True Colour


現代科学では「人種」はすでに否定された概念である。
大量のサンプルから取ったDNAを解析することでいま地球の地表を覆っている現生人類は、たった6万年前の大乾燥期に、それまで44万年あまりを過ごした東アフリカにあった「科学のイブ」の集落の炉辺から立ち上がって東を目指した一団のひとびとの後裔にすぎないことが判っている。
どうしても「人種」という概念を使いたければ、われわれの人種は単一で、みなアフリカ人なのね。
いまでも稀にはいる人種差別の話が好きなひとびとに言って聞かせると、ふつーの反応は
「そんなバカな」です。
異「人種」間の遺伝子構成がほぼ完全に同じであることを告げると、なんだか、ショックをうけたような、神様に裏切られたような表情になる(^^)
実際には自分の愚かさに裏切られただけだが、それでも直感的に信じこんでいた「事実」に反した真実を告げられるとなんだか世界が横倒しになったような気分になるらしい。
でも色が全然違うじゃないか、とか、鼻の形も違う、とつぶやいて呻いている。
見ていて気の毒な感じがする。

群れをなして社会生活をする生物は個体の識別というか、小さな差異に鋭敏である。
犬に関心がないひとはラブラドールならラブラドールで全部おなじに見え、三毛猫なら三毛猫でクローンのようにしか見えないというが、その逆に恋に狂えば双子の相手でも見分けが付くようになるという。
自分のことを考えてもカタクチイワシが全部どれも個性的に見えて食べる前に一応ぜんぶ名前をつけたくなる、というようなことはないので、差異と意識の関連はわからなくもない感じがする。

むかし「人種」というものを(科学的な意味において)当然の前提だと考えたひとびとは、環境に適応するための形質発現に遺伝子構成の変更など必要がない、ということを知らなかった。
その可能性すら思い及ばなかったことに、かえって、20世紀には大流行りだった「人種差別」というようなバカタレな観念の原因があったのでしょう。

どの「人種」においても遺伝子構成が同じであるという容赦なしに突きつけられた「現実」のほうを前提にむかしから知られている人類学的に知られていた事実を眺めなおしてみると、まるで逆のみえかたをすることになったので、たとえば長いあいだ謎とされていた、フィリピン人のあるグループでは、まったくアフリカ人としか見えない外貌のひとびとが半数を占めている、というような事実は、実は移動してきたアフリカ人がやってきた地方と同じ熱帯の、殆ど変わらない気候のフィリピンのこの島に定着したせいで、形質を変化させる必要が無かっただけのことであることで説明されることになった。

あるいは遺伝子マーカーの追跡によってアジア人であることが判ったごく最近(たしか10年くらい前)まで当然のようにアフリカ人だと見なされていたアボリジニが、真の意味ではアフリカ人であることに変わりはなくても、旧来の「人種」分類に従えばアジア人であることがわかって、いかに短いあいだに環境にあわせて(遺伝子構成の変化なしに)形質が変化するものであるかが判って皆をびっくりさせた。
アボリジニはジャワがマレー半島と地続きだった頃に、そこまで歩いてきて、なんらかの理由でジャワ島から(多分)筏でオーストラリアに到達したひとびとであることが判ったからです。

メキシコ人はいまでも日本人は遠い時代に袂を分かった兄弟だという美しい物語を愛しているが、残念なことに、メキシコ人の祖先は中央アジアからユーラシア大陸の北辺に出て厳寒の氷雪を歩いてベーリング海峡をわたり北米に到達して、具体的な年数を忘れてしまって、そのうえに調べ直す気もしないが、北米のてっぺんから2千年だかそこいらのチョー高速で南米大陸の南端に到達したグループの末裔である。
アジア大陸の遙か南方のルートを通って日本という最終端に到達した日本人は、まったく別のグループに属している。

むかし見た映画にメキシコ人の女の子と恋に落ちて結婚することに決めた息子に「おまえのようなケーハクな奴がいるから、南米では白人は『有色人種の大洋』に呑み込まれてしまったんだ、バカモノ!」と思わず叫んで、自分の一家からバカにされてエンガチョされてしまう気の毒なおとーさんが出てきたことがあったが、生物学の神様がこのおとーさんの叫びを聞いたら、よいこらせ、と祭壇をおりてきて、「それは間違っておる」と諭したことでしょう。
異人種間で結婚したところで数世代のわたって形質発現が優性劣性の法則に従って起きるのは当然だが、別に遺伝子レベルの構成が変わってしまうわけではないので、よく考えてみれば、6万年前近所同士であったもの同士が故郷から1万数千キロを隔てた土地で、また邂逅したというだけのことです。

自分と異なるものを恐れ憎むのは未開人の特徴で、アフリカの田舎に住みにでかける研究者がいきなり石つぶての嵐で迎えられたりするのは、その未開な畏れのせいである。

あるいはヒトラーのナチは、「アーリア人」という「北欧系人種」をでっちあげて、自分達の狭量な文化に説得力をもたせようとしたが、アーリア人を「金髪碧眼」と定義してしまったために「ヒトラー同志は一見黒髪で褐色の眼に見えるが、注意深い者の眼には、ほんとうは金髪で碧眼であることが見て取れる」というような裸の王様もチ○チンをふりまわして踊り出したくなるようなオモロイ主張を行ったりした。
戦後、その「アーリア人」という人種概念の非科学性をあばきだして、さんざん笑いものにした英語系アングロサクソンやユダヤ人の研究者たちも、ほんとうは同じ穴の狢であって、現実が暴露されてみれば、白人が人間だとは思えなくて苦しんだ黒人も、その黒人の下におかれて喘いでいたアジア人も、実は全部アフリカ人で、粗放な言い方をあえてすると、日やけしていないものが日やけしたものを笑っていただけなのが真相なのでした。

ツイッタの友達の生物学者泉さんは、わしが天気の良さにつられて朝から遊びほうけていた頃、「この50年で人種間の交配がすすんだ」と書いていたよーだったが、わしの実感では、この10年でひとびとの意識から「人種」というものは加速度がついておおきく後退した。
いま人種意識が「20世紀的な迷妄」とふつうに感じられるのは、実際には、遺伝子解析の成果が、科学には関心がないひとにとっても見えないところから考えに影響してきたものだと思われる。

ツイッタにも書いたが、日本人であるきみが色の白い人びとに会ったら、
「しばらく見ないあいだに随分白くなっちゃったんだね」とゆっていればいいだけのことであって、きみの隣で、ぼおおーと見あげるような大きな白い身体を揺らせている、どことなくとぼけてマヌケな外見のにーちゃんは、6万年前には、きみと同じ村に住んでいた。
世界中に散らばって、それぞれにえらいめにあい、お互いが親族であると気づかずに激しく抗争すらして、傷つけあい殺しあったが、判ってみれば実は友人であるどころか親族だったわけである。

くだらないことをつけくわえると、インドネシアのトバという火山は74000年前に、この200万年では地球上の噴火のなかで最大だったと判っている大噴火
http://en.wikipedia.org/wiki/Toba_catastrophe_theory

を起こしている。
ところが、Michael Petragliaたちのインドの採掘場から、そのとき降下した火山灰で区切られた、この噴火以前と以後の地層から石器にしかみえない石片がいくつも見つかっているので、もっとわかりやすい証拠(いちばんいいのはウンコでんねん)が見あたらないせいでコントラバーシャルになってしまっている(現生人類ではないだろう、という研究者もいる)が、どうも6万年前の大乾燥期以前にもアフリカを出て、ほぼ同様の移動ルートを通ってインド大陸に到達していたグループもあるよーです。
しかし、このグループは、あの大爆発を生き延びたのに、歴史のどこかで消滅してしまったもののよーである。
あるいは、そうやって希望をもとめて「緑のハイウェイ」を移動していった現世人類には途中で力尽きて絶滅してしまったグループが他にもあったかもしれません。

欧州では「人種」というものが言葉に厳正な意味でも存在していた時期があって、中央アジアから西に向かったグループが遭遇したはずのネアンデルタール人がそうであったことになる。
このひとたちは、現世人類の美の基準からするとたいへんな醜さ、というか、容貌魁偉なひとびとであったが、知能は現世人類と変わるところがなかった。
現世人類と同じく、自分達の身体的構造にあわせた武器をつくり、巧妙な刃先も使い方も現世人類と似たようなものでした。
ふたつ、主要な点で彼らは現世人類と異なっていた。
芸術をもたなかったことと、移動をしなかったこと。
言葉を変えていえば、「愚かさ」をもたなかったことで、
洞窟の壁に絵を描くようなムダなことを嫌い、未知の移住していってどうなるかも判らないような土地に考えもなしにどんどん移動する、というような軽率さも持たなかった。
ネアンデルタール人と現世人類が両方つかった洞窟の壁に描かれたバカタレな落書きは、すべて現世人類が残したものです。
ネアンデルタール人は、マジメなひとびとであって、洞窟を清潔に綺麗に保っているのが好きだったもののよーである。

ところが、現世人類と同等の知力をもち、そのうえ桁外れに大きな膂力をもったネアンデルタール人は滅びてしまう。
ほんとうの理由は誰にもわからないが、ネアンデルタール人が滅亡した理由は、気候が変化しても自分達の住み慣れた土地から離れなかったであるからのようにも見えます。
もしかしたら原子力発電所が崩壊したのに長老が「放射能の漏出とゆってもこのくらいなら安全だから」とゆってみなの洞窟に瓦礫をたきぎとして配った結果、実は有害だった放射能が集団全体に行き渡って壊滅したのかもしれないが、そういう証拠はないよーだ。

ここまで、特別な知見ではなく、英語人なら年がら年中あちこちで放送したり記事が載ったりするせいで、そーとーなバカタレでも知っている事をずらずらずらと挙げてきたのは、日本には5年間11回の日本遠征のあいだじゅう、なんだかやたらとジンシュジンシュジンシュ、ジンシュサベツ ジンシュサベツ ジンシュサベツキャベツ、と言いまわるひとたちが想像を絶する数でいたのをおぼえているからで、わしの大好きな映画、クリント・イーストウッドの「Unforgiven」で主人公の相棒、ネッド・ローガンを演じたアフリカンアメリカンの俳優Morgan Freemanは、
「人種差別を終わらせるゆいいつの方法は人種について話すのをやめることさ」と言っている。
人種や人種差別について話したがる人間は、たとえ自分が有色人であっても、自分が人種差別をしたくてうずうずしてる人種差別主義者なんだよ、というのは長い間人種差別と格闘してきたアフリカンアメリカンたちがたどりついた意見でもある。

このブログ記事には、日本に来て「人種差別論議」がダイ盛んなのと、「おまえら白人は人種差別ばっかりしやがって」と見知らぬひとびとに集団で罵られてぶっくらこいちまったわしが、日本のひとの話を聞いて、そーかなあーと思って書いた人種差別についての記事もいくつかあります。
マヌケなことに「人種差別なんて、この世界に、もうねーだろ」とゆったわしが、モニと妹に爆笑される、という記事を書こうとおもってこころみた会話の現実の悲惨な出だしからはじまっておる。

しかし、「the only way to end racism is to stop talking about it,」
そろそろ、わしはこの話題については、なにも述べたくない。
根本的な理由は今回の記事で述べたように、もともと科学ガキであったわしから見ると、
人種という概念が単に非科学的な迷妄で、もう十年もすれば、天動説やなんかと同じガラクタ箱行きになるのが見えているバカタレの玩具だからです。

これまでにアルコールがはいるとずいぶん「人種」の話をしたがるので、そっとパーティの招待者名簿から外された日本人や、友達同士の楽しい気楽な週末に呼ばれなくなった日本人が何人いるだろう。
さいわいなことに20代くらいの日本人には、もうそういう薄気味の悪い人はいなくなったように見えるが、わし自身、ながいあいだ、日本人というと「口では人種差別反対を唱えるが、自分がなんだかすげー人種差別主義者みたい」という印象がなかなかぬぐえなかった。
人種差別の話ばかりしたがるのが奇異だったからです。
しかし、人種差別マニアでない日本のひともたくさんいるので、そっちのほうへ行って話したい。

「白人死ね」「白豚氏ね」のひとびととの付き合いは長いが「人種」というものへのわしの考えは、ここに述べたので、そろそろこれでカンベンしてもらうべ、と考えたのでもあります。

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