Monthly Archives: January 2012

ヒロシマ

2005 年に製作されたBBCの「ヒロシマ」 http://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshima:_BBC_History_of_World_War_II は、恐ろしい番組だった。 描写がリアルすぎて、夢に出てきそうです。 なかでも、一家がそろって朝食を食べているときに原爆が爆発して家が瓦礫と化してしまう家族の話は、爆風で両親が家屋の外に吹き飛ばされ、子供だけが崩壊した家の下敷きに なってしまう。 意識をとりもどして家屋のほうへ這い戻った母親に瓦礫の下の子供が「おかあさん、助けて、はやく助けて」と叫ぶ。 母親は瓦礫をどけようと必死になるが炎があたり一面から襲ってくる。 「息が出来ない。おかあさん、熱い。はやく出して。おかあさん 足が痛い」 「おかあさん、足が燃えてる 足が燃えてる。熱い。助けて、行かないで、おかあさん、行かないで。足が痛い」 結局、母親は、あきらめて、炎のなかを、昏倒した夫をひきずって川へ逃げてゆく。 どうして一緒に焼け死んであげられなかったのだろうという悔恨のなかで戦後の長い時間を生きてゆきます。 書いてしまうと、怖さがぬけおちてしまうが、わしはこんなに恐ろしいドキュメンタリを初めてみました。 戦後カナダ人の配偶者をもったせいでカナダに移住し、被爆者健康手帳をもらうために訪問した日本で海外に在住するヒロシマ被爆者にはがんとして手当を払おうとしない日本政府の冷淡な態度に衝撃を受けて、人前で話をすることに最後まで抵抗を感じながらそれでも「ヒロシマ」を講演しつづけた絹子ラスキーや、急病の子供の往診で夜中に揺り起こされて爆心地から6キロ離れた村まででかけていたせいで助かった、福島第一事故後ヒロシマを経験した医師として発言している肥田舜太郞も証言者として出てきます。 この番組のなかで最も恐ろしいシーンは、多分、海軍の艦船でおおぜいの若い士官たちと談笑しながら食事を摂っていた合衆国大統領ハリー・トルーマンが「ヒロシマ原爆投下成功」の電報をうけとって、「諸君、広島は一瞬で破壊された」と立ち上がって読み上げると、部屋いっぱいの若い士官たちが歓声を挙げ、抱き合って喜びあうところで、36万人の広島市人口のうち14万人を殺したウラニウム235の爆発とそれが引き起こした殺戮の報告を聞いて、みなが底抜けの歓喜に包まれてしまう。 集団的サディズムはそれによって引き起こされたより大きな集団的サディズムによって復讐される、というのは、歴史の常識であって、それをよく知っていたから、ローマ人たちは、完膚無きまでに破壊したカルタゴの瓦礫をどけて更地にして、その上に耕作ができないように大量の塩をまいて、カルタゴ人がどんなにあがいても復讐できないようにした。 トルーマンと若い海軍士官たちが「サディスト集団」日本人の大殺戮の成功を祝っているころ、16歳の志願看護婦絹子ラスキーは、動かなくなった下半身をひきずって、匍匐して病院の階段にたどりつく、そこで幸運にも知り合いの医師の手術で体中に埋め込まれてしまった大小のガラスの破片を取り除いてもらうと、立ち上がれない身体のまま這って(とすら言えない腕でにじりすすむやりかたで)駅へ行く。 そこで「隣の駅からでなければ電車は出ない」と聞かされると、この驚くべきひとは、数キロ離れた次の駅まで線路上を腕だけで匍匐していきます。 「ときどき気絶してしまうんです」と絹子ラスキーは言っている。 意識が戻って空をみると、青い明るい空が見えたり、真っ暗な空が見えたり、そのときどきで違う空が見えた。 何度も気絶しながら、線路のあいだをはって、隣の駅まで行きました。 そうやって這いながら、絹子ラスキーは親の家にたどりつく。 6ヶ月、病床につくが、両親の必死の看病で、恢復していきます。 原爆を投下したエノラ・ゲイの機長Paul Tibbets http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Tibbets は、大佐でありながらこの重大なミッションを自分の手で行うべく機長として飛ぶことを志願した。 死ぬまで自分が命令を遂行したことによって、たくさんの日本人とアメリカ人の生命を救ったことに誇りをもっていました。 原爆投下の決定をくだしたスタッフルームの最後の生き残りだった中尉も、「ヒロシマの責任は最終通告をうけいれなかった日本人にある」と明快に述べている。 日本では違うニュアンスになっているのにわしは気が付いたが、アメリカ側では、アメリカの最後通告が日本軍の解体を条件にして日本全体の解体を述べていなかったことをもって、「アメリカが日本側の勇戦で瓦解寸前になり弱気になっている」と誤解した傲慢に原爆投下の直接の責任を求めるのが普通の解釈になっている。 だから、やむをえず、原爆を投下した。 このBBCの番組のなかで、この見解に異議を唱えるのは肥田舜太郞医師ただひとりで、柔和な眼で微笑しながら、「アメリカは人体実験のために原爆を落としたんです。われわれには戦闘能力などもうないのは明らかだったことをアメリカは知っていたはずです。アメリカは原爆が人体に対して放射性物質がどういう影響をもつか、どうしても知りたかった。だから、広島に爆弾を落としたんですよ」と臆することなく述べている。 いま日本語wikiを見ると、 「広島に検査だけして治療はしない病院(原爆傷害調査委員会:ABCC)がつくられるとの噂から、依頼を受けて、治療もするようにと厚生大臣や連合国軍総司令部と交渉。結局断られ、理不尽な占領軍の傲慢さに憤って、アメリカの無法と闘うため占領権力に真正面から立ち向っていた日本共産党に入ろう、と決心し入党した」 と書いてあります。 若い医師だった肥田舜太郞は、村からキノコ雲を見て広島市内に自転車で急ぐ途中、 「真っ黒焦げに炭化した人間の形をしたもの」が自分に向かって歩いてくるのを目撃した瞬間から、66年という長い時間を放射線被害と格闘する人生を生きてきたことになる。 記録フィルムのなかで、もうひとつ示唆的なのは、関係する人間がみな緊張に包まれて、しかも離陸滑走中の爆発をおそれて飛行中の空中で最終組み立てを行うという慎重さで行われた緊迫した広島への原爆投下に較べて長崎への投下は緊張感がなくなっていたことが判ることで、プルトニウム239爆弾である「ファットマン」に、みなが笑いながら日本人に対する落書をするところがフィルムに残っている。 京都や東京に原爆を落としていって、日本全体を更地にするのだろう、と憶測していた爆撃隊員たちの、原爆投下が早くもルーティン化した、やや気楽な気持ちが見てとれる。 … Continue reading

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True Colour

現代科学では「人種」はすでに否定された概念である。 大量のサンプルから取ったDNAを解析することでいま地球の地表を覆っている現生人類は、たった6万年前の大乾燥期に、それまで44万年あまりを過ごした東アフリカにあった「科学のイブ」の集落の炉辺から立ち上がって東を目指した一団のひとびとの後裔にすぎないことが判っている。 どうしても「人種」という概念を使いたければ、われわれの人種は単一で、みなアフリカ人なのね。 いまでも稀にはいる人種差別の話が好きなひとびとに言って聞かせると、ふつーの反応は 「そんなバカな」です。 異「人種」間の遺伝子構成がほぼ完全に同じであることを告げると、なんだか、ショックをうけたような、神様に裏切られたような表情になる(^^) 実際には自分の愚かさに裏切られただけだが、それでも直感的に信じこんでいた「事実」に反した真実を告げられるとなんだか世界が横倒しになったような気分になるらしい。 でも色が全然違うじゃないか、とか、鼻の形も違う、とつぶやいて呻いている。 見ていて気の毒な感じがする。 群れをなして社会生活をする生物は個体の識別というか、小さな差異に鋭敏である。 犬に関心がないひとはラブラドールならラブラドールで全部おなじに見え、三毛猫なら三毛猫でクローンのようにしか見えないというが、その逆に恋に狂えば双子の相手でも見分けが付くようになるという。 自分のことを考えてもカタクチイワシが全部どれも個性的に見えて食べる前に一応ぜんぶ名前をつけたくなる、というようなことはないので、差異と意識の関連はわからなくもない感じがする。 むかし「人種」というものを(科学的な意味において)当然の前提だと考えたひとびとは、環境に適応するための形質発現に遺伝子構成の変更など必要がない、ということを知らなかった。 その可能性すら思い及ばなかったことに、かえって、20世紀には大流行りだった「人種差別」というようなバカタレな観念の原因があったのでしょう。 どの「人種」においても遺伝子構成が同じであるという容赦なしに突きつけられた「現実」のほうを前提にむかしから知られている人類学的に知られていた事実を眺めなおしてみると、まるで逆のみえかたをすることになったので、たとえば長いあいだ謎とされていた、フィリピン人のあるグループでは、まったくアフリカ人としか見えない外貌のひとびとが半数を占めている、というような事実は、実は移動してきたアフリカ人がやってきた地方と同じ熱帯の、殆ど変わらない気候のフィリピンのこの島に定着したせいで、形質を変化させる必要が無かっただけのことであることで説明されることになった。 あるいは遺伝子マーカーの追跡によってアジア人であることが判ったごく最近(たしか10年くらい前)まで当然のようにアフリカ人だと見なされていたアボリジニが、真の意味ではアフリカ人であることに変わりはなくても、旧来の「人種」分類に従えばアジア人であることがわかって、いかに短いあいだに環境にあわせて(遺伝子構成の変化なしに)形質が変化するものであるかが判って皆をびっくりさせた。 アボリジニはジャワがマレー半島と地続きだった頃に、そこまで歩いてきて、なんらかの理由でジャワ島から(多分)筏でオーストラリアに到達したひとびとであることが判ったからです。 メキシコ人はいまでも日本人は遠い時代に袂を分かった兄弟だという美しい物語を愛しているが、残念なことに、メキシコ人の祖先は中央アジアからユーラシア大陸の北辺に出て厳寒の氷雪を歩いてベーリング海峡をわたり北米に到達して、具体的な年数を忘れてしまって、そのうえに調べ直す気もしないが、北米のてっぺんから2千年だかそこいらのチョー高速で南米大陸の南端に到達したグループの末裔である。 アジア大陸の遙か南方のルートを通って日本という最終端に到達した日本人は、まったく別のグループに属している。 むかし見た映画にメキシコ人の女の子と恋に落ちて結婚することに決めた息子に「おまえのようなケーハクな奴がいるから、南米では白人は『有色人種の大洋』に呑み込まれてしまったんだ、バカモノ!」と思わず叫んで、自分の一家からバカにされてエンガチョされてしまう気の毒なおとーさんが出てきたことがあったが、生物学の神様がこのおとーさんの叫びを聞いたら、よいこらせ、と祭壇をおりてきて、「それは間違っておる」と諭したことでしょう。 異人種間で結婚したところで数世代のわたって形質発現が優性劣性の法則に従って起きるのは当然だが、別に遺伝子レベルの構成が変わってしまうわけではないので、よく考えてみれば、6万年前近所同士であったもの同士が故郷から1万数千キロを隔てた土地で、また邂逅したというだけのことです。 自分と異なるものを恐れ憎むのは未開人の特徴で、アフリカの田舎に住みにでかける研究者がいきなり石つぶての嵐で迎えられたりするのは、その未開な畏れのせいである。 あるいはヒトラーのナチは、「アーリア人」という「北欧系人種」をでっちあげて、自分達の狭量な文化に説得力をもたせようとしたが、アーリア人を「金髪碧眼」と定義してしまったために「ヒトラー同志は一見黒髪で褐色の眼に見えるが、注意深い者の眼には、ほんとうは金髪で碧眼であることが見て取れる」というような裸の王様もチ○チンをふりまわして踊り出したくなるようなオモロイ主張を行ったりした。 戦後、その「アーリア人」という人種概念の非科学性をあばきだして、さんざん笑いものにした英語系アングロサクソンやユダヤ人の研究者たちも、ほんとうは同じ穴の狢であって、現実が暴露されてみれば、白人が人間だとは思えなくて苦しんだ黒人も、その黒人の下におかれて喘いでいたアジア人も、実は全部アフリカ人で、粗放な言い方をあえてすると、日やけしていないものが日やけしたものを笑っていただけなのが真相なのでした。 ツイッタの友達の生物学者泉さんは、わしが天気の良さにつられて朝から遊びほうけていた頃、「この50年で人種間の交配がすすんだ」と書いていたよーだったが、わしの実感では、この10年でひとびとの意識から「人種」というものは加速度がついておおきく後退した。 いま人種意識が「20世紀的な迷妄」とふつうに感じられるのは、実際には、遺伝子解析の成果が、科学には関心がないひとにとっても見えないところから考えに影響してきたものだと思われる。 ツイッタにも書いたが、日本人であるきみが色の白い人びとに会ったら、 「しばらく見ないあいだに随分白くなっちゃったんだね」とゆっていればいいだけのことであって、きみの隣で、ぼおおーと見あげるような大きな白い身体を揺らせている、どことなくとぼけてマヌケな外見のにーちゃんは、6万年前には、きみと同じ村に住んでいた。 世界中に散らばって、それぞれにえらいめにあい、お互いが親族であると気づかずに激しく抗争すらして、傷つけあい殺しあったが、判ってみれば実は友人であるどころか親族だったわけである。 くだらないことをつけくわえると、インドネシアのトバという火山は74000年前に、この200万年では地球上の噴火のなかで最大だったと判っている大噴火 http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory を起こしている。 ところが、Michael Petragliaたちのインドの採掘場から、そのとき降下した火山灰で区切られた、この噴火以前と以後の地層から石器にしかみえない石片がいくつも見つかっているので、もっとわかりやすい証拠(いちばんいいのはウンコでんねん)が見あたらないせいでコントラバーシャルになってしまっている(現生人類ではないだろう、という研究者もいる)が、どうも6万年前の大乾燥期以前にもアフリカを出て、ほぼ同様の移動ルートを通ってインド大陸に到達していたグループもあるよーです。 しかし、このグループは、あの大爆発を生き延びたのに、歴史のどこかで消滅してしまったもののよーである。 あるいは、そうやって希望をもとめて「緑のハイウェイ」を移動していった現世人類には途中で力尽きて絶滅してしまったグループが他にもあったかもしれません。 欧州では「人種」というものが言葉に厳正な意味でも存在していた時期があって、中央アジアから西に向かったグループが遭遇したはずのネアンデルタール人がそうであったことになる。 このひとたちは、現世人類の美の基準からするとたいへんな醜さ、というか、容貌魁偉なひとびとであったが、知能は現世人類と変わるところがなかった。 現世人類と同じく、自分達の身体的構造にあわせた武器をつくり、巧妙な刃先も使い方も現世人類と似たようなものでした。 ふたつ、主要な点で彼らは現世人類と異なっていた。 … Continue reading

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砕かれた敬神

日本人が無宗教だというのはオオウソである。 葬式仏教だと自嘲するが、あの日本人が無宗教なら 「神様?はっはっは、神様だってさ!友よ、疲れているのか?頭はダイジョーブか?」 なニュージーランド人や連合王国人などはどう呼べばいいか判らなくなる。 もともと日本人の宗教的なアイデンティティを破壊したのは明治政府だった。 明治3年に起こった、廃仏毀釈がそうであると思う。 日本人の信仰の基盤であった仏教寺院はこのとき破壊されたものが多かった。 「仏教寺院の破壊をめざしたものではなく、政府の指示を誤解した民衆が勝手に寺院を破壊してまわっただけである」というが、それは日本の政府が常習する詭弁だろう。 国家の部品となってよろこんではたらくバカタレ国民に「空気」をつくっておいて、残りはバカタレ国民に政府の代行をさせ、「ぼくは、そーゆーつもりじゃなかったもんね」というのは日本政府が歴史を通じてバカのひとつおぼえ(ごめん)のように繰り返し用いてきた手口です。 標的になったのは誤魔化してもらうカネも人縁もない田舎の小寺が多かった (鹿児島県一県で1616寺、という)が、天理の内山永久寺 http://www.d1.dion.ne.jp/%7Es_minaga/sos_eikyuji.htm のような巨大な寺院も、このときに更地になってしまった。 理屈は国学の「からごころ排斥大和心礼賛」だったが、実際には当時、新興宗教に近かった近代神道の原理主義的運動の嚆矢と見えなくもない。 そう思って見た場合は、1941年12月8日に宣戦布告した戦争は、この原理主義運動の集大成で、大規模なタリバン・アルカイーダみたいなものなんちゃうか、と考えることも出来るでしょう。 ところで、ここで推奨されるに至った神道は、やがて国家神道に統合されることによって、かえって宗教であるよりは国家のイデオロギーになってしまい、1945年の国家崩壊によって元来の宗教としては一気に消滅してしまう。 そういう表層の記憶によって戦後日本人は「自分達は無宗教なのだ」と考えるに至ったと思われる。 つい最近おおきな地震で破壊された長野県の栄村から津南を通って、起伏の激しい山間の村へはいってゆくと、途中に鬱蒼と茂った密度の高い森がある。 ひとつではなくて、いくつかあります。 どの森にも社があって、神社の体裁をなしているが、どこをみまわしても「○x神社」という名前が掲げられていない。 数段の階段をあがっていっただけで、木々のあいだから精霊が囁きあう声が聞こえてくるような不思議な場所です。 鎮守の森、は、ややケーハクな学問であった国学がイデオロギーとしてでっちあげた新興宗教としての神道とは、まったく別の、言わば自然発生した神道だった。 実はこの言わば「本物」の神道のほうは、1906年に出された神社合祀の勅令によって破壊されてしまう。 特殊な事情があった京都や栄村や十日町のような政治的中心から遠い場所には生き残っているが、日本全国で13万以上、という数の鎮守の森が破壊されてしまった。 これも広く見れば神道タリバンの運動の一環とゆえると思う。 南方熊楠などは、ものごとの本質しか見えないあのひとらしく、猛烈な勢いで反対したが、地方に住む日本人は自分達の宗教心を発現する方法を奪われてしまう。 知性のはたらきのうち最高のものは「盲信への飛躍」であると、わしは思っている。 そういう言い方でわかりにくければ「狂信」と言い直しても、言葉の響きにとまどうひとはいるかもしれないが意味することの本質は同じであると思う。 日本語の機能の不思議さは、この大飛躍に向いていると思われることで、  「たとい法然上人に賺されまいらせて念仏して地獄に堕ちたりともさらに後悔すべからず候。」というようなことを、あっさりと言ってのけられる言葉というものは、さまざまな言語のなかでも、そうたくさんはない。 日本人は主に神道タリバンであった国家神道によって、自分達の宗教心発現の場を破壊されてきたが、それはもと破壊されるに足りうる強烈で根の深い信仰心があったからである。 社会の病弊の側からオウム真理教を眺めてゆくことが流行っているが、もう一方の観点からは「行き場を失った宗教心がパチモンでもなんでもいいから破壊されていない形のある宗教に向かったのだ」とも言えるだろう。 バカタレなこの「宗教」の性格と引き起こした惨禍のせいで、自然にも、オウム真理教に多少でも宗教の性格を認めるのはタブーになっているよーだが、(怒っちゃダメよ)あれはあれで宗教としての骨格は満たしている。 わしはむかし韓国人は、殆ど何の疑いもなくキリスト教を受け容れる人が多かったのに、日本人はほぼ本能的生理的と呼びたくなるような反発をもつひとが多かった、という日本でのキリスト教布教の歴史に興味をもったことがある。 調べてみる、というほどもなく、事情はすぐに判明して、日本人には宗教心をもつ資質が乏しいからキリスト教が普及しなかったという西洋人側の報告はオオウソであって、実際はすでに高度な宗教心を日本人が形成していたのではいりこめなかったのであると思われる。 それは「絶対」を必要としないばかりか、神の名前さえも必要としない宗教であって、全体の名前すら与えられず、「日本語」として日本人の心を満たしている。 国家権力と結びついて全能の権力を帯びていた神道タリバンたる国家神道がいったん蹉跌をみるや、あっというまに雨散霧消したのも、西洋のサルマネで絶対一神教の体裁をとったからでしょう。 西洋的な視点から見えない日本人の宗教は、まるで異なる角度から見直さなければ可視化されないのではないだろうか。 そうして、その浮きだしのように「日本人の神」が見えて、姿をあらわす角度を発見するには日本語そのものに拘泥しなければだめそーだ、と考えます。 (画像は、ほんちゃん「トルコライス」 無茶苦茶辛い新鮮なトマトのソースをかけて食べます 一口たべるとオイオイ、オイモイと泣きたくなるほどうまいんだぞ、これ。イスタンブルに行くと食べられます)

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浮草

今年はヨーロッパに戻るのは秋にしようと思うが、存在が予測される手間がかかるものの面倒を見る人びとなどが必要で、思ったように減らなくて、どさ回りの旅一座みたいである。 小津安二郎の「浮草」 http://www.kadokawa-pictures.jp/official/ukigusa/ みたいだのお。 そしたら、わしは二代目中村雁治郎だったのか。 玉緒のやつめ、しょーもない男と結婚しくさって。 どこにでもひとりでふらふらと出かけて、メキシコの道ばたでおにーちゃんから自転車を買ってぎっちらおっちら乗っていたりした頃がなつかしいが、人間も築29年ともなると、そーゆーわけにはいかないよーだ。 なんとなく寂しい気がする。 9月にコモへ行って、そこでのんびりしようと思ったが、バルセロナに9月にいなければいけないのが判明したので、それが出来なくなってしまった。 10月以降でないと無理です。 わしも友達もコモは夏しかいたことがないので、すべりひゆどんが知ってるかなー、と思ってツイッタで訊いてみたらセシウム入りのどんぐりをとって遊べるが雨が多いんちゃうか、という。 トスカナへ行けば? トスカナへ行きたしと思えど、トスカナはあまりに高し。 せめては新しき暖炉を買いて 雨の降る旅にいでてみん なんちて。 トスカナには家がねーんです。 ずっとむかしフロレンスでころころしていたアパートは、わしのものちゃいまんねん。 https://gamayauber1001.wordpress.com/1970/01/01/dolce-vita/ でも、ゆわれてみれば、「山の家」という名前につられてコモなんかにボロ家を買うよりトスカナやウンブリアのほうがえがったかのお。 ぐだぐだぐだ。 仕方がないので、なけなしの法力をはたいて、ゴマをたいて、いまから清明で雨雲のないコモの湖を実現せなばならぬだろう。 ひとりで、ぶらぶらしてるときはよかった。 まったく何も考えないですんだ。 「ひとりで旅する気軽さ」ということには、外から見てわかる気軽さだけではなくて、たとえば3日くらい同じおパンツをはいていて臭くなってもダイジョーブである。 耐えがたくなると、シャワーで洗って、乾くまでベッドで仰向けになってチ○ポコ潜水艦の練習をする。 畳の上の水練、というがな。 ときどきチン○ンを左右に振ってみたりして、水のなかで出来ない事もできます。 サンフランシスコのベストウエスタンはベッドとテレビの関係が非常にうまく出来ていて、チ○チンを機関銃の照準のように使って、画面のなかのひとを狙撃することができる。 うまく当たるとカンドーします。 きみもやってみられるがよい。 メンドクサイと公園のベンチで寝る。 駅でも空港でも寝る。 日本でやったら東郷神社のベンチでお巡りさんに怒られたが、やさしいものであって、 「もしもし、こんなところで寝ていたら風邪をひきますよ。日本語がわかりますか?」という丁寧さであった。 いいひとだったな、あのひと。 このあいだ新宿の反原発デモの映像のなかで、歯をくいしばって、必死に無表情をつくっていたお巡りさんがいたが、わしをベンチで起こしたお巡りさんは、動員されないですんだろうか。 むかしを振り返ると、バラバラで脈絡のない映像があちこちに視えている。 真冬のシカゴからメンフィスに行く途中で寄った小さな小さな町の暖かいステーキハウスでは棚から好みの肉の塊をとりだして、勝手にグリルで焼くが、いちばん小さい塊が1キロある。 近くのテーブルで宴会をしている一団が「きみ、こっちに来いよ」というのでコミューナルテーブルの端っこに座った。 みんなでチョーくだらない話をして楽しかったが、わしが2キロ近い肉(ただし骨ふくむ)を平らげたのを見て、50歳くらいのおっちゃんが、タメイキをついている。 … Continue reading

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ステルス税

わしは初めのオカネのかたまりをチョーくだらない発明でつくった。 中松博士みたいである。 あの溜池にあった看板は、よく見ると眼が動くところが天才中松です。 看板の文句。 えーと、なんだっけ、「世界の天才、中松博士」だったっけ。 ほんとうは発明なんかしてないんだよ、あのひと、と耳打ちする日本人友達がいたが、いーじゃないそれでも、それも、こころごころやさかい、と綾倉聡子もゆーておる。 義理叔父がガキのとき義理叔父学校にやってきて、 「きみたちはいくら頑張っても秀才にしかなれないから、天才のわたしになるのは無理ですが..」と話し始めたそーです。 延々と延々と自分がいかに天才か絶賛してから、最後は自分が「発明」したスプリングがついたパチモンのバッタの足みたいなやつに乗ってステージの端から端まで、汗まみれでぴょんぴょん跳びくるってみせたそうである。 偉人であると思う。 本人からすると宝くじにあたったのと何も変わるところがなかったが、わしはカシコイので、それまでにかなりの額になっていた妹からの借金を返すようなバカなことはせずに、踏み倒して、凍死することにした。 なにしろ、もとが賭博好きの、朝までブラックジャックテーブルに貼り付いているクソガキだったので、賭博にあてようかと思ったが、あれは「金を稼ごう」と考えると必ず敗北する遊びなので、怠けるための殖財には向いておらん、と考えて、銀行に預けてほうっぽらかしにして暫く忘れることにした。 へろへろと地球の表面を徘徊しながら、あーでもないこーでもない、と凍死方法を考えました。 なんでも、のんびりやるのが習慣なんですのい。 わしが凍死というと株の売買をすると思うひとがいるよーだが、そんな下品なことはしません。 ときどき、するけど。 ファンドグループみたいに投資家をつのったりもしない。 ひとりでできるもん(註)の世界を生きてきたんですのい。 たいへんコンサーバティブな凍死をする。 ときどきサンスー上、かっこいいと思われる曲芸的なアグレッシブ路線をとります。 それが職業上のささやかな楽しみなのだと思われる。 オカネというものは、得体のしれないものであって、あっても幸福にならないのは、よく知られている。 数量であらわすのはバカっぽいが、だいたいひとの一生における5%くらいだろーか。 でも、この5%は嫌な5%であって、ないとはなはだしく苦労することになる。 ニュージーランドは、もとはオカネの神様が罪滅ぼしに作ったような国で、オカネというものがいらなかった。 ちょうど、20世紀の終わりまでそうだった。 前世紀の終わり、わしが小学校の頃、南半球の夏に欧州からやってくると、何もかもぶちとぶくらい安いので、いったいこの国はどーなってるんだ、と考えた。 おぼえているもので言うと、ケンタッキーフライドチキンのいまもあるクオーターパックの鶏さん3個入り http://www.kfc.co.nz/menu/boxed-meals/quarter-pack が、5ドル。当時の日本円で280円だった。 クライストチャーチのパパヌイという中流程度の家庭が多くある住宅地の、日本式に言えば3LDKの一戸建てが15万ドルから19万ドルで、これは日本円で言うと830万円から1000万円ちょっとです。 クライストチャーチは伝統的にオークランドの住宅価格の7ー8割くらいなので、クライストチャーチに較べて変動が激しいオークランドでも1200万ちょこっとで家が買えたでしょう。 大学を卒業したばかりのカップルは、いちゃいちゃもんもんしてみたり、朝まで、きゃっきゃっとゆって笑い転げて話したり、いろいろふたりでやってみて、こいつでいいや、ということになると、まず初めにホームローンを組んで一戸建ての家を買った。 ホームローンの利率は、当時で9%くらいではなかろーか。 いまは、ずっと低くなって6.5%やなんかだが。 ニュージーランドに限らず、西洋文化圏から来ると、日本の家は「年数が経つと安くなる」ので、怪訝な気持ちになる。 欧州などは「築200年」なんちゅうのは、ごろごろあるからです。 ニュージーランドは近代の歴史として、ほぼ日本と同じくらいの若い国なので、煉瓦や石で出来てエラソーな家でも、100年、とかいう歴史しかないところが日本と同じだが、 違うのは「築何年」という考えがないことで、家というのは、通常、買ったときよりも売るときの方が価格が高いはずのものである。 逆に言えば、15年して価格が倍にならないような家を買ってはいけない、という。 … Continue reading

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建前に死す

1941年に日本が連合王国とアメリカ合衆国に宣戦を布告するに至るまでの経過を読んでいて、いちばん訳がわからないのは、昭和天皇そのひとを含めて、当事者の誰ひとりとして開戦を望んでおらず、しかも戦争をすればほぼ必ず敗けるとしっていたことである。 陸軍と海軍がにらみあって、どちらも「先に言い出すのはカッコワルイ」という理由でチキンレースを繰り広げたあげく、戦争をすることになってしまう。 建前として「大日本帝国陸海軍は世界一」ということになっているので、現実主義の立場から「ほんとは両方3番ですから」とはゆえなかったものであると思われる。 日本側では「開戦百日の栄光」ということになっていて、連合王国やアメリカ合衆国にとっては「ヒットラーが暴れているのに乗じて日本が始めた火事場泥棒」と意識されている日本の軍隊の3ヶ月の大暴れは、主にヒットラーの欧州ばかりに気をとられて太平洋にまで集中力がもてなかった連合国側のマヌケぶりがもたらしたものでした。 日本にとって大変に不幸だったことは、この「開戦百日の栄光」が日本人式官僚思考のツボにはまってしまったことで、「建前のほうがほんとうで現実はチョロい」という信念に燃えることになってしまった。 それまで同じ軍事官僚が黙々と計算して、「あと十倍国力がないと負けまんねん」とゆっていたのが、「一回戦がこれなら、まあ、なんとかなるだろう。よくわかんねーけど」と舞い上がってしまった。 欣喜雀躍、というが、どのひとの日記を読んでも、軍国主義者はもちろん社会主義者たちさえ、真珠湾攻撃成功の一報に文字通り欣喜雀躍してしまう。 それまでの重苦しい不景気と中国における(ルールが異なるせいで)「両方が勝っている」奇妙な戦争が長引いていたことから来る陰々滅々としたフラストレーションの日々の反動でしょう。 あっというまに集団発狂してしまう。 シンガポールでは事務処理能力の高さを買われて(^^)軍司令官になっていたパーシヴァルは軍事能力ゼロの前評判どおり、あっさり手を挙げてしまい、極右イケイケおじさんであった救国の英雄ウインストン・チャーチルに「死ねばいいのに」と2chみたいなことを書かれてしまう。 ほんとうの理由は、James Neidpathが述べているとおり、「a single-handed war on three or more fronts was beyond Britain’s powers, so she had to be weak somewhere」ということに過ぎなかったが、時にトージョー並の粗悪な精神論を述べることがあったチャーチルらしい怒りと言えなくもない。 ここではなはだしくバカタレな日本側反応は、日本軍は実は勝つと思っていなかったので、次段階の作戦の構想がなかった。 やることがなくてヒマなので、じゃあポートモレスビーをとっちまうべ、とかゆっているうちにB25を空母から発進させて東京を爆撃するという本来軍事的価値などかけらもない、やけのやんぱち作戦に驚いて、じゃ、ミッドウエイ島をとっちまうべ、ということになります。 そうすれば、それをかぎつけて空母が出てくるだろう。 その空母群をやっつければ、しばらく太平洋では楽勝状態がつづくだろう。 で、そのあとは? そんな先のこと、知りませんよ。 わたしは来年で恩給もらえるんですから。 そこまでが仕事で、その先はきみの仕事であると思う。 ミッドウエイ海戦のことは、ずっとむかしもむかし、おおむかしにこのブログ記事に書いたことがある https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/09/08/ミッドウェイ海戦__官僚主義の敗北/Continue reading

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30歳の方向に歩く

29歳になった。 えらいこっちゃ。 去年の終わりのことだけど。 子供の時に「29歳のひと」というのは、落ち着いていて、オトナであって、静かに微笑していて、棺桶に片足つっこんでいるひとであったが、自分がその年齢になってしまった。 むかしの心理学は、年齢と才能の開花の関係をうるさく追究したりした。 学問としてやることがなくてヒマだったからでしょう。 まだ医者たちのほうは、犯罪者の頭をパカッと開けて、電極刺して、ここに電流を流すとどうなるかなあー、あっ、怒りよった、というような楽しい、…あっ、失礼しました、 人間として許されない実験をして遊んでいたころの話です。 詩や数学は、たしか、20代のまんなかにピークがくることになっていた。 絵を描く才能がもっとも息が長くて、延々延々延々と70代80代90代とピークに向かってのぼりつめてゆく。 道理で画家の友達というのは20代からボケロージンみたい、…あっ、いやいや、天真爛漫であるわけである。 今年は天気が悪いのでクリケットをあんまりやらないが、あれはベースボールと似ていて、上手になる頃には身体の反射スピードが遅くなって下手になってゆく。 スポーツとして判ってゆくにつれて成績は低下する、という悲しい宿命にあります。 自分のことを考えると、十代中盤が我ながら最もコントロールに厄介な頃であって、ボリショイサーカスのクマの躾より厳しいとゆわれておるとーちゃんとかーちゃんのサディスティックな…あっ、また間違えた、厳格な躾によって、乱暴なことをゆったりふてくされたりはしなかったが、しかし、ブードゥー教に入信してはどうか、と考えたりした。 あまりにバランスをとるのが難しいので、オベンキョーに熱中したり、週末には朝まで遊んだりしていた。 誰でも、そういうものだろうが、わしの二十代は奇妙にマジメな情熱と野放図で爆発的な放蕩の混淆であって、しかもヒマさえあれば世界中をほっつき歩いて、先ずとにもかくにも発散的で情けない欲求にしたがってねーちんたちと仲良くなり、ねーちんたちやおねーさまの手引きにより、その土地に詳しくなっていった。 そういうことは、わしだけの特徴ではなくて、英語人一般のセーシュンであると思います。 わしは株の売買というようなことは忙しそうであるし、何をみても株価にみえるようになりそうなので嫌いだが、その頃は、オンラインの株の売買で、あと一週間の生活費を稼いだりすることもよくあった。 ブラックジャック、という手もつねにあったが、賭博は金を稼ぐ方法として「つきや勝ちという戦果を拡大できない」という致命的な欠点がある。 昨日の勝利が今日の有利にならないのね。 たいていのテーブルには上限があってカネモチ相手のクラブでも一回の賭け金が5000ドルとか3000ポンドとか、そういう制限が多いと思うが、制限がないテーブルも世の中にはあって、そこでワン・シューではなくて、ただ一回の賭けに60万ドルかけてしまった人を見たことがある。 ストゥールにすら座らないで、たったままです。 ピクチュアが出て、恐れ入ったことにエースがその上に乗って90万ドルを手にすると、合計150万ドルをもって、そのひとはすたすたすたとまた行ってしまったが、考えてみれば、あれは正しい態度であって、賭博の本質を知っている、というべきなのでした。 ラスベガスでひと晩で46ミリオンダラー勝ったおっちゃんも、だらだらとやれば負けるさ、とゆっていた。 そうやって勝てるのはサー・アスピナルのようなカードカウンタだけの特権であると思う。 それも6デックシュー(ひとつのシューがトランプ6組で出来ている)が限度であると聞いている。 人間の一生には「安全」というものはない。 保障を求めるな、と、とーちゃんによく言われた。 人生に保障を求めるのは愚かなもののすることである。 収入の安定を求めて職業を選択するような人間になってはいけません。 失敗しないような人間は見込みがない。 自分にみあった課題にとりくめば初めは失敗すると決まっている。 将来を予測してはならぬ、何が起きても大丈夫なように自分をつくっておきなさい。 親というものはエラソーなもので、おもえば両親などというものは他のひとに言われればえらそーにタメグチ利いてんじゃねーよ、と思うようなことをマジメに述べることがある大変人のふたり連れだが、子供なので、おとなしく聴いていたものだった。 公平に言って、わしは有利だった。 100メートルを走るのに、「あっ、きみはここから走っていいからね」とゆわれてゴールの手前5メートルくらいのところにスタートラインを引かれたようなものです。 そういう境遇を嫌うひともいたが、わしはらくちんが好きなので、ラッキーと思って安んじて95メートルの息を詰めた疾走を省略させてもらった。 身体がおおきく強かったことも学校生活を楽にしたと思う。 空気が読めないひとの極みのようなものであったが、しかし、わしを苛めようと考える根性のあるバカタレはいなかったもののようである。 後年、酔っ払って、あちこちの国からやってきた友達と夜中の広場を歩いて横切ったりするときに、スキンヘッッズというハゲの一団に囲まれたりすることがあったが、最大に根性があるにーちゃんで、わしの腕に手をかけるくらいで、それでも、わしがひとに自分の身体をさわられるのが嫌いなのを発見して、あのバカタレ特有の殺意がこもった眼でじっとわしを見上げる程度で終わってしまった。 … Continue reading

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