びっしょり濡れた言葉で世界を説明する、ということ

英語から日本語に翻訳した小説というものが手元にない上にサイトもどういうところへ見に行けばいいか考えても判らないので具体的な例が引用できないが、たとえば40歳のアメリカ人の男と25歳のアメリカ人男の友達のあいだの会話が日本語で表現できるだろうか。
英語はもともと敬語が非常に発達した言語だがアメリカ合衆国やオーストラリア、あるいはニュージーランドのような「新世界」で言語隔離が起きる事によって敬語が不要である場面は飛躍的に増えた。
そうでなくても、
たとえばポールという70歳の父親に35歳の娘が階下で話をしないかね、と呼びかけるときには娘は「ポール、下に降りてこい」とゆっているのであって「おとうさん、下に降りてこない?」といっているわけではない。
あるいはベーカリーで17歳の女の子からステーキパイを買いながら、天気が悪いと述べているじーちゃんに女の子は「ほんとうだ。わたしも、こんな天気は嫌いだ」と言っているので「ほんとうにそうですね。わたしも、こういう天気は嫌だと思います」と言うわけではない。
それを、言い方が違うだけで同じではないか、と思うひとはよほど言語的な感覚が鈍い。でも同じことやん、と思ったら、今度、社長と通りででくわしたときに
「やあ、元気?仕事はどんな調子?」とゆってためしてみればいい。
社長は一発できみの名前をおぼえてくれるであろうと思われる(^^)

空港のラウンジで「ロスでは向こうの社長が出てきちゃってさ。いやあ、うちも儲からなくて困っちゃうんだよ、と嘆いてたよ」というようなことを大声の日本語で述べている日本人を見かけることがあるが、そういう’場面にでくわして思わず日本語を聴いてしまった(聴くまいとすれば、わりと簡単に聴かずにすみます。そのときは鳥が啼いているようなものである)わしの頭のなかで起きる反応は「ロス、って、あんた、それ定冠詞でんがな。どうしても略したければアンジェルスとゆえアンジェルスと、アンヘルスなら、もっと許す」ということと
「英語人が『うちも儲からなくて困っちゃう』ちゅうような微妙な語尾による感情表現をするかよ。嘘をついてはいかん嘘を」というふたつであると思う。

ロス・アンジェルスを「ロス」と呼ぶのは「ザ・ビートルズ」を「ザ」と略称するのと同じなので省略の仕方として多少大胆すぎるのではないかしら,と思うが、考えてみれば、そういう略称の規則をつくっておけば、ロスアラモスもロスバノスも、ついでに言えばロスチレスもロスマニュコスも全部同じ「ロス」で済んで、後半を憶えていなくても困らないので便利だと言えなくも無い。

しかし単純に「自分達の会社は儲かってない」と述べたにすぎないアメリカ人社長の言葉に、判ったようなつもりで頭で無暗な翻訳をして余計な感情をくっつけてしまうと本人も上司も仕事上の判断を誤るに違いないので、こういう社員がいる会社の持ち主は災難であるな、と考える。

むかし翻訳というものは、すべからく誤訳でんねん、と書いたら、えらい勢いで、
それはおまえが日本の翻訳業界のレベルの高さを知らないからそういうのであって、誤訳をする翻訳者もいるにはいるが少数だ、そういう出来の悪い翻訳者だけを捕まえてものを言うのはゆるせない、と言ってきたひとがいて、ずるっこけてしまったが、そーではないのです。
英語を日本語になおすというのは不可能事業で、どんなに言語能力があるひとが試みても英語で述べられたことを日本語でそっくりのべ直すことは出来ないのだ、といっている。
単純な名詞ですら、早い話が「アメリカ」というカタカナとそれに付随する音を聞いて、それが自分の国を指すのだと言われても当のアメリカ人は(社交辞令は別にして、ほんとうの気持ちは)怪訝な気持ちがするだけだろう。

では英語世界のものを理解したいと考えた場合、どうすればいいかというと英語のまま受け取ればよい。
というよりも英語のまま受容する以外には方法がないのだと思われる。
わしは松尾芭蕉が大好きだが、英語の俳句というものは、チョーばかっぽいゲージツであると考える。
そのうち大天才があらわれて、英語の俳句をみられるものに引き上げる可能性が絶無であるとはいえないが、確率としては、いよいよ日本の財政破綻がきてしまったときに火星人が円盤から降りてきて「わたしが首相をやります。どうぞよろしく」と演説するのと同じくらいの確率であるよーな気がする。
そのうえ出来上がった光輝有る「英語俳句」は日本語の「俳句」とはぜんぜん違うものであることは自分の足をみるより明らかです。

夏目漱石は偉大な小説家で、わしは岩波の全集を3回くらい読み返しているように思うが、夏目漱石の小説くらい英語で読むとしみじみと退屈なものはない。
翻訳している人がヘタ、というようなことではなくて、そもそも英語にはまったく馴染まない物語なのだということを、そのうち具体的にブログ記事にするべ、と思っています。
夏目漱石が偉大な小説家である証拠が実はそこにある。

いまの世界で生起することや意識に上ることを支障なく説明できる言葉を「普遍語」、風土的というのはやや不適切だがそれに近い言葉を「地方語」と呼ぶ事にすると、20世紀には、英語、フランス語、ロシア語、ドイツ語、イタリア語、日本語、スウェーデン語というような言語は何れも普遍語と呼ぶだけの体裁と実力を備えていた。

21世紀になると、これがぐっとせばまって英語だけが突出してきてしまう。
それは主にアメリカ式の「手続き主義」が世界を席巻しつつあって、それに基づいた様々な考え方が出来るようになるには英語でものを考える事が是非とも必要だったからだと思います。
人口で言えばむろん中国語人口が最大だが、いまの世界が中国語でもっともよく機能する仕組みで動いている、というわけにはいかない。
中国語は巨大な人口をもった「地方語」であるのは当の中国人たちがいちばん納得している。
ここで詳しく説明するわけにはいかないがスペイン語やヒンディー語も同じであると思う。

日本のひとに是非考えてもらいたいのは、しかし、ここで言う「英語」とはEFL
http://en.wikipedia.org/wiki/English_as_a_Foreign_or_Second_Language
のことであって、英語人が普段使っている英語とは異なる。

当たり前だが、英語人が普段つかう、というよりもそれによって自分の実体を形成している英語は地方語としての英語で、自分をじっと観察していると、外国語人と話すときには明らかに異なる英語の体系で考えて話をしている。
自分の母語が英語でありながらEFLで話している。
地方語としての英語の部分を分離しないと、外国人と話しをするのが難しいからです。

抽象的で判りにくいかもしれないので、おもいつくままに例を挙げると
「ライ麦畑でつかまえて」という本は、英語世界では驚異的な物語で、何がいちばん驚異的であるかというと、1940年代後半の俗語がふんだんに使われていて、しかも当時のティーンエイジャーの気取りくさった薄気味の悪いものの言い方で書かれているのに、いまだに当の(そういう古くさい十代のスタイルに最も反発するはずの)ティーンエイジャーが好んで読む本であることで、まるでもうパイが腐っているのに、元の味を想像しながら食べているひとたちのようであることです。
アメリカでは、一定のタイプ、自分が高い知性をもっていて、とびぬけて感受性が高いのに世間からは認められない、と感じているタイプの高校性にはいまでもたいへん人気がある物語である。
「疎外された者の経典」と皮肉をいうひともいる。

ところが、(amazon uk ではちゃんと4つ星がついているけどね)連合王国では、若い衆にはあんまり人気がない物語で、十代ならば、英語世界共通の話題として買って手にとってみるが最後まで読めやしない、という人間がもっとも多いと思う。
物語自体は「共感」するが、どうにも肌合いがあわない。
ま、好きな人もいるのかも知れないが、少なくとも、わしの視界の見渡す限りにおいてはひとりもいなかった。
海の向こうの変わり者のアメリカ人が書いた古典としてオトナが読む本である。

最近になって、あっ、そおーかなあー、と思うのはサリンジャーがわざと「「ライ麦畑でつかまえて」を「地方語としてのアメリカ英語」で書いたからではないか、と思う。
イギリス人ガキにとっては、あの小説を読むのが一場の苦痛にしか過ぎないのはそのせいではなかろーか。
しかもPency Prepというチョー狭い世界の英語で意図して書いたからだと思います。

そうやって考えてみると、夏目漱石にしても普遍語を生み出す前にやらねばならなかったことは近代感情をうまく表現できる東京の地方語をまず生み出すことだったわけで、やたらめったら造語して日本語に普遍語化への道を切り開く一方で、文体によってほぼ架空な地方語世界をつくることも出来た漱石先生は、やっぱし偉かったのだなあ、と思いました。

日本語人は遠からず、というよりも、もうすでにそうなっているかもしれなくて、地方語として洗練してゆくか、普遍語として復活をめざすかの選択を迫られるところにいきついてしまうと思う。
文の構造の取り替え可能である部分をカタカナにしても破壊されない構造を日本語がもっていることに目をつけて、ここまで「なんとなく、パラレル」で西洋をわかったつもりになってやってきたが、もうそれでやっていける世界ではなくなってしまった。
なぜ、やっていけないかは、また記事をあらためて書くことになると思うが、
いまの世界中の若い世代が広汎に共有している「いままでの世代が見たことがないタイプの怒り」を、共有できずにいるどころか、自分達と本質的には同じ場所から由来すると思われる怒りが不可視であって、まったく暗闇に取り残されて呻いているように見える日本の若いひとたちを思い出すと、日本語だけで出来た精神的な洞窟に住むのは危険であるようにも思えます。

背景には、翻訳を通したパチモンの「なんとなく似たもの」であったとは言え「長距離走者の孤独」「ライ麦畑でつかまえて」、ボブ・ディランの歌、木島始が翻訳したブルース、日本の若い人たちは過去には小説や歌によって世界のなかで高度に発達した社会の若い人間だけがもつ表現されるのが難しい疎外の問題を世界中の人間と分かち合うことが出来た。
ところが、いまは、若い人間が感情や思考スタイルを共有するのに使うのはツイッタであり、フェイスブックであり、SNS以外でも、たとえばMMOで知り合った仲間が実人生の最良の友達で、それぞれトロントとマンハッタンとシドニーに住んでいる、というのは普通というのもアホらしいくらい普通のことになった。

そうやって商業主義によってフィルタリングされるタイプのメディアから、商業主義がスピード上も視界の上でも、まったく追いついてゆけないいまの時代になってしまえば、ただそのことだけでも、翻訳を媒介にしてひずんだ世界を見つめて来た言語世界の近未来の悲惨は容易に予想がつくような気がします。

炬燵にはいっているときは日本語で、会社では英語、というほうに日本語社会は、いやいやながら、経済事情にひきずられるように向かっていくと思うが、外国人として無責任なことをいうと、そういう産業の側のくだらない要求に従って自分のカッチョイイ文明を矮小化する道だけでなくて、他にも方法があるだんべ、と思わなくも無いが、それをここに書いてしまうのは無責任の限度を超えてしまう。

ただ、どんなのでもいいから奇跡が起こらないかなあ、と願うのです。

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