Daily Archives: February 23, 2012

おおきなお世話

「除夜の鐘 俺のことならほっといて」というのは中村伸郎の有名な句だが、 この小津安二郎がたびたび起用したせいで外国人たちにも馴染みの深い俳優は、連合王国かニュージーランドに生まれれば、さぞかし幸せだったろう、と思います。 イギリス人は、日本人が自分達に似ていると思っていると言われるとびっくりしてしまうが、それには「日本人の集団主義」対「わしらのひとりでできるもん主義」という重大な対立、という観念的で、根拠を問われると「戦争のとき」なんたらで曖昧な、わりと由来がええかげんな信念があるからだと思われる。 イギリスに住んだことがあるひとは知っていると思うが、イギリス人から見た日本人は、日本人から見たイギリス人と丁度逆で、「自分達と全く異なる対極にいる人間たち」であろうと思う。 正反対、と意識されている。 ひとりでできるもんな自分達の社会の基本的なイメージが、社会と個人の関わりで、イギリス人やニュージーランド人は、 社会に対して「ほっといてくれ」といつも思っている。 なにしてよーが、わしの勝手だろーが、と考えている。 それが社会の基本的な感情なのだから、態度の悪いやつが多いわけである(^^) 他人をかまうことが人生の一部と信じていて、他人も自分を自動的にかまってくれるものだと確信しているアジアからの移民のひとが欧州に来ると、この「わししかないのよ」に押しつぶされてしまう。 あまりの自己中心主義に辟易してしばらくすると欧州社会を心から憎むようになるひともいる。 もっとも当の欧州人のほうは、お互いを自己中心主義、と意識しているわけではなくて、「そんなもんだろう」と思っているだけです。 アジアの人のほうを、「どうして、このひとは自分というものがないのだろう?」と思っている。 偏見は判断のエネルギーを節約する、という。 めんどくさいので、アジア人=自分がないひとびと、というふうに決めてあるひともたくさんいるよーだ。 大陸欧州人の心の根底には「人間がお互いに分かり合うなんちゅうことがあるだろうか?」という深いわだかまりがある。 通常の状態では、言葉やなんかで人間がお互いにわかりあえるなんて、あるわけねーだろ、と思っている。 正常なときはそうである。 ところが、稀に感情が爆発したりなんかして、いっちょう他人とわかりあってみるか、とおもうことがある。 恋人同士、夫婦のあいだですらそうだが、一緒に住んで同じベッドに眠って、もしかしたら分かり合えるかも知れぬ、と考えて自分の一生をかけた実験というか冒険にのりだしてみる。 全身全霊、というが、文字通り、そこまでの一生で積み立てた魂のエネルギーを全部おろしてきて、全部費消する。 はたからみていると、なにもそこまでやけくそにならんでもえーのに、と思うくらい欧州人の恋愛はすべからく大恋愛である。 だから「別れる」ちゅうようなことになると、大たいへんで、人生がぶっこわれてしまう。 いつか同じような話をしたら、「その割にはアメリカ人とか、ほいほい別れて気楽なもんだよね」という日本のひと(男・40代)がいたが、まことにケーハクな嫌らしさ、というべきで、なにからなにまで、というのは財布から魂まで共有して、それが100%できないと感じれば一緒にいられない、と思う、という切実な気持ちがわからない、というのは驚くべき鈍感さだと思います。 ほんとうは欧州人とアメリカ人では、ずいぶん「結婚」「恋愛」について考えが違うが、どちらにも共通しているのは、離婚などは死ぬ直前まで行ってしまうほど思いつめて、ぼろぼろになりながら行う。皆が身にしみて極限までいってしまう感情の激しさと魂を抉りとられてしまうような痛みを知っているので、当のアメリカで「気楽に」などと言えばよってたかって殺されるかもしれない。 日本でも若い人はふつーに「我慢なんてとんでもない。何度でも別れてやりなおしたほうがいい」というが、たいへん良いことだと思う。 きっと、他人へのもぐりこみかたも真剣をきわめたものなのでしょう。 日本にいたときには、楽しいことやおもしろいこともたくさんあったが、 「余計なお世話じゃ」と思うこともたくさんあった。 高速道路を走っていて横断橋に「注意!」で始まる警告が書いてあるので、前を見るのをあきらめて警告の標識を日本のひとに較べて時速で劣る日本語読解力を集中して読むと「前をみて運転しよう!」と書いてあったりする(^^;) 前にも書いたが、「ここから先に行くと崖から落ちます」という崖っぷちの標識版を見たこともある。 日本からもどってからも、福島第一事故がどんどん進行して、カバーアップしようとする政府のカーテンの下から、メルトダウンになって収拾がつかない実態が見えてくるようになっていた頃、中国では鉄道事故があって、事故の処理をみて、 「これでは中国の将来が思いやられる」 「いくらなんでも、こんな事故処理では遺族がかわいそうだ」 「さすがは中国w」 などといって、日本のひとは大喜びだったが、燃えている自分の家から他人の家の夫婦喧嘩を見て、心配をしてみせて、鬱憤をはらすのは、趣味がわるいだろうと考えた。 フクシマなどは、自分の国の問題と実感できないようでした。 日本のひとと話していると、緊急切迫のときほど妙にのんびりしている、というか、現実の事態にうまくアクセスできないでいる、というか、「他人事(ひとごと)ですから」というときの一定の声の調子というものがあるが、現に自分の社会が直面している焦眉の危機について「たいへんですから」と「他人事ですから」と寸分違わない声の調子で考えているように見えることがある。 さし迫った危機としての現実が言葉を通過して思考におよぶころには「ひとごと」と同等な切迫感ないし切迫感の欠落になってしまう、というのは、個々の人の情緒が現実へのアクセス不調に陥っていることを明瞭に示している。 子供の時から拒否したい現実や命令を自分を偽って肯定して受けいれつづけると同じ反応を起こす。 … Continue reading

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