって6.5%やなんかだが。 ニュージーランドに限らず、西洋文化圏から来ると、日本の家は「年数が経つと安くなる」ので、怪訝な気持ちになる。 欧州などは「築200年」なんちゅうのは、ごろごろあるからです。 ニュージーランドは近代の歴史として、ほぼ日本と同じくらいの若い国なので、煉瓦や石で出来てエラソーな家でも、100年、とかいう歴史しかないところが日本と同じだが、 違うのは「築何年」という考えがないことで、家というのは、通常、買ったときよりも売るときの方が価格が高いはずのものである。 逆に言えば、15年して価格が倍にならないような家を買ってはいけない、という。 … Continue reading

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建前に死す

1941年に日本が連合王国とアメリカ合衆国に宣戦を布告するに至るまでの経過を読んでいて、いちばん訳がわからないのは、昭和天皇そのひとを含めて、当事者の誰ひとりとして開戦を望んでおらず、しかも戦争をすればほぼ必ず敗けるとしっていたことである。 陸軍と海軍がにらみあって、どちらも「先に言い出すのはカッコワルイ」という理由でチキンレースを繰り広げたあげく、戦争をすることになってしまう。 建前として「大日本帝国陸海軍は世界一」ということになっているので、現実主義の立場から「ほんとは両方3番ですから」とはゆえなかったものであると思われる。 日本側では「開戦百日の栄光」ということになっていて、連合王国やアメリカ合衆国にとっては「ヒットラーが暴れているのに乗じて日本が始めた火事場泥棒」と意識されている日本の軍隊の3ヶ月の大暴れは、主にヒットラーの欧州ばかりに気をとられて太平洋にまで集中力がもてなかった連合国側のマヌケぶりがもたらしたものでした。 日本にとって大変に不幸だったことは、この「開戦百日の栄光」が日本人式官僚思考のツボにはまってしまったことで、「建前のほうがほんとうで現実はチョロい」という信念に燃えることになってしまった。 それまで同じ軍事官僚が黙々と計算して、「あと十倍国力がないと負けまんねん」とゆっていたのが、「一回戦がこれなら、まあ、なんとかなるだろう。よくわかんねーけど」と舞い上がってしまった。 欣喜雀躍、というが、どのひとの日記を読んでも、軍国主義者はもちろん社会主義者たちさえ、真珠湾攻撃成功の一報に文字通り欣喜雀躍してしまう。 それまでの重苦しい不景気と中国における(ルールが異なるせいで)「両方が勝っている」奇妙な戦争が長引いていたことから来る陰々滅々としたフラストレーションの日々の反動でしょう。 あっというまに集団発狂してしまう。 シンガポールでは事務処理能力の高さを買われて(^^)軍司令官になっていたパーシヴァルは軍事能力ゼロの前評判どおり、あっさり手を挙げてしまい、極右イケイケおじさんであった救国の英雄ウインストン・チャーチルに「死ねばいいのに」と2chみたいなことを書かれてしまう。 ほんとうの理由は、James Neidpathが述べているとおり、「a single-handed war on three or more fronts was beyond Britain’s powers, so she had to be weak somewhere」ということに過ぎなかったが、時にトージョー並の粗悪な精神論を述べることがあったチャーチルらしい怒りと言えなくもない。 ここではなはだしくバカタレな日本側反応は、日本軍は実は勝つと思っていなかったので、次段階の作戦の構想がなかった。 やることがなくてヒマなので、じゃあポートモレスビーをとっちまうべ、とかゆっているうちにB25を空母から発進させて東京を爆撃するという本来軍事的価値などかけらもない、やけのやんぱち作戦に驚いて、じゃ、ミッドウエイ島をとっちまうべ、ということになります。 そうすれば、それをかぎつけて空母が出てくるだろう。 その空母群をやっつければ、しばらく太平洋では楽勝状態がつづくだろう。 で、そのあとは? そんな先のこと、知りませんよ。 わたしは来年で恩給もらえるんですから。 そこまでが仕事で、その先はきみの仕事であると思う。 ミッドウエイ海戦のことは、ずっとむかしもむかし、おおむかしにこのブログ記事に書いたことがある https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/Continue reading

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30歳の方向に歩く

29歳になった。 えらいこっちゃ。 去年の終わりのことだけど。 子供の時に「29歳のひと」というのは、落ち着いていて、オトナであって、静かに微笑していて、棺桶に片足つっこんでいるひとであったが、自分がその年齢になってしまった。 むかしの心理学は、年齢と才能の開花の関係をうるさく追究したりした。 学問としてやることがなくてヒマだったからでしょう。 まだ医者たちのほうは、犯罪者の頭をパカッと開けて、電極刺して、ここに電流を流すとどうなるかなあー、あっ、怒りよった、というような楽しい、…あっ、失礼しました、 人間として許されない実験をして遊んでいたころの話です。 詩や数学は、たしか、20代のまんなかにピークがくることになっていた。 絵を描く才能がもっとも息が長くて、延々延々延々と70代80代90代とピークに向かってのぼりつめてゆく。 道理で画家の友達というのは20代からボケロージンみたい、…あっ、いやいや、天真爛漫であるわけである。 今年は天気が悪いのでクリケットをあんまりやらないが、あれはベースボールと似ていて、上手になる頃には身体の反射スピードが遅くなって下手になってゆく。 スポーツとして判ってゆくにつれて成績は低下する、という悲しい宿命にあります。 自分のことを考えると、十代中盤が我ながら最もコントロールに厄介な頃であって、ボリショイサーカスのクマの躾より厳しいとゆわれておるとーちゃんとかーちゃんのサディスティックな…あっ、また間違えた、厳格な躾によって、乱暴なことをゆったりふてくされたりはしなかったが、しかし、ブードゥー教に入信してはどうか、と考えたりした。 あまりにバランスをとるのが難しいので、オベンキョーに熱中したり、週末には朝まで遊んだりしていた。 誰でも、そういうものだろうが、わしの二十代は奇妙にマジメな情熱と野放図で爆発的な放蕩の混淆であって、しかもヒマさえあれば世界中をほっつき歩いて、先ずとにもかくにも発散的で情けない欲求にしたがってねーちんたちと仲良くなり、ねーちんたちやおねーさまの手引きにより、その土地に詳しくなっていった。 そういうことは、わしだけの特徴ではなくて、英語人一般のセーシュンであると思います。 わしは株の売買というようなことは忙しそうであるし、何をみても株価にみえるようになりそうなので嫌いだが、その頃は、オンラインの株の売買で、あと一週間の生活費を稼いだりすることもよくあった。 ブラックジャック、という手もつねにあったが、賭博は金を稼ぐ方法として「つきや勝ちという戦果を拡大できない」という致命的な欠点がある。 昨日の勝利が今日の有利にならないのね。 たいていのテーブルには上限があってカネモチ相手のクラブでも一回の賭け金が5000ドルとか3000ポンドとか、そういう制限が多いと思うが、制限がないテーブルも世の中にはあって、そこでワン・シューではなくて、ただ一回の賭けに60万ドルかけてしまった人を見たことがある。 ストゥールにすら座らないで、たったままです。 ピクチュアが出て、恐れ入ったことにエースがその上に乗って90万ドルを手にすると、合計150万ドルをもって、そのひとはすたすたすたとまた行ってしまったが、考えてみれば、あれは正しい態度であって、賭博の本質を知っている、というべきなのでした。 ラスベガスでひと晩で46ミリオンダラー勝ったおっちゃんも、だらだらとやれば負けるさ、とゆっていた。 そうやって勝てるのはサー・アスピナルのようなカードカウンタだけの特権であると思う。 それも6デックシュー(ひとつのシューがトランプ6組で出来ている)が限度であると聞いている。 人間の一生には「安全」というものはない。 保障を求めるな、と、とーちゃんによく言われた。 人生に保障を求めるのは愚かなもののすることである。 収入の安定を求めて職業を選択するような人間になってはいけません。 失敗しないような人間は見込みがない。 自分にみあった課題にとりくめば初めは失敗すると決まっている。 将来を予測してはならぬ、何が起きても大丈夫なように自分をつくっておきなさい。 親というものはエラソーなもので、おもえば両親などというものは他のひとに言われればえらそーにタメグチ利いてんじゃねーよ、と思うようなことをマジメに述べることがある大変人のふたり連れだが、子供なので、おとなしく聴いていたものだった。 公平に言って、わしは有利だった。 100メートルを走るのに、「あっ、きみはここから走っていいからね」とゆわれてゴールの手前5メートルくらいのところにスタートラインを引かれたようなものです。 そういう境遇を嫌うひともいたが、わしはらくちんが好きなので、ラッキーと思って安んじて95メートルの息を詰めた疾走を省略させてもらった。 身体がおおきく強かったことも学校生活を楽にしたと思う。 空気が読めないひとの極みのようなものであったが、しかし、わしを苛めようと考える根性のあるバカタレはいなかったもののようである。 後年、酔っ払って、あちこちの国からやってきた友達と夜中の広場を歩いて横切ったりするときに、スキンヘッッズというハゲの一団に囲まれたりすることがあったが、最大に根性があるにーちゃんで、わしの腕に手をかけるくらいで、それでも、わしがひとに自分の身体をさわられるのが嫌いなのを発見して、あのバカタレ特有の殺意がこもった眼でじっとわしを見上げる程度で終わってしまった。 … Continue reading

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ノーマッド日記11

1 相変わらず Ne-Yo のビデオばかりよく観る。 http://www.youtube.com/watch?v=6tpl9LtkRRw&ob=av2e Ne-Yo の、マイケル・ジャクソンや他の、自分が好きだったダンス・ミュージシャンへのトリビュートに満ちたダンスは観ていて飽きるということがないが、何回も繰り返してみるのは、むろん自分でも踊れるようにするためです(^^) 他に理由があるだろーか。 振り付けのセンスが抜群によいのが、このひとのダンスの特徴だが、やってみれば判る、この軽くてシャープなステップは意外と高等技術でもあります。 「軽い」ステップは、どんなダンスでも難しいと決まっているが、 Ne-Yoの鴻毛のごとき(^^)ステップは、特に足の小技の組み合わせでできているので難易度が高い。 でも、これもマイケルジャクソンへのトリビュートであるチ○チン押さえて踊るところなんかぐっときちゃうのお、と考える。 モニの前で踊ってみせると、眼を輝かせて喜んでくれる。 もう少し具体的に言うと爆笑してます。 わしがやると、とても上手だが、なんとなく可笑しいのだそーである。 なぜだかは、何度きいても教えてくれません。 2 「となりのトトロ」は「むかしの多摩」が舞台だそうだったが、わしは、映画そっくり、というよりも、そのものの風景をみたことがある。 東京の稲城市というところにあって「稲城リクリエーションエリア」 という。 http://wikimapia.org/2088664/Recreation-Area 米軍の施設で、日本の人が入れるんだか入れないんだか、よく判らないが旧日本陸軍の弾薬庫です。 鬱蒼とした森で、しかも、そのかさなりあった樹枝の向こうから、きっとあったはずの「むかしの日本」の匂いと音がする。 あの非現実的な美しさをもった濃縮された日本とでも呼びたいようなトトロの森が、空想でも美化でもなんでもなくて、単なる「過去の現実の描写」であったのが眼前に理解されてボーゼンとしてしまう。 では、なぜそれほど美しかった自然、といってもここでいう自然は「大自然」などではなくて、もっと価値の高い、欧州と日本にしかないのではないかと言いたくなる、人間の手が入ったやさしい自然、木のあいだを歩いていると、下生えや木がささやきかけてくるような、人間に親しい自然を、このアメリカ人が支配する空間の一歩外で当の日本人たちが破壊しつくしてしまったのだろう、と考えると、この質問に答えるのは意外と難しいよーです。 日本人の友達に訊くと「日本はもともと自然に恵まれすぎていたから」というが、なんとなくもっともらしいだけで、ほんとうに聞こえない。 観念で遊んでしまっている感じがする答えだと思う。 福島第一発電所の原子炉事故が起きたとき、とっさにわしが思い浮かべたのは、長野の山の家からあちこちへ出かける途中で散見した、砂をかぶったまま放置された「砂防ダム」や、正体もよく判らないコンクリートの骸、まったくクルマが通らない道に忽然とあらわれる現代的なコンクリート橋、というようなものだった。 役人の強弁は読んだが、基本的な技術知識のアップデートが出来ていれば簡単に不要なものだと判る鎌倉の由比ヶ浜から稲村ヶ崎にかけてのチョー醜いテトラポッドのことも思い浮かんだ。 亡者の群れがさしだす手のひらの群にも似て、俺にもおまえがせしめたカネの分け前を寄越せと呻く声は、とうとう国土のおおきな部分をひとりの人間の生活時間の尺度からすれば「永久」と以外、呼びようがない長い時間、放射性物質で汚染させることになった。 それを「安全」だと唱えてみたところで、日本の人が、ここから先、その汚染された国土を愛して、不安に怯えながら歯をくいしばって生きてゆかねばならなくなった現実を変えることは出来はしない。 おかみとオチョーシモノたちが踊る「安全踊り」の輪に、手もなく加わるほど日本の人が愚かであるとも思われない。 ここから先、仕組まれた通り「正しく」放射能を恐れながら生きてゆかねばならないが、健康な国土を失ったということは、いま日本人に意識されているよりも、ずっとたいへんなことなのかもしれません。 ヒッタイトから始まった中東人の鉄器文化は、中東自体を砂漠に変えてしまったが、日本では鋳鉄の製造に必要な薪をつくるために禿げ山が出来ても、すぐに恢復したという。 それだけの強靱な回復力をもつ日本の自然も、人間の貪欲には勝てなかった。 稲城リクリエーションエリア、のゲートをはいると、そこには宿泊施設の他、一区画が300㎡くらいはある、互いの区画を茂みで見えなくしてある、いかにもアメリカ式に大きなキャンピングサイト (最近はニュージーランドも影響を受け出したが、アメリカ人達はもともと「ラウンジのテント」「食料品とフリッジのテント」「寝室のテント」と、いっぱいテントを張って遊ぶ習慣なので、他国のサイトに較べて、ややマヌケなくらい一区画が広い) や、ペイントボール http://www.paintball.com/ のフィールド、シャワー室、乗馬、アーチェリー、野球場..というような施設が「トトロの森」のなかに点点とあるが、ちょっとはずれた森の向こうに歩いてゆくと、誰もいないバスの停留所があって猫バスが走ってきそうである。 わしは、あの場所にいくたびに、ところどころにある旧弾薬庫の無惨な感じのするコンクリートの弾薬貯蔵所を眺めて、「悲惨」という言葉を思い出した。 これほどのものをもっていたのに、日本のひとは、もたざるものを求めて星に手をのばすことに夢中になったあまり、手にもっていた何もかもを失ってしまった。 … Continue reading

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ラナウェイズ、その後

「ラナウェイズ」という記事 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/28/1669/ を書いた頃は、まだあの奇妙に現実感がない破壊の王のような津波も、福島第一原子力発電所の事故も起きていなかった。 その頃でも日本人の友達たちは、馴染みのラーメン屋や、古本屋の本の匂いに後ろ髪をひかれながら、とにもかくにも、このまま日本にいてもダメだんべ、というので三々五々、あるいは国の税金で留学し、親のすねをくまなくかじりとり、あるいはなけなしの貯金をはたいたりして、みな他の国に移動していった。 そのあいだに、原子炉がスカになる大事故があったり、その事故への政府と社会の反応にがっかりしたり、驚いたりして、結果的には予定より長くいることになったひとが殆どだが、出ていったばかりのときには、3年くらいで日本に戻る予定だったひともいた。 何人かの友達は、このブログ記事とわしツイッタアカウントが直截の関係がある。 ずっと読んでいる人たちが熟知しているよーに、このブログ記事やツイッタには魔法の力があって、ときどき、はてな住民集団や2chのひとが食性がかわって獰猛になったバッタのごとく飛来します。 もしかすると誘蛾灯みたいなものなのかもしれむ。 むかしなつかしい「ガイジン死ね」の波状攻撃から始まって、はなから態度がド失礼なので、相手にしないことにして、ちょっとだけからかったらえらいことになったきんぴらな話や、ニセガイジン攻撃、日本語が下手で見苦しいからやめろ、おまえの下らない日本語なんかチラシの裏に書いておけ、というのがいっぱい来たとおもったら、今度は、わしが一生懸命平易に書きなおした英語が「下手な英作文で見るにたえない」からニセガイジンに違いない、という。 ショーセツカの「白豚○ね」もあったのい(^^) そういう、いまとなっては懐メロのごとき、集団的悪意の攻撃を見て、いちばん傷ついたのは、わしの現実世界の日本人の友人達でした。 現実世界の日本人友人達、あんまりブログ記事とかで書かないけどね。 (あたりまえだが)結構たくさんいるのよ。 20代からトーダイおじさんたち40代50代。 義理叔父と従兄弟とは、どちらかというと、面白がって、ニセガイジンにされてしまったことなどは、腹を抱えて笑っておる。 従兄弟などは、英語が下手だ、というところでは、すっかりカンドーして、わざわざ翻訳して妹にちくりやがった。 妹は、欣喜雀躍であったが、ここでなぜ「英語が下手」という悪口に親戚中がうけまくるのか、きみにここで言う訳にはいかない、特別の理由があるのです。 大受けに受けてしまった。 かーちゃんにまで、受けた。 ちくそー。 身近に起こった巧妙で狡猾、なんのために磨いたんだか良くわからない修練のたまものの日本人集団イジメ技術の精華をみて、いろいろなひとが、じっと考えていたもののよーでした。 U子ねーさまは美人なのだからロスアンジェルスでも行ってカネモチひっかけて離婚して安泰な人生を送ればいいやんとゆーと、 日本以外にはハラジュクねーんだぞ、ガメ。なんで、わたしがロスアンジェルスみたいな田舎に行かなくちゃなんないのよ、 とゆっていたUが、ガメ、わたしロスアンジェルスに越すからな、近くに来たら遊びにこいよ、と突然電話をかけてきたりした。 なんでえー? ロスアンジェルスには、ハラジュクないぞおー、 とマヌケな声で聞き返すわしに、Uは意外にも涙声で「ガメの、おひとよし!バカ!」とゆって電話を切ったりしていたのでごんした。 そーゆえば、U子は、いつか「ガメは、日本人を、あーゆーヘンタイみたいなのとまるごと一緒くたにするなんて、ひどい」と怒っていたのだった。 いつもハラハラしながら読んでいたのに違いない。 言わないでいただけだったのだ。 わし、鈍感なんだよ。 ごめんね、Uさん。 わしは、はてな住民のみなさんにお礼をゆわねばならない。 皮肉ではない。 あなたがたは、最低でも5人のはらからを救ったのだと思われる。 誰かが「日本」を体現してみせる、というのは大事なことなのだ。 オークランドにずっと住んでいる日本人のレイさんというひとが、 わしに、「海外在住日本人ものは人気があるからフォロワー多い」とゆっている。 そうゆわれてみると、気が付かなかったが、どの「海外在住日本人」もたくさんフォロワーがいるので驚いた。 すべりひゆ ( … Continue reading

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日本の古典_その2 岩田宏

1 神田神保町 日本語世界を一見してぶっくらこいてしまうのは、詩の世界の豊穣さで、わしが通常「日本の詩」というときには、堀田善衛の「若き日の詩人達の肖像」という、ちょっと身体のあちこちがむずむずするような題名の本に活き活きと描かれた「荒地」の詩人達、牧野虚太郎、田村隆一、鮎川信夫、北村太郎、三好豊一郎、後年のメンバーでは吉本隆明、というようなひとたちや、西脇順三郎、瀧口修造に始まって、「ドラムカン」の詩人達、吉増剛造や岡田隆彦、あるいはここでこれから少しだけ書いてみようと思う岩田宏、というようなひとたちを指している。 そのうえに言うまでもなく戦争前には中原中也がいて石川啄木がいて萩原朔太郎がいて三好達治がいて、しかもそのうえに戦後になってもなお寺山修司のような天才歌人を生んだ短歌の広大な世界があり、俳句というおそろしいものまであって、日本はつくづくヘンな国であると思う。 岩田宏は小笠原豊樹という名前でロシア語と英語の膨大な翻訳をこなした。 翻訳、というようなことは、本来できるはずがないひとつの言語からもうひとつの言語へ人間の精神活動を投影してみせることで、岩田宏はさぞかし疲れたことだろうが、白紙のほうがまだ中身が濃さそうな小説と、どうかすると1ページに宇宙そのものが書かれている原稿用紙一枚の詩とが同じ原稿料であるという途方もなくマヌケな原稿料システムを採用していた当時の日本の出版社では、(他の国でもやや異なる事情から同じようなものだが)「詩だけで食べる」というわけにはもちろんいかなかった。 岩田宏の翻訳の特徴は、ときどき原作よりも翻訳のほうが良い文章になってしまう、という訳のわからない仕事があったりして面白いが、しかし、岩田宏は第一義的に詩人で、しかも本人は全力で否定するが全身で詩人であった。 他に、この人を、どんな呼び方で呼べるというのだろう。 「神保町の 交差点の北五百メートル 五十二段の階段を 二十五才の失業者が 思い出の重みにひかれて ゆるゆる降りて行く 風はタバコの火の粉をとばし いちどきにオーバーの襟を焼く 風や恋の思い出に目がくらみ 手をひろげて失業者はつぶやく ここ 九段まで見えるこの石段で 魔法を待ちわび 魔法はこわれた あのひとはこなごなにころげおち 街いっぱいに散らばったかけらを調べに おれは降りて行く」 という出だしで「神田神保町」は始まるが、自分で記録したとおり、そのとおりの姿勢で 岩田宏は 「街いっぱいに散らばったかけらを調べに」 出ていった。 60年代の政治の季節のなかに。 巨大な鉄鋼の歯車に挟まれるようにして、たくさんの若い女や男が血を流している街のなかに。 「とんびも知らない雲だらけの空から ボーナスみたいにすくない陽の光が ぼろぼろこぼれてふりかかる」 「神保町の 交差点のたそがれに 頸までおぼれて 二十五才の若い失業者の 目がおもむろに見えなくなる やさしい人はおしなべてうつむき 信じる人は魔法使いのさびしい目つき」 「おれはこの街をこわしたいと思い こわれたのはあのひとの心だった あのひとのからだを抱きしめて … Continue reading

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多文化な午餐

アジア料理、ということになると、わしはインド料理ばかり食べている。 インドの料理なら一週間毎日食べていても、ぜんぜん、へーき、どころか幸せである。 前世は「新宿中村屋カレー」を発明したラス・ビハリ・ボース だったのでは、あるまいか。 インド料理、だいすき。 まるでアジアには他に料理がないかのよーです。 態度わるい。 人種差別なのではないか。 次にうまそーだのおー、と思う、というか旨いとおもうアジア料理はインドネシア料理だろーか。 そ。 バナナの葉で鶏を焼いておコゲにするやつね。AyamXX とゆーよーな名前の、大学に近いくらいの通りに分布するレストランがいーよーだ。 純正マレー料理もうめっす。 代表はNasi lemak、 http://en.wikipedia.org/wiki/Nasi_lemak だのい。 お皿のまわりにカレーとか鶏肉とかかまぼこみたいなんとかがピーナッツさんやなんかとご飯をまんなかに仲良く環になっておる、あれです。 むかし中国人の男たちがマレー半島に爆発的な植民を行った時期、マレー人のお嫁さんをもらって家庭を築く人が多かったが、そのときに出来たニョニャ http://nyonyafood.rasamalaysia.com/ も、おいしい。 ラクサ、 http://tonyjsp.com/food/yatai/menu-15.html がいちばん有名ですのい。 オークランドでは、ふつー、「マレーシア料理」というときには、ニョニャ料理を指している。 鯛を(頭を含めて)まるごと極うすい塩味のスープにいれてぐつぐつ煮込んでつくる麺料理は、ニュージーランド人で魚があまり好きでない人も喜んで食べる。 もともと日本で言えば関西風な味付けを好むニューランド人の嗜好にあっているのだと思われる。 結婚する前は、わしは中国料理もよく食べた。 作るのに簡単だからで、中国人の友達に教わった麺料理をよく作って食べました。 中国は麺の種類が頭がくらくらするくらいあるが、本人たちが最も好む、というか頻用するのは「雲呑麺」という名前で売っている、ほっそーいコシが無茶苦茶つよい麺 http://sesameteaeats.blogspot.com/2010/12/chee-kei-chinese-won-ton-noodles-hong.html で、別に雲呑をいれるスープ麺だけでなくて、いろいろなことに使うもののよーでした。 この麺の特徴は調理に時間がかからないことで、 1 麺を熱湯にくぐらす 2 くぐらした麺をちべたい流水で冷やす 3 もういっかい熱湯をくぐらす で、出来てしまう。 お湯がわいておれば、1分もかからん。 チャーシューは、町のあちこちにある中国料理屋や中国食料品店で売っているBBQポーク(赤いほうのやつね)を買ってきたやつをいれる。 青梗菜をいれる。 … Continue reading

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ノーマッド日記10

1  伊皿子の坂と魚藍坂はてっぺんでつながっている。 あのどちらかの坂をあがって散歩すると、必ず「峠」という言葉を思い出した。 峠、という言葉は日本語をなつかしく思い出させる言葉と思う。 坂をのぼりきって、おりてゆく、というただそれだけのことに、わざわざ語彙をひとつつくって、あまつさえ漢字をでっちあげさえした。 中国の孟子という人は「森」という漢字にもうひとつ木を加えて「鬱蒼とした森」という言葉をつくりだしたが、峠も説明的な漢字の造形がそれに似ている。 峠というひとをくった漢字をこさえておいて恬淡としていたのは日本における漢字が中国の人達がいう「借り物の外来表記」などではなかったことの傍証かもしれません(^^) そうして、その感情の移動についての何ともいえないこだわりが、いかにも日本の人だと考える。 義理叔父が高校生だった70年代は六本木は面白い街だったそーだ。 墓地のまわりにいろいろな店があって、ドンキホーテになっているビルはまるごと銀座のパブ・カーディナルの支店だったという。 都会のませたガキであった義理叔父が未成年飲酒をこいていると、黒鉄ヒロシや吉行淳之介、あとで軽井沢のホテルで自殺してしまった加藤和彦、というようなひとたちが屯していたそーです。 モニとわしが鳥居坂や芋洗坂をのぼって六本木にたどりついていた頃には、もう六本木という街は、ただの汚い、カメルーン人が風俗産業への客引きにうろうろする街に変わっていて、街としての魅力がなかった。 青山のほうがずっと好きで、ときどきでかけた。 ジャズ産業の金城湯池である日本らしく、あの街には3rd StのBlue Note http://www.bluenote.net/newyork/index.shtml の支店がある。 いかにもクラブっぽい大きさの本店に較べると、随分おおきくてコンサートホールみたいだが、ブルーノートはブルーノートで、モニとわしはカッチョイイひとやバンドが来ると、ときどき出かけることにしていた。 カンドーしてしまったので何度かブログに書いた「わたしは、もっと自分にやさしくしようと決めたんです」という穐吉敏子の、自分がなぜルー・タバキン・ビッグバンドを解散したかという説明を聞いたのも、ブルーノートだった。 本店は、実際にはそんなことはなくても、マンハッタンでは「おのぼりさんがいくところ」という事になっていて、猛烈な数があるジャズクラブのなかでもダサイクラブだということになっているが、東京ではブルーノートは質のよいほうのクラブで、商業主義的すぎる雰囲気がちょっと嫌でも、店として較べればマンハッタンよりも良いかもしれません。 ガキわし時代にやってきた記憶では東京は「歩くのによい街」だったはずだが、モニとわしがいたときには、もうシンガポールなみに暑い街で、夏が多かった日本滞在期間中は1ブロックあるいても気分が悪くなってしまうような街になっていた。 モニは日本があんまり好きではなかったが、そのおおきな理由のひとつは天候だったと思う。 だからほとんどの移動はタクシーに頼ったが、夜中には散歩することも多かった。 有栖川公園の上にある交番の若いお巡りさんが、 「この辺は悪い人間も多く住んでいるから気を付けてください」と言うので、アラゴンで生まれてメキシコで死んだフランスの監督、ルイス・ブニュエル http://en.wikipedia.org/wiki/Luis_Buñuel の映画みてー、と考えたりした。 シドニーのサリーヒルズで会ったオーストラリア人の女のひとは80年代の東京は素晴らしかった、という。 「なにもかもクレージーで、まともなことがなんにもない素晴らしい都会だったのよ」 それが、いまでは墓地のようだ。 あの街では、いったいなにが起こったのだろう。 わしが知っている東京は、もう静かな東京になってからの街で、それがわしの東京の印象になっている。 祖母の家の居間の雰囲気、というような表現が適当かどうか判らないが、賑やかだ、ということになっているおおきな交差点に立っていても、どうかすると、辺り一面がしいーんとしているような錯覚にとらわれることがよくあった。 原宿の、人間が流砂のように溢れながら流れている窮屈な通りでさえ、おもいだしてみると無音であったような気がする。 だいたい夜の8時頃にでかけて、夕食を食べ終わると、11時くらいから、あちこちにでかけた。 あるいは週末は、夜の12時頃にでかけて、3時頃まで遊んで帰って来た。 義理叔父の話によると、70年代には、アメリカンクラブの高校性たちのパーティに行けば隣のソビエトロシア大使館の屋上から何人か並んで双眼鏡でこちらをじっと眺めている寂しげな大使館員たちがいる、という「詩的」と呼びたくなるような冷戦の風景や、デート相手の女の子が、そっと腕にさわって注意をうながすので、うながされた先を見てみるとデヴィッド・ボウイが、あの特徴のある歯をみせて笑っていたりしたそーである。 そういう国際性というようなものは姿を消していたし、なにより気候があわなかったが、しかし、東京はやはりなつかしい。 2  … Continue reading

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東京の匂い

どんな土地にも、その土地固有の娯しみというものがある。 マンハッタンなら、リンカーンセンターのオペラやバレエ、あるいはジャズクラブやクラビングがそーだし、ロンドンなら誰かに招待されてでかけるパーティがそうだろう。 オークランドなら、クルマにボードをつみこんで5分もドライブすれば Stand Up Paddle Surfing http://en.wikipedia.org/wiki/Stand_up_paddle_surfing がやれる浜辺がある。 わしの家があるラミュエラというところは、歩いて行けるところにニューマーケットというショッピング街もあればパーネルのカッチョイイレストランやバーが集まっている通りもある。CBDもクルマで10分です。 一方で、セントヘリオスからオカフまで、これがほんまに街の浜辺かいな、という美しい砂浜がいくつもある。 この「なんでも家に近いところにあって気楽に素足でスタスタ歩いていける」ところがニュージーランドの街のよいところで、マヌケな言い方をすれば「自然と街のバランスがよい」のね。 わしは仕事に行くのに10分以上運転しなければならない街は嫌いです。 仕事、しないけどね。 ほっといてくれたまえ。 プーが好きなんだから。 ヒマも好き。 ヒマのプーさん(ごめん) バルセロナなら、午後6時を過ぎた頃、グラシアの狭い通りを歩いてたどりついた街のあちこちにある広場のひとつの外のテーブルで、カヴァやヴィノティントを手にモニや友達と道行くひとを眺めながら、これから食べに行く夕食のことや、さっき通りかかったアフリカ人のスカートの美しい布地と柄の話をする。 バルセロナという街には、夕方になると、人間から「退屈」というものを剥ぎ取ってしまう不思議な力がある。 東京の魅力は「東京的な店」そのものだった。 どーゆーことを言っているつもりなのかというと、モニとわしはたとえばかまぼこ屋を眺めるのが好きだった。 かまぼこ、買わないけど。 昆布屋や鰹節屋。 豆屋に海苔屋。 モニとわしが、とりわけ好きだった日本茶の店。 あるいは、人形町に軒を並べる「鶏屋」や「和菓子屋」に行った。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/ モニさんは、いまでもときどき有楽町のガード下の焼き鳥屋がどんなに楽しかったかを思い出して話す。 「もう、いけなくなって残念だな、ガメ」と話して目を潤ませたりします。 昨日、会社のひとびとにも、わしとあうために欧州とニュージーランドを往復するときに成田で乗り換える線をあらためて厳禁したばかりなのを思い出してしまう。 カンタスも禁止だけどね。 脚が落ちたり、ドアが落ちたりしていれば、そのうち翼がおちるに決まっておる。 あんなあぶねー航空会社を野放しにしていていーのかオーストラリア。 東京の店には「東京」の匂いがある。 神保町の古本屋には、これほど長いあいだ感情も思考も縦書きされてきた世界がつくりあげてきた言葉にならない知的矜恃が満ちているし、浅草の裏通りには、どれほど観光客があふれても見間違いようのない、軽はずみだがひとなつこい日本の下町の匂いがする。 電気ビルの20階で友達とふたりで酔っ払って、数寄屋橋の裏通りをふらふらする。 「おにーさんみたいに大きいひとが店にはいってくると、うち、ボロ屋だから壊れちゃうわよ」と冗談をゆって笑うおばちゃんがもってくる、この世のものとはおもわれないくらい繊細な味のヒラメや鰺の刺身を肴に辛口の冷たい酒をいっぱいやりながら、いったいどうやるのか、どの皿もまったく同じに手の込んだ美しい盛りつけをあっというまにやり遂げてみせる主人おっちゃんと軽口を利きます。 わしは欧州人のシェフやレストランの持ち主で、あの親密なのに狎れ狎れしくはならない雰囲気の秘密が知りたくて銀座の割烹や鮨屋、名のある飲み屋に通い詰めたひとたちを何人も知っている。 世界でただあそこだけにある、あの雰囲気は、日本がどれほど誇りに思ってもたりないものと思う。 … Continue reading

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小さな部屋

視点を遠くしてみれば、人間は地球という惑星の表面に映る儚い影にしかすぎない。 むかし、パスカルという静かな狂気にとらわれていた数学者は、しかしその影には意識があるのだと述べたが、みえるかみえないかのうちに、たちまちのうちに消えてしまう影が意識をもってももたなくても、意識をもった影自身以外にはなにかしらの意味があるともおもえない。 ただ人間は自分が須臾の影であることに耐えられなかっただけである。 その寂しさに耐えかねて人間は自分の姿に似せて神をつくり、天国と地獄を発明し科学というオモチャを手に入れると、今度はUFOという奇妙な妄想まででっちあげることにした。 むかし、わしは、ごろごろしていたクエルナバカというメキシコの町からクルマで1時間くらいのところにあるテポツラン(Tepoztlan)という小さな町にでかけたことがある。 https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/tepoztlan/ この小さな町はUFOが年がら年中やってくるので有名で、バーでサンガリータとテキーラの、あの有名なメキシコメキシコしたカクテルを飲みながらバーテンと話していると 窓から見える急峻な斜面の山を指さして「もう2時間もいれば、多分、UFOが、あそこの丘の上にでるんだよ」とこともなげに言ったりしていた。 ロンドン塔や鎌倉の腹切りやぐらの幽霊のごとく、地元の人間にとっては「出るのはあたりまえ」な日常のいちぶなのです(^^) コンスタンティヌス帝の軍隊は行軍の途中で、全員が空に巨大な燃える十字架をみた。 きみは腹を抱えて笑うに違いないが、わしは、これを「事実」だったと思っている。 キリストはイエスの肉体として復活するが、わしは、これをも「事実」と思う。 それは心理学的に何度も証言されている集団幻想だろう。 そんなことが起きるのなら科学などは破滅するしかないではないか。 きみは近代理性というものを信用しないのか。 この記事のいちばん初めに、わしは、「視点を遠くしてみれば」と書いた。 視点を遠くしてみれば、キリストの復活も空に燃える十字架も、山の上に編隊を組んであらわれるUFOも、ロンドン塔を静かに横切る灰色の上衣のひとも、すべては事実なのである、としか言いようがない。 人間にその理屈がわかりにくいのは、われわれの住んで実見している世界が、ごく狭い範囲の、というのは宇宙が無限に近い、という空間的な大きさの比喩に限定して大きさをイメージしても、なお、全体規模がミクロンの世界でしかないような世界に住んでいて、しかもさらに重要なことは、人間の思考の実体である言葉が、その極小の世界で形成されてしまったことによっている。 「事実」ということをほんとうには定義できない言語しかもっていない、のです。 あるいは、違う言い方をすれば、この宇宙の真理を説明するための能力をまったく欠いた「地方語」で人間は考えることを強いられている、と言うほうがわかりやすいかもしれません。 したがって、わしが午後の部屋で、のおんびり紅茶を淹れて飲むことには、島宇宙間におおきな理論の橋脚を建設して宇宙の構造を解き明かそうと最終努力をすることとのあいだに、本質的な違いはなにもない。 現実も現実でないことも心に映った影にすぎない、というのは古代からいろいろな人が述べたがったことだったが、そうではなくて、現実も現実でないことも、この地方語の外からみれば、ひとつひとつが均質な現実でしかありえない、とわしは述べようと思っている。 人間が考えるためには言葉に頼るしかないが、言葉ほど病みやすいものはない。 言葉が病んでしまえば症状がないぶんだけ、人間は死の静寂にひきとられるまで自分の狂気に気が付けはしない。 しかも言葉が健全であるときですら、われわれには極小な世界しか見えないように出来ていて、しかもこの小さな閉じた空間の部屋の窓という窓はすべて鎧戸がおりている。 自分がなぜここにいるのか? という問いが常に無意味であることの証拠であると思います。

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日本人の値段

東京にいた頃、街を歩いていて不思議に思ったことのひとつは、ドイツ料理屋とロシア料理屋の数の多さだった。 ドイツ人にゆったら目を剥いて怒るに決まっているが、公平に言ってドイツという国は、おいしいものがないので有名である、と思う。 なかでは「鯖の燻製」と「ソーセージ」がおいしいので有名だが、あとは塩漬けの肉にしてもなんにしても、パッとしない。 ドイツと並ぶ「ごはんが不味い」国の双璧(ほんとうはおいしいんだけどね)のわしが言うのだから、間違いがない、と思ってくれなければ困ります。 ロシア料理屋については、むかしの三流スパイ小説を読むと「おまえが失敗すると、私の東京転勤がフイになる。そうするとだな、私は世界でいちばんうまいロシア料理が出る東京のロシア料理屋に行くチャンスを失ってしまうんだ。わかってるのか」というKGBの上司がでてきたりして、またいろいろな話があるよーだが、ここでは本題に関係がないので置いておく。 BBCの歴史番組のなかで第一次世界大戦で日本軍の捕虜になったケテルというひとの孫が「祖父から日本人が残酷だなんて言葉が漏れたのを聞いた事がない。祖父は日本人が好きでした」と証言している。 ドイツ人たちは捕虜生活を楽しんで、日本人たちが文明人であるという強い印象をもった。コンサートを開き、ソーセージの工場までつくっていた。 東京や日本のおおきな街にたいていあるドイツ料理屋というものの起源が実は、この第一次世界大戦でのドイツ人と日本人との相互の敬意に根ざした愉快な記憶にあることをわしが知ったのはごく最近のことです。 ここまで書くと気が付くひとがいるかも知れないが、観念世界では日本人にひどい侮蔑を述べ続けたヒトラーがしかし、ドイツ人にとっては最悪のタイミングで真珠湾奇襲というドアを開けて「バスに飛び乗った」日本に大した怒りも見せず、最後まで同盟国たろうとしたのは、第一次大戦の経験をもとに第二次大戦前までドイツ人のあいだに言い習わされてきた「日本人は文明的な思考が出来る国民だ」という漠然とした印象があったからだ、とわしのドイツ人友達は言う。 穿ちすぎな感じもするが、案外、ほんとうのところもあるのかもしれません。 たった20数年のあと、日本人は、世界のひとびとが「日本人」という名前で知っていた、20世紀初頭の文明的な物腰のひとびととは、まるで違う民族、誰からも尊敬されず、ただ忌み嫌われるだけの民族として世界のひとびとの前にもどってくるが、あんまり日本のひとは、なぜそのような変化が起きたのか重要なことだと思っていないところがあるよーだ、と思って、この記事を書いています。 アニメが修正するまで西洋人の日本人に対するイメージは、「サディズムに酔いやすい非文明人」であって、それは世界中の誰もが常識として共有する知識だった。 西洋人に限らず、たとえば家に出入りしていたシンガポールの貿易商のおっちゃんは、ややうるさいくらいに、いかに日本人が戦争中にひどいことをしたか、日本人という民族が他の平和を愛するアジア人と異なるか力説するのが癖のようなひとだった。 中国人の友人達にいたっては、モニとわしが日本にいたときのことをいうと日本人の残虐性に徹底的なサディストぶりを言わないひとのほうが稀で、特に年をとったひとたちは、いまでも拳をふるわせて、涙をぬぐいながら話をするひともいる。 日露戦争や明治維新を振り返って「栄光ある民族の近代史」に酔い、「だからわれわれは文明人だ」と考えるのは日本人が日本のなかだけでもつ習慣で、たとえば80年代にそれを外国で口にしたひとは、(いまでもそうだが)手痛い無関心か、大笑いで迎えられたことでしょう。 みな心の中で「あなたは、あなたがたが戦争中にやったことを忘れてしまったのか」と思っていたのに違いない。 いま日本人が「文明人」として認識されているのは、皮肉なことに60年代や70年代には、「国の恥だ」といってやり玉にあげられることが多かったマンガとアニメが描き出す「日本製の普遍的な感情や気持ち」によっているのであって、それ以外の理由はなにもない。繁栄した経済や自信を取り戻した企業戦士とは、なんの関係もないのです。 日本のひとに言えば、きょとんとしてしまうに違いないが、アニメとマンガとは、文字通り日本という国を救った「救国の英雄」(^^)に見えます。 わしらが日本のひとに悪感情をもたないのは、よく考えてみると、ラムちゃんや悟空、あるいは金田一少年のせいである。 日本のひとに最も一般的な誤解はアメリカ人たちが第二次世界大戦における日本人の勇敢さに感銘をうけて同じ人間として認めるにいたったという考えで、それでは話がまるきり逆である。 日本兵の獰猛で降伏を肯んじない戦いぶりは、そういう大上段にふりかぶった話が好きな日本人が信じているのとは真逆に、現実には大多数のアメリカ兵に軽蔑の気持ちを起こさせた。 Michael Witowichという海兵隊員だったヴェテランが、「日本人は戦いぶりが残酷でサディスティックだった。あいつらが天皇のために勇敢に死にたいのなら、それを助けてやるのが、おれたちの義務だと思ってたよ」と言っている。 アメリカ人たちが最も耐えられなかったのは、日本兵が「降伏」ということをしなかったことで、これは、すでに皆が知っていた捕虜への虐待とともに、日本人が「自分達と同じ人間であるわけがない」という(戦争開始前ではなく)戦争開始後に明瞭に意識されてくることになった信念の根拠になった。 日本のひとから見れば、それこそ、西洋人の「おれさま理屈」なのだろうが、西洋人の最もおおきな迷妄は「人間ひとりひとりの生命が最も重要である」ということで、そのなかでも自分という人間の生命を徹底的に大切に思うことが文明の条件である。 文明というものは、自分の生命が最も大事であるということに疑いをもたない人間が集まってつくるものであって、どんなに一見して文明らしくみせかけてあっても個々の生命を国家や社会よりも大事であるという考えをもたない人間がつくったものは「文明に似た何か」であって、文明とは正反対の世界に属するものだ、という迷信のなかで西洋人は自分達が「文明」と呼ぶものをつくってきたのでした。 雑誌「ライフ」に掲載されて有名になったN.Nickolsonの戦場にいるボーイフレンドが送ってきたスーベニアとしての日本兵の頭蓋骨(よく見るとボーイフレンドのサインがしてあります)を眺めながら、お礼の手紙を書いている写真 http://www.rastko.rs/kosovo/istorija/ccsavich-propaganda/008.jpg や、1942年につくられたCarson Robinsonの曲、 「We’re Gonna Have to Slap the Dirty Little Jap」 http://www.youtube.com/watch?v=51kWDb2FDTEContinue reading

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マンハッタン

マンハッタンという街は、わしにとっては親しみのある街でチェルシーの南の端にある自分のアパートからヴィレッジ、イーストヴィレッジ、ソーホー、トライベカというようなところには、よく出かけてもいけば持ち主や働く人たちが顔なじみでもある店や場所もたくさんある。 友達の大半は「アップタウン」という名前がついている、わしのアパートよりはずっと北のセントラルパークの東側に住んでいる。 モニさんがもともと住んでいて、いまももっているアパートもそこにあります。 最近こそは流行で、早い話がジェニファー・アニストン  http://en.wikipedia.org/wiki/Jennifer_Aniston がわしが家のすぐ近所に越してきたりして、なんだかだんだんビミョーな形勢になってきてしまったが、もともとはビンボ人が住むところである、わしのような南のどん詰まりに住んでいる人間は珍しい、とたとえばここにくるひとびとのなかで言えばマルクス博士などはいうであろう。 ダウンタウンとアップタウンでは、生活そのものがまるで違う。 モニのアパートにはドアマンがいて、いつもはぶちひまをこいている運転手のおっさんがいる。中に入ると、上階まで吹き抜けのホールがあって、綺麗なカーブを描いた左右一対の階段があります。 公園の西側に多くある、もっと安いアパートは、値段はわしのチョーボロイアパートと同じくらいか安いくらいだが、敷地に余裕があって、だいたい伝統的には広い中庭を囲んで建っていて、ふたつないしよっつある玄関にはアフリカンアメリカンのおっちゃんが電話機がちょこんと載った小さな机の前で、所在なげに座っている。 住んでいる人の顔と名前を、もちろん憶えていて、朗らかな声で挨拶してくれます。 それはそれでなかなか良いものである。 電話をして店をあけてもらうタイプのモニが好きな店がまわりにたくさんあることを別にすればアップタウンに住んでいてもっとも良いのは、セントラルパークとリンカーンセンターが近いことであると思われる。このふたつに代表される、いろいろな公演があったり大規模な展示があったりする場所(なんと総称するのかわからん)が、だいたい歩いて10分の範囲にあるので、あんまりいろいろなことを考えなくて住むよーだ。モニがわしと結婚する前のモニの生活を考えるというと、まずセントラルパークの東側のアップタウンにはフランス人がごちゃまんと住んでいるので、気楽に遊べる友達に困らなかった。 もともと欧州人が多い地区なんです。 天気がいい日には、たとえば、穏和で成熟したオトナのカッコイイ青年(わしのことね)と待ち合わせて、セントラルパークの、起伏のある、造形が楽しい公園を散歩するだろう。 あるいは女の友達や、いま述べた 穏和で成熟したオトナのカッコイイ青年とリンカーンセンター http://new.lincolncenter.org/live/ にでかけて、リゴレットやなんかで、questa o quella、楽しい夜をすごすだろう。 超一流のバーやレストランも、歩いていく範囲にいくらでもあります。 ときどきは馴染みのブティックに電話をして、店の主人と自分がデザインしたイヤリングをつくってもらう相談をしたりもするに違いない。 ところで、一方、 穏和で成熟したオトナのカッコイイ青年、すなわちわしのほうは、チェルシーの南端のアパートからセントラルパークまで歩いて行くと1時間弱(^^)かかります。 地下鉄で行くと20分弱だが、生粋のニューヨーカーのひとびととは違って、わしは歩いてゆくほうが好きである。 それも一気に歩いて行くわけではなくて、モニさんとデートするために、あちこち寄りながらおよそ3時間くらいをかけて移動したものだった。 まことにヒマなひとである。 ヒマすぎる。 ニートだもん。 古式ゆたかな日本語でいうと住所不定無職。 こっちのほうが胡乱げでかっけえのに、と思うのはわしだけだろうか。 夏などは赤鬼みたい顔になりながら、セントラルパーク近辺の、相変わらずよく行くのできみには教えてあげない店に着くと、なんだかそのまわりだけ、ソフトフォーカスで、ぼおっ、と明るくなって後光がさしておるようなモニさんが手をふっておる。 そのひらひらとふられている、薄い、指の長い、綺麗なてのひらめざして、わしはデートだあーデートだあー、ぬふふふ、と大股で歩いて行くことになる。 すげー、遠い。 であるから、わしはひとりでリンカーンセンターのオペラやバレエにでかけるときには、行きはタクシーで帰りは歩いて、さっき聴いたばかりの旋律を口ずさみながら帰ることが多かった。この帰り方にもコツがあって、9番街などは初めはひとも少なくて、なかなか具合がよいが、途中からさびれた真っ暗な、しかもくだらない訛りかたの英語を話すアンポンタンが多い地域を通るので、左側に要所要所で方向転換をすることを要する。 逆に6番街やなんかをくだってゆくと途中でタイムズスクエアの大群衆にブロックされるので、やはり難儀である。 だいたい阿弥陀籤みたいなルートが5,6種類生じて、そのどれかで帰ることになります。 雨が降ると地下鉄だが、そーゆーときは帰らない。 帰らなくて、どーするんだ、うそつき、ときみは思うだろーが、帰らなくてもいいのよ。 そーゆーときはモニさんの家に泊まるんだもん。 … Continue reading

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グリーン車で

現実に会う日本人はみんな良いひとであるのに、どーしてインターネットであうのは無茶苦茶なバカタレが多いんだ?とむかし義理叔父に訊いてみたことがある。 どれだか忘れたが、捕鯨かごぼうか小説家かガイジン死ネかのどれかの集団攻撃のときのことです。 義理叔父の答えは意表を衝くもので、「現実に会っているひとと、インターネットでつきまとわれているひとの種類が違うからだよ」という。 一瞬、意味がわからなかったので、へっ?と思って考えてしまった。 グリーン車、というものがあるでしょう?と叔父は言う。はい、はい。 きみが普段会っているのは日本という列車のグリーン車に乗っているひとたちで、嫌な人間は見ないですむし、押し合いへし合いしたり、痴漢に間違われたりしなくていいひとたちだろう。 そもそも鬱屈が少ないんでしょう、という。 グリーン車でも、アホなひと、いっぱいおるやん、とわしがとーぜんの疑問を口にすると、もののたとえだから、とゆってすましておる。 現実のグリーン車は、東京駅を出てから、ずっと性器を露出した女たちの写真をトランプのように掌のなかでひろげて眺めて、一枚づつ順番をいれかえているマスクをかけて髪をてからせたおっさんや、車掌に「グリーン車が別料金なのだったら、そう放送でくりかえすべきだろうが」とねちねちと絡んで、ほかのおっさんたちから「きみ、いいかげんにしなさい。車掌さんは、自分の仕事をしているだけだろう。いやなら、きみがここからでていけ」と怒鳴られていたり、なかなか庶民的、というか、社会を反映しているというかだが、義理叔父は「象徴」として話したのだと思われる。 むかしは、ときどきグリーン車に乗った。とゆっても飛行機の座席で言えばエコノミー席くらいしかないおおきさのシートで、わしには小さすぎておっ死にそうなので、そう頻繁には乗りません。 だいたいクルマだったが、鎌倉の家に泊まると、横須賀線のグリーン車で東京に戻ることがときどきあった。 わしはもともと魚があまり好きとはいえなくて妹とかーちゃんに「味覚が時代遅れだ」と笑われるが、どーゆーわけか前の日に酒を飲み過ぎると「鰺の押し鮨」はうまいのであって、こーゆーことを書くから、亀夫の正体はずっと日本に住んでいるチューネンおっさんだ、とか書かれるが、ほんとうにおいしいものをおいしいと書いて悪いわけはない。 鰺の押し鮨が好きだと大庭亀夫は実は起きて動き回っている死体だということでも、別に、いっこう困りません。 安いほうがおいしいと言いたいところだが、「特上鰺の押し鮨」のほうがおいしかった。 あっ、言い忘れたが「大船軒」という大船の会社がつくっているのです。 この「大船軒」はサンドイッチがおいしいので有名で、いろいろな小説家がこのサンドイッチについて書いているので、食べてみたことがあるが、一口たべて残りは食べられないほど不味かった。 なんで、あんな紙でつくったようなパサパサのパンに味を完全消去したハムをはさんだサンドイッチがおいしいといわれるのか、いまだによくわからない。 しみじみ彼我の味覚は違うのだな、と考えました。 モニと結婚するまえ、晴れた日の午後、今日は長者ヶ崎にでもでかけて遊ぶべ、クルマでは酒が飲めないから横須賀線でいくべし、と考えてガラガラのグリーン車に乗り込むと車掌さんが「この時間はだいじょーぶだから椅子をまわしたほうがいいですよ」と親切に椅子を回転させて4つのシートを独占させてくれる。 上機嫌でウイスキーのフラスコをとりだして、推理小説をとりだして、ちびちびやりながら1時間の小旅行を楽しみます。清潔な車両がおおい日本ならではの楽しみである。 結婚してからは、山の家と東京の家の往復はほぼクルマに限定されてしまったが、ひとりのときは、長野新幹線で行くこともおおかった。 新幹線のグリーン席は、ちょうど、ガキわしの頃の横須賀線くらいのゆとりがあるので、わしでもふつーに座れる。 外国人からみて、日本の 長距離列車でいっちゃんかっこいいのは「駅弁」だが、わしは「峠の釜飯」が好きであった。高崎までがだるま弁当でその先が「峠の釜飯」だから上りしか食べられないわけだが、下りのときも軽井沢の駅で買ったりしていた。 むかしは外国人がおおかったというが軽井沢という町は、少なくともわしの「山の家」があった旧軽井沢というところは、外国人が極端に少ない町で、わしもこっそり滞在したが、ほかの外国人も、なああーんとなく、こっそり暮らしていたと思う。 それでも、お互いにめだつ(^^)ので、顔でおぼえているひともいて、無茶苦茶美人のロシアのねーちゃん(なんで軽井沢に通っていたのか不明)(そんなこと、こわくてきけねーよ)や、二三、そーゆー外国人とあうと会釈くらいはした。 同じ外国人でも旅行者のほうはもっと気楽に話しかけるのであって、旦那さんがコーカシアンで奥さんがアフリカ人のスイス人の夫婦を案内したり、ドイツ人のじーちゃんとばーちゃんを山につれていって「くたびれる」といって怒られたりしていた。 むかしの映画を観ていると、「一等車」には専任の給仕が付き、一車両まるごとひとりの乗客にあてたりしていたようである。 60年代までは鎌倉駅長の仕事の手始めは、先ずグリーン車の乗客の顔と名前をすべておぼえて毎朝駅の改札わきに立って、そのひとりひとりに挨拶することだった。 「むかしの古きよき日本」をなつかしむひとは、よく、そういうことを挙げてなつかしむが、実際には普通車の6倍(?)だかの料金を支払ったはずの一等車の乗客などは、人口の1%にも遙かにみたない数のひとたちだった。 鎌倉の家を出て、東京の家に戻る途中北鎌倉で、何人かで、ぞろぞろと鎌倉からのってきたひとたちが移動するのを観察して、「なんだろう?」と考えることがあったが、ある日、4,5人連れの団塊おじさんたちの会話から謎が解けた。 東京まで行くのに鎌倉(東京から51キロ)で「50キロ以下」のグリーン切符を買って、隣駅北鎌倉までは普通車に立って我慢して、北鎌倉からグリーンに座ると、160円得をする(^^)のであるよーだ。 日本人は階級をもたず、階層をも否定してここまでやってきた。 ぞろぞろぞろと賑やかに普通車両から旧二等車に移動する背中をまるめて早足歩きの日本人は、ほほえましい、というか、戦後日本社会がめざしたものを象徴しているかのようでした。 前にも書いたが義理叔父は、何年かぶりに戻ってきた日本で、鎌倉ばーちゃん(叔父の母親でごんす)に会いに行く途中、横須賀線のグリーン車、横浜で若い夫婦に別れを述べているお年寄りの女びとをみた。 老婦人は、いったん通路にたってからあらためて若夫婦に向き直って、「お名残おしゅうございますが、わたくしはここで失礼いたします」という。 その日本語のアクセントが、言葉を話すゆっくりささえ、子供の頃にはまだ聞き慣れていて、長いあいだ忘れていた山の手言葉そのものだったので、義理叔父は突然なみだが文字通り滝のように流れだしてきて、まわりの乗客の手前、かっこわるさのあまりボーゼンとしたそうである。 びっくりした、という。 突然、「故郷」が目の前に現れてしまったからでしょう。 故郷どころか、「日本」そのものだったかもしれません。

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The Iron Lady

1 お腹がすいているのに、こーゆーことのめんどーを見てくれるはずのひとはみんなモニの世話にうつつをぬかしていて、わしはうち捨てられた子犬のように暮らしているので、テーブルの上に皿がない。 こーゆーときには日本の上流家庭では、まず右を見て「おーい、右近はおるか」とゆってしばらく待ち、左を見て「おーい、左近はおらぬか」とゆって、またしばらく待ち、それから悠然とたちあがって、「では仕方がない、わしが自分で食べ物をつくるとするか」と台所にたってゆくものだと誰かが書いていたが、誰の本だかもう忘れた。 ニョッキが食べたい、とツイッタで述べたら、だんだん身体がイタリア主婦化しつつある(特に悪意のある表現ではありません)とゆわれている「すべりひゆ」が呪文を教えてくれた https://twitter.com/#!/portulaca01/status/153066058163556352 ので、ゆわれたとおり、 「ニョッキにょきにょきぱぁ~!ニョッキにょきにょきぱぁ~!!!」 と必死に唱えてみたが、ニョッキはあらわれなかった。 …また、欺されてしまった。 呪文でおいしいゴルゴンゾーラソースにまみれた、ぷりぷりぷぷんのニョッキが出てくるという、いかにもありそうな話に、つい欺されたわしがバカであった。 信じていたのに。 閑話休題 モニが、ガメ、映画見に行こう、というので「The Iron Lady」を観に行った。 日本ではどんな名前かなあー、と思ったら「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」という椅子からずるっこけるような、打撃から恢復するのに2分間を要するような題名になっていました。 邦題、やめればいいのに。 映画は、これから観る人もいるだろうから内容はあんまし触れないが、サッチャー首相の一生を断片化して描いたもので、メリル・ストリープは芝居が上手だのおー、とか、 そーゆー素朴な感想をもったが、サッチャーの時代の連合王国が武力闘争時代のIRAとの激しい抗争(マーガレットサッチャーはIRAの爆弾によって親しかった同僚を失い、自分も、5人が殺され34人が負傷した「ブライトン・ボミング」 http://en.wikipedia.org/wiki/Brighton_hotel_bombing  で殺されかけている)を除いては、いまの日本と共通の問題があるかしれん、とヘンなことを考えた。 実際、日本が巨額というのもアホらしい負債を抱えていながら、一気にぶち倒れてしまわないのは、ひとつには過去の巨大債務国のケースを徹底的に官僚が研究しているからだが、サッチャーが頭角をあらわした1970年代末から1980年代には、連合王国は、「社会を構成する人間全体の需要に応えるだけの生産性がない」という、殆ど不治とみられる病に陥っていた。 イギリス人に訊けば、サッチャーの最大の功績は「肥大化した官僚や組合との対決に勝った」ことだというだろうが、実際には、ことはそう単純ではなくて、文明が発達した結果できあがった大衆社会の生活レベルそのものが生産性がおいつくわけがないところにまで来てしまった、というほうが当たっている。 簡単に言えば国民ひとりひとりが「最低限の生活」と考える生活を送るのに30万円かかるとして、収入は20万円しかない、という状態に国全体が陥っていたからでした。 慢性赤字なのね。 「モニさん、うち、もうずっと赤字なのよ。家計簿つくってみても、明日もあさっても今月も来月もずううううーっと赤字で借金がふえるだけなのよ。わたし、もうどうしたらいいかわかんない」と、しおしおと泣く大庭亀夫のような状態である。 家計と国家の財政を一緒にするなんて、サイテーだな、というカネのない正月でひまをこいたカシコイひとがまたあらわれそーだが、 サッチャーも、 「Any woman who understands the problems of running a home will be … Continue reading

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