Je suis comme je suis

他人の目のなかで一生をすごす人は寂しい。
自分の姿を眺めるときに他人の視線と浮かべる表情を通して自分を眺めるくせができてしまえば、その人の一生は、ほぼそこで終わってしまう。
「他人」には、もちろん父親や母親が含まれる。
きみの大切な友人や、妹や兄が含まれる。
「尊敬する先生」もまた充分に有害であると思う。

「よく出来る子供」の最も犯しやすい過ちは「親の期待に応えてしまう」ことであって、たとえ親が言葉にして口にださなくてもそれと悟って医師になど金輪際むかない性格であるのに医師になろうとしたりするのまでいるのだから若いということの本質的な愚かさというものは救いがたいと思う。

父親とわしはお互いに理解しにくい人間であるとかなり早くから両方ともに知っていたが子供のときのある日、「私はきみに私と同じ職業についてもらいたいと思っていて、それはたとえ言わなくても判ってしまうだろうからいまのうちに言葉にしておくが、しかし、一方では親がのぞむ人生を送る人間で幸福になる人間はごく少ない、ということも教えておかねば不公平であると思う」という。
そのとき初めて、このおっさんは退屈な人間かも知れないがバカではないな、と考えたのでした。
かーちゃんは、しかし、もっとふつーに何回も妹とわしに「親にうけそうな人生を選択する子供は無能な子供ですよ。親がびっくりするような人間になりなさい。不良でもかまわないわよ」とゆって楽しそうに笑うのが常である。
おかげで不良になりそびれてしまった。
親の期待どおり不良になったらバカまるだしだからです。

トーダイおじさんのなかに、ふたり、おれはほんとうは学問なんかしたくなかったのだから、中学生くらいで家出してろくでもない人生を送れば良かったというひとがいた。
なんとなく中学高校大学とブランドものの学校へ行ってしまったという気持ちがして忸怩たるものがあったのでしょう。

人間が送りうる最もくだらない人生というものを考えると、その都度他人のいうことを聞いて、あるいはちょうど客観式の問題の選択肢であるかのように世間に流通している意見をピンで止めて標本箱に並べてみて、どれがもっとも見栄えがよいか考える。
それから並べてみる、という方法がある。
東京大学 文科一類 文科二類 文化三類 早稲田大学政治経済…と並べていって、
その横に自分の能力インジケーターをもってきて、スライドバーを滑らせて、えーと文科三類くらいが、成功率が高いわりに世間にも「トーダイ」で受けがいいのではなかろーか、と考えて受験を出願する。

原子炉が崩壊すると、名の知られた学者や言論人のいうことを一通り並べてみて、自分の意見はどれに準拠すべきかを考える。
Aくらいが温和でいいだろう、ということになると、Aの発言を自分なりにアレンジしてインターネットのなかで発言してみる。
うけているあいだは、少しプロっぽい言い方にして見得を切るが、反発が酷くなると、路線を修正する。

ジュリアード音楽院の目下の悩みは学生の半分以上が「音楽がことさらに好きではない」ことで、ではなぜ音楽院(あの学校は入るの大変なんです)まで苦闘してやってきたかというと、「周囲と親に言われたから」なのだったりした。

テレビでブラジルの街頭風景を見ていると、ときどきヘンなものが映ることがある。
よくあることなので注意してみていれば、きみも目撃するものだと思われる。
太陽光に燦然と輝く黄金色のスーツの上下を来て、ピンクのネクタイをしめている、なんだか両側にでかい銀色の羽根がついたサングラスをかけたにーちゃんが横断報道を渡ってくる。
あるいはTバックの水着を着た若いおねーさまが砂浜を歩いていて、くるっと向きを変えてこっちを見ると前もTバックである。
前だから、Tフロントなのか。

「それは他人の目を気にしているのでしょう」というだろうが、他人に受けようとおもっているのが同じでも直感的に受けをねらう狙い方の考えの角度が、ニュージーランドや日本のような社会とは逆であるとおもいませんか?

わしは、あれは「他人にうけようとおもって自分にうける努力になってしまう」という、他人の視線のなかでもともと生きられない人の特徴が存分に出ていると思います。

やりたいことをやるのさ、というのは考えるのは簡単だが、やってみるのは意外と難しい。
中国の人達は移民してでかけた世界中の国で、他人の目を気にしないで、パジャマで近所のどこにでも出かけるが、それは「公共」という点で肝腎のことが判っていないのだ、と感じられる。
ではフランスのように、このぐらいの階層でこのぐらいの収入の人間はこういう場所ではこういう格好をするものだ、と無言の、しかしこと細かに規定された社会がいいかというと、そーゆーことばかりで息をするのも苦しいから「アニメ」という口実で、(フランス人社会的には)やけくそのような格好で緑色に髪を染めたりする。
しかもアニメコスプレを見て、「やりたいことをやっている」と思うのは難しいとおもう。
どちらかというと「喘いで」いるようにみえます。

格好くらいのことで、そうなのだから、「一生」というようなもっとトータルなことになると、どうすれば他人の視線の流砂に呑まれないですむか、というのは不断の警戒が必要な大テーマであるに違いない。

わしは、タックスを着てでかけることもあるが、不断はチョービンボクサイジーンズです。
夏はショーツ。
自分でスクリーンプリンティングで作った「モニちゃん大好き」とか書いた下品なTシャツを着て、フリップフロップか、もうちょっと正直に言うことにするとたいていの場合裸足で、歩道をぺたぺた歩いている。
髪の毛はもしゃもしゃで、ヒゲさんが口のまわりに繁茂している。
鏡を見ると、一瞬、「生活保護」というような言葉がフラッシュするような外見です。
パジャマのほうがマシである、という中国移民側の意見もあるであろう。

世間体、ということでいうと、職業はプーである。
昼間っから浜辺でシャンパン飲んでるやつだからな。
他に考えようがないであろう。

そういうことと、これまであなたが述べてきた「他人の視線のなかで暮らさない」ということは本質的に違うと思う、ときみは言うであろうが、そうでもないのよ。

ボロイTシャツにチョービンボクサイジーンズでいれば、浜辺のレストランのテーブルに空になったシャンパングラスを置いて、すたすたすたと歩いて、芝の上に、どおおおーんと仰向けに寝転がって、青空かっこいいなあ、積雲は、なんて綺麗な白で、なんて質感がつよいのだろう、と考えながら、そのままグースカピーと眠ることも出来る。

その地面の感覚と夏の雄大な雲がある青空の残像は、やはりわしを自由にする。
具体的には、時間が世間のタガから外れて、違う時間の刻み方になる。
刻むことすらやめて、自分の意識とまったく変わらぬペースで速度をわしにあわせて変えながら伴走してくれるようになる。

同じように夕ぐれの浜辺を足を波に濡らしながらとぼとぼと歩いて行ったり、駆け上がった山の上から息を弾ませながら遠い地平線をじっと眺めたりすることには、わしの「内部の時間」を蘇らせる力があるよーだ。

いったん「内なる時間」が息を吹き返すと、他人の言葉はわしにさわれなくなる。
他人の視線は、わしの自律意志に対して無力になる。

もしかすると、あのリオデジャネイロの金色スーツのにーちゃんは、ブラジルのボサノヴァ思想で鍛えた賢人であって、他人が視線を向けられないよーなすげ杉な格好をしていれば、常住、他人の思惑がわしの自由思考にはいりこむことないもんね、というすごい叡智の顕れだったのかもしれない。
あのかっこうで、「空気を読ん」だりするのは直感的にも無理だかんね。

隗より始めよ、という。
スーツなんか、捨てちゃいなよ。
人生なんか1回くらい投げちゃったって、たいしたことないと思う。
3回まではダイジョーブだとベン・アリソンもゆっておる。
ベン・アリソンじゃなかったかもしれないが。

あの、きみが小さかった時に友達だった「時間」がかえってきて、きみが自分にやさしくするために、手を貸してくれるきっかけになるかもしれない。
他人の視線は他人がおしきせた時間をつくるが、自分の内側からやってくる「自分を幸福にしようとする力」は自分の意識にあった時間をきみの魂のなかに生成する。
そうして時間がきみの魂の身丈にぴったり合ったとき、「幸福」という言葉が空疎な観念の仮面を捨てて素顔を見せてくれるのだと思います。

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One Response to Je suis comme je suis

  1. Ukohどの、(「ゲームと幸福」は削除しちったのでこっちにご返信しておきますだよ)

    >津波が来た際に「逃げろ!」という命令口調だった警戒放送の地域は全員助かった・・そうでない地域は被害が大きかった

    小さな町の職場(役所)でひとりだけ警報を信じて生き延びたオーストラリア人の女のひとが、テレビのインタビューで「前の日に津波警報があったのに津波がこなかったので、みな警報を聞いても誰も信じなかった、と涙ぐみながらゆっておった。そういう不運もあったみたい。

    >横須賀でも、瓦礫受け入れを市民がどうにか食い止めた

    ツイッタとかで、「日本を復興するためには瓦礫をどこかが受け容れなければいけないことも判らない『放射脳』バカ」とかちゆうのがすごく流行っているよーだが、運び出さなきゃいけないの瓦礫じゃなくて人間のほうだよねー。
    あれだけの汚染土地を復興していいかどうか、考えてみないのね。
    ぶっくらこいちった。
    福島人が「瓦礫撤去・復興」の最大の犠牲者になるだろう。
    気の毒と思う。

    >自分が幸せにならなければ~というのは、ややもすると日本人にはセルフィッシュに聞こえるのかも知れません。

    ケーハクな考えですのい。

    >義妹が「自分の子供だけ助かればいいんだね!」と凄い剣幕で怒鳴ってきました。

    下品なひとだのい(すまん)

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